歌 人 斎 藤 茂 吉 考
‑特に第二歌集﹁あらたま﹂と其の編集完了前後‑
鍋 島 直 共
( 昭 和 三 十 七 年 九 月 八 日 )
和歌革新の先頭に立った与謝野鉄幹によって新詩社が結成されたのは︑明治三十二年であったOその翌年の明
治三十三年には︑機関雑誌﹁明星﹂が発刊され︑浪漫派詩歌の全盛を招来した。しかし明治四十年頃になると︑
自然主義文学が流行し︑それが歌壇にも大きな影響を与えた為に︑明星派の浪漢的傾向は襲え︑自然主義的な自
己否定や官能的な傾向を持った歌が現れるようになって︑明治四十一年には︑﹁明星﹂は廃刊されている。歌誌
﹁アララギ﹂が創刊されたのは其の年である。この歌誌﹁アララギ﹂を拠りどころとして︑伊藤左千夫を中心と
して︑アララギ派の万葉調による現実主義歌風は次第に形成されていった。アララギの歌風の基調となったのは︑
この左千夫の情熱的性格と同人長塚節の鋭利な感情とであったが︑それはやがて︑左千夫門下の島木赤彦・斎藤
‑I
二
茂吉らに受げっがれ︑この派の歌風は世人の注目するところとなり︑アララギの理想とする歌論は︑赤彦と茂吉
とによって樹立され︑共に写生重視の点では同じだが︑赤彦が主に東洋的静寂枯淡を目ざして実作を重んじたの
に比べ︑茂吉は主に実相に観大して写生の歌を作るという﹁実相観入﹂を提唱した点は注目に価するものがある。
特に斎藤茂吉の処女歌集﹁赤光﹂(大正二年十月︑東雲堂書店刊行)の出現は歌壇に大きな影響をあたえた。
この彼の処女歌集﹁赤光﹂には︑彼の二十四歳(明治三十八年)から三十二歳(大正二年八月)までの作歌八
三四首が収められているが︑これを第一歌集として︑次々に︑都合第十七歌集まで編年の歌集が出た。尤も他に︑
﹁朝の登﹂(大正十四年)等の自選歌集や歌論︑研究書などが出ているが︑此等の自選歌集や歌論︑研究書はしば
ら‑描‑としても︑彼の青年時代から晩年に至るまで︑絶えることのなかった彼の旺盛な作歌精神と其の展開は︑
(註1) 編年歌集第一巻から第十七巻に亘る彼の作歌が雄弁に物語っている通りである。彼は後年﹁作歌四十年﹂の中
で︑ ﹁顧みれば︑実にいろいろの試みをしたものである。そうして兎も角も此処まで歩いて来たものである。これも
歌が好きで︑断えぬ動揺を体験しっつ︑歌が罷められなかった結果に他ならぬ。﹂
と述懐しているが︑彼は﹁断えぬ動揺﹂をいつも熟視熟考しっつ体験して行ったので︑彼の歌には成長があったo
歓喜があった。余程の情熱と精進とがなければ出来ないことである。単に歌が好きだと言った程度では︑自分の
ぽうだい 言わば﹁人生記録﹂とも言うべき程の貴重な︑而も彪大な作品を死に至る迄製作し放けることは︑なかなか不可
能なことだと'わた‑Lは思う。そこにはやはり︑前に述べたように︑常に自分の生活をしっかり凝視していっ
た彼のたゆまざる真撃な生活体験と情熱的な彼の﹁生活即歌﹂の旺盛な作歌精神とがあったことを認めざるを得
ないであろう。ここに於いて︑彼の編年歌集全十七巻というすばらしい業績もうなずけるわけである。
就いては︑﹁赤光﹂の次に︑第二歌集﹁あらたま﹂が出た。彼の三十二歳(大正二年九月)から三十六蔵(大正
六年)までの作歌七五〇首︑大正十年一月︑春陽堂刊行。第三歌集は﹁つゆじも﹂である。彼の三十七歳(大正
七年)から四十歳(大正十年)までの作歌七〇六首︑昭和二十一年八月︑岩波書店刊行。第四歌集﹁遠遊﹂は︑
四十一歳(大正十一年)から四十二歳(大正十二年七月)までの作歌六二三首(全集は二首増補して六二五首)︑
昭和二十二年八月︑岩波書店刊行。第五歌集﹁遍歴﹂は︑四十二歳(大正十二年七月)から四十四歳(大正十四
年一月)までの作歌八二八首︑昭和二十三年四月︑岩波書店刊行。第六歌集﹁ともしび﹂は︑四十四歳(大正十
四年)から四十七歳(昭和三年)までの作歌九〇七首(第二刷では九〇八首︑全集では九一二首)︑昭和二十五年
一月︑岩波書店刊行。第七歌集﹁たかはら﹂は︑四十八歳(昭和四年)から四十九歳(昭和五年)までの作歌四
五四首︑昭和二十五年六月︑岩波書店刊行。第八歌集﹁連山﹂は︑四十九歳(昭和五年秋冬)の作歌七〇五首︑
昭和二十五年十一月︑岩波書店刊行。第九歌集﹁石泉﹂は︑五十歳(昭和六年)から五十一歳(昭和七年)まで
の作歌一〇一三首(全集では一〇二五首)︑昭和二十六年六月︑岩波書店刊行。第十歌集﹁白桃﹂は︑五十二歳
(昭和八年)から五十三歳(昭和九年)までの作歌一〇一七首(全集では一〇三三首)︑昭和十七年二月︑岩波書
店刊行。第十一歌集﹁暁紅﹂は︑五十四歳(昭和十年)から五十五歳(昭和十一年)までの作歌九六九首(第二
刷では九六八首)︑昭和十五年六月'岩波書店刊行。第十二歌集﹁寒雲﹂は︑五十六蔵(昭和十二年)から五十八歳
三
四
(昭和十四年九月)までの作歌一一一五首︑昭和十五年三月︑古今書院刊行。第十三歌集﹁のぼり路﹂は︑五十八
歳(昭和十四年十月)から五十九歳(昭和十五年)までの作歌七三四首︑昭和十八年十l月'岩波書店刊行0第
十四歌集﹁霜﹂は︑六十歳(昭和十六年)から六十一歳(昭和十七年)までの作歌八六三首︑昭和二十六年十二
月︑岩波書店刊行。第十五歌集﹁小園﹂は︑六十二歳(昭和十八年)から六十五歳(昭和二十一年一月)までの
作歌七八二首(全集では八四三首)︑昭和二十四年四月︑岩波書店刊行。第十六歌集﹁白き山﹂は︑六十五歳(昭
和二十一年)から六十六歳(昭和二十二年)までの作歌八二四首(全集では八五〇首)︑昭和二十四年八月︑岩波
書店刊行。最後の第十七歌集﹁つきかげ﹂は︑六十七歳(昭和二十三年)から七十一歳(昭和二十七年)までの
作歌九七四首(全集では九八二首)︑彼没後の昭和二十九年二月︑岩波書店刊行。
わた‑Lは︑彼の第一歌集﹁赤光﹂から晩年の作品の第十七歌集﹁つきかげ﹂までの夫々の歌集を︑彼の年令
(年代)過程と所収歌数の相において瞥見してみたのも︑彼の第二歌集﹁あらたま﹂が︑そんな点に於いて︑どん
な位相にあるかを見たい為であった。蓋し︑所収歌数の順位では︑この第二歌集﹁あらたま﹂は十七歌集中で︑
第十二位ということになり︑その点では歌数のさして多い歌集ではなく︑むしろ︑中位以下ということになる。
しかし︑この﹁あらたま﹂や︑その前の﹁赤光﹂は︑彼の一生を通じての歌風の基調をなすものを腔胎して行っ
た点では︑これら十七歌集の中でも︑特殊性をもった重要な歌集だと言うことができよう。殊に﹁あらたま﹂は︑
ヽ ヽ ヽ ヽ
言わば︑烈し‑歌いあげられた﹁赤光﹂の生命の行惰性が次第に客観的な︑現実的なふかまりを持つようになっ
たものとでも言えよう。彼にあっては︑二十四歳頃から三十六歳頃迄の︑青年期頃のこのような歌風が︑彼の老
成期の歌風にまでも強く響いていることは注目すべき点だと思う。
そこで︑わたくLは此の第二歌集﹁あらたま﹂を考察する前に︑﹁その前に出た﹂と言うよりも︑﹁あらたま﹂の
母胎ともなったと言える第一歌集﹁赤光﹂をここでしばら‑考えてみたい。同じく︑﹁赤光﹂の歌とは言っても︑
子規の歌の模倣や︑左千夫の指導の下にあって︑作歌技法の修得につとめた︑﹁赤光﹂の初期とも言うべき︑明治
三十八年から明治四十二年までの作品を先ず見ねばならない。この作歌入門期ともいうべき時期の作品にも︑既
に彼の個性が明らかに打ち出され︑作歌表現が線の太い具象的なものをもっている。
あけ かぎろひの夕べの空に八重なび‑朱の旗ぐも遠にいざよふ
今しいま年の来るとひむがしの八百うず潮に茜かがよふ
明治四十三年から明治四十四年にかけては︑﹁赤光﹂の歌の世界が完成されていった時期であって︑それは'
細みづにながるる砂の片寄りに静まるほどのうれひなりけり
あ
け
び
加
苔
な
‑ろく散る通草の花のかなしさを稚くてこそおもひそめしか
雨にぬるる広葉細葉の若葉森あが言ふ声のやさしくきこゆ
おのが身をいとほしみつつ帰り来る夕細道に柿の花落つも
というような'彼の作品などによってもわかるように︑漸次微妙な情緒や感覚が表出されてきた。この明治四十
三年は︑彼が東京帝国大学医科大学を卒業した年であって︑明治四十四年からは巣鴨病院と大学教室に勤務した︑
この頃から︑彼の作歌態度が一層積極的となって'﹁アララギ﹂編集にも益々情熱を燃やした。
五
六
( 註 2 ) い き
﹁短歌は直ちに生のあらはれでなければならぬ。従ってまことの短歌は自己さながらのものでなければならぬ。﹂
これはその頃の彼の作歌的自覚ともいうべきものをうかがうには︑実に適当な言葉だと思う。大正元年︑大正
二年となるとノいよいよ意慾的に歌境や歌材を開拓しようとする意気が見え︑表現力も強くなり︑益々鮮明な主
観が表出されてきて︑多彩な作品が展開している。大正元年頃の次の﹁研究室二首﹂をみても'その一端がうか
が え
る と
思 う
。
をさな児の遊びにも似し我がけふも夕かたまげてひもじかりけり
カ
カ
せ
つ
蝣
f
ん
あ
け
び
屈まりて脳の切片を染めながら通草のはなをおもふなりけり
扱︑ここにおいて︑﹁赤光﹂を全体としてみる時には'彼の所謂﹁生のあらはれ﹂の生命感の横溢と人間感情の
あり 有の健の吐露とが観取される点は︑ここに短歌の健界の近代化があるように思う。﹁赤光﹂は︑大正十年に多‑
の削除改作が試みられて︑歌数七六〇首所収の﹁改選版﹂が出た。作者はこれを定本としているが︑併し︑改変
ヽヽ
されない其の初版のままの方が︑本当の﹁赤光﹂時代の﹁歌人斎藤茂吉﹂がなまのままに︑にじみ出ていて︑彼
の歌歴をたどるスターIとも言うべき歌集でもあるだけに︑愛着がもてる。殊に彼はすぐれた重要な作品には余
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り手を加えずtでない作品を主として削除改作したのであったが︑むしろ所謂でない作品にこそへよ‑其の人の
ありのままの相の一面を伝えている場合もあって︑そこに歌の意義も尊さもあるものだろうから︑削除改作は惜
しいように私は思う。﹁改選版﹂が出た大正十年頃になると'もう﹁赤光﹂の中の﹁彼﹂そのままではないのだか
ら︑大正十年頃の﹁彼﹂をもって︑明治三十八年から大正二年の間の﹁彼﹂を全般的ではなく︑部分的にもせよ︑
ひね‑るということはどうかと思う。
このような﹁赤光﹂のあとをうけて︑彼の第二歌集﹁あらたま﹂が生れることになる。前述したように︑この
歌集は︑彼の三十二歳から三十六歳の間の作歌が収められ︑年代的には︑大正二年九月から大正六年に亘ってい
る。﹁あらたま﹂の初期ともいうべき大正二︑三年頃の彼の歌には︑﹁赤光﹂の歌風の連続的なものが見られるこ
とはもっともなことだと思う。殊に︑次のような官能の歌が見られるのは注意すべきであろう。
畑ゆけばしんしんと光降りしきり黒き蛙蝉の目のみえぬころ
ゥ
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ふり漕ぐあまつひかりに目の見えぬ黒き鱒を追ひつめにけり
あかあかと一本の道とはりたりたまきはる我が命なりけり
立にあげた第三首目の歌は︑彼自身も官能的な歌だといっているが︑前の﹁赤光﹂にみられる高調された生命
感が殊にひらめいていることを看過してはならないと思う。やがて次第に︑彼は自分の生活の中の寂しい気持の
ヽ ヽ ヽ ヽ
成長と'それの凝視とにともなって︑彼の歌にも︑そのような沈静のあわれさがにじみ出て行った。大正三年の
作品には︑それがよくうかがえる。
かへるごは水のもなかに生れいでかなしきかなや浅岸に寄る
草つたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ
皇ひ しまし我は目をつむりなむ裏目おちて鵠ねむりに行‑こゑきこゆ
とものしているが︑その頃の彼を伝えて余りあるものがあろう。大正三年末頃には'
七
3
山ふかく撃したり仮初のものとなおもひ山は毅Lも
ゆふされば大根の菜にふる時雨いた‑寂し‑降りにけるかも
と詠んでいる程に︑仏典や芭蕉などの影響もあって︑彼の言葉通り︑﹁現実の看万が一転化﹂していった傾向がみ
とめられる。大正四年︑大正五年にかけて'ようやく﹁梁塵秘抄' &m 芭蕉あたりの句﹂から脱げて'平淡に︑また
二EPより現実的となっていった.
いそがし‑夜の廻診ををはり来て狂人もりは蚊帳を吊るなり
し L ) と
いささかの為事を終へてこころよし夕鍋の蕎麦をあっらへにけり
大正六年1月には︑右の歌の﹁狂人もり﹂をやめ︑巣鴨病院をしりぞいてtLずかで︑寂しい気持を︑更に彼
は自分の生活に楽しんで行った。つぎの作品には︑それがよ‑うかがえる。
うちわたす茎はら中にとりよろふ青葉のしづけさ朝のひかりに
石の間に砂をゆるがし湧く水の清しきかなや我は見つるに
立にあげた第二首目の歌は︑大正六年十月︑彼ひとり箱根に行った時の﹁浸吟﹂の中のl作だが︑静寂な自然
の中にはなたれた彼の観察眼の鋭敏さ'清澄さ︑繊細さがよ‑うかがえる作品ではないかと思う。そして'この
第二歌集﹁あらたま﹂は﹁長崎へ﹂の一連の作品でもって終っている。即ち︑箱根から帰った彼には︑長崎医専
教授の辞令がとどいたのである。
いつしかも寒くなりつつ長崎へわが行かむ日は近づきにけり
尤も︑この一連の作品の中には︑長崎着任当初の境の彼の作品も入っている点からすれば︑﹁長崎へ﹂の文字の
内容には︑この︑場合︑﹁長崎にて﹂の意味を含めて考えるべきであろう。
ヽ ヽ ヽ
蓋し︑彼の第二歌集﹁あらたま﹂は︑さきの﹁赤光﹂にうたわれたはげしい挿惰性が内ごもって︑現実的なふかま
ヽ
りを見せている作品だと言えよう。それは︑この﹁あらたま﹂に収められた作品における彼の年令過程からみて
も'そんなことが一応考えられると思う。即ち︑﹁赤光﹂にみる﹁生のあらはれ﹂が﹁あらたま﹂においては︑
八開m
﹁実相﹂や﹁自然﹂とかを重視し︑﹁自然・自己一元の生﹂の描写にまで熟しているといえるだろう。そして︑
その﹁あらたま﹂の風は︑彼の一生の歌風の基調だとも言える点で︑﹁赤光﹂と共に彼の重要な歌集だと言うべき
であろう。この﹁あらたま﹂の後に︑彼の長崎在任三年余を主舞台とする第三歌集﹁つゆじも﹂が出たのである。
さて︑彼の第二歌集﹁あらたま﹂は︑作品所収末期の大正六年に︑其の草稿整理や編集が完了したのではなか
った。ついては︑彼の長崎赴任の大正六年十二月冬以前の同年夏の時分に'日頃気になっていた﹁あらたま﹂の
草稿整理をまずやってみようと言うわけで︑大正二︑三年頃あたりの作品を清書したりしてみた。しかし︑大正
六年夏の頃の彼には'例えば︑大正三年頃に歌った漢語や仏典語まじりの歌が︑既にしっくりしないものがあっ
たので︑あれやこれやと削除改作などやって︑かなり手を加えたのである。それでもまだ︑
ほのぼのと諸国修行に行‑こころ遠松かぜも聞くべかりけり
入日ぞら頭がちなる保儒ひとりいま大河の鉄橋わたる
というような歌などにも'彼が︑その頃︑気になりそうな語が見えるようだ。ところが︑彼にとっては︑実に思
九
10
いがけない長崎赴任ということが出てきて︑不安定な彼の作品のまま'また草稿整理の緒にもつ‑かっかないう
ちに︑あたふたと︑彼は旅仕度をしなければならなかった。彼は草稿整理も放沸し︑そして'その草稿や参考に
すべき雑誌切抜きなども'東京においたままで︑急速長崎へ出立した0
思うに︑彼の第二歌集﹁あらたま﹂が刊行されて︑世に出たのは︑大正十年一月だったが︑ここに至るまでに︑
殊に其の編集完了に関連して︑わたくLは︑次のようなことを'ここに記録して直かねばならない。しかも︑其
の編集完了ということが︑第三歌集﹁つゆじも﹂の中に展開した彼の闘病生活の中においてなされたということ
は︑彼自身にとっても︑掬に不思議な出来事だったかもしれない。その点︑彼には終生忘れられない彼の﹁歌
道﹂の一大足跡がしるされたものと言うべきである。
大正六年十二月四日︑三十六歳にして︑長崎医専教授の辞令をもらった彼は︑同月十七日︑東京を経って長崎
へ向った。九州に入って︑佐賀のあたりを通過する際に︑彼は'
皇も 佐賀駅を汽車すぐるとき灰色の雲さむき山をしばし目守れり
と詠んでいるように︑寒々とした師走の冬空に起伏する肥前の連山の風情は︑長崎医専教授となった彼の喜びに
も似ず︑正に﹁灰色﹂だった。そんなことは︑その時の彼の心境に︑何か対照的なものを感じさせたかもしれな
n9退EBs
い。とにか‑︑その灰色の雲の寒々とした山々は︑彼の旅する心を不思議にも引きつけていった。
彼は長崎着任後の大正八年一月には︑所用のため︑東京へ帰ったが︑その際︑古泉千樫から﹁あらたま﹂の草
稿整理や編集などのことに就いてのすすかもあり︑また︑﹁あらたま﹂刊行についての春陽堂の好意もあったの
で︑彼は勇気も出て︑﹁あらたま﹂の草稿や雑誌の切抜きなどをもって長崎に帰ったoLかし︑彼の多忙な公務
と︑その頃の彼の不自由な独り住まいにあっては︑其の編集どころか︑今までの自分の作品についての不満さえ
も新しく出てきて︑中々作歌の改作整理すらはかどらず︑彼は落胆と失望とで為事は中絶された。彼は長崎在任
中の大正九年一月(三十九歳)︑その頃猫蕨を極めていた流行性感冒にかかり︑六月はじめには噂血したoそこ
で何よりも健康第一と︑彼は総べてをあきらめて︑温泉教(雲仙)︑唐津と転地療養につとめた。そして︑大正
つ
九年九月十1日の朝︑今までの伴れから離れて︑彼一人︑唐津を経ち︑佐賀県の古湯温泉にやって来た。それ
は︑勿論古湯にのんきに遊びに果たのではなかった。とにか‑'大正九年夏七月二十六日から八月十四日まで︑
約二十日間︑温泉放(雲仙)で療養しても︑彼の病気は中々はかどらなかった。八月三十日から九月十日まで︑
知友二人で佐賀県唐津海岸に転地養生しても︑やはり︑はかばかしくなかった。その時の彼の心情は'次の彼の
歌にも反映していると思う。
海のべの唐津のやどりしばしばも噛みあつる飯の砂のかなしさ
孤独なるもののごと‑に目のまへの日に照らされし砂に蝿居り
このような彼のわびしさは︑古湯にやって来た当初まではやはり続いた。出る疾もかなり多く︑血の色がまだ
かなりついて出た。こんなことを考えてみれば︑彼が長崎赴任の途中へ佐賀平野の尽きるところに見える灰色の
雲ただよう山々を望め遣っては感慨にふけったのも︑何か因縁があったのかもしれない。彼がその時︑車窓から
打ち望めた肥前の山々の中には︑古湯温泉をかこむ山々もあったのである.
一一
繭i
( 駐 4 ) ﹁僕は当時病気に罷っていて︑一人寂しく明暮れて︑未来のことなど全く諦めようとしていた時である。﹂
こんな彼の所懐は︑大患にかかり︑転地養生をしていた大正九年頃の︑彼のいつわりのない悲痛な詠嘆であっ
た。彼は︑長崎医尊では︑精神病学や法医学を講じ︑あわせて︑病院では︑神経精神科の珍寮にも当った医学者
であり︑また︑医者なのであった。その彼が︑自分の健康に自信がもてな‑なったということは︑常人の場合よ
りも更に悲哀であり︑致命傷だとも言うべきであるO彼は思い切って︑総べてを放沸し︑大正九年の大半を入院
生活と文字通り転々として転地凍責についやした。しかし︑それは決して︑臆病でもなければ︑退嬰でもなかっ
た。専門の医学に︑そしてまた︑好きな歌道に︑将来を期しての一大決心が彼の心の裡には︑本当を言えばあっ
たのではないかと思う。情熱の人でなければできない芸当だとも言えるであろう。勿論︑彼は専門の医学にも情
熱を燃やした。医尊での﹁斎藤先生﹂の講義は熱のはいったもので︑教壇近い学生諸君の顔には︑常に彼の唾
(つば)がペタペタと遠慮なく飛散した。こんな彼の熱情と真剣味があったれはこそ︑彼は自分の病気とも強く
たたかい︑そんな中から優れた歌や文章が生まれたとも言えよう。
ところで︑彼が古湯温泉に入湯して︑十日目の九月二十日あたりから︑疾の量もやっと減り︑九月二十三日か
らは疾に血の色がつかな‑なったという。彼の喜びが寮せられる。ついては︑彼が古湯温泉に来る前'雲仙で詠
んだ歌や綴った随筆には︑不安な︑たよりない哀愁が多く龍っているように︑わた‑Lは思う。
も だ い の も
石原に来り黙せばわが生石のうへ過ぎし雲のかげにひとし
山の奥にこもりて噴けるあかときの凋きけばこほろぎに似たり
雲仙での聞病中の彼の生命は︑石の上を過ぎ去って行くはかない雲の影のあわれさにも等しかった.そしてま
た︑夏の雲仙の朝方になく鯛の声は︑彼の胸奥には余りにも淋しく︑繊弱に響いて行った。また︑雲仙絹笠山の
山腹のベンチに刻されたロシア文字を見ては︑
( 紅
* o
﹁これには一種のあわれが感じられる。安価なあわれと思うが︑今の僕にはこれが嘘ではないようだ。﹂
とも言っている。こんなことは'其の頃の彼を思えば︑うなずけることなのである。
それにひきかえ︑古湯温泉での彼は︑かなり心身の健康を取り戻した。雲仙や唐津あたりでは︑気が向かなか
った﹁あらたま﹂の草稿整理を'古湯温泉に来てから︑やっとやってみたい気になって︑それに着手した。途中
風邪をひいたが︑とにかく︑二十一一百から整理にかかって'三十日にはどうにか編集完了まで漕ぎつけた。彼の
歌境にも︑希望と清澄と明朗と平淡とが見えてきた。
く る み
胡桃の実まだやはらかき頃にしてわれの病は癒えゆくらむか
しす 秋づきて寂けき山の細川にまさご流れてやむときなしも
泥MEE?