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『斎藤茂吉ノオト』と『広重』

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(1)

『斎藤茂吉ノオト』と『広重』

著者名(日) 木村 幸雄

雑誌名 大妻国文

巻 30

ページ 179‑197

発行年 1999‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001416/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

﹃ 斎 藤 茂 吉 ノ オ ト

と ﹃ 広 重

﹃斎藤茂吉ノオト﹄︵一九四二︶と﹃広重﹄︵一九五四﹀との関連について︑私は前に書いた小論﹁﹃広重﹄の線﹂で少し21 ふれたことがある︒そのときにはまだ十分ふれることができなかったが︑戦争中の長編評論﹃斎藤茂吉ノオト﹄と戦後の

短編小説﹃広重﹄とは︑中野重治独自の絵画的な思考という線で深くつながっている︒両者のつながりについて︑最近で注閣は山城むつみが︑﹁群像﹂に連載中の﹁転形期の思考﹂のなかでくり返し論じている︒その論考の展開は精力的で刺激に

とむものであるが︑疑問や異議をおぼえるところも少なくない︒そのへんのことについてあらためて書いてみたい︒

まず︑山城の論考のなかから︑私が興味をおぼえたところをあげておきたい︒

合斎藤茂吉ノオト﹄︵一九四二︶を書いていた頃の中野に認知するに抵抗のあった﹁精神﹂が﹃広重﹄︵一九五四︶で︑

十年以上の年月を経てようやく分析されようとしているのではないだろうか︒﹃斎藤茂吉ノオト﹄に︑意識的な叙述とは

べつに無意識としであった内的構造が﹃広重﹄では言葉として紡ぎ出されようとしているのではないだろうか︒

中野のおずおずとした慎重な文体は︑この精神分析的な遡行にともなう抵抗から来ているように私には思われる︒すく

なくとも︑冒頭がすでに︑不安や抵抗を感じながらそこをまさぐる︑すぐれて精神分析的な語りとなっている戦後の短編

(3)

一 八 O

﹃広重﹄は︑戦争期の評論﹃斎藤茂吉ノオト﹄︵なかでもその﹁ノオト九﹂とりわけその後半︶を書いたころの中野自身

V

ω

八中野について寛治の位相と広重の位相の重層性ということを考えてもいいだろう︒

この場合︑﹁ノオト九﹂後半の位相は前田寛治の位相であるだろう︒だが︑後に述べるように﹃広重﹄は精神のその位

相を分析してその下に広重の水とでもいうべき位相がひろがっていることをあかるみに出そうとする︒V

このように山城は︑もっぱら﹁精神分析﹂という観点から︑﹃斎藤茂吉ノオト﹄の﹁ノオト九﹂後半と﹃広重﹄とを重

ねて考察している︒私の疑問や異議もそこにかかわってくる︒

そこで絵画的な思考という観点から︑﹃斎藤茂吉ノオト﹄と﹃広重﹄とのつながりを見直すと︑まず﹁ノオト入﹂と﹃広

重﹄とのつながりが見出される︒﹁ノオト八﹂は﹁茂吉の﹃白秋の歌一首﹄﹂という章で︑茂吉と白秋を対比・対照的に論

評しているところであるが︑そこで思考展開の軸としてゴッホが引合いに出されている︒中野重治は︑ゴッホを引合いに

の白秋は非ゴッ

ホ的であり︑﹁ハイカラ﹂であると断定している︒

Aファン・ホッホ的なものを動くもの︑長さあるものとして見るならば︑それは﹃あらたま﹄をまつまでもなく﹃赤光﹄

に既に充満してゐるといはねばならぬ︒︵中略﹀ファン・ホッホの道は茂吉のいはゆる﹁短歌上の写生﹂の道に近いとい

ファン・ホッホと﹃赤光﹄との距離はファン・ホッホと﹃桐の花﹄との距離よりは隔段に小さいのであ

o V

﹁ファン・ホッホ的なもの﹂と言っているのは︑肉眼をもって︿物そのもの﹀に肉迫し︑対象を﹁動く

もの︑長さあるもの﹂としてとらえて表現するものということであろう︒一言で言えば近代的なリアリズムということに

なろう︒そういう観点から︑﹁ファン・ホッホの道は茂吉のいはゆる﹃短歌上の写生﹄の道に近いといへる︒﹂という後の

(4)

﹁ノオト九﹂で全面的に展開されることになる見解も引出されてきているのである︒

また︑﹁ファン・ホッホ的なもの﹂を引合いに出しながら︑﹁近代的なもの﹂と﹁ハイカラなもの﹂とが区別されてい

A﹃桐の花﹄における白秋は﹃赤光﹄における茂吉よりも遥かに近代的でない︒︵中略﹀﹃桐の花﹄はハイカラである︒

他のもの︵註l

今日に辿り着いてゐる︒﹃桐の花﹄から﹃雲母集﹄へのうつり行きをファン・ホッホ的なものへの転向とすることは︑

イカラなものと近代的なものとの見間違へでなければならぬ︒V

ここにいう﹁近代的なもの﹂と﹁ハイカラなもの﹂との区別は︑あげられている例からして︑自己の置かれている日本

的な現実と近代的な自己確立との苦闘を通じて獲得されたものが﹁近代的なもの﹂であり︑それぬきに外来の近代文化を

表層的に受容し︑官能的な享楽に流されたものが﹁ハイカラなもの﹂というほどの区別であろう︒

このように短歌の問題を追究するにあたって︑絵画の問題を引合いに出して視野を広げながら追究をすすめる思考法を

かりに絵画的な思考法と呼ぶとするならば︑それは﹁ノオト九﹂において︑もっと大がかりに全面的に展開されて行く︒

もう一方では﹃広重﹄の方へと受けつがれている︒﹃広重﹄では︑主人公の心のありょう︑精神的な態度の変化の問題の

追究に絵画的な思考法が意識的に用いられている︒たとえばそれはつぎのようなところから端的にうかがわれよう︒

Aそれは︑感覚の上でそこへ引きずられたくないものに私に見えた︒そんなものから逃げだしたい||それがそこにあ

ると私は感じた︒現実︑現実的︑リアリズムということをどんなふうに考えていたか今わたしは思い出せない︒なにし

ろ︑広重は風景としてリアリスチyクでないというように私には見えた︒

﹁風景は広重の版画のようではない︒それは油絵のような具合のものだ︒﹂

細い線や︑すうっとして人物の足もとに力がないようなところや︑走っている人間も入れて人物が動いていないこと︑

/¥ 

(5)

のっしのっしと歩いていないことなどが私に広重を好きにならせなかった︒そのころ私はロダンの

写真を見た︒またゴッホの複製を見た︒ロダンの﹁歩く人﹂といった調子の人聞が広重のなかにはいなかった︒ゴッホの

青や緑の畑はそれがほんとうに畑だと思われた︒ただ私は︑そのころになって初めて広重の空の色のぼかしを美しいと思 った︒しかしそれは︑空の色︑海の色の美しさで︑広重の絵の美しさだとはまだ思えなかった

ov ここでは広重とロダン・ゴッホとが︑対比・対照的に対置されている︒広重はリアリスチックでなく︑そのなかでは人 聞が動いていない︒物も存在感がない︒それに対してロダン・ゴッホはリアリスチックであり︑そのなかでは人聞が動い ており︑物も存在感がある︒こういう対比・対照は広げてみれば︑︿日本的なもの﹀と︿ヨーロッパ的なもの﹀︑︿前近代 的なもの﹀と︿近代的なもの﹀というところにまで広げられると私は考えている︒ともかく︑そういう対比・対照におい て主人公は︑広重を好きになれず︑むしろロダン・ゴッホのリアリズムの方に心を引かれている︒ところが︑戦争の進 行・拡大につれ︑﹁転向者﹂でもある主人公の身辺の状況も厳しさを増し︑追いつめられた心境におちいったとき︑それ まで好きになれなかった広重が好きになる︒そこに一種の精神的な化学変化とでもいうべき変化が起る︒その変化の問題 を追究するのが﹃広重﹄の主題である︒そしてそういう主題の追究において︑対比・対照法を骨格とする絵画的な思考が

意識的に用いられているのである︒

さきにあげた広重対ロダン・ゴッホという対比・対照は︑﹃広重﹄の後半で広重対前田寛治という対比・対照へと転移 されて行く︒前田寛治は︑東京美術学校で藤島武二に師事した洋画家であるが︑パリに渡ってフォーヴィスムの美学を学 び︑またベルリンからやってきた福本和夫から唯物論と社会主理論を学び︑﹁二人の労働者﹂︵一九二三﹀︑﹁赤い帽子の

女﹂︵一九二五﹀︑﹁横臥裸婦﹂︵一九二八﹀などの作品がある︒主人公が︑寛治の﹁横臥裸婦﹂を見たときの感動がつぎの

ように印象強く描かれている︒

A全体としての青緑の色どり︑その前で︑ひとりの肥った日本人女が裸体で横になっていた︒光線がどんなふうに扱つ

(6)

であったものか︑絵全体から私は音楽のようなものに襲われた︒非常に鋭敏な神経の束︑しかしそれによって組みたてら

れたものはどっしりと落ちついている︒というより︑ぼってりというほど︑動くままでーーーその動くのがシンフォニーの

ようにほんとうに音としてひびく||創り出されている︒自分にも説明できないそれが私を捕えた︒﹁こうでなくちゃな

おれも行くべきだ:::﹂その一枚は︑それが私の手もとにあって正にし

かるべきものと私には感じられた︒V

こういう前田寛治心粋は︑作者中野重治に引きもどしてみれば︑

かで生まれたものであった︒それが﹃広重﹄の主人公の経験のなかに移し変えられ︑それは運動の退潮や壊滅のなかでも

一九二八年ころのプロレタリア文学運動の高潮期のな

消滅せず︑戦争中まで生きつづけるものとなっている︒

ところが一方では︑﹁不意に広重を好きになっている自分を見だした﹂というふうにして広重が好きになって行く︒主 人公が︑広重に引きつけられるのは︑﹁なきけないような︑いかにも中途半端といった日本人らしい日本人の姿が広重の なかにあって︑それがそっくり自分のなかにあるように思えてそれが我ながらあわれだった﹂からである︒すなわち︑主

人公にとって広重が︑自分のなかにもある﹁日本人らしい日本人の姿﹂を映し出す鏡となっている︒つまり︑主人公にと

おれも行くべきだ﹂という寛治はゾルレンであり︑﹁それがそっくり自分のなか

にある﹂という広重はザインなのである︒広重と寛治とは︑そういう対比・対照をなすものとして︑﹃広重﹄後半の絵画

的な思考の軸となっている︒

A前田寛治心酔はそのまま私のなかにあった︒少くとも自分ではそう思えた︒そしてそれがそのままでありながらそこ

に広重がはいってきたのだった︒そしてはいってきてみると︑それは︑前田よりももっと根ぶかく私のなかにある何かの ように思えてきた︒百姓町人のかなしさ︑そんなものとして意識される以前での政治権力にたいする恐れ︑雨や風や洪水

ゃにいたぶられどうしの生活とその連続︑そこから自然に出てきた軽口による逃げ︑ほんのちょっとしたものに見だす娯

(7)

しみとそれを見つけだす知恵といったもの︑そんなものが広重という人だという感じが私のなかに自然に出来てきてい

た ︒

vこういうところをおさえて︑山城は﹁寛治の位相と広重の位相の重層性﹂という︒しかし︑二つの位相はいわゆる﹁重

層性﹂として静止的に重なって横たわっているのではなく︑あくまで呉質なものとして︑相互に照射し合う緊張をはらん

だ対比・対照の関係において絵画的な思考をおしすすめる動力となっているのである︒また︑﹁広重の位相﹂というのは︑

山城が﹁精神分析的﹂にとらえる﹁広重の水とでもいうべき位相﹂という漠然としたものではないであろう︒それはもっ

と歴史的・社会的にとらえられるべきものではなかろうか︒さきの引用のところでも︑主人公が広重のなかに見出してい

るのは︑﹁百姓町人のかなしさ﹂の底にひそむ政治権力や自然災害に対する﹁恐れ﹂や﹁逃げ﹂などというものである︒

ところで︑山城が﹁広重の水とでもいうべき位相﹂を引き出してくるのは︑

Aそこに唐崎の松をかいた黒っぽい色刷りがあった︒はじめて気がついてみると︑いかにもある重たさで雨が降ってい

る︒ことに湖水が︑よくも見ずに思いこんでいたのとは違ってやはり重たさのある紺で刷ってある︒ずっと向うの方へ︑

湖水の水面が波だっているのが初めてのように自についてくる︒全体として︑いかにも重たくものさびしい︒v

このようなところから︑山城は︑﹁広重のこの水が重くものきびしいのは︑死というものによって騎っているからでは

ないだろうか︒卑しさの底で﹃死にたい﹄という無意識の衝動に思いがけずふれた﹃私﹄の心が広重の雨や湖水にあの重

さ・ものきびしさを見出したのではないか﹂というようないわゆる﹁精神分析的﹂な考察を引き出してくる︒実は︑私は

そういうやり方に疑問や異議をいだかざるを得ない︒主人公が広重のなかに見出しているのは︑﹁卑しさを余儀なくされ

る﹃どたん場﹄で︑死をひそかに待ち望んでいる自分﹂などではない︒それは︑﹁重たくものさびしい﹂日本の自然風土

のなかで営まれつづける日本の民衆の﹁淋しい生活﹂なのである︒そのことは︑さきの引用につづくつぎの箇所を見れば

(8)

Aそう思ってばらばら見ると︑どれもこれも心に泌みるように思えてくる︒﹁見付﹂というのが五十三次のなかにあ

り︑くわえギセルで腰の後ろで手を組んで立っている船頭︑こっちの渡し船を降りて向うの渡し船へ乗ろうとしている質

素な恰好の旅行者︑そこの何もない河原︑ずっとさきに見える森︑そういうものが︑その森の向うにも同じような淋しい

生活があることを見せている︒この旅人らの行くさきざきにも同じようなものがあることを見せている︒露骨でなくそれ

がしずかに出ている︒どこかの雪の夕暮れの絵などもある︒V

ここで主人公は自分の眼を広重の眼に重ねて︑腰を落した低い視点から水平に広がる視野のなかに︑日本の淋しい自然

風土とそこで営まれる日本の民衆の﹁淋しい生活﹂とを見とどけているのである︒そのことについては別に書いたので︑

ここではくり返さない︒ここでは︑そういう﹁広重の位置﹂が︑それと対極をなす﹁ロダン・ゴッホ・寛治の位相﹂から

その特質を逆照射されていることに注目しておきたい︒さきの引用はつぎのようにつづく︒

Aどこでも︑人間の生活が貧しくおとなしい︒反抗というものなどがない︒自然にたいする人間のほうから押しかけて

行く関係がない︒牛肉をしこたま食って︑それから匂いの強い野菜をむしゃむしゃ食って行動するというようなところが

ない︒それがそのときの私に慰めように働くのだった︒V

l

傍点部には︑﹁:::がないよという打消しの文が続いているが︑これは言うまでもなく﹁広重の位相﹂における﹁ロダ

ン・ゴッホ・寛治の位相﹂の欠如を強調するものとなっているのである︒それを強調することによって︑﹁広重の位相﹂

に﹁慰め﹂を見出すように変化した主人公の﹁精神の位相﹂も逆照射されているのである︒欠如の強調は︑欠如している

ものに対する欲求の裏返しの表現にほかならない︒そのようにして︑広重対ロダン・ゴッホ︑そして広重対寛治という対

比・対照法を骨格とする絵画的な思考は最後までつらぬかれているのである︒

山城は︑﹃広重﹄が中野重治に精神分析的な﹁治癒﹂をもたらしたというが︑私はそうは思わない︒むしろ︑自己の転

向体験や戦争体験の底にひそんでいた精神の動揺や挫折の真相の究明︑自己弾劾を続けているのだと思う︒それを自己一

(9)

人の問題として究明するのではなく︑戦前・戦中・戦後をつらぬいて日本人に共通する問題として追究したものだと思

ぅ︒そして︑そういう問題の追究を従来のいわゆる﹁転向問題﹂︑﹁戦争責任問題﹂というような狭い枠に閉じこめるので

はなく︑もっと広い視野のひろがりの方へおしひろげるために意識的に用いられたのが︑これまでみてきたような絵画的

な思考法であり︑その先駆をなすものが︑﹃斎藤茂吉ノオト﹄のなかで展開された絵画的な思考法なのである︒

﹃広重﹄にひきつがれることになる絵画的な思考が︑﹃斎藤茂吉ノオト﹄の﹁ノオト八﹂にみられることはすでに見て

きた通りだが︑それが全面的に展開されるのは﹁ノオト九﹂においてである︒﹁ノオト九﹂は︑﹃ノオト﹄全体の眼目とな

っている﹁短歌写生の説﹂の章である︒この章は︑満田郁夫が初出誌にもあたって的確に指摘しているように︑前半と後

ω半とに分けられる︒

まず茂吉の﹁短歌写生の説﹂の要となっている﹁実相観入﹂という言葉についての考察からはじまり︑その概

さまざまに不十分な理解や誤解を生み出してきている実状を検証し︑﹁問題は現実的に処理され︑念があいまいなままに︑

それだけ逆に︑写生の説の文学論としての歴史的闇明ははふり出されたのである﹂という認識を引き出している︒つま

り︑﹁写生の説の文学論としての歴史的闇明﹂︑﹁写生の説の歴史的性格﹂の究明の必要性を提起している︒

生の説﹂の源流となる﹁視覚的︑絵画的︑静止的な子規の写生論﹂にまで糊ることによってそれを行なっている︒

そして後半では︑その子規の視覚的・絵画的な﹁写生論﹂が︑﹁明治の和歌革新﹂の原動力となったことの歴史的な意

義を︑近代美術史や近代文学史と結びつけて考察している︒

そういう前半と後半にわたって︑﹁写生の説の歴史的性格﹂の究明が︑絵画史との関連においてなされていること︑す

(10)

なわち絵画的な思考につらぬかれているところに﹁ノオト九﹂の特色が発揮されていると言えよう︒そういう﹁ノオト九﹂

の特色に注目した最近の論考としては︑山城むつみ﹁茂吉ノオト九後半のこと﹂︑竹内栄美子﹁︿視る﹀こと︑そして﹃人ω聞の依復﹄||﹃斎藤茂吉ノlト﹄の方法﹂などがある︒そういう論考もふまえながら︑﹁ノオト九﹂における絵画的な

思考が︑前半から後半へどのようにつらぬかれ︑発展させられているかあらためて見直してみたい︒

前半では︑まず﹁いはば視覚的︑絵画的︑静止的な子規の写生論にまで糊ることによって﹂

たものが︑茂吉において倍になったといふ事情でなく︑むしろ子規において︑孤が︑円を苧むものとして︑

しかし弧とし

て現れたのであったことが分かるのである︒したがって︑視覚的であった前期子規の︑その視覚的な点︑が明瞭に見直され

ねばならぬ﹂と︑子規の﹁視覚的な点﹂の見直しが提起されている︒そしてつぎのような見直しがなされている︒

A子規において︑写生は︑全身の機能のうち視覚一つだけを引きぬいて来たものでなかった︒被は︑埋没してゐたこの

機能を依復することによって︑全身の機能を快復したのであった︒彼によって︑視覚の快復は人間の依復だったわけであ

る ︒

vこの﹁視覚の快復は人間の快復だった﹂というところは︑くり返しとりあげられ︑論じられてきている有名な文句で︑

従来どちらかといえば﹁人間の依復﹂の方に力点をおいて受けとめられてきているが︑﹁視覚的な点﹂の見直しという観

点からするならば︑やはり﹁視覚の依復﹂という方に力点をおいて受けとめるべきところではなかろうか︒さきの引用の

なかにある比輸にひきつけていえば︑﹁孤︵視覚の依復﹀が︑円︵人間の依復︶を苧むものとして︑しかし孤︵視覚の依

復﹀として現れたのであった﹂というふうに受けとめられる︒子規における﹁視覚の恢復﹂が直接的に近代絵画史に結び

つけられているところをつぎにあげておく︒

たしなみとしての和歌を破らねばならなかった︒そのためには視覚ただ一つが武器とならねばならなか

った︒彼は︑長袖の伝統破壊のために︑全く素朴に︑実証的に﹁実物﹂に即くことにおいて自然にひたと面した︒︵中略﹀

(11)

それは近代絵画史における風景の発見︑更には静物の発見に似てゐた︒V

ところで中野重治は︑こういう視覚的・絵画的な前期子規の見直しに糊る﹁写生の説の文学論としての歴史的闇明﹂︑

一つのポレミックとして行なっていたのである︒ポレミックの相手は︑

田与重郎の﹁アララギ風﹂批判であり︑もう一つには前川佐美雄の﹁写生説﹂批判である︒二っとも前半のなかに引用さ

それを﹁今日の時節に全く大事な疑問﹂

として受けとめている︒保田の﹁アララギ風﹂批判の要点を︑長い引用のなかからひろいあげてみると︑﹁明治の四十年代

以降の思想の中でしるされた万葉集の註釈本は︑今は信じてはならぬよくないものである﹂と断言し︑﹁アララギといふ作

歌者の団隊を中心とする万葉調思想の万葉観﹂の排斥を唱えている︒それと結びつけて︑﹁今日の写生派と生活の歌派の

いくらか歌らしい作をなすのは︑彼ら自身の病患に於てであることは︑彼らの思想と歌の本質を示すもので

ある﹂と﹁今日の写生派﹂を批判している︒そして︑﹁アララギ風の万葉集の秀歌を論じ鑑賞するといふ方法を︑合せて一

掃すべき必要がある︒今や万葉学は我々の文芸復興の先駆として再建されねばならぬ日にあるのである﹂と︑﹁我々の文芸

復興﹂という時流にのった立場から︑﹁アララギ風﹂の排斥を提唱している︒保田の﹁アララギ風﹂批判の要点をかいつま

んで記しておいたのは︑それを中野が﹁今日の時節に全く大事な疑問﹂として受けとめていたことの内容を再確認するた

めにほかならない︒満岡郁夫は︑ここに長々と引用された保田与重郎の見解を︑﹁時流に乗じた政治的情唱といふ以外は

ω

無内容なアララギ批判﹂

というが︑私はそうは思わない︒むしろ︑時流に乗っているが故に危険な内容を含んだ保田の﹁アララギ風﹂批判の要点

を正確にとらえ︑的確な反批判を行なうために引用したのだと考える︒

ところが︑中野は保田の﹁アララギ風﹂批判を長々と引用しながら︑それに対する直接的な反駁は一言も加 J

注的仰い︒そこで︑中野は保田に対して﹁同情的である﹂︑﹁両者の聞には気づかれぬ共通点があるのであろう﹂とか︑﹁遣り過

(12)

した﹂などという臆測や誤解を生むことになったのである︒しかし︑﹁ノオト九﹂を丹念に読み返すならば︑山城もいう

ように︑﹁ノオト九﹂後半の全体は︑﹁保田のアララギ批判︑﹃今日の時節に全く大事な疑問﹄に答えるものとして﹂︑すな

わち反批判として書かれていることは明らかである︒その反批判は︑後半をまつまでもなく︑前半で﹁写生の説の文学論

としての歴史的闇明﹂︑﹁写生の説の歴史的性格﹂の究明の必要性が提起され︑その必要を迫っているものとして保田の

﹁アララギ風﹂批判が引用され︑それにつづけて﹁茂吉の写生説は簡単には左千夫に糊り︑晩年の子規に糊り︑更にそれ

以前の子規に糊る﹂と︑﹁視覚的︑絵画的︑静止的な子規の写生論﹂への糊源がはじまるところからはじまっていたのだ

と私は考える︒むろんそれは直接的な反駁ではないが︑間接的であるが故により本質的で︑歴史的な反批判をめざしてい

たのだと考える︒そしてその反批判は前半だけで終ることなく︑後半にまで持続され︑より拡大された規模のものに発展

して行くのである︒後半になって︑﹁根岸派の流れ﹂が︑くり返しヨーロッパ・ルネッサンスを引合いに出して肯定的に

一見それは大げさなレトリックのように見えながら︑実は︑それらは前半において引用されていた保

田の国粋主義的な﹁我々の文芸復興﹂からの﹁アララギ風﹂批判に対する反批判として対置されるものとなっているので

ある︒そして︑神がかり的に観念的でファナティックな保田の批判を打ち破る一つの武器として︑絵画的な思考が意識的

に用いられているのである︒

もう一つの前川佐美雄の﹁写生説批判に対する中野の反批判はもっとわかりやすいものとなっている︒前川の﹁これは

誤った写生説などが歌壇を風廃するやうになってからだが︑言ふまでもなく写生などの中からいい歌は生れて来る筈はな

いのである︒あれは文化の伝統を持たない田舎者が一生懸命自分を叩きあげてゐるだけの図であって︑国民としての志

も︑また何の信仰をも持たないものの糞努力に過ぎない︒﹂︵﹁文庫﹂一九四了八︶という﹁写生説﹂批判を引用し︑直接こ

れに反駁を加えている︒﹁文化を持たない田舎者﹂︑ご生懸命自分を叩きあげ﹂﹁糞努力﹂などという批判を逆手に取っ

て︑﹁写生の説﹂はそういう﹁田舎者﹂の﹁自己樹立﹂かかわるものであって︑その原動力となった子規は︑﹁前期子規に

(13)

一 九 O

おいてさへ生きてゐるといへるのである﹂と切り返している︒そこで﹁ノオト九﹂の前半は終っているのであるが︑この

前川に対する反批判は︑後半においてさらに規模を拡大した反批判としてもう一度くり返されている︒そこでは︑興味深

lyパ・ルネッサンスのなかの﹁北ヨオロッパのもの﹂︑﹁ネエデルランドのもの﹂︑

lゲルなどに結びつけられて肯定されている︒

A再び便宜上ヨオロッパ・ルネッサンスを引合ひに出せば︑根岸派の流れはイタリヤのものよりも北ヨオロッパのもの

に︑たとへばネエデルランドのものなどに似寄ってゐた︒特にたとへばベlテル・ブリウヘルなどが引合ひに出されてよ

からうと思ふ︒︵中略﹀前川が︑﹁あれは文化の伝統を持たない田舎者が一生懸命自分を叩きあげてゐるだけの図であっ

て﹂といったのは中つゐるのであり︑ただ日本文化の文化としての力量は︑かういふ田舎者に自己を叩き上げさせるだけ

のものをその背景として保ってゐたのであり︑日本﹁文化の伝統﹂といふことは︑さういふ意味においてこそ考へられね

ばならなかったまでである︒V

ここでは︑前川が否定的な意味で使っていた﹁田舎者﹂という批判の言葉を︑ヨーロッパ・ルネッサンスの視野の広が

りのなかで︑肯定的な弁護の言葉へと逆転させている︒そういう視野の広がりのなかで︑茂吉の﹁自然主義﹂との結びつ

きもとらえ直されている︒

この後もう一度︑﹁三たびルネッサンスを引合ひに出せば﹂と︑ギリシャ主義を唱えたウィンケルマンを引合いに出し︑

彼は﹁希臓の彫刻に現はれて居る写生と理想化との中庸﹂に照らして︑﹁和蘭陀風の風俗画﹂を﹁賎しい自然を猿の様に

真似る所の写実主義﹂と排斥していたが︑﹁却ってレンプラントやプリウヘルやは︑この種のウインケルマン眼からの脱

出を出発としてゐたといへるのではないか﹂と述べている︒つまり︑﹁田舎者﹂の﹁自己樹立﹂ということを︑そこにま

で視野を広げて自己肯定的にとらえ直しているのである︒

さて︑最近︑この﹁ノオト九﹂のなかにブリュlゲルがとりあげられていることに注目し︑そこに照明をあてて書かれ

(14)

る論考があいついで出されている︒山城むつみや竹内栄美子もそこをとりあげている︒とくに山城は︑﹁日米開戦前後の

lゲル﹂以下の一連の論考のなかでくり返しとりあげ︑さまざまに論じていて︑教えられるところもあるが︑肝心

のところで間違っていると思う︒

︽戦争期︑精神的にも物質的にも窮していた時期に書かれた﹁ノオト九﹂後半の思考が江戸近世を志向し︑そこにルネ

ッサンスの精神︑とりわけブリュlゲルに代表される北方ルネッサンスに通じる精神を嘆ぎ当てていたことはとくに注意

しておきたい︒︵中略﹀ネlデルランドのルネッサンスへの着眼はおそらく中野の直観によるものだろうが︑江戸近世の

日本に国外から直接︑影響を与えることができたのは中国とオランダだけだったことを思えば︑客観的に歴史を見ても妥

この山城の見解は︑とんでもない見当違いにおちいっているのではなかろうか︒第一︑﹁ノオト九﹂後半の思考は︑﹁明

治卒新期﹂を志向していたのであって︑﹁江戸近世﹂を志向していたのではない︒第二に︑中野が北方ルネッサンスやブ

lゲルを引合いに出しているのは︑﹁根岸派の流れ﹂の﹁田舎者﹂の﹁自己樹立﹂の問題に関してであって︑﹁江戸近

世﹂に﹁ルネッサンスの精神︑とりわけプリナlゲルに代表される北方ルネッサンスに通じる精神を嘆ぎ当てていた﹂の

ではない︒こういう山城の見当違いに比べれば︑竹内の方は︑より素撲に誠実に問題をとらえようとしている︒しかし︑

lゲルと根岸派とのつながりを︑﹁地上的なもの﹂︑﹁写生﹂にあると見るところにとどまり︑肝心の﹁田合

者﹂の﹁自己樹立﹂の問題にはふれていない︒

このように見てくるならば︑﹁ノオト九﹂が︑保田与重郎の﹁アララギ風﹂批判や︑前川佐美雄の﹁写生説﹂批判に対

する反批判︑ポレミックとして書かれていたことは明らかである︒そのさいに︑絵画的な思考が一つの重要な武器となっ

つづけて﹁ノオト九﹂の後半についてみてみよう︒

後半になると︑子規が﹁西洋画からの写生輸入﹂によってなしとげた明治の和歌の革新が︑﹁明治の日本国民が︑世界

(15)

史に新しい姿︑新しい力として登場して来るのに必要であったもの︑このものの獲得といふ国民的要請﹂にかかわるもの

であったことが明らかにされて行く︒それを近代絵画におけるリアリズムの成立と結びつけて︑その歴史的な性格と意義

﹁近代の科学をわがものとせねばならなかった﹂明治の日本の﹁国民的要請﹂が︑江戸末期にはただ﹁少数先覚者たち

の問題﹂であった﹁窮理の学の問題﹂を﹁国民の問題﹂となし︑﹁ことを物において︑物をその長さ︑幅︑奥行き︑面積︑

体積︑重量において測ることを学び︑それによって︑すべてことと物とをそのものに即して見且つ測る精神﹂を学ぶこと

を求めていたのである︒そういう明治革新期の漉刺とした精神は︑たとえば陸軍教導団編纂の﹃画学講本﹄の緒言のなか

の﹁万物ノ形状ヲ見ル所ノ如クご﹁手腕ヲ担行シ以テ生写スルノ方法﹂﹁此法ヲ修ムルノ学之ヲ画学トイフ﹂ところなど

にもうかがわれる︒そういう動きを︑中野重治は︑まず絵画史に結びつけてとらえ直す︒

︽﹁万物ノ形状ヲ見ル所ノ如クこ﹁手腕ヲ担行シ以テ生写スルノ方法﹂の伝統はすでに日本にあった︒華山の小鳥の写

生図︑応挙の見虫の写生図などを見れば明らかである︒︵中略︶しかも華山と高橋との聞には明瞭に差別のあることを否

めない︒︵中略﹀あれらの小鳥の描写に華山が美を見てゐなかったとは確かにいふことが出来ない︒しかし高橋は︑台所

に吊るされた一尾の鮭の﹁生写﹂そのものに没頭し切ってゐた︒現在彼が﹁美﹂を意識してゐるかゐないかさへ問題でな

かったかのやうである︒華山の小鳥図には必ずしも一幅の絵としての全幅の﹁画因﹂が見られぬけれども︑高橋の﹁鮭﹂

では︑鮭への迫真に物狂ひのやうになってゐる画家そのものがそのまま﹁鮭﹂の画因となってゐる︒同様﹁花魁﹂におい

ても︑高橋の逐うたのは﹁花魁の美﹂ではない︒また年増の美しさなどというものでもない︒年取った骨の太い︑実在す

る一個の花魁である︒︾

日本のリアリズムの伝統を見直しているが︑そのなかで華山と高橋とを対比し︑﹁華山と高橋との

聞には明瞭に差別のあること﹂をつきとめている︒両者の聞に見出される明瞭な﹁差別﹂とは何か︒それは︑︿前近代的

(16)

なもの﹀と︿近代的なもの﹀との﹁差別﹂にほかならないと私は考える︒高橋の﹁鮭﹂で︑﹁鮭への迫真に物狂ひのやう になってゐる画家そのものがそのまま﹃鮭﹄の画図となってゐる﹂というのは︑﹁物をその長さ︑幅︑奥行き︑面積︑体 積︑重量において測る﹂﹁すべてことと物とをそのものに即して見且つ測る精神﹂そのものが絵のモチーフとして現われ ているということにほかなるまい︒それを近代的なリアリズムの精神というならば︑そういうものがまだ華山には見出さ

そういう高橋由一に見出される近代的なリアリズムの精神を︑中野は︑子規に結びつけ︑さらにはヨーロッパのルネヅ

サンスにまで糊ってとらえ直すのである︒

︽﹁吉原の太鼓きこゑて更くる夜にひとり俳句を分類すわれは﹂と歌った子規は︑俳句の分類に美を見出してゐたとい

ふよりも︑むしろ分類そのことに没頭してゐたのであり︑かかる没頭の熱情が︑子規においてそれ自身の歌声をなしたも

のと見るべきであらう︒子規のこの勉強とその方向とは到底徒食層のものでなかった︒彼の方向は︑範庸として立てられ た既存の美の発見にむかつたよりも︑むしろ対象に対する態度︑それへの立ちむかひ方において一つの新しい範曙を自身 暗示し︑それの﹁美﹂であるかないかは二の次ぎとして︑彼の熱情はそこに傾けられ︑自身この傾けを全幅的に背定せず

にはゐられなかったのである︒

便宜上これをヨオロッパのルネγサンスにたぐへて見れば︑問題は古典文明そのものの再生にあるよりもやはり人間の

再生にあった︒万葉調は根岸派のおもな特質をなしてゐたが︑この万葉調︑万葉主義は︑万葉そのまま︑寧楽そのままで

より粗野な明治日本人にかかってゐた︒︾

高橋由一を子規に結びつけ︑それをさらにヨーロッパ・ルネッサンスと結びつけることによって︑

の佼復﹂が﹁人間の依復﹂につながるものであること︒ルネッサンスの問題は︑﹁古典文明そのものの再生﹂ではなく︑

﹁人間の再生﹂であったことを具体的にねばり強く浮彫りにしている︒そういう論法をもって︑あの保田与重郎の国粋主

(17)

義的な﹁我々の文芸復興﹂ということをかかげてなされた﹁アララギ風﹂批判に対する反批判が遂行されたのだというこ

とはあらためていうまでもない︒そのさいに︑保田の神がかり的に観念的で︑フナァティックな論法を打ち破る一つの有

効な武器として︑絵画的な思考法が用いられていたことも明らかである︒つまり︑中野重治は︑視覚的・絵画的であるこ

とを通じて︑和歌の革新をなしとげた子規の精神と態度と方法とに学んでいるのである︒

ふりかえってみると︑﹃広重﹄の絵画的な思考の構図の骨格をなす広重対ロダン・ゴッホ︑そして広重対寛治という対

ロダン・ゴッホ・寛治の線が︑﹃斎藤茂吉ノオト﹄のゴッホ・由一につながるものであることは明ら

かである︒それらは︑近代的なリアリズムという線でつながっている︒それでは︑広重はどことつながり︑何を映し出そ

うとしているのであろうか︒

﹃広重﹄の書き出しのところで︑主人公は広重が好きになった理由を突きとめることを恐れている︒﹁これを突きとめ

ることはもっと重大なことを突きとめることに続いていて︑それは大ごとで︑はたしてやれるものかやれぬものか︑そこ

まで勇気を出せるものか我ながら心もとない﹂という︒その﹁もっと重大なこと﹂は︑﹁悪ではないがやりき一れないも

の︑それにたいするある程度の妥協状況が広重にマッチする﹂ということにかかわっている︒それは︑﹁なさけないよう

な︑いかにも中途半端といった日本人らしい日本人の姿が広重のなかにあって︑それがそっくり自分のなかにあるように

思えてそれが我ながらあわれだった﹂﹁広重のなかの人間の弱さは︑いまそれ以上のものとして私のなかにあるらしかっ

た﹂ということにかかわってくる︒その﹁人間の弱さ﹂の底に﹁政治権力にたいする恐れ﹂がうずくまっている︒

中野重治は︑広重を鏡として︑そういう日本人のなかに︑そして自分のなかにもある﹁人間の弱さ﹂というものを︑その

(18)

底まで照らし出そうとしたのではないだろうか︒そして︑そのことは﹃斎藤茂吉ノオト﹄ともかかわってくる︒それは︑

戦争吟﹂のなかに散見される戦争に対する態度のある種のあいまいさ︑

かわってくるものではなかろうか︒

一種のゆれとでもいうべきものにか

﹁ノオト七﹂で︑中野重治は︑茂吉の﹁戦争吟﹂を二つに分け︑それらを渡辺直己の﹁戦争吟﹂︵戦場における戦闘者

の吟︶や日露戦争を歌った左千夫の﹁戦争吟﹂などと比較しながら考察している︒

も没すとききて吾れ立ちあるく﹂というような戦闘の具体的な光景に即して自己を表出したものであり︑もう一つは︑ 一つは︑﹁大冊河わたれる兵の頚まで

﹁あたらしきうづの光はこの時し東亜細亜に差しそめむとす﹂というような戦争イデオロギーを観念的に歌い上げたもの

である︒中野は︑前者を肯定的に︑後者を否定的に評価しながら︑そのしめくくりはつぎのようなあいまいなものとなっ

♀戊吉の戦争吟に︑左千夫のそれに比べて何かごたごたしたものが一部感じられるとすれば︑それは︑今日国民のきり

拓きつつある道が決して容易な種類のものでないこと︑国民が日ごとに破り破りしつつある謀略が複雑︑多岐︑隠険を極

めてゐることの証拠であらう︒︾

﹁ノオト九﹂では︑子規の視覚的・絵画的な﹁写生説﹂の背景に︑明治革新期の﹁国民的要請﹂を見出している中野

が︑ここでは︑茂吉の﹁戦争吟﹂の背景に︑戦争期の今日の﹁国民的要請﹂を見ているのである︒時局に引きずられて行

く今日の﹁国民﹂の動向に中野自身が引きずられたところがあったのではなかろうか︑なかったとは言えまい︒その傾向

は︑﹁その後昭和十六年十二月八日の大東亜戦争の勃発によって﹂﹁事変以来︑特にその大東亜戦争への発展以来見られる

おびただしい戦争吟が︑そのすぐれたものの多くについて︑また特に実戦の歌の多くについて︑大体において﹃写生﹄の

流れをくんでゐる左いふ事実である﹂というふうに︑﹁写生﹂が﹁戦争吟﹂の擁護にかり出されるところにまで加速され

て行く︒そういう動向として現れた日本﹁国民﹂のなかの﹁人間の弱さ﹂︑自己のなかの﹁人間の弱さ﹂というものを︑

(19)

﹁広重のなかの人聞の弱さ﹂に照らして描き出そうとしたのが﹃広重﹄という作品にほかならないと私は考える︒

﹃広重﹄の後につづくものとして﹃帰京﹄が書かれているが︑そのなかに父の死と太平洋戦争の勃発とが重なって襲い

かかって来たときの主人公の動揺が描かれている︒主人公は︑﹁おれはつかまらぬぞ︒っかまりたくないぞ︒どうしてで

も:::﹂という一心から︑警視庁当局宛に︑﹁私が米英派などいうものでなきことは︑これは当局においても明白に認め

て頂けることと信じます﹂﹁御取調べの節は︑何とぞ家を留守にせずに御取調べ下さるよう寛大に御処置お願いしたいの

であります﹂﹁他に手立なく平にお願い申す次第であります﹂という︑まさに当局の前に平伏する調子の嘆願書とでもい

うべき手紙を書いているのである︒これはまさしく︑﹁百姓町人のかさしさ︑そんなものとして意識される以前での政治

権力にたいする恐れ﹂の一つの現れというべきものではあるまいか︒

さて︑﹃帰京﹄の主人公が︑警視庁宛にそのような手紙を書いたのは︑太平洋戦争勃発直後の昭和十七年︵一九四二年︶

一月六日であるが︑その手紙の内容は︑同二月十七日︑中野重治が菊池寛宛に書いた手紙のそれと通じるものである︒そ

のなかには︑﹁マルクス主義文芸観を離れたといふ方がおもで︑それではどんな新しい立場に立ったか﹂﹁日本の民族的統

一の強化︑国家的力量の増大︑両者の結びつけられたものとしての発展のために書く︑

ります﹂などというような︑およそ中野重治にはふさわしくないような文句も見出される︒しかし︑ 一と口に言へばかういふ考へであ

ふり返ってみるなら

ば︑それもまた戦争中の中野重治の一側面なのである︒﹃帰京﹄のなかにそのような場面を描き込んだのは︑自分のなか

の﹁人間の弱さ﹂に対する文学者としての自己弾劾としてであろう︒そういう自己弾劾を可能にする視座をきり聞いたの

が︑﹃広重﹄における絵画的な思考であったに違いない︒

このようにしてあらためて見直すと︑﹃斎藤茂吉ノオト﹄のなかにも光と影とがあるということがわかってくる︒その

もっとも輝しい光が﹁ノオト九短歌写生の説﹂であり︑うす暗い影が﹁ノオト七

そして︑﹃広重﹄は︑広重という鏡に照らして︑その影の部分をあらためて照射するものとなっている︒その光と影との 戦争吟﹂︑とくにその後半である︒

(20)

両側面において︑独特の絵画的な思考が一つの武器として駆使されているのである︒

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3

回 ・

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9注同満田鶴夫﹃中野重治の茂吉ノオト﹄︵童牛社︑制︶

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5

参照

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