Henry David Thoreauと斎藤茂覚え書
六 川 信
He nr yDa vi dTho r e au( 1 8 1 7 ‑1 8 6 2 )
との関係で斎藤茂( 1 8 8 7‑1 9 7 4 ) ( 1 )
の名前がは じめ て現れ るのは1 9 2 2
(大正1 1 )
年である.その年の7
月か ら11月まで,豊かな自然の山野を愛 した斎藤にふ さわ しい葉山住也 とい うペ ンネームの 「トp‑の自然生活」が三宅雪嶺を主筆 とす る雑誌 『日本及 日本人』に連載 された.のち仁,彼はこの論文を 「コンコー ドの野人」(2)と改題 し
,1 9 6 7(
昭和4 2 )
年出版の彼の著 『わが 日わが道』(後篇)に収めた.八草か らなる この論文は研究論文 とい うよ り紹介論文に近い.「日本におけるソ‑ロウ書誌」に斉藤の名前をあげ るとすれば上記の二回であろ う.だが, 斎藤への ソーロウの影響 とい う視点か ら斎藤を論 じるとなると, 彼の 編集になる 個人雑誌
『山上』(3)をも含めて検討 しなければな らない.斉藤は
Wa l de n
を熟読 してお り特に" Ec o n‑
o my"
の章には共感 していた と見 られ る. 斎藤の著述を 読み進むにつれて ソーロウが斎藤 に とけ込んでいる部分が広がってい く.斎藤の人格形成の基盤 となったのは井 口菩源治 と父 秀次郎の教えであろ うが, 彼の思想 と人生観に与えたWa l de n
の影響を も認 めないわけに はいかないであろ う.本稿では,稀有な農民文人斎藤茂その人について略述 し,次いで,斎 藤のソーPウ受容 とソーロウの斎藤への影響について著述を通 して考察 し,更に両者の人物 像 の比較を試みたい.桐生悠 々(I)は斎藤を 「信濃のアルネ」 と賞讃 して言った. 「私は疾 くより信濃の‑ アルネ を知 って居 る.‑ ‑・彼は農家の‑青年に過 ぎぬ. しか も彼のその心は郷土に土着せず して, 東京に,倫敦に,巴里に,伯林に,到 る処に遭造 して居 る.彼は鍬を取 るの余暇にシ ョーを 読み, メ‑テル 1)ソクを諭 し,イ プセ ンを究めた
.
」(5)た しかに,北欧の夙光明婚な自然の中 で育ち北欧の高山か ら理想を喧燥 して生きた ビョル ソソンの農民小説 『アルネ』の主人公 ア ルネの姿には斎藤 を坊沸 させ るものがある.斎藤は この桐生のことばに感激 した とみえ,柄 生の快諾をえて, 「高 き山より」全文を 『山上』の創刊号に掲載 している.文学芸術を愛 し た斉藤が ソー Pウを 「コンコー ドの野人」 と称 し,エマスソやホイ ットマ ンよ り高 く評価 し 親近感を抱いていた ことは注 目されなければな らない.+lry
斉藤茂は,評論家 ・文筆家 として活躍 した清沢例,銀座に ワシ ン トン靴店を 開 い た 東条
9カシ
障,彫刻家 として高名な荻原株山 らと並んで,信州のべスタロッチ井 口喜源治の門下生であ り野にあって独 自の地歩を固めた文人である.まず,かな らず Lも周知ではない斎藤の生涯 の概略 と彼を高 く成長せ しめた要因についての筆者 の思いつきを述べ,識者の叱正をまちた
い.
* 昭和
5 4
年6
月 中部地区英語教育学会において発裏 書* 一般科 英語 助教授原稿受付 昭和
5 5
年9
月1 9
日94
長野工業高等専門学校弟己安 ・第11号1
斎藤茂は,明治
2 0
年,長野県南安曇郡掘金村鳥川の農家の三男 として生まれた.父は秀次 郎,母は珠.二人 の兄が天逝 したので農家の嗣子 として育てられた. これは向学心に もえた 彼の人生に重い伽をはめ ることになる.斎藤 に強い影響を及ぼ したのは父秀次郎であ る.香 次郎は,青年時代,漢学者武居用拙(6)に師事 し漢学を学んだ.彼が学 んだ和綴 じの 『史記』な どは今 も斎藤家に保存 されている. 少年茂は 漢学の素養の深い父に 厳格に 育てられた.
「父一個の考えに よって私は中学へ入れ られなか った.その代 りにあるみすぼ らしい私塾に 通わせ られて,その休暇をもって膝許で厳格に百姓の手仕事を仕込 まれた.朝は夙 く夕べは 晩かった. 冬 の夜は 父の夜業一種ないと革軽つ くり‑ の炉辺で, その前に 固 く坐って 『史 記』な ど読 まされた.読みちがえては尖 った声で怒 られた
.
」(7)朕 の厳 しい父に対 して斎藤は 慈愛の情を認めることができず残忍酷薄な心を うらみ絶望によってい く度か家出の決心を し た と,斎藤は記 している.この私塾 とは後述する井 口の研成義塾のことである.厳 しさの奥で深い愛情をもっている父を斎藤が理解 し始めたのは
,2 0
歳の斎藤が陸軍現役 兵 に徴集され約三年の軍隊生活の問書簡が両者を往復 してか らである. この時の秀次郎の書 簡は こまやかな思いや りと慈愛に満ちていて読む者の心を うつ.斎藤は 「二十歳を越 してから,私に父がわか り出して来た.三十歳にな ってか ら,一層それがわか ってきた.
」 ( 8 )
明治30年後半,研成義塾の出身者で20歳未満の若者数十名が神の国を建てるとい う大望を 抱いて渡米 した.滑沢剤,東条情 もこれに加わった.斎藤は中学進学断念 と一人 とり残され た ことで挫折 と絶望に とらわれていたが,父の人格の再発見に より,生涯百姓 として生きる とい う精神統一がなされてい った.満たされぬ心の うっ積はスパルタ的軍隊生活 と父への理 解 によって払拭 された とみることがで きる.24
歳の斎藤は 自負心を披渡 して言 う. 「僕は文 学 をや るに しても,生一本の百姓が身上たることの信念に動揺はさせない.筆を とる人の尻 に くっつきた くない. どこまで も文学芸術を愛好する‑農夫 として終始 しようと念願する.しか して,その愛好す るの度は決 して職業人のそれの後ろに落 ちるものでないの自信をもっ てい く
. 」 ( 9 )
安曇野に どっか りと腰を落ちつけた斎藤の姿が ここにある.彼に とって安曇野の 自然は以前に もまして美 しく,い とお しく思われ,生家の南に広が るくぬぎ林は彼の書斎 と なった.自然をこよな く愛す る彼の人間像は こうして形成 されていった.斎藤は,高等小学校を卒えると
1 4
歳で井 口喜源治の研成義塾に入塾 し2
年間通塾した.彼 は19
歳で再入塾 している. これが彼の学歴のすべてである. この研成義塾 (明治31
年創立, 昭和13
年廃校)は生徒数三四十名に教師は井 口ただ一人,そ して 「三間に五間の教場一棟, 二間半に五間の講堂兼裁縫室兼応接間兼寄宿舎の一棟, 便所一棟」
80が学舎のすべての 建物 であった.井 口とその義塾については 『井 口喜源治』に くわ しい.井 口の教育理念について 斎藤に語 って もらお う. 「義塾は予伯校ではない.・・・・・・自由独立の教育機関である.・・・・・・義 塾 には修業があって卒業がない.修業は社会にまで延長 し,卒業は終世に及んで人格 の完成 である.義塾はまた英才を養 う場所ではない.偉人を育てる揺藍で もない.ただの凡人を作 る修練場である.・‑‑義塾の門徒はことごとく平凡な良夫であ り,商人であ り,職工である.それ らは多 く自己の労働 に勤勉で,誠実で,そ して文 明人 として決 して恥ずか しからぬ教養
He n r yDa v i dTh o r e a u
と斎藤茂覚え畜95
を身につけた平凡人である. 」 (
叫明治法律学校 (現明治大学)に学んだ井 口は,牛込教会で内 村鑑三,厳木善治の感化を うけた.彼の教育理念はそのキ リス ト教主義に基づいている.義塾のカ リキ ュラムは旧制中学校程度を三箇年で修業するように くまれていた.英語は創 立以来一貫 して重視 された科 目で毎 日あ り遇六時間おかれていた.松本中学時代,米人宣教 師エルマー (英語教師)か ら直接英語を教授された井 口は簡単な英会話 も教えて い た とい う
0 2 9 .
義塾での英語のテキス トは, 井 口記念館所蔵のものか ら判断 す る と, Z no ue ' sNe u l Engl i s hRe ad e r s ,Ne wCy o wnRe ad e r s
(三省堂),Ea s yEn gl i s hCo u r s e
(東京開成館),Co nv e r s a t i o n sFo rYo un gSt u d e nt so f En gl i s h
(目黒書店)等であった と推定 され る.井口は
El i z a b e t hBa r r e t tBr o wn i ng,Wi l l i a m Wo r d s wo r t h,He nr y Wa d s wo r t h Lo ng‑
f e l l o w,Ra l phWa l d oEme r s o n
等の詩 も教えていた.2
斎藤は生来相当の知能に恵 まれ優れた頭脳の持主であった.彼を知 る誰 もが彼の記憶力に は驚嘆を禁 じえなかった
脚.
彼は英語は井 口に手ほどきを 受けたが ドイツ語は完全に独学で マスターした.斎藤が本格的に学問にとりくんだのは,安曇野の‑農夫として死ぬ決意を心 に抱いて除隊 し故郷に帰った蒲 22歳を迎えんとする頃からである. ドイツ語の独習を開始 し, 29歳の秋には早 くも 『日本評論』に3回にわた り 「ゲルマ ン魂の権化 トライチ ュケ」なる高 論を発表する.この論文は識者の日を とらえた.翌年,斉藤は,世界興亡史刊行会代表松宮春 一郎か ら, ドイツの高名なる歴史家He i nr i c hvo nTr e i t s c hke( 1 8 3 4 ‑1 8 9 6 )
の名著De u‑
i s c h eGe s c hi c ht ei m Ne u n z e h nt e nJ a h r hund e y i( 1 8 9 5 )
全5
巻の翻訳者の一員に加わるよう 依頼 され る.彼は 第‑巻の 第三章Pr e u s z e n sEr he bung
と 第四章De rBe f r e i ung s kr ie g
を担当 した.翻訳は1
年半で完了し,大正7
年11月,世界興亡史論刊行会叢書 『普魯西勃興 史』の第六巻 として刊行された.この出版により斎藤は,犬養毅,岩波茂雄,植原悦二郎, 大所伸 らの知己を得た.これをばねに して2
年後には雑誌 『山上』を刊行す る.桐生悠 々, 植原悦二郎,畔上賢造,山本鼎,島木赤彦,大類伸等が寄稿 している.『山上』刊行前後の数年間は斎藤が精神的に最 も充実 しきっていた時であった といえ よう.
大正
1 0
年の夏,彼は グロー トの 『希月鼠史』( Ev e r y ma nLi b r a r y
の密字版,1 2
巻5 0 0 0
ページ) の読書を開始 し4年後に読了す る. この間,彼は 『日本及 日本人』に ソーpウ論を連載 し,「晩年のダンテ」を投稿 し,多 くの評論,随想をものしている.か くて斉藤は井 口精神をも っとも深 く受教 した出群の門下生の一人に成長 していった.原書の読破が彼の知識の源泉で あった.彼の書斎の書棚は 当時の 主要英語辞典で 飾 られていた. 井上十善 『井上英和大辞 典』(至誠堂,大正
6
年1 0
月第41
版), 武信由太郎編 『和英大辞典』 (研究社,大正7
年1 2
月 第11版),斎藤秀三郎 『熟語本位英和中辞典』(大正4
年11月第2 6
版)等.斎藤が 『井上英和』と武信の 『和英』をいかに利用 したかは驚 くばか りである.この二冊の辞書は斎藤 の努力を 今に しのばせている.彼の原稿の大部分は 『わが 日わが道』 (前茄,中居,後篇,拾迫篇) にまとめ られている.斎藤が7
9
歳か ら8 1
歳にかけて自ら編集 した ものである.9 6
長野工業高等専門学校紀要 ・筋
11号3
斎藤が ブラウニソグ, ワ‑ズワース, ロングフェロー,エマス ンを知ったのは研成義塾の 井 口を通 してであった
8 4 .
ソーロウについては どうであったろ うか. 斎藤は ソーロウのよう に 日誌をつけなった.従 って,資料を 日誌に求めることはできない.斎藤 には未発表の多 く の原稿があ りまとめ られ る予定 と聞 く.その原稿 と彼の書簡頬の研究が進めば新たな事実が 発見 されるか もしれないが,現段階では,『わが 日わが道』 と 『山上』を資料 とせざるをえ ない.『わが 日わが道』 の中に ソ‑ロウ受容に関す る箇所が‑箇所ある. それは大正14
年8
月1 6
日雑誌 『信濃教育』に発表 した随想 「農民の疾苦」の一節である. 「トp‑の 『ワルデ ソ』の翻訳が 『森林生活』の名で出版 された.全訳ではないけれ ども, この書には水島氏の『森林生活』なる旧い訳本 もあることだか ら,曾てはわが読書子に も読 まれた もの とみえる.
私 も トp‑は敬愛す る文人の一人で,早 くか ら
H Wal d e n
''の読者であ り, これが紹介も書 き,近頃になってか らも彼れに 関 して ある小長い論文 も書いた.」姻斉藤所蔵の 水島耕一郎 の旧い 訳本 とい うのは 『森林生活』 (東京,文成社,明治44
年11月第7
版)(初版は同年7
月)である.我国最初のWa l d e n
のほぼ完訳である. 斎藤が ここで言及 しているのは水島 耕一郎訳 『森林生活 生の価値』 (東京,中央出版社,大正14
年6
月)である.6
月の出版 物を8
月の雑誌に投稿 してい ることは斎藤の ソー ロウへの関心の強 さの表われ といえ よう.Wa l d e n
の紹介を書いた とあるが,直接的な紹介は見当 らない.恐 らく斎藤が述べているの は 『山上』の創刊号 (大正9
年2
月) の 「発刊に方 りて」 と 『日本及 日本人』 (大正11年6
月)に投稿 した 「文化生活」を指すのではあるまいか.物質 よりも精神を優先させ人間その ものを "改造" させ ることが人間を物質文 明の悪夢か ら解放 し世界入校を救 うことになると 説 くことでWa l d
enを紹介 した と考えたのかもしれない. また,小長い論文 とは 『日本及日本人』に連載 した 「トローの自然生活」を指す.
さて,斎藤はいつ誰か らソ‑pウを知 ったのであろ うか.筆者の知 る限 りでは,彼はこの ことについて何 も書 き残 していない.彼の蔵書には購入の 日付や読了の 日付 もないので手が か りがない.研成義塾 の井 口か ら学んだのであろ うか.井 口が親交をもった内村鑑三は明治
3 2
年 『東京独立雑誌』に詩人 ソーロウを紹介 している.従 って,井 口は内村か らソー Pウに ついて聞いていた可能性はある.だが,斉藤が学んだ当時,井 口が研成義塾で ソーロウを教 材に用いた とは考えがたい.井 口記念館に見 る限 り, 散逸 したのか もしれないが,Wa t d e n
はない.井 口は ロングフェロ‑やホイ ットマ 1/を よく教授 した とみえ,斎藤は 『山上』 (節
4
号)でホイ ッ トマ ンを紹介 し,同誌3
号で ロングフェロ‑に触れている. ロングフェロ‑の詩句は研成義塾で受訴 した と,斎藤は記 してい
がQ .
しか し,ソーPウに 関す る こうした 記述は見当 らない.斎藤は義塾卒業後井 口か らソーロウについて知 った と考えても推測の域 を出ない.購読誌か ら情報を得た とも考えられる.斎藤が ソーpウを誰か ら知 ったのか,現 段階では確証はない.ところで,斎藤 自身が まとめた斎藤 の蔵書 目録が斎藤家に現存 している.それによると, ソー Pウ関係は三冊ある.
Wa l d e no rLi f ei ni k eWo o d s
(J
.M.De nt & So ns ,Lo n d o n
,1 9 1 9 ) .He nr yS.S a l t ,Li f ea n dWr i t i n g so fHe n r yDa v i d Th o l e a u ( Wa l t e rSc o t t
He nr yDa vi dTho r e a u
と斉藤茂覚え吉97 Pu bl i s hi ngCo . ,Lo ndo n) .
米国 トロー原著水島耕一郎訳 『森林生活』
(明4 4, 7
版,文成 社).「早 くか らWa l de n
の読者であった」斎藤は先ずWa l d e n
を原書で読んだ と考えてよ い.彼のソーpウ論 「トローの自然生活」 (二)(
『日本及 日本人』第8 41
号,大正11年8
月1
日)の終 りに特に附記がっいている.「筆者の不学 と寡聞なる未だ 日本転於ける トローの紹 介を知 らなかったが近 日人の水島氏諾 『森林生活』(
「ワルデ 1/」の別名)を示すに達ひこれ を括 くの字ひを得た.未だ通読するの暇を得ぬが・・・ ・ ・ ・ .
」とある.これは,斎藤が ソ‑pウ論 を展開するとき水島訳を 参考にせずWa l d e
n の原書によっていることの表明とうけ とめ ら れる.そもそもこの ソT I,り論はSa
ltの名著Li fea ndWr i t i n g so fHe n r yDav i dTho r e a u
を完全に下 じきにしている. こう見て くると,斎藤は 『山上』を創刊する1 9 2 0
(大正9)
午より以前か ら
Wa l de n
を読んでいた と考えられる.Sal t
の評伝は1 9 2 2
年以前に入手 してお り,水島訳 『森林生活』はその後に求めたと言えよう.斎藤所蔵の 『森林生活』には高島な る印があ り古書で求めた と考えられるが,いつかは不明である.Wa l de n
は ソーロウの超絶主義者 としての簡易生活実践の記録, 自然誌,訊刺をまじえた 社会批評, 自伝的体裁を とった純文学作品,精神生活のための聖典 とい う五つの視点か ら読 む ことができる.斎藤は この書をどう受容 したのだろ うか.彼は 「私 どもは ワルデ ソの生活 及び 『ワルデ ン』に よってのみ トp‑の 生活の光を見 ることができるのだ」的 とい う. 斎藤 は武者小路実篤の新 しき村の建設を白樺派の没落道程 とみなしたが伯, ソーロウの ウオルデ ン湖畔での2年2
ケ月の生活実験に強 くひかれるところがあった. しか し,斎藤は 「生活 と しての実行に当って不徹底なのをもの足 りな く思 う」
佃 のであった. ‑農夫を 身上 として文 学芸術を愛好 し職業人に劣ることな く1 5
年間筆を とることに 徹 してきた 斎藤の日か ら見れ ば, ソーPウの 不徹底さがあき足 らなかったのであろ う. またそれは斎藤がWa l d
en を生 活実践の記録 とい う視点から見す ぎた結果でもある. 斎藤がWa l d e n
か ら最 も大 きく受容 した面は特に" Ec ono my"
の章に見 られる社会批評論である.斎藤の 「トローの自然生活」は
Sal t
のLi fea ndWn' i i n g so fHe nr yDa v i dTh o r e a u
の翻訳が中心だが,
「トローの自 然生活」(上)‑ 「コンコー ドの野人」の第‑章‑ は彼の言葉である.その中で斎藤は「彼 れ (ソーロウ)は野蛮 と文明の問題に実行的解決を与へた唯一の近代人である」 と述べてい る.斎藤は この論文の第一章を 「若 し一人でもエマ‑ソンに もホイ ットマンにも求めて得 ら れぬ何物かを持つ人があったなら試みに我 トローに来れ.兎に角 トローが彼等偉人 と又別個 の真理を把持 して居 ることを私は保証する.それ等の人のために私は時流に適 って此野蛮極 まる文明人の生活の手引を書 く」 としめ くくっている.ソーpウは物質文明を否定 しそれか ら逃避するために小舎に住んだのではない.真正なる 人間の生き方を 真撃に求めた か らである. 斎藤が
Wa l de n
を受容 したのは この点 に あっ た.斎藤は ソーロウの中に真正な文明人の姿を見た.斎藤が ソーロウの社会批評を文明と野 蛮の対立 としてとらえず真正の文明と偽文明の対比 として把握 し,真正の文明人になる方法 を ソーロウその人の生活実験の中に発見 した と考えていいだろ う. 「自然に帰れ」の叫び, 単純生活の福音,そ して深 く宇宙 と呼吸することが偽文明を真正の文明に引戻すために必要 であると, 斉藤は ソーロウの思想を 受容 したのである. その受容の反映を 自伝的小品 「く ぬぎ林」や随想 「焼野」 の自然愛の描写に 読み とるのは 無理であろ うか. 斉藤は 『山上』を発刊 した若い頃は政治社会面に関心があ り, どち らか といえば ソーpウの社会批評家 とし
9 8
長野工業高等専門学校紀要 ・第11号ての側面に惹かれた ことは確かである.た とえば,「くぬ ぎ林」は 『山上』(第三号)に載せ た斎藤 の作品であ り,『山上』 (創刊号) の物質文明の危機を説いた 「発刊に方 りて」 とは異 なって見えなが らも根本は同 じなのではないか.つ まり,真正な文明人た らん とする者は自 然人たることが要請 され るとい う意味において. 「焼野」で も自然が措かれつつ文明につい て も述べ られているのである.
斎藤が 「ト。‑の自然生活」 と 「コンコー ドの野人」以外で ソ‑ロウの名前をあげている 箇所は見あた らない. しか し, ソーPウが斎藤 の思想や人格に反映 しているように思われる.
その最大の象徴が 『わが 日わが道』の編集にあると,筆者には思える.この書は斎藤 自身の 編集である.彼は編集を意図的にしたのであろ うか. ソーPウ‑の関心で始 まりソーPウへ の共感で終るとい う編集である.すなわち, 『前篇』の巻頭論文 「ある宣言」は 「発刊に方 りて」を改題 した ものであ り, 『後篇』の最後の論文 「コンコー ドの野人」は 「トp‑の自 然生活」を改題 した ものである. 「ある宣言」 と 「コンコー ドの野人」が他の論文,評論, 随想などを包み こんでいる.特に, 『後篇』の 「コンコー ドの野人」には,元の原稿に斎藤 はわ ざわ ざ一文を加えている.それ もこの論文の冒頭にである.それを引用 しよう.「「コン コー ドの聖人」 とうたわれたのは
R W.
ェマ‑ ソンである. ェマ‑ソソと 同 じ日同 じ処 に一人の自然児が‑マ‑ソンの声名な くして共に住んだ.その名をH.D.
トローとい う.私は これを 「コンコー ドの野人」の名をもって呼びたい.」 しか も, この論文の扉には, わ ざわ ざ陶芸家
Be r na r dLe a c h( 1 8 8 7 ‑1 9 7 9 )
に依頼 して, ウォルデ ソ湖のエ ッチ ングを入れ, 論文を飾 っている.80
歳の斎藤が 『後篇』を編集す るにあた り自己の生涯をふ りかえ り見たとき,時代 と国を異 に しようとも, ソーロウの生涯 と自己の生涯 の類似に共感を覚えたので はあるまいか.青年斎藤は ソーロウの社会政治批評家 としての面に関心があった とは前述 し た.晩年の斎藤は ソーロウその人の生き方に共感を覚えた と,言えそ うである.
4
斎藤は ソーロウを 「コンコー ドの野人」 と呼びたい と,書いた.斎藤は ソーロウをいかな る人物 と捉えていたのだろ うか. 『広辞苑』の 「野人」 の項には,① 田舎者②在野の人③粗 野な人④ぶ こつ もの⑤未開の人 と,ある. ソーロウは③粗野な人で も④ぶ こつ もので もな く,
まして⑤未開人ではない.彼は田舎者ではあったろ うが偉大なる自然人であ り文人であった.
また在野の人ではあったが
Di a l
誌へ寄稿す るコンコー ドの文化人で もあった.斎藤が 「野 人」 と言 ったのは, 「野にあ る偉大なる自然人」の意味であろ う.斎藤は 「トp‑の自然生活」を発表す るとき葉山住也 のペ ンネームをつかった.彼はまた
『山上』 (第三号) に 「くぬ ぎ林」を載せた とき,薮茂太郎のペ ンネ‑ムで書いた.彼は作 品の創作に意欲を燃や してお り, ソ‑ロウの ように学問芸術文学を愛 した. ソーPウは日誌 を死の直前 まで書 き続け,それを作品を生む素材の宝庫 としたが,斎藤にはそ うい う日誌は ない.彼は原書を読破 し知識を吸収 し稿を起 こす ことに専念 した.斎藤は作品や評論の量に おいて ソーロウに到底及ばないが,文人 とい う一点では共通す る.両者共深 く内面に向いは したが, 決 してただ静かに芸術を好む蒼 白い
i na c t i ve
な文人では なか った. ソーロウにCi v i lDi s o b e di e n c e , " A Pl e af o rCapt ai nJ o hnBr own , " " Sl a ve r y i nMa s s a c hus e t t s "
He nr yDa v i dTb o r e a u
と斎藤茂覚え書99
があるように,斉藤は個人雑誌 『山上』を頂点 として,時事評論,政治批評を積極的に書 き 社会に問 うた.この姿勢が茅原華山鮒を して,「『山上』は 日本に於て最 も有意義な言論機関 に為 ることが可能る」 と 『山上』 (第六号)に書かせ しめたのである. ソーPウは人頭税支 払い拒否によって一夜投獄された話は有名であるが,斎藤にはそ こまでa c t i ve
に社会に立 ち向 う姿勢はみ られない.これは, ソーロウの思想の根底にあったものが自己信頼, 自己主 莱,自主独立の精神であったのに対 して,斎藤はそれを頭脳で受容 しても彼の根底には父秀 次郎か ら植えつけ られた儒教的精神が宿っていたか らであろ う.ソーロウは斎藤 より
7 0
年前にNe w Eng l a nd
のCo nc o r d
に生まれた.1 9
世紀前半のソ ーpウの時代は,運河が開通 し鉄道が発達 し,産業革命の波が押 し寄せ都市化が進み,金鉱 と土地 と自由を求めての西漸運動が盛んであった.農業経済は産業経済へ と次第に移行 しつ つあった.南部の農本主義は北部の産業主義に席をゆず り,機械文明が急激に広 まっていっ た.斎藤が ソーロウの物質文明批判を容易に受容 しえたのは,彼の時代が ソーロウの時代 と 似ていた ことも一つの要田である.斉藤の時代つまり明治30
年以降大正末期 までは,産業革 命が躍進 し発展 し成熟 していった時代であった. この機械文明の象徴 として ソーロウは常に「鉄道」を掲げ,人間の精神が機械に隷属 してしまった文明人に訴える.
" Wed ono tr i d eo nt her a i l r o a d;i tr i d e supo nus .Di dyo ue ve rt hi nkwha tt ho s e s l e e pe r sa r et ha tun d e r l i et her ai l r o a d?Ea c h o nei sa ma n,a n l r i s h ‑ ma n,o ra Ya nke ema n.Ther a i l sa r el a i do nt he m,a n dt he ya r ec o ve r e dwi t hs a nd,an dt he c a r sr uns mo o t hl yo ve rt h e m.Th e ya r es o unds l e e pe r s ,Ia s s u r eyou.An d e ve r y f e w ye a r sane w l o ti sl a i dd o wna ndr uno ve r;s ot ha t ,i fs o meha vet hepl e a s ur e o fr i d i ngo nr a i l ,ot he r sha vet hemi s f o r t unet ob er i d d e nup o n . " 伽
ソーロウ は
s l e e pe r s
を二重の意味に用いている.s l e e pe r s
よ眠ざめよと彼は主張するの だ.斎藤 も物質に対する人間精神の優先原理を説 く. 「いつでも精神は物質 より貴い.精神 は物質を抱擁すべきもの,決 してこれに囚われ, これに服従すべ きものではない」(『山上』第三号).斎藤 も,文明人 よ目覚めよと叫んで言 う.「日本みずか らのために,また世界人類 のために, 日本を救 うは, 日本人を今に して 物質文明の悪夢か ら免れ しめるにある」 (『山 上』創刊号). ソーロウは, Walden の中で社会の改革 より自己の改革の重要性を くり返 し 述べているが,斎藤 も 「人間そのものの 『改造』に及ばぬのでは,われ らは其処に新 らしい 日本に,如何なる立脚地を求め,生活の真の安寧 と祉福をそれに繋 ぎとめることが出来 よう ぞ」 (『山上』創刊号) と記 している.彼は更に
,
「世をあげて文明を追 うに急な らば,せめ てわれ ら百姓だけで も野蛮人の状態に立ち止まって居 らねばならぬ.文明に対す る反逆がわ れ ら百姓の使命である」物 と主張 し,「コンコー ドの野人」の第‑章を 「野蛮なる文明人」で 始め,文明の病根をえぐり出している.斉藤が 「文化生活 とは真に有島氏の提唱するごとき 薯移生活か,かかる文明人の特質的生活を果 して我 々は必要 とす るか.現代的智能 と原始的 粗野 とは生活上一致することのできぬものか」(『日本及 日本人』大正11年6月) と述べ るとき,我々は ソ‑ロウの "
I ft hec i v il i z e dma n ' spur s ui t sa r enowo r t hi e rt ha nt hes a va ge '
S,i fhei se mpl o ye dt hegr e a t e rp a r to fhi sl i f e i no bt a i ni ng gr o s sne c e s s a r i e sand
1 0 0
長野工業高等専門学校紀要 ・第11号c o mf o r t sme r e l y,whys ho ul dheha veabe t t e rd we l l i ngt ha nt hef o r me r? "( Wa l d
en, 3 4 ) ." Theve r ys i m
pl i c i t ya ndna k e d ne s so fma n ' sl i f ei nt hepr i mi t i vea ge si mpl y t hi sa d va n t a gea t
le a s t ,t ha tt he yl e f thi ms t i l lb utas o j o u r ne ri nna t ur e . "( Wal d e n , 3 7 )
とい うことばを思い出す.斎藤の 「東京は‑‑私の感化 と恩恵の源泉でもな く,
喧
燥 と希望の対象で もない.‑‑東 京の 「文化」 と全 く抱っ ことができたな らば,私の生活はいかほ ど豊富にされ,いかほ ど自 由にされ,いかほ ど精進の域に進むを得 るであろ うか‑・ ・ ・ . 」
鰯 とい うことばは示唆的である.都市 の 「文化」を偽文明 と断定す る斎藤に,機械物質文明に毒 された東方の都市社会を拒否 し無垢な西部の自然の健全を深 く呼吸 した ソ‑ロウの態度を見 ることができる.更に, この ことばには,
" Me nha veb e c o met h et o o l so ft he i rt o o l s . "( Wa l d e n,3 7 )
と叫び,富を 求めて都市に集 まり或は金鉱 と土地を求めて西漸 した人 々を" Thema s so fme nl e a dl i ve s o fqui e td e s pe r a t i o n. "( Wa l d e n,8 )
と評 した ソーロウの 洞察の反映が見 られ る.斎藤が 安曇野の自然一一二その象徴 としての屋敷裳の くぬ ぎ林‑ を求めたのは, ソーpウが無垢なアル カデ ィアとしての西部‑ その象徴 としての ウォルデソ湖‑ を志向したのに似ている.
ウォルデ ン湖が ソ‑ロウに独居生活の場を与 え,院想 と想像の生活を恵んだ ように, くぬぎ 林は斎藤に読書 と思索 と院想の書斎を授供 した.コンコー ドの自然は ソーPウの
s a unt e r i ng
の場所であったが,
「くぬぎ林はわたしのふだんの住居であ り,生活そのもの」
糾なのであっ た.斎藤は安曇野の山野にす っぽ りと融け込んで生きたのである.コンコー ドの 自然が優 しい ように,安曇野の自然 も西に北 アルプスをひかえているとはい え比較的おだやかである. ソー ロウは 自然を熱愛する
l o a f e r
であった.斎藤 も自然を愛 し 自然 のままを好んだ.雑草を眺めるのを愛 し自然 のままを好んだ農夫斎藤は,除草剤の使用 を拒否 し革は必ず手で とった. ソーpウも斎藤 も人工を嫌悪 した 自然愛好家であった.自然 愛 とい う視座に両者をすえるとき,筆者は斎藤を 「信濃のアルネ」 とい うより 「安曇野の‑ソリー」 と呼びたい.
自然愛好家の両者ではあるが, 自然のもつ意味解釈については異 っている. ソーpウは, 自然観察を好み,博物学者,湖沼学者であ り, 自然科学者的側面をつ よくもっている.斎藤 にその面は うすい.彼はむ しろ宗教的な意味を自然の中に見出している.彼の言葉を きこう.
「宇宙を貫 く生命はただ一つ,生なきものの法則,生 あるものの本性,それは必然大なる 生命 の活動である.あ らゆ る学問に志す人,あらゆる職業に従 う人,それ らの人 々の 日々の 仕事が‑ 瞬時の生す らも‑ 直接大なる生命 の働きであることの信念をえず,その明 ら かなる脈樽を感得せぬにおいては,それ らの人 々の個 々の生命は砂漠の水のごとき各 々方向 なき流れであって,全 きものとしての宇宙の響きの途に沿 うことは甚だ覚束ない.私共の深
く考 え恐れねばならぬ最 も大切なことは これである.」餌井 口に導かれ内村鑑三の感化を受け,
『聖書』を心の程 としたキ リス ト者斎藤 の精神が ここに表明されている.同時に,宇宙の生 命 とい うことばは汎神論的仏教 のにおいもす る.更には,
" Thee a r t hi sno tame r ef r a g‑
me nto fd e a dhi s t o r y,s t r a t um up o ns t r at u m l i ket h el e a ve so fab o o k,t ob es t u d i e d
b yge o l o g is t sa nda nt i qu a r i e sc hi e 8y,butl i vi ngp o e t r y l i ket he l e a ve so fat r e e
,whi c hp r e c e d e且o we r sa ndf r ui t
,.
‥no taf o s s i le a r t h,b utal i vi nge a r t h;C o mp a r e d
wi t hwh o s egr e a tc e nt r all i f ea l la ni ma lan d ve g e t a bl el i f ei sme r e l y p a r a s i t i c . "
He nr yDa v i dTh o r e a u
と斎藤茂覚え書1 0 1 ( Wa l d e n,3 0 9 ) .
と説 くソーロウの 有機体的宇宙観にも通 じているようにも思われ る.畢克 斎藤の神はキ リス ト教の神であろう.だが, 自然 と共にあ り神 と共に生 きる中で,斎藤はも のごとに捉われぬ高い境地に達 していた ようである.この点,世界宗教を唱 え,宇宙の中にUni ve r s a l0n e
を求めた ソーロウの 高さと共通 した次元にあるといえよう. 両者共,世俗 の栄達や名声を求めることはな く,凡人 として生 き心 と魂を磨 き高めることを限 日とした.両者共,純真にして無垢,一言にして至誠の人であった.
" Mo s to ft hel uxur i e s ,an dma n y o ft hes oc a l l e dc o mf o r t sofl i f e,a r eno to nl y no ti n d i s pe n s a bl e ,b utpo s i t i vehi n d r anc e st ot hee l e va t i o no fma nki nd .Wi t hr e pe c t t ol uxu r i e sa ndc o mf o r t s ,t hewi s e s tha vee ve rl i ve d amo r es i mpl ean d me a ge r l i f et ha nt hepo o r .Thea nc i e ntphi l o s o phe r s ,Chi ne s e ,Hi n d o o ,Pe r s i a n,a n dGr e e k
,We r eac l a s st ha nwhi c hno neha sbe e npo o r e ri no ut wa r dr i c he s ,no nes or i c hi n i n wa r d . "( Wa l de n,1 4 ) .
このソーロウの
s i mpl el i vi n g
の思想はそのまま斎藤のもので もあった.彼は無駄を省 き物を大事に保ち質素な生活を好んだ.そこに,質素を信条 とした秀次郎の儒教的精神の反 映を見 ることもできようが,Wa l de n
を血肉まで愛読 した者に及ぼ したその影響を見てとる ことも可能であろう." Hi ghe rLa w"
を愛読 した斎藤は, 生活の簡素化に反比例 して心の 高さを求めた.コンコー ドの村人は ソーロウを奇人祝 した.斎藤 も村人に変人扱いされていた ことは彼 自 身認めている. 「自分のことを 「人 ざらい」 と世間で噂すると知 らせて くれ る人がある.‑
‑もっぱ らの評判であってみれば, それにちがい なかろ う. 同時に 「人ざらわれで もあろ う
.
」困斉藤は物静かで無 口で人の悪 口を言わず,友人 との語 らいに もル ソー, カーライルを 話題にし,
『聖書』の翻訳を試みてその適否を尋ね るとい うふ うであった.野良にいても, ふ と難解な英文の意味が思い浮かぶ と書斎に戻 った.ひたす ら学問に打ち込む斎藤の偉大 さ は一般の村人の理解をこえていたとい うべ きであろ う.世俗的,物質的成功に背を向け,現 在の一瞬一瞬をs a unt e r e r
として生 きた ソーロウの姿が斎藤の中にも発見できる.ソーpウほ因襲的教会の束縛を嫌 った.キ リス ト教の 『聖書』に とらわれず, 自由に東洋 の聖典を研究 した.斉藤の自由はソーロウの影響 とい うより,井 口から教え られた ものであ ろ う.内村鑑三の影響で井 口が形式的洗礼を受けなかった ように,斎藤 も洗礼を受けていな い.教会の籍を離れた斎藤は, 自分の書斎で 『聖書』の研究に没頭 した.
ソーロウが
Ri g htThi nki gMa n
であった ように, 斎藤 も自己の良心の声に 聞 く人であ った.雑誌 『信濃教育』に 「カント小考」を連載 した斎藤は, カン ト二百年生誕記念にそれ の刊行を勧められた.しか し,研究に値 しないものを世に送 ることは学問的良心が許 さない として,それを断っている.斎藤は田舎の農民ではあったが,70
才を越えてなおCOD
を求 める意欲のあるか くれた文人であ り,か くれた熱心な信仰をもった クリスチ ャンであった.年若 くしてすでに私心脱落 し,何ごとにもとらわれることな く,ただ自己の存在そのものに 満足 しきれ る人格になっていた.自己主張 と
a c t i ve
を本性 とした ソーロウは, 東洋的静を 恒保 し,The Bha gav a か Gi i a
に院想のいかなるかを学び,静寂の中に生きる境地に達 しよ1 0 2
長野工業高等専門学校紀要 ・第11号うとした. ソー ロウの偉大 さは,そ うした意味での高次元な 自己 の完成にむけ歩み続けた, その姿に こそあると言える.斎藤が静の人 とすれば, ソーロウほ動の人であった と,考え ら れ よ う.
ソーロウの師はェマス ソであ り,エマス ソが書斎の人な らソー ロウは 自然 の人であ り,エ マス ソの哲学 の実践家であった.斎藤 の師は井 口であ り,井 口が教育 の人 な ら斎藤は井 口精 精を受教 しそれを人生の羅針盤 として生 きた野人であった. 自然 と調和 した質素な生活を好 んだ両者は,衣食住にわた り抑 うべ き欲望を もたなか った.それ故,両者に平穏 な楽観的性 向が見 られる. ソー pウの臨終 のことばは,
" mo o s e "
と" I n di a n"
であった とい う. 斎藤 のそれは 「非常 な感謝 だ.いつで も安心だ」であ った と聞 く切.両者共,生死を超越 した平 然た る心境であった ようであ る.ソ‑。クは詩人た らん ことを渇望 した.
A We e k
もWal d e n
も文学作品に 仕上げ る た め推敵に推敵が加え られた.だが, この両作品に評価が与え られなか った. ソー ロウが再評 価 され るようになったのは2 0
世紀に入 ってか らである.1 9 7 0
年代は ソーpウ研究が ピークに 達 してい る.斎藤 の 『山上』は一年間1 0
号 とい う短命であった.斎藤 が 『わが 日わが道』を 編んだのは,友人に促 されて,「お こが まし くも世にお くった」困 ものであ る.販売の意思を 持た ない斎藤 は,それを友人,知人に贈呈す ることを楽 しんだ.それで も,
『前篇』は1 0 0 0
部印刷 して5 0 0
部が残 った.『中農』は5 0 0
部に とどめおかれた.斎藤が8 0
歳 の とき,村 の教 育委員会は出版祝賀会を挙行 し,胸像を贈 り彼を称えた.斎藤が ソ‑ ロウに魅せ られたのは, 2年
2
ケ月に わた るウォルデ ソ湖畔 の 独居生活が,「単独の如 くして単独にあ らず,奇異に似て杏異 な らず,その信条が凡て踏み迷える生活習 慣を本来 の正 しき道筋に引き戻 さん と呼びかけ る声である
」
因 と信 じたか らであ る.Wa l de n
の発す る声は,斎藤 の魂 の弦をゆ さぶ り,その人 間像の本質にかかわ っている.Wa l d e n
の 放つ光 と思想 は,秀次郎の薫陶や井 口の感化 と一体 とな って,斎藤に とけ込 んでいると,冒 えそ うである.〔註〕
(1)宮沢正典 「斎藤茂について一研成義塾の人びと(二)
‑ 」(
『信州穂高の人脈‑井口菩源治と研成義 塾‑』(同志社大学人文科学研究所,昭4 8 )
を参照. 谷萩弘道氏は昭和5 3
年11月' ‑ソリー ・ソーpウ協会閑東地区大会で 「ソーロウと斎藤茂」と題して講演された.
(2)
拙稿 「斎藤茂の 「コソコー ドの野人」について」 (
『‑ソリー ・ソーpウ協会会報』第6
号,昭和5 4 ) ,pp. 21 ‑ 2 4 .
を参照.( 3)
この誌名は,『聖書』のマタイによる福音書第5
章1 4
節の句からとらわれている.発行所山上社は 斎藤の自宅.1 9 2 0
(大正9)
年創刊.1 0
号を刊行し翌年2
月経済的事情により廃刊.(4)
井出孫六 『抵抗の新聞人桐生悠々』(岩波新書)を参照.(5)
桐生悠々 「高き山より」(
『信濃毎日新聞』大正5
年3
月1 9
日).斎藤茂『わが日わが道一前篇』(山 上社,昭4 1 ) ,pp.2 6 1 ‑ 2 6 2 .
( 6)
武居用拙( 1 8 1 6 ‑1 8 9 2 )
は長野県木骨福島町に生まれ,江戸に出て昌平校で朱子学を 修めて帰郷.木骨の文化の中心者となる.明治8年安曇野の豊科に 「猶興義塾」を開く.木骨福島に設す.名は彪.
用拙は号.
( 7)
『わが日わが道一前篇』,p. 1 4 1
.He nr yDa v i dTl l O r e a u
と斉藤茂覚え番1 03
(8)
前掲雷,p. 1 42.
(9)
同宙,p.48.( 1 0 )
斎藤茂 「研成義塾 と井 口先生」 (斎藤茂 ・横内≡直嗣 『井 口喜源治』 (井口事源治記念館発行,昭53) ,pp. 20 2 ‑203.
( l l )前掲雷,pp.209 ‑21 0.
( 1 2)横内三直の談話による (昭和54
年6
月17
日).( 1 3 )
斉藤邦彦,境内三直の談話による (昭和54年6
月1 7
日).( 1 4)
『わが 日わが道一前第』,p.172.
( 1 5)
前掲書,pp. 1 67 ‑1
68.( 1 6 )
同上書,p.171 .
( 1 7)
『わが日わが道一後篇』,p.287.
( 1 8)
『山上』第6
号,pp.5 ‑ 6 . ( 1 9)
カ『わが 日わが道一前蔚』+(
I,p.1
68.( 20)
茅原華山( 1 87
0‑1 952)
評論家.文京に生 まれる.明治法律専門学校に学んだ後,明治32年長野市 に長野新聞が創刊されると,その主筆に迎えられ活躍 した.( 21 ) He nr yDa vi dTho r e a u ,Wa t de n ,e d. J . Lynd o nSha nl e y( Pr i nc e t o n:Pr i nc e t o nUni ‑ ve r s i t yPr e s s ,1 971 ) ,p.92.以下同書か らの引用は ( )中に Wa l d e n
とページ数で示す.( 22)『わが 日わが道一前蔚』 ,p.1 43.
( 23)
前掲吾,p.161
.( 24 )
『わが日わが道一拾道筋』,p. 2 4 3.
( 25)
『わが 日わが道一前筋』,p.1 04.
( 26 )
『わが日わが道一後蔚』,p. 1 0 7 .
( 27 )
斎藤邦彦の談話による (昭和55年8
月31
日).( 28)
『わが 日わが道一前篇』,序.( 29)
『わが日わが道一後詰』,pp.288‑2 89.
付記‑ 拙稿の作成にあた り,斎藤邦彦氏,構内三直氏か ら貴重な御教示をいただいた.特に斉藤邦彦 氏には,資料の閲読,御便宜をいただいた.記 して厚 く感謝の意を表 したい.
(本論は,昭和5