は じ め に
随分と大きなテーマをかかげてしまったが,本稿では戦後日本のアメリ カ経済史研究の流れのなかで斎藤叫という一人の研究者がどう生きたかを 考えてみたい。斎藤氏は2016年12月28日に亡くなられた。享年65歳。遺言 で追悼論文の如きは一切辞退したいとの意向を夫人に託されたという。し たがって,本稿は斎藤叫に捧げる追悼論文ではない。斎藤叫を主人公とし た物語でもない。日本のアメリカ経済史研究のそこここに登場する斎藤叫 をさりげなくとらえてみようという試みである。このようなものなら斎藤 氏も諒としてくれるのではなかろうかというのが,斎藤氏周辺のなかんず く関口定一氏の判断であった。筆者がこの難題とも言える仕事を引き受け ることになったのは,どんな形であれ,斎藤氏の研究者としての足跡を歴 史に留めておきたいとの願いを関口氏たちと共有したためである。
513 商学論纂(中央大学)第60巻第5・6号(2019年3月)
アメリカ経済史研究と斎藤叫
西 川 純 子
目 次 はじめに
1.大塚史学と宇野経済学 2.実証研究
3.金融資本の展開と再編 4.金融資本と国家 5.復興金融公社 6.ニューディール研究 7.実証の成果
1.大塚史学と宇野経済学
戦後日本のアメリカ経済史研究には二つの大きな流れがあった。大塚史 学と宇野経済学である。いずれもマルクス経済学の影響を受けており,戦 前からの日本資本主義論争を受けついで,前者は講座派,後者は労農派と も呼ばれていた。
大塚史学は,大塚久雄氏が『近代欧州経済史序説』(1944)によって,
「封建制から資本主義への移行」を前期的資本から産業資本への転換とし てとらえる独特の方法を提示されたのが出発点であった。この方法に魅了 された多くの研究者が先進資本主義国の幾つかに焦点を絞って大塚理論を 適用しようと試みたのが比較経済史的考察である。イギリス,フランス,
ドイツとおのずから対象が別れるなかで,アメリカを担当したのが鈴木圭 介氏であった。鈴木氏が編者となって1972年に公刊された『アメリカ経済 史』は,イギリス重商主義の支配下にあった植民地がイギリスと戦うこと によって独立を勝ち取り,更に南北戦争によって奴隷制のない市民社会を 成就するまでを大塚理論によって描き切っている。ヨーロッパと違って封 建制の存在しなかったアメリカにおいてかくも見事に大塚理論が応用され たことは,ヨーロッパ研究に比してとかく軽視されがちであったアメリカ 研究の評価を大いに高めることになった。「鈴木史学」という名称が生ま れたのもこの頃のことである。
「鈴木史学」の次の課題は19世紀末におけるアメリカ資本主義の変容を 明らかにすることであった。これはアメリカ産業資本が独占段階に転化す る過程を大塚理論と整合的に解き明かすことを意味する。「鈴木史学」は
1988年に『アメリカ経済史II 1860年代─1920年代』を上梓するとろまで
こぎ着けたが,それには16年の歳月が必要であった。この間に進出してき たのが宇野経済学である。
宇野経済学は宇野弘蔵氏が『経済政策論』(1954)で提起された「三段 階論」を起点としている。「三段階論」の新しさは,資本主義の現状分析 を原理論から直接に行うのではなく,両者のあいだに段階論を置くところ にあった。段階論は,資本主義の発展過程を重商主義,自由主義,帝国主 義のこれまた三段階に分けて,それぞれの段階を典型的に代表する国につ いて支配的な資本の蓄積様式を析出する。支配的な資本とは,重商主義段 階では商業資本,自由主義段階では産業資本,帝国主義段階では金融資本 であり,これを析出する対象国として宇野氏が挙げたのは,重商主義段階 と自由主義段階ではイギリス,帝国主義段階ではドイツとアメリカであっ た。
段階論は歴史的段階のことであって,歴史過程そのものではない。しか し,段階的な資本の蓄積様式の違いを確認するためには,歴史過程に踏み 込むことが必要である。これは宇野理論が段階論をとおして歴史的分析の 手法に近づいたことを意味する。1961年に戸原四郎氏が『ドイツ金融資本 の成立過程』を書いて先佃を切ると,翌年には石崎昭彦氏が『アメリカ金 融資本の成立』を上梓した。
石崎氏の研究がアメリカ経済史研究に一石を投じたことは確かである。
「鈴木史学」が乗り越えられないでいた産業資本から金融資本への転化の 壁を石崎氏は段階論という助け舟に乗って,やすやすと越えてみせたので ある。しかも石崎氏が示したアメリカ金融資本の特質は「鈴木史学」の抱 くイメージとはまるで違っていた。石崎氏は宇野氏の示唆を受けて,アメ リカ金融資本の特質を投機性に求めていたのである。
2.実 証 研 究
「鈴木史学」よりも早く,石崎氏のアメリカ金融資本論に異を唱えたの は呉天降氏であった。呉氏が1971年に出版した『アメリカ金融資本成立
史』はタイトルこそ石崎氏の著書によく似通っていたが,中身は違って いた。呉氏は難しい理論は使わない。したがって,彼の批判は段階論の是 非よりは段階論が依拠する資料の評価からはじまった。これは段階論の 生みの親である宇野氏がいかなる根拠をもってアメリカ金融資本の性格を 規定したかという問題にかかわる。宇野氏が『経済政策論』において用い たアメリカ関係の文献は,George EdwardsのThe Evolution of Finance Capitalism (1938)と,Eliot JonesのThe Trust Problems in the United States (1922)の2点であった。勿論,一次資料は皆無であるが,これは当時の 研究環境からして致し方のないことだったであろう。問題は,宇野氏がエ ドワーズとジョーンズを選んだ理由を説明しないままに,二人の主張に基 づいてアメリカ金融資本を投資銀行主導型の著しく投機的な性格を有する ものとして規定したところにあった。石崎氏はこの規定を金科玉条のごと く,アメリカ金融資本がいかに投機的なものであるかを証明することに力 を注いだのである。
呉氏の反論はまずエドワーズとジョーンズに向けられる。エドワーズは 投資銀行のみを見ていた故に,投資銀行の背後には国法銀行や生命保険会 社など異業種の金融機関があって,全体として金融集団というべきものが 構成されていたことに気づかなかったし,ジョーンズは,産業部門間の有 機的な結合関係を見落としたために,トラストを個々の産業と投資銀行の 結合関係としてとらえることになったというのである。その上で呉氏は,
アメリカ金融資本の成立を産業の集中と金融の集中の結合とみなす独自の 立場を明らかにした。いわば,レーニン直伝の直球で段階論の変化球に挑 んだというところだろうか。
段階論は歴史ではないのだから,呉氏の金融資本論と石崎氏のそれは最 初から噛み合っていなかったとも言える。しかし,呉氏の登場によって段 階論の一角が崩れたのも確かであった。直球が変化球にまさったのは,そ
れが実証研究によって支えられていたからである。今では当たり前のこと だが,当時の日本では外国史を志す者が原資料を手に入れることは決して 容易な仕事ではなかった。呉氏はそれを一度も外国に行かずに国内でやっ てのけたのである。
筆者が呉氏と御茶ノ水の喫茶店で初めて会ったのは1970年のことであっ た。紹介してくださったのは横山正彦先生である。『アメリカ金融資本成 立史』の原稿を出版社に渡したばかりだという呉氏は颯爽と現れて,「西 川さんの論文には図表が何枚ありますか?」と言われた。実証とは自前の 図表を作ることなりと覚えたのは,この時のことである。
『アメリカ金融資本成立史』が出版されると,呉氏の周りに若い人たち が集まってきた。1960年代末から日本中に広がった大学紛争がようやく終 り,手探りの改革がはじまろうとしていた。東京大学大学院では院生の求 めに応じて修士論文の廃止や自主ゼミの制度化が実現することになった。
院生たちが自主ゼミの講師として選択した一人が呉氏だったのである。自 主ゼミはのちに廃止されるが,その後も茅場町の日本証券研究所で呉氏の 主宰する研究会が続いた。変わり種として筆者も出席を許された。時々は 大阪証券研究所の松井和夫氏もやってきた。他大学からの参加者も増えた が,そのなかに斎藤叫がいたのである。彼は中央大学で呉氏のゼミに所属 していた。
3.金融資本の展開と再編
呉氏の研究会は,議論の場というよりは一次資料の情報交換の場であっ た。歴史学では実証は当たり前のことだが,日本の経済史研究では資本主 義論争以来,理論偏重の傾きがあったことは否めない。決着のつかない論 争を引きずるうちに実証はいつか理論を証明するためのものとなってい た。都合の良い真実という言葉があるが,理論に都合の良い実証はすでに
して理論を検証する役割を失っているのである。この意味で,呉氏は経済 史研究を当たり前の姿に戻したとも言える。
研究会で呉氏は彼の知る限りの情報を惜しみなく与えてくれた。その中 には彼自身がまだ使っていない貴重な資料も含まれていたから,それをあ りがたく思うと同時に,筆者などは申し訳ないような気分にもおそわれた ものである。しかし,間もなく,そこには呉氏の我々に対する挑発がある ことが飲み込めてきた。材料を与えるだけ与えておいてあとはお手並み拝 見というのである。この自信が呉氏の寛容の精神の源なのであった。
研究会からは多くの論文が生まれた。それをもとに何冊かの本も生まれ た。1980年に筆者が出版した『アメリカ企業金融の研究』は1920年代の公 益事業を中心に検討することによって,自己金融論が横行する内外の独占 資本論を論破しようとしていた。1986年には松井和夫氏が『現代アメリカ 金融資本研究序説』をまとめて,戦後アメリカの金融資本の展開過程を展 望した。そして1999年には,土井修氏が『米国資本ラテンアメリカ進出
(1897‑1932)』によって,アメリカ金融資本の海外進出を国内の産業との関 連で明らかにした。この研究はさらに対象を広げて石油産油国とカナダに 及び,2000年の『米国石油産業再編成と対外進出』と2008年の『米国資本 のカナダ進出』として結実した。論文では山下正明氏と斎藤隆義氏がナイ 軍需産業調査報告書を使って第一次世界大戦期の軍需産業について力作を 発表した。山下氏は鉄道についても数多くの論文を書いており,集大成が 待たれる。
呉氏も負けてはいなかった。彼が1980年代に書いた2本の論文は,大恐 慌にはじまり1933年のニューディールを経て1941年の太平洋戦争開戦まで を視野に入れて,タームローンや協調融資を通してアメリカ金融資本が新 たな再編成の時代を迎えたことを論じていた。「大恐慌とアメリカ企業金 融(1929‑33年)─アメリカ金融資本の再編成と関連して」(1984)と「アメ
リカ商業銀行の企業金融(1938‑41年)─ニューヨークの大銀行を中心とす る協調融資活動の分析」(1986)がそれである。呉氏は間もなくサバティ カルを得てニューヨークに2年間滞在することになるが,その間に彼の金 融資本再編論にアメリカの研究者が耳を傾けるようになった。彼の研究は 日本という狭い領域を超えて国際的に認められるようになったのである。
その何よりの証拠が,1999年にガーランド社から出版されたGo, Tian- kang著,American Commercial Banks in Corporate Finance 1929‑49 - A Study in Banking Concentrationであった。
4.金融資本と国家
Go, Tian-kangこと呉天降氏が証明しようとしたのは,大恐慌を経て第
二次世界大戦にいたる間に金融資本はタームローン協調融資によって方法 を変えながらも依然としてアメリカ資本主義において君臨し続けたという ことである。しかし,これだけでは大恐慌の克服過程で,また世界戦争が 始まる間際で,金融資本がどのような役割をはたしたかが見えてこない。
この問題に着目して金融資本と国家の関係に研究の的を絞ったのが斎藤氏 である。
斎藤氏が最初に取り上げたのは,ワシントン輸出入銀行であった。彼は 輸出入銀行をテーマに都合4本の論文を書いている。最初の論文は「ワシ ントン輸出入銀行の生成と展開(1934‑41)」(1977)であるが,そのなかで 彼は次のように述べている。「アメリカ資本主義は一次戦後の1920年代に 国内での発展を土台として対外部面に於いても大きな躍進を遂げた。しか し,この発展も1929年恐慌の影響によって頓挫し,1930年代に於いては,
対外投資は例外的なもの以外殆ど停止し,また世界各国との貿易関係もブ ロック化の中で著しく縮小してしまった。こうした停滞の時期に設立され た輸銀は,その活動規模がさほど大きくなかったにも拘らず,ラテンアメ
リカ,中国などの領域に於けるアメリカの地位を維持・発展させるうえで 極めて重要な役割をはたしたのであった。そしてこの時期の輸銀の貸付活 動は,内容的に二次戦を準備し,また形態的には戦後の大規模な所謂『国 家資本輸出』を先取りしていたのである。したがって輸銀の成立事情とそ の活動とを具体的に検討することは,この時期に於けるアメリカ資本主義 の対外的側面──それは結局二次戦に帰着する──を明らかにするうえ で,更に現代の所謂『国家資本輸出』の問題を解明していくうえで,大き な意義があると思われる。」そのうえで,彼は資料の制約からこの論文で 留保せざるをえない3つの重要な問題点を挙げている。第1は,戦時体制 における輸銀の役割,第2は,輸銀の貸付活動と国内の金融資本との全体 的な関連,第3は,輸銀と「私的資本との絡み合い」の解明である。
残念ながら,留保された重要な問題が解明されるまえに,斎藤氏の輸銀 研究は終わってしまったようである。1981年の論文は「両大戦間期におけ るラテンアメリカの貿易構造─貿易統計の整理を中心に─」であった。こ こで彼はアメリカ商務省のForeign Commerce Yearbookを参照しながら,
ラテンアメリカの国家グループを鉱産国,熱帯農産国,非熱帯農産国の3 つに分け,更にそれぞれを代表するチリ,ヴェネズエラ,ブラジル,キュ ーバ,アルゼンチンについて,1920年代と1930年代の貿易構造の特色を明 らかにした。統計の処理といい,整理の仕方といい,この論文は文句のつ けようのない出来栄えであった。しかし,これを受けて資本の輸出入を扱 うはずの第3論文「1920年におけるラテンアメリカ地域の貿易構造・資本 輸入・国際収支」(1989)が,調子を乱してしまった。ちょうどその頃「新 従属理論」が注目されるようになり,ラテンアメリカ諸国が「輸入代替工 業化」の概念で括られることが多くなったことの影響もあったであろう。
この論文には世界貿易の多角的体系の分析という新たな課題が加わって,
諸説に耳を傾けた結果,斎藤氏の当初の課題であった輸出入銀行による国
家資本輸出の問題は遠のいてしまったようである。しかし,すべてのラテ ンアメリカ研究が無駄になったわけではないことを付け加えておこう。彼 は1995年になって,「第二次大戦期における『西半球ブロック』の生成と 展開」という論文を書いているが,このなかで14年前に書いた貿易構造の 分析を巧みに生かしている。
5.復興金融公社
斎藤氏が輸出入銀行の後に取り組んだのは復興金融公社であった。輸出 入銀行も復興金融公社も国家の金融機関として基本的な性格は同じだが融 資の対象が違う。ラテンアメリカの研究をひとまず封印した彼が次に向か ったのは,国内の金融資本と対峙する政府金融機関としての復興金融公社 だったのである。
1988年に『証券研究』に掲載された論文は「復興金融公社の銀行救済融 資活動1932〜1934年─恐慌期における大銀行と国家」と題されていた。彼 はこの論文の狙いを次のように述べている。「本稿は,研究対象を初期に おける復興金融公社の融資活動の最重要目的であり最大の比重を占める銀 行救済融資活動にとりあえず限定し,幾つかの代表的地域における代表的 事例を個別に検討することを中心的な課題としながら,それらの地域の銀 行がなぜ復興金融公社による救済を必要とするに至ったのか,復興金融公 社はどのようにその要請にこたえようとしたのか,『転轍手』であった復 興金融公社にどのような質的転換が発生しその要因はどのようなものであ ったのか等,を考察したものである。こうした個別問題を検討しながら,
本稿は,副題を『恐慌期における大銀行と国家』としたように,『ニュー ディール期』の合衆国経済の実態を国家と大企業・大銀行との関係を基軸 としながら検討する作業の一端に位置付けられている」。
注目すべきは,ここで斎藤氏が「ニューディール」という言葉をはじめ
て使っていることである。国家と金融資本の関わりを復興金融公社を通し て明らかにしようとする斎藤氏の方法は,こうして「ニューディール」研 究に結びつくことになる。
日本では1970年に,小野英祐氏が『両大戦間期におけるアメリカの短期 金融機関』を発表して,ニューディール期における政府関係金融機関とし ての復興金融公社を取り上げている。これはソヴィエト社会主義国家の成 立と第一次世界大戦終了をもって段階論を締めくくった宇野経済学が,い よいよ現状分析にとりかかったことの兆しであった。1979年には東京大学 社会科学研究所編『ナチス経済とニューディール』が,まだ試論の段階で はあったが,国家独占資本主義の現実形態としてナチスとニューディール の比較研究を行った。共同研究の成果であろうか,戸原四郎氏や加藤栄一 氏など,ドイツを専門領域としてきた研究者もニューディールについて論 文を書くようになった。
歴史畑では,新川健三郎氏が早くから復興金融公社に言及していた。氏 が1973年に出版された『ニューディール』は今でも抜きん出た名著だが,
ここでは復興金融公社が産業復興のための金融から軍需産業のための金融 に役割を変えることによって,ニューディールが安全保障国家体制に移行 する道を整えたことが指摘されている。
さてこのような研究状況の中で斎藤氏の復興金融公社研究は,どのよう な進展をみたのだろうか。幸い,彼の上述論文には結語として5つのまと めが書き出してあるので,それをまず見てみよう。結語にしては具体的に すぎてまとまりが悪いきらいがあるが,これが斎藤氏の本当に言いたかっ たことなのだろうと推察して,以下に全文を掲げることにする。
「第1 復興金融公社設立を領導した勢力はニューヨークの大銀行家層 であった。彼らは,①銀行恐慌が合衆国経済の中心的部分である中西部 工業地帯にまで波及し,②一応の堅調を維持してきた社債市場とくに鉄
道債市場が崩壊し,さらに③世界恐慌の影響がニューヨーク海外預金流 出という形で顕在化した1931年秋期に,『自発的協同団体主義』という20 年代的な組織化理念から政府の直接介入を渋るフーヴァー大統領を説得し て,戦時金融公社の平時再版型である復興金融公社を設立させ,政府金融 機関という新しい形の国家装置を獲得した。」「第2 初期(フーヴァー期)
における復興金融公社の基本目的は『合衆国金融機構の防衛』にあった が,実際には,中西部工業都市などの戦略的位置にありながら破産の危機 に瀕していた地方的大銀行に融資を集中することによって,合衆国金融機 構の中枢であるニューヨーク大銀行に対する銀行恐慌の波及を阻止すると ころにあった。またニューヨーク大銀行は,復興金融公社の設立以前に行 っていた救済融資の一部を回収することにも成功していた。復興金融公社 のこうした側面は,クリーヴランドにおける融資などの例をみても明らか であるが,とくに本稿では検討の対象外とした鉄道融資の場合には一層顕 著であった。」「第3 初期(フーヴァー期)において復興金融公社の運営 を指導した勢力は,その設立を領導したニューヨーク大銀行の利害代表者
=マイヤー会長や職務上の理事であったO.ミルズ財務長官などのニュー ヨークのエスタブリッシュメント層であった。マイヤーらは,概して鉄道 や大金融機関の救済が復興金融公社の本来的任務であると考えており,ま た融資政策についても保守的で復興金融公社の融資基準や機能拡張につい ては慎重な姿勢を崩さなかった。しかし,こうした民間銀行の伝統的な経 営方式を模した運営の下では政府金融機関の持っている本来の機能を充分 に活用することはできず,結局,各地域での大規模な銀行破産を回避でき なかった。そして,彼らとその同調者たちは『全国銀行休日』を回避でき なかった責任からルーズベルト政権下では再任されなかった。」「第4
『銀行休日』後,復興金融公社の運営は,それ以前には主流派から排除さ れていたジョーンズら民主党勢力が主導権を獲得することとなった。テキ
サスの銀行家であったジョーンズは,『南西部新興財界人の拡張欲を代表 し,既得資産の保全よりは新規事業に関心をもつ実業家たちを代弁してい た(W.H. Luchtenburg, Franklin Roosevelt and the New Deal)』。ジョーンズらは,
復興金融公社を旧来の民間銀行の経営方式から解放して全く独自の機関に 編成し直し,とくに銀行救済については,トレイラーやオルドリッチなど の開明的な銀行家がかねてから主張していた『優先購入政策』を採用し,
合衆国金融機構の再編成を上から指導した。」「第5 復興金融公社によっ て指導された合衆国金融機構の再編成は次の三つの側面を持つものであっ た。第1は,連邦預金保険公社などから要請される一定の基準に基づいて 経営基盤の脆弱な銀行のスクラップ化を促進し,国民経済レベルでの整 理・再編成が進行した側面である。合衆国の銀行数は25,000行(1920年代 末)から15,000行(1933年末)まで減少し,限界的な銀行はこの過程で合 併・閉鎖されたが,重要な点はこうした整理過程が従来とは異なり国家資 金の負担によって行われたところにある。これによって民間銀行の負担は 大幅に緩和されていた(『損失の社会化』)。第2は,こうした過程が同時に 合衆国金融機構の中央集権化を一層おし進めるものであったという側面で ある。とくにシカゴやクリーブランド,デトロイトなど中西部工業都市に おける復興金融公社の再編融資と経営介入は,すくなくとも結果的には,
1920年代から30年代初頭にかけてニューヨークの金融覇権に反旗を翻した 勢力の一掃を促進したものであった。したがって,これ以降,合衆国の主 要な地方金融市場は基本的にニューヨーク大銀行の管制下に入ることとな った。また国民経済レベルでも,復興金融公社と連邦預金保険公社によっ て,地方加盟銀行や非加盟銀行までも包括した全国的な監督体制が成立し たが,これは連邦準備銀行が20年間かかって達成できなかった合衆国金融 機構の重大課題であった。第3の側面は個別銀行の資本再編成である。合 衆国の銀行の資本構造は1920年代の好況を反映した過大なものとなってお
り,とくに20年代に様々な『革新的』経営を行って急成長した大銀行にこ うした傾向が強かった。したがって,これらの銀行にとって資本構造の適 性化は不況下で銀行経営を行うための不可欠の課題であったのである。復 興金融公社の優先株購入政策は,これらの銀行に資本再編成の絶好の機会 を与えたのであった。」
復興金融公社を金融資本に好都合な金融機構改変の促進要因と見立てた 洞察は深く鋭いと言わねばならない。論文としてはまだ荒削りだが,ここ で示された独創的な見解は,輸出入銀行の研究以来,斉藤氏が国家と金融 資本の関係を執拗に追い続けて来たことの成果ではないかと思われる。
6.ニューディール研究
2年後の1990年,斎藤氏は2年間の研究休暇を得てアメリカに滞在する ことになった。アメリカのニューディール研究が第3の転換期に入った頃 のことである。アーサー・シュレジンガーやウイリアム・ルクテンバーグ などニューディールを積極的に評価する革新主義史観を批判したのはいわ ゆるニューレフト史学だったが,今度はニューレフトを標的に,戦後体制 を「ニューディール体制」の継続とみなす「コーポリット・リベラリズ ム」に批判が集まるようになった。ニューディール研究の第3世代が登場 したのである。その背景には1980年,新自由主義を提げるレーガン政権の 登場があった。「ニューディール体制」がレーガンによって壊滅させられ たとして,その原因は「ニューディール」そのものにもあるのではないか というのが彼らの問いかけであった。たとえばシーダー・スコチポルやロ バート・ルカッチマンなどは,「ニューデイール体制」崩壊の原因を,ニ ューディールにおける「リベラル・ケインズ主義」と「コマーシャル・ケ インズ主義」の対立に求めている。
アメリカでの斎藤氏はコロンビア大学に籍を置いていたが,夫人の話に
よれば,2年の間,大学の授業には一切出ず,教授の誰とも会わず,ひた すら図書館と文書館通いに明け暮れていたそうである。これを聞いて筆者 は島崎美代子先輩がよく聞かせてくれた山田盛太郎先生の言葉を思い起こ した。先生は「行き詰った時には現場へ行きなさい」と言われたそうであ る。島崎先輩は師の教えを守ってせっせとモンゴルへ通っていたが,現場 のないものにとっては資料の在りかがそれに当たるであろう。斎藤氏がア メリカに身を置きながら,アメリカで進行中の新しい研究動向には一切耳 を貸さず,資料とのみ向き合っていたのは,彼自身の方向性を見出すため の孤独な戦いであったに違いない。
帰国して斎藤氏は矢継ぎ早に3本の論文を書いている。最初は,「第二 次大戦前夜における合衆国の産業動員金融に関する一考察─『国家資金主 導型』構想と『民間資金主導型』構想の対抗関係を中心に」(1993年1 月) である。表題から明らかな通り,この論文は復興金融公社の動きを追 求する過程で斎藤氏の研究領域がニューディールから第二次世界大戦期ま でに広がったことを示していた。第2は,「「第二次大戦期合衆国における 復興金融公社の産業動員活動」(1993年12月)と題する研究ノートである。
ここでは1945年に成立したジョージ法に基づき,合衆国会計検査院が下院 議長あてに提出した復興金融公社監査報告書全10巻が克明に整理・分析さ れていた。そしてこの研究ノートをもとにまとめたのが,第3の論文「第 二次大戦期合衆国における国防施設公社の産業動員活動⑴─合衆国戦争 経済と公的金融機関」(1994年12月)である。この論文には続編が予定され ており,そこでは航空機部門,金属部門,化学部門,輸送部門の4部門に おいて復興金融公社の子会社である国防施設公社がどのような投融資を行 ったかが明らかにされたうえで,一連の研究の総括が行われるはずであっ た。しかし,これを実現するには思わぬ時間が必要だったのであろう。そ の間に,恐ろしい病魔が斎藤氏に忍び寄っていた。
7.実証の成果
2度の手術を経て斎藤氏が奇跡の回復を成しとげたのは2002年のことで あるが,早くも2005年には,政治経済学・経済史学会で共通論題の報告者 となって回復ぶりをアピールしている。共通論題のテーマは「20世紀の戦 争と社会変動─経済社会秩序と国家介入」であり,斎藤氏の報告は「ウォ ーレス=ジョーンズ論争1942‑45─米国における戦後国家構想をめぐる閣 内対抗」と題されていた。幸いにも,この報告は論文の形で『歴史と経 済』191号(2006年4月)に掲載されることになった。
斎藤氏はこの論文で,長年にわたる復興金融公社の実証研究から彼独自 のニューディール論が見えてきたことを証明してみせたかったのではない かと思う。彼はローズヴェルト政権の第3期において副大統領であり戦時 経済局(BEW)の議長でもあったヘンリー・ウォーレスと,商務長官と連 邦融資庁長官を兼務して復興金融公社の采配を一手に握っていたジェシ ー・ジョーンズの間で交わされた有名な論争に注目するが,それはこの論 争が単なる権力闘争ではなく,ニューディールを二分する対立と抗争を露 呈していたからである。しかも論争の中身を見れば,その中心を占めてい たのは戦時金融における国家金融機関としての復興金融公社のあり方の問 題であった。ウォーレスは復興金融公社が完全雇用の実現を目指すべきこ とを強調し,ジョーンズは復興金融公社がビジネスの利益を侵すようなこ とがあってはならないと主張した。ウォーレスを背後で支えたのは全国資 源計画局に集まるリベラル改革派であり,ジョーンズを支えたのはビッグ ビジネスの代表者と大学の専門家集団から成る経済発展委員会であった。
二つのグループの対立は戦後の国家構想をめぐって更に高まるが,結果 として勝利したのは,リベラル派の福祉国家構想を骨抜きにして1946年雇 用法を勝ち取ったビジネスのグループであった。
注目されるのは,斎藤氏がニューディール挫折の原因をニューディール 内部の対立に求めていることである。この点で彼は戦後に「ニューディー ル体制」の延長をみるコーポリット・リベラリズムと異なり,むしろ第3 の世代のニューディール理解に近い。しかし,彼はニューヨーク滞在の折 には新しい研究に見向きもしなかったではないか,このような疑問がある とすれば,それには筆者が答えよう。彼がこのような結論に達したのは,
流行りの理論を借りて波に乗るよりは,まずは実証に徹しようという基本 の精神を貫いたためであったと。
報告論文の字数制限は厳しかったから,この論文だけで斎藤氏の議論を 尽くすことは無理であった。彼もそのことは承知していて別稿を準備して いたと聞く。しかし,これが実現されることは永久になかった。2014年に 彼は再び病魔に襲われ,今度はついに回復することがなかったのである。
アメリカ経済史研究は実証においては世界の水準に達するようになっ た。一次資料を駆使して論文を書くのは当たり前のことになってきたので ある。しかし,それは同時に問題意識の希薄さを招くことにもなってい る。資料があれば歴史が書けるのではなく,問題意識があるからこそ資料 が必要とされるのである。問題意識が過剰であったマルクス主義経済学の 反動かも知れないが,やたらに細分化され,全体像を見失った歴史叙述を 見るたびに,日本人がアメリカの歴史を分析することの積極的な意義とは なんだろうと首を傾げたくなる今日この頃,斉藤氏のような歴史家の存在 は実に貴重であったと改めて思わざるを得ないのである。