構 成 主 義 的 な 視 点 の 基 礎 論 的 考 察
一― E.v.Glasersfeldに よる根元的構成主義 の概念を中心 に して一一
Prolegomena to the Perspective of Constructivism Concept of The Radical Constructivism by E.v.Glasersfeld
高 橋 洸 治
Kohii TAKAHASHI(平 成 7年 10月 2日 受理
)1.新 学力観追究 にお ける陶冶観的な院路
教育実践 は、実践者 が有す る人間の本性、能力 についての、そ して世界、他者お よび 自己 自 身 との関係 につ いての見解 によって、その特有 の可能性 と限界 が規定 され る ものであ る。 そ し てその見解 の特徴 は く知識 についての把握〉 において集約的かつ具象的に表示 されているよ う に思 われ る。その意味 で、教育、殊 に授業実践 の核心概念 は知識 であ ると言 え よ う。「 知識」
概念 は、それに応 じた授業の形式 と過程を産み出す とともに、これ らを正当化す る根拠 ともな りうるのである。授業展開の差違 は、その根底において、知識概念の差違に起因 しているがゆ えに、知識概念の確認 は授業実践の必要不可欠な前提条件 となるのである。
そのような「知識」概念の強調 は決 して知識そのものを偏重す る知識主義を指向するもので はない。教育や学習での知識の位置づけは、知識の概念規定の内実によって定められるか らで ある。ということは、知識の位置づけにおいて何 らかの変更がなされる場合には、その理 由 と して少な くとも知識理解での変容が提示 されな くてはならないのである。そ うでなければ、位 置づけの変更 は、教育での強調点の移動を単 に感情的に訴えかけるだけで、教育の実質的な改 善を もた らす ことにはな らないであろう。現在の関心事である「観点別学習状況」評価項 目の 配列順序での「知識・ 理解」の位置づけ変更 はいったいどのような「知識」概念の変更 に基づ いているのであろうか。そのことが明確にされない限 り、すべてが曖昧なままに流動 し、 さら なる改善への確かな手がか りを得 ることもできないであろう。
現行の指導要録での特に「 関心・ 意欲・ 態度」と「知識 0理 解」の位置づけ変更 は、 く 新 し
い学力観〉 に基づ くものだと云われている。大阪大学の水越敏行氏によれば、戦後 日本 の教育
において、学力観 は 〈 構造的 0層 的な学力観〉か ら く 機能的な学力観〉へ と展開されてきてい
る。機能的学力観 とは、「学習の仕方を学ぶ」に代表されるもので、指導要録の科学的
0数学
的 。社会的な思考 と判断に結 びつ くものである。この機能的な学力観の提案おいては、知識習
得 と概念理解および興味・ 意欲・ 関心 とが未だ十分に思考 0判 断 と連続性を もって統合 されて
はいなか ったのである。そこで水越氏は 〈ある程度連続な〉 4つ の要素か らなる新 しい機能的
な学力観を提案するのである。その要素 とは、①問題開発能力、②問題解決能力、③ コ ミュニ ケーション能力、そして④ 自己評価力である」
1)その改訂 された機能的な学力観が直ちに く 新 しい学力観〉 と見なされているのではない。水 越氏 は、機能的な学力を く 働 きの力〉、そ して学習内容の系統性や構造を全面に出す構造的・
層的な学力を く 実体の力〉 として解 し、それ ら二つの学力観の統合を目指 している。とい うの は、 く 静的で層的な学力観〉 と く 動的で機能的な学力観〉を く 一人の学習者〉において統合す ることが く現代の学力問題のかぎ〉である、と彼 は捉えているか らである。学習者の外側 にあ る客観的な知識の体系 は、学習者の発達や認識の論理を踏まえてその内部に取 り込 まれ、認知 構造を組み替える力になった時に、学力 として結実するのである。要す るに、学習者 の く 外か らと内か らの往復による成長〉を保障することによって二つの学力観 は統合 される、とい うの が彼の見解である。
したがって、典型的かつ模範的な例 として注 目した水越氏の指摘する 〈 新 しい学力観〉 とは、
構造的 。層的な学力観、すなわち従来の用語 での「知識主義」 と、機能的な学力観すなわち
「態度主義」とが統合 された学力観 ということになろう。この統合的な学力観 は、実質陶冶観 と形式陶冶観 とを並立 させた妥協的なものと言える。それゆえ、この学力観か ら見 ると、「 知 識 0理 解」などの位置づけ変更 は、単に形式陶冶観へ と重点を移動 させただけの ものと受 け止 めざるをえないであろう。それは、伝統的な二つの陶冶観に依拠 しているために、それな りの 妥当性が感 じとられ、穏当なものとして一定の評価が得 られるであろう。けれども、それに包 括 されている二つの学力観ないし陶冶観を共存 させるだけでは真の統合ではな く、両者を統合 させる新たな理由、理論を提示 しなければ、以前の学力論争の域を越え出ることはない。その 点をおさえなければ、位置づけ変更に関 して間われている事柄について根本的には何 も応 えて はいな く、変革へ向けて検討すべき手がか りさえ も与えることにはならないのである。要す る に、新 しい学力観の模索において、結局のところいわば伝統的に確認 されている両極的 な見解 を温存 させた無難な包括的な学力観の確認で満足す るのである。それが、新学力観追究 にお け る典型的な陰路である。その袋小路か ら抜け出るためには、水越氏 自身 も指摘 はしているよ う に、近年の学習理論のパ ラダイム転換や認知理論などの新たな成果を生かす努力が必要であろ う。つまり、教育観の標識 となる「知識」概念の レベルでの検討が、すなわち「知 る」 とい う ことについての認識論的な考察が求め られているのである。
2.伝 統的な「知識」概念の検討 ――構成主義的な観点から
いわゆる現代化運動を通 して、教育の内容 と方法の科学化が推進 され、教育学的な教授学理 論 は心理学的な学習理論の背後に後退 させ られていった。それまでの教育 =教 授 十学習 とい う 定式 は、学習優位の形態へ と変形 されることになる。そのことは学習者を尊重す るとい う点 で は評価すべ きことである。 しか し、それによって子 どもたちは十分な学力を、現代世界 の科学 的な見方や社会的な理解力、そ して真の問題解決力を獲得することができたであろうか。
それに対 して否定的な回答をす る研究者によって次のような指摘がなされている。現在 の教
育成果における問題点の主要な起因は ぐさを欠いた〉行動主義にある、と。これは、実行 のた
めの訓練 (training)と 、理解を産み出す知的教育 (教 授)(teaching)と の区別を排除 し、人間
のあ らゆる学習活動を く効果の法則〉に基づ くモデルに還元 して しまったのである。欲求充足
を もた らす行動 は反復 されるとす るその法則は、 く 強化される〉反応 は繰 り返 されるとい う公 式 に変形 され、これが学習理論に転用されることになったのである。その結果、生徒 の行動的 な遂行 に注意が向けられ、主体的な行為を選択す る心的構造への考察を遅滞 させることにな っ たのである、と。
(2)要す るに、学習 は単なる刺激 ―反応的な現象ではないということを確認 しなくてはならない。
学習 というのは、自己調整力 と概念的な構造を必要 とす るものである。知的行動における問題 解決をな しうる実践力 は、実行行動め訓練で達成 されるものではな く、生徒 に概念的な理解 と その レパ ー トリーを築 きあげることを前提 としているのである。言 うまでもなく、概念 は教師 か ら生徒に伝え られるのではなく、生徒 自身の一定の条件を備えた心的な営みによって把握 さ れな くてはな らないものである。それゆえ、概念的知識が構成 される仕方 についての解明 と、
その発達的な獲得過程についての考察が、教育にとって基礎的な課題 となるのである。
知識についての多種多様な諸見解 は、歴史的にに見て、大 きく二つの系譜に区分 される。K.
J.Gergen(SwarthmOre College)の
有効な表現 によれば、外因的(exOgenetic)(世 界中心的 )
な系譜 と、内因的(endOgenetic)(心 0精 神中心的 )な 系譜 とに分 け られ る。両者 の特徴 と問 題点 について、彼の論述に依拠 して要点的におさえておこう。
(3)外因指向の系譜 :こ れは、外的世界の存在 (物 質的実在
)と、心理学的 (認 知的、 シンボル 的、現象学的 )世 界の存在 との二元論を取 り、前者を主軸 としている。知識 は、個人 の内面状 態が、外的世界の状態を正確に表現 (表 象 )し ている場合に、獲得 された とされ る。つ ま り、
前 もって与え られた形で存在する世界が、 く自然の鏡〉(RoRortyの 用語 )と しての心 に投影・
反映 された ものが知識である。知識の獲得において観察が重視 されるが、この観察 は中立的 な もの、すなわち 〈 平静な心で空中をただよう注意〉(Freudの 用語 )の ような ものであ り、情動 や動機づけはそれを乱す障害 とみなされている。外的世界、自然の「 内的地図」としての知識 を もつ ことが、個人の環境への適応能力を もたらす ことになる。その意味で、ここでは、知識 が重要視 されているのである。
内因指向の系譜 :外 因指向 と同様に、心 と世界 とがそれぞれ独立 している三元論を取 る。知 識を心的状態 と見なす点では共通 しているが、外因指向が表象を強調 しているのに対 して、内 因指向では推理作用(reasoning)を 強調 している。それゆえ、前者 は環境か らのイ ンプ ッ トの 整理 に注 目す るが、後者 は、自明的な心的世界での本質的な潜在力である理性・ 論理・ 概念的 処理の能力およびそれ らの自然適応的な機能の仕方を追究 している。この系譜 は生得主義 の性 格を もつ。 したがって、生得的な言語(Chomsky)、 道徳的善 (Moore)、 因果性 と数 (Kant)そ
して世界のアフォーダンスなどの知識 (環 境が行為者に提供す る行為可能性 に関す る予見 的情 報 )(Gibson)を 個人に帰属 させる見解 はこの系譜 に含まれている。
知識についての二つの系譜 は、それぞれ教育実践の一定の形式を基礎づけてきた。外因指向 は、生徒のタブラ 0ラ サ的な心 に世界の本質的な特性を刻印す ることを課題 としたのである。
具体的には、直接的な観察、経験、見本の収集、さらに実験室実験、野外調査などを重視 させ て きた。そ して、生徒の知識獲得の レベルを評価す るテス トの標準化等を推進させたのである。
他方の内因指向は、心の中の情報量ではな く、情報について考える合理的 0理 性的な能力 を 強調 してきた。思考力を鋭敏 にす る数学、哲学および外国語、さらに討論や認識 スキルを重視
し、質的な評価を追究 させてきたのである。
これ ら二つの伝統的な系譜 による「知識」概念の発展的な形成が、歴史的に、教育 の合理性
への変容を推進 して きたと言えよ う。けれども、知識の本質 についての認識論的な規定 で広範 かつ決定的 な合意を得 られ るもの はどち らの系譜か らも提示 され ることはな く、両者間の論争 は延 々 と継続 されて きたのである。ところが、最近 にな って、 この論争 に終止符 とは言 い切 れ ないが、一定 の休止符 を打つよ うな状況 が生 じて いる。それ は、外因的および内因的 な見解 に 対 して相 当に強力 な批判 が突 きつ け られることにな った、とい うことである。
その新 たな状況 につ いて、 この概観が依拠 して いるKoJ.Gergenは 次 のよ うに述 べ て い る」
4)今世紀 に入 り論理学的経験論 の形 で隆盛 を して きた外因的系譜 は、事実 を価値 か ら分離 させ 、 価値 を主観 的未熟 さの領域 に留 まるもの として排斥す ることを試 みて きた。 しか し、
607代に、
その く道徳的な空虚 さ〉 を厳 しく批判 され、その後急速 に後退 して きたのである。価値 を主 観 的で不完全 な もの と して一定 の領域 に閉 じ込 め ることは、客観性 (外 因的系譜 の要求 )と 合理 性 (内 因的系譜 の要求
)とを規準 に して、民族的 な伝統文化や現実的な生活体験 か ら発 せ られ
る思想 、考 え方および見方を抑圧す ることにつなが るものであ る。
科学 的な客観性 と合理性 を、無条件 に、普遍的に妥当す る規準 と見 なす ことは、最近 の多様 な研究 によ って克服 されよ うとしているのである。例えば、科学史 (Kuhn)、 知識社会学(Latour, Barnes)の 研究 は、知識 の実効的な性格 を決定 しているの は、 く 歴史的お よび社 会 的 な脈絡 〉 であることを裏付 けている。そ して、言説理論 (Derrida)、 意味論(Barthes)や 修辞法(SimOns) な
.どの研究 は、知識がその効力を獲得す るのは、観察や合理性 か らで はな く、言説 の技法 (テ クニ ック )か らである、 と指摘 している。 こうした指摘 によれ ば、 テ クス トを著者 の心 の所産 とす る伝統 的な見解 に疑間を突 きつ け、「語」の意味 は著者 の精神 的行為 によ って で はな く、
それを他 の「 語」 と関係づける仕方 によって決定 されるとい うことになるのである。それ にお いて示唆 されて いるのは、概念的な一貫性で はな く、価値 の一貫性す なわち社会 一文化 的 な善 悪 の一貫性 の優位性 である。 これ は、知識 の伝統的 な視点 の変容 を迫 るもの と言 えよ う。
先 に触 れたよ うに知識 の外因指向 と内因指向の見解 は二元論 の仮定 を共有 して いるが、そ の 仮定 に対 して疑間が投 げか け られている。内因指向の見解 に対 して言 えば、われわれの主観 か ら独立 して存在 して いる客観的世界 に主観 は本来的 に直面 で きないのに、主観 がその客観 的世 界 と一致す るか どうかを どのよ うに して確認す ることがで きるのであろ うか。主観的 な経験世 界 に生 きて いるわれわれ は、その世界 の外側 に もう一つ別 の世界があると仮定す る根拠 は何か。
その客観的世界 はいかに して把握 され るのか。 この最後 の問いに関 して、 この系譜 はカ ン トの アプ リオ リな概念的 カテ ゴ リーで対応 して きた。 これにつ いて は後 で考察す るので、 ここで は 次 の指摘 に とどめる。す なわち、アプ リオ リなカテゴ リー ̲は 人間の理解 を根元的に制約 す る も のであ るために、無条件で支持す ることはで きない ものである。
外因指向の見解 に関 して言 えば、客観的な物質的世界の本質 を前提 にす る場合、主観 的 な心 の領域 の存在を どのよ うに確認す るのであろうか。行動主義的心理学 のよ うに、心 につ いて 口 を開ざす ことで人間の問題 は片づ け られるのであろ うか。また、心 の自紙説 の場合 には、 それ を埋 め るためにの説 明が必要 であ るが、この系譜独 自の有効 な説明 はなされていない。
以上 、知識 の二つの系譜 に対す る批判的な見解を見て きたが、それ は構成主義 (Constructi宙
sm)の 観点 に立 つ ものである。その ことか ら推察 され るよ うに、構成主義 は知識 の二 つ の見解
とは異 な る第二 の「知識」概念および「 知 る」 ことの認識論的な規定を提供す ることがで きる
もの と して現在注 目されているのである。構成主義 の観点 は、後 で見 るよ うに、伝統 的 な主 流
哲学 と起源 と発展 を平行 させていること、そ して現代では ピア ジェの認識論 と強 く結 びつ いて
いるので、特に目新 しいものではないとも言えるであろう。けれども、従来の知識論 を支えて きた主流の認識論 との「差違」を尊重 し、それか ら帰結することに注目する時、知識論 におけ る変容の具体的な方向を見定めることができるであろう。
構成主義 は、西欧哲学の伝統における知識理論の問題点を解決 しようとす る幾つかの試 みが 集積 されてその形態を明確に してきたものである。 ピアジェも、従来の知識概念への不満か ら その認識論的な研究を始めたと云われている。伝統的に正当性を与え られてきた見解に従えば、
く 知識 とは、知 る者か ら分離 され独立 していると見なされる実在の世界 の投影・ 反映であ り、
その投影 0反 映が正確である場合 に知識 は真 とされる。〉 というものである。それに対 して、
く 知 ることは適応的な活動であり、知識 は目的が もたれている場合に成功 と認め られた概念 と 行動についての一種の要約である。 〉 という基本的な考えを提示す るのが、構成主義 であ る。
この構成主義 は くポス ト認識論的〉なものであるとの指摘がされている。構成主義の代表的な 主唱者であるErnst von Glasersfeld(グ ラッサーズフェル ド )(マ サチ ュセ ッツ大学科学的推 理研究所、ジョウジァ大学行動調査研究所 )は それを歓迎 し述べている。「 ポス ト認識論的 と いう形容 は、脱近代主義者の流行に合致 しているのみならず、知 ることの構成主義者的理論 は 哲学 における認識論的伝統を打破するという肝心 の事実を伝え ることを助 けるものであ る。」
と。
グラッサーズフェル ドはその著書『 ラディカルな構成主義』 (1995)で 、 ピアジェの認識 的発 達の理論の助 けを借 りて、その基本的な原則を次のように定式化 している」
5)I・ 知識 は、諸感覚を通 してであれ、コミュニケーションの仕方であれ、受動的に受 け取 られるものではない。
0知 識 は、認識す る主観によって活動的に築 き上げられるものである。
Ⅱ O認 識の機能 は、適応的なものであり、用語の生物学的な意味において、適合 (fit)な い し発展性 0実 行可能性 (viability)に 資す るものである。
0認 識 は、主観が経験的世界を組織化す るのを助けるものであり、客観的な存在論的実 在の発見に仕えるものではない。
知識 と認識についてのこれ らの原則 は、現在の思考状況においては、特に異質ではな く、妥 当なものとして受容 されるであろう。尚、そこでの「認識」は通常「認知」と表記 されている
ものであるが、「認知」は心理学的な用語であるのでその使用を避けている。それは、ピアジェ が心理学ではな く認識論 に注 目していることを示唆するものである。インヘルダーの、「 ピア ジェにとって、心理学 は認識論における彼の研究の、特に知識の構成主義者的理論の副産物 に す ぎないか もしれない。」という指摘にそったものである。
(6)その原則の内 2の
2項は受容 されるのが最 も困難であることが予想 される。客観的な存在論 的実在および真理への伝統的な執着 は強力だか らである。その問題を克服す ることが、構成主 義の成立の基本的な課題なのである 6次 節では、構成主義的な見解の歴史的な由来 と、上 の基 本原則の基礎づけについて見 ることにす る。
3.構 成主義的な端緒の史的概観
構成主義 の見解 は、特別新 しい考 えに基づ くものではな く、 これまでの主流的 な思想 とは差 異 を もつが重要 だ と評価 され る幾つかの考 えを一体化 させ るその仕方が新 しいのである。その 仕方の基本的な特徴 は、形而上学的な観点を排除す るとい う点 にある。そ こで、次 に、構成 主 義 を支 え る要因 とな る考 え方 の主 な ものを確認 してお こう。なお本稿 は、 グラッサーズ フェル ドの先 に示 した著書 に依拠 しているが、筆者 の観点か ら評価的 な選択 および解釈 と一定 の補 足 を付加 して論述 されているものである。
現実世界 の真 の表象を達成す るとい う目標をめ ぐる状況が変化 しは じめたのは 19世 紀 にな っ てか らであ る。当初、科学 は現実世界 の神秘的なヴュールを はぎ取 り、世界 の真実 を把握 す る ソフィステ ィケー トされた意識 を もつ もの と見 られていた。科学技術 の成功 は、実在論者 の認 識論 を支持 させ たのである。だが、理論物理学 を中心 とす る科学 の発展 は、科学 的な説 明 の表 象的な性格 につ いての疑念を産み出 した。すなわち、科学 は 〈 在 るがままの世界〉 の特性 を明 らかにで きるのであろ うか。その問 いに関 して、ハ イゼ ンベルクは、科学者 も見 ること考 え る ことの人間的な仕方 を免 れ ることはで きず、 したが って客観性 は疑 わ しくな った、 と述 べて い る。
そ して今 日の科学哲学 は、実在論 の く客観的な知識 )を 追究す るという目標を打破す るに至 っ たのである。要す るに、 ここにおいて伝統的な哲学 の認識論 との不一致が明確 にされたので あ るご そ こで、 この認識論的な不一致を もた らした歴史的な背景 を探 ることによ り、 グ ラ ッサ ー ズ フェル ドは「 知 ること」の問題 に関す る構成主義的な要求を確認 しよ うとす るのである。
(a)古 代か ら 17世 紀経験論 に至 るまで
西欧哲学 の始 ま りか ら、無視 で きない反対論者 がいた。懐疑論者 たちである。彼 らは、感覚 に基づ く知覚 や判断 は、脈絡や人間の態度か らの影響を受 けるか ら、実在的な世界の真の模写・
模像 (picture)を 提供す るもの と して信頼す ることはで きない、 と主張 したのであ る。
その後、確実 な知識 をめ ぐる論争 において、論理学 と数学 の領域 と、世界 につ いて の確 実 な 知識 の領域 とが区分 され るよ うになる。世界 につ いての真 の知識 を、世界 につ いての真 の表 象 と結 びつ ける場合、表象 と表象 されているもの とを比較 してその合致を確かめな くて はな らな い。 しか し、それを どのように捉 えるに して もどち らも人間 自身が産み出 した もので、合致 す ると思 い込 んで も、客観的な真 の知識を獲得 した とは言 えない。
プ ラ トンは、知識概念のパ ラ ドックスな性格 に気づ き、それを直線 の比喩で解決 しよ うと試 みた、 とグラッサーズフェル ドは指摘 している。
4分割 さ .れ た直線 の最初 の二つの想像 と憶測、
そ して知覚 によ る形態 とは実在 の ものでな く、 この領域 には ドクサがあ るだ け。第二 の部 分 は 思考 の所産 であ る数学的な知的理解がある。第四の部分 は真善美の永遠 のイデアの領域 で、 こ こにおいて真 の知恵 が達成 され る。 こうした直線 の比喩 は、発達 の可能性 を示唆す るとともに、
く 影〉 か ら逃 れて人間理性 の力 によって神聖 な真理 を見 よ うとす る人 間 の要求 を示 す もの と、
彼 は解釈 して いる。
そのよ うな理性への信念 は論理的に正当化で きないとい うことは、懐疑論 の他 に、否定 的神 学 によ って も洞察 されていた。人間の言葉 と思想 は生活経験か ら引 き出 されるものであるか ら、
それで神 の本質 を捉 え ることはで きない。啓示 と理性的な知識 とを混同 して はな らない、 とい うのが否定的神学 の主張であ った。
その影響 を受 けたスコラ学者 J.S.エ リウゲナが強調 したのは、理性 はそれ自体のルールに従 っ
て働 き、それを越えて働 きはしないということである。つまり、人間の理性 は経験す る領域を 超えた所に位置するどんな実在に対 して も適用 されえないのである。
理性の自己限定的な見解が出現 してきた時点において、経験についての く明確ではあるが誤 る可能性のある知識〉 と神秘的な啓示 による 〈永遠の真理〉 との区分が前面に出てきた。それ によって後退 したのは、感覚的経験による憶見 と、理性による確実な知識 との区別である。新 たな分割法が判断の規準 として問われるようになったのは、ガ リレイの異端審間であった。 こ の事件を通 して確認 されたのは、科学者 は神の世界の実在を記述 していると主張 してはな らな い、ということである。科学の知識 は手段的なもので、かつ誤 ることもあ り得 るものであ り、
他方の啓示的知識 はその真偽を問 うべきものではな くそれ自体 目的であるとの確認がそこでは 求め られたのである。ガ リレイは公式には自説を撤回 したけれども、科学理論 は実在世界の理 念的実体を記述できるとの考えを放棄することはできなかったと解されている。
ガ リレイの弟子 トリチェリーは、 くもし鉛、鉄、石の塊がわれわれの計算方法に従 って運動 しないな らば、・・・ われわれはそれ らに関 して何 も語 ってはいなかったと言わざるをえない てあろう。〉 と記 している。それは、従来 とは異なる視点か ら、科学の理論の客観性 を捉え直 そ うとしている姿勢を示 している。その問題意識 は、 〈自然 という書物は数学の言語で書かれ ている〉 とはもはや信 じな くて、数学 は自然に関わる人間の経験を秩序づけ管理するための巧 妙な く 人間的方法〉であると洞察 させ るほどの ものである、とグラッサーズフェル ドは指摘 し ている。
(7)17世 紀、実在世界の真の知識 は獲得できないとす るピュロン派の懐疑主義が再発見 され、そ れが宗教的信念 に適用 された事態に悩んだデカル トは、疑間を考えている自分の存在の確実 さ に基づいて疑 いえない知識を築 きあげようと試みたが失敗 し、結局は 〈神がわれわれに与えた 知識の能力 は誤 るはすがない〉 と信仰に訴えぎるをえなか った。要するに、彼の疑 うという方 法 は、懐疑論を論破できな くて、かえって懐疑論の評価を高めることとなったのである。
グラッサーズフェル ドは、デカル トの別の面すなわち分析幾何学の発明の契機 に注 目してい る。宿泊 した家の天丼を歩 き廻 るハエの行動を精確に記述する方法を問い、部屋の角で直角 に 交わる二本の直線にハエの位置を投射 して測定する手法を思 いついた。グラッサーズフェル ド は、それが本当であろうとなかろうと、「構成主義者にとって、そのエピソー ドは、数学的 ア イデアは感覚運動的な経験か ら抽出されうるものであるという原理の好例である。」 8)と 指摘
している。
(b)英 国経験論か らカントに至 るまで
17‐
18世 紀 にいわゆる英国経験論者 と称 される二人の哲学者、ロック、バークリーそして ヒュー ムが登場す る。知識 は経験を起源 とするものであり、経験は知識を判定する根拠である、 とい う点では一致す るものの、彼 らは、経験 とそれを越えた実在の世界 との関係づけにおいてはか な り異 なっている。
ロックの思想において重要な点 は「 リフレクション」(reflection)(内 省 )で あ る。 グラッ サーズフェル ドによれば、 リフレクションは、ピアジェ以降の構成主義的な認識論での根本概 念であるが、そうした意味でその用語を最初に使用 したのはロックであると見なされる。 ロッ
クは、あ らゆる観念の起源 は、感覚対象 としての外的な物質的事物 と、 リフレクションの対象
としての内的な ぐらの作用〉 との二つだけである、とする。リフレクションとは、知覚 0思考
0疑 う・ 信ず る 0推 理・ 知 る・ 意志す るとい う心 の作用、働 きにつ いて の 自覚 的 な把握 で あ る。
それ らの作用を内的 に観察す ることによ り、感官 を感発す る事物か ら受 け取 るの と同 じ判 明 な 観念が受 け取 られ る。 この心が行 う受 け取 る働 きを リフレクシ ョンとい う。要す るに、 リフ レ ク ションとは、 0い 自身 の作用 (操 作 )に つ いて・・ 0心 が行 う覚知 (nOtice)〉 を意 味す る も のであ る。その意味 は、人間の知性の能動的かつ関与的な特徴を明示 しているように思われる。
なお、 リフ レクションは、 ロックの訳書 では「 内省」であるが、道徳的な反省の意 味 と混 同 じ ないよ うに注意す る必要がある。また、 リフ レクションは、自分の心 の作用 のモニター的 な働 きをす るもの とも解 され、そ こにメタ認知的な働 きを読み込む可能性 も出て くるが、 こ こで は これ以上言及 しない こととす る。
そのよ うな リフレクションの概念を確認す ると、 ロック自身 の「 何 も書 き込 まれていない粘 土板」、「 空の小箱」、「 白い紙」、「 ろう板」 という心の比喩 は誤解 を招 きかね ない もので あ る。実際 に、 ロックの説を「 タブラ・ ラサ説」 と称 したライプニ ッツのその表現 は一 人歩 き して しま っているのである。 しか し、 ロック自身 に とってそれ らの比喩が矛盾 していないのは、
次 のよ うに捉 えているか らであるとグラッサーズフェル ドは指摘 している。「 それ は、知識 の 構成 は、心 が作用す るための幾つかの単純 な観念が存在す るよ うになるまで は始 ま りえな い と い うことを単 に主張 して いるだけである。その時 にのみ、心 は リフレク トし、そ して それ 自身 の諸操作か ら新 しい複合的観念を抽出す る (abstruct)こ とがで きるのであ る。」 0)と 。この指摘 は、同時 に、知識 を構成的に獲得す るとい う構成主義的 な見解 の基本特性 を示 して いるよ うに 思 われ る。
英国経験論 の第二 の人物バ ーク リーが、 ロックと一致 しない主要 な点 の一つ は 〈 一次性 質〉
と実在的事物 との関係である。 ロックは物体 の性質 を三種 に分 けた。形・ 数 0運 動 などは人 間 が知覚す る しないに拘 わ らず物体 にあ るもので、一次性質 と呼 び、色・ 音・ 匂 いなどは感官 を 通 して産 み出され るもので、それ らを可感的性質 (二 次性質
)と呼んでいる。 ロックにおいて、
一次性質 は観察者 に依存す ることが二次性質 よ りも少ないか ら「 よ り真 (truer)」 で あ るとさ れ る。それに対 してバ ーク リーは異議を唱え る。例えば、 く 物体の中に数 は存在 しない。数 は 心 の被造物 であ る。〉、 と。 この指摘 は、彼が数学的思考 は リフ レクションと抽象 作 用 とか ら 帰結す ることを意識 して いた ことを示す。一次性質 の数や運動 は継起 の観 念 を含 ん で い るが、
この継起 は感覚的対象 の属性 ではな く、主観 自身 の経験への主観 の リフ レク ションによ って抽 出 され るべ きものである、 とバ ーク リーは理解す るのである。 この認識 は、知識 は人 間 の経験 か ら独立 して いる実在を表現 で きるとす るそれまでの伝統的 な信念を根底か ら覆す ものである。
延長 0運 動 0時 間・ 因果性 は主観 の リフレクテ ィヴな活動 に依存 して いるため、実在 が どん な ものであるかを、それが経験 され る前 に記述す ることはで きないのであ る。
上 の継起 (succession)の 解釈を通 して ヒュームは、異 な る様 々な観念 の結合関係 につ いて考 察 した。彼 が提示 した観念結合 の原則 は、類似 0時 間ない し空間における近接性 (空 間関係 と 時間関係)・ 原因ない し結果 (因 果関係 )の 二つである。そ して く関係づ ける〉 ということは、
概念的 な行為であ り、その行為 を把握す る心 を必要 とす るものであ る、 と主 張 したので あ る。
この指摘 は、カ ン トの く 憶見のまどろみ〉を揺 さぶ った一 つの要因 とな った。
18世 紀 の前半、イ タ リアのナポ リ大学 の修辞学教授であ ったG.ヴ ィー コの研究 は、構 成主義
の最 も重要 な幾 つかの考 えを先取 りしていた と して、グラッサーズ フェル ドによ って高 く評 価
されて いる。デカル トと同様 に宗教的信仰への懐疑主義 の侵入 に悩んだ ヴィーコは、神秘 的 な
ことと合理的なこととを裁然 と分離する手法を取 った。彼は知識を 〈合理的な知識〉 と 〈詩的 な知恵〉 とに分 け、前者は経験的な事柄やそれか ら抽出された関係を明示す る「 日常 の言語」
で表現 されるとし、後者は合理的、経験的なものを越えた崇高なことを想像 しイメージを形成 させ る比喩 (メ タファー )で 表現 されるとした。そ して、人間の理性が知 ることができるのは、
理性が接近 しうる経験的な素材か ら調整的に結合 して構成 されたもの (知 識 )だ けであ る。つ まり、知識 は個人 自身 の内にある素材か ら作 ることによって生ず るものである。すなわち、
〈 作 ること〉 と 〈 知 ること〉 とは同 じであるという、認識論的に新鮮な展望を開いたのである。
それゆえ、グラッサーズフェル ドは「 ヴィーコは、われわれの合理的な知識 はわれわれ自身 に よって構成 されるものであるということを明白に述べた最初の人物である」
1のことを確認す る のである。
(C)カ
ント以降
構成主義的な観点の方向づけに対 して基本的なモデルを提供 しているのは、カントの「 先験 的哲学」であると見なされている。先験哲学 は、悟性 と理性だけを対象一般に関係す るよ うな 概念 と原則の体系 として考察する存在論である。周知のごとく、カントは、従来の認識 は対象 によって規定 されるとの考えを、対象はわれわれの認識に従 って規定されるとの考えへとコペ ルニクス的に転換させたのである。そのことは、われわれは合理的な発見的仮構、例えば綜合 的でアプ リオ リな因果関係のカテゴリーを手段 にして経験世界の模写を完成 させるということ を意味 しているのである。そのカテゴリーを現象に適応することを可能にするものは、 く先験
的な図式 (Scheme)〉 である。純粋悟性概念であるカテゴリーと、経験的直観の対象 である現
象 とを媒介す る役割を果たす図式の性格 は、両者の性格を兼備 していて、知性的かつ感性的な ものである。 Cllp したが って、われわれが捉える対象 は、われわれ自身の先験的な主観 によっ て く 構成〉 されたものである、ということになる。その先験的な構成主義か ら「先験的」 とい う条件的な制約を取 り除 くことは、ピアジェの発生的認識論に至 るまでなされなかったのであ る。
構成主義 は、知識 に関 して道具主義の立場を取 っている。その道具主義的なアプローチは、
19世 紀のダーウィンの進化論 と深 く結 びついている。進化論を的確に捉えた W.ジ ェイムズは、
く 仮説 は生産的であることが第一の必要条件である〉 と提起 し、外的な環境 において経験的な 確証を得 られない仮説 0理 論 は 〈 淘汰〉 されて存続できなくなるものであ ることを強調 した。
ここにおいて、人間の知識の進歩は連続的な進化 として捉え られるのである。それによって、
観念や概念の規準 は功利主義的な有効性であるとのプラグマティズムの基本原則が構成 され る こととなる。そ して、そこか ら 〈真理 というものは効果 とか結果をもたらす ものである。〉 と のプラグマティズムのスローガンが生ずる。そして、 く われわれのあ らゆる理論 は、道具的な ものであり、実在への適応 という心の様式である。〉 というジェームズの把握 は、人間の環境 への適応 は、生物体の身体的なものとは異なり、概念 レベルでのことであると指摘 している。
それは、環境 との概念的な均衡状態の問題 として ピアジェによって追究 されている。
この進化論的アプローチについて、 G.ジ ンメルは、それは 〈独立 した真理 自体〉 と、世界 と 関わる 〈 経験ないし淘汰〉 との二元論を除去す るものである、というのは効果の経験 は真理 を 創 り出す ことになるか らだ、との所見を述べている。
こうして、知識の必要条件は、それが実在の世界を反映ないし模写することであるとの伝統
的 な信念か ら、経験世界での目標達成 に寄与す ることであるとの見解 へ と移行 す るので あ る。
この状況 に関 して グラッサーズフェル ドは次のよ うに指摘す る。す なわち、「 われわれが世界 を経験す る仕方 は、われわれの経験的環境を概念化す るのを助 けて いる仮説 と知識 に依存 して いるとい うことが明 らかになるや、 この見解 に伴 う一つの問題点 が生 ず る。」。
"、と。 その問 題点 とは、彼 によれば、自然科学者 たちが見つめて いるのは彼 ら自身 の概念 の反映であ るとい うハ イゼ ンベルクの洞察が示 していることである。つま り、新 たな後者 の観点 にお いて も反 映 論 の影 がつ きま とうとい う問題である。 これを克服す る可能性 を もつのは構成主義 の観点 とい
うことになる。
以上 のよ うな考察 の帰結 として、 グラッサーズフェル ドは、先 の第二節 で示 した知識 と認 識 につ いての
4原則を提案 したのである。教育学的な思考 と実践 とに対す るその原理 の意味 と実 行可能性 につ いて は、次の ピアジェ理論 を通 して理解 され るであろ う。
4.「 知 る こと」への構成主義的なアプ ローチ
4‑1.ピ アジェの認識理論
グラッサーズフェル ドが指摘す るよ うに、「 ピアジェは、疑間の余地 な く、今世紀 にお け る 認識への構成主義的 アプ ローチの開拓者であ った」。 ピアジェは く 知 ることの生物学的な説明〉
を追 究す る試 みにお いてその研究手法を発展 させていったのである。認識 を生物学的 な機能 と して捉 え ることは、認識 を非時空的で普遍的な理性 の帰結 と見 なす伝統的な見解 と対決す る こ とであ った。それ は、換言すれば、認識 の成立拠点を、現実的な存在 の意味を捨象 した く存在 論 的な世界〉か ら有機体が経験す る世界へ と移 し変 え ることであ った。
ピア ジェはその研究の目的を く生物学的な適応の機構 (メ カニズム )の 探究 と、科学的 と見 な され るよ り高度 な形態 の適応 の分析 とその認識論的な解釈〉 であ った と記 して いる。環境適 応 と知識 とを結 びつけることは、すでに ジェームズや ジンメルたちによって考 え られて いた。彼 らが生存 0死 滅 の生物学的な適応 だけに執着 していたのに対 して、 ピア ジェは人間の適応 を認 識 レベルでの 〈 高度 な形態〉 において も捉 えている。その適応 は概念的 な均衡状態 とされ、 し
たが ってその機構 は心的な ものである。
その心的 な機構 とは、 ピアジェの知識理論 の中心 となる行為 の「 図式」 (シ ェマ ° °
)である。
その図式 と く 知 ること〉 との関係 は次 のよ うになる。 〈あ らゆ る知識 は行為 と結 びつ け られて いて、そ して対象 ない し出来事を知 ることは、それを行為図式 に同化 させ ることによ って それ を利用す ることであ る〉。対象 を行為図式 に組み込 む こと、それが対象 を知 るとい うこととさ れている。その ことは、感覚運動 か ら論理 一数学的な操作 に至 るすべての レベルに当てはまる。
それゆえ、 ここでの知識 は存在論的な世界 の模像的な対応物 で はな く、心 の操作 によって産 み 出 され るものである。そ うしピアジェの捉 え方 は、 ぐいは、それ 自身 を組織化す ることによ っ て、世界 を組織化す るものであ る。〉 とい う言明で要約的に特徴づ け られ る、 とグラ ッサ ー ズ フェル ドは指摘 して いる。 )世 界 の く 組織化〉 とは、 く 経験 を構造化 され た世 界〉 へ と変換 す ることである。 しか し、それ は世界 の構造 の固定化 とか、その構造 の累積 を指 向す る もので はな くて、構造 を継続的 に く 構築〉、構成 し続 けることである、 とい う点 をお さえて おか な い と ピア ジェ理論 の革新性を見失 うことにな るであろ う。
「 同化 (Assimilation)」 と「調節(Accomodation)」 とは ピア ジェ理論 のキー ワー ドで あ る
が、誤解 されがちな点、実際 に誤解 されている面があると云 われている。 グラッサー ズ フェル
ドはそれ らを取 り除 くことを通 して、構成主義的な観点の特徴を確認 しているように思われ る のである。以下、彼の指摘および彼が適切 とす る解釈のポイントをおさえておこう。
同化 は、例えば、 く 環境の諸要素が生命体の構造の中へ統合 されていく過程〉 と見なされ る ことがある。それは、同化の機能を、環境か らの素材 (カ ン トの質料にあたる。 )を 有機体 の 中に取 り込むことと誤解 させかねない。「私の解釈では、同化は、そうではな く、新 しい素材 を、既に知 られている或 ることの一例 として取 り扱われることと理解 されな くてはならない。」
とグラッサーズフェル ドは言 う。認識的な同化は、ある経験を既有の概念構造の中に適合 (fit)
させ ることなのである。
そこで確認 されな くてはな らないのは、同化の概念である。ピアジェの著作には「図式理論」
と呼べるほどにまとまった提示はなされていない。彼のいわば研究パー トナーとも云われ るイ ンヘルダーでさえ、〈図式 という概念 は、多様 な解釈を もた らし、今 も依然 としてそ うであ る〉 (1992年 の論文
)と記 している。
ピアジェの図式概念 は生物学の概念 に根 ざ している。図式 としての構築 された く構造〉、
くそれは生得的な、反射のようなものであり、あるいは先行的に獲得 されたものである。〉 と いう記述に示 されている。したがって、彼の図式は刺激―反応 メカニズムと解 され、伝統的な 相互作用の理論の中に位置づけられて、その真意が捉え られていないのである。
グラッサーズフェル ドは、反射説か ら図式理論への展開過程を次のように解明 している。新 生児 は、刺激 と反応すなわち解発体 (releaser)と 行動パ ター ンとの連鎖によ って発生的 に決定 づけられていると見なすだけでは図式への発展 はない。ピアジェの関心が適応過程にあったと すれば、「 これ らの行動パ ターンは自然的な淘汰の帰結 としてのみ説明され うる、とい うこと を非常 に明確に理解 したであろう」
C15pとグラッサーズフェル ドは推測するのである。反射行動 を起 こした生命体 は、適応面での優位性をもつが、その優位性は行動 自体でな く行動の結果 の 有効性 に基づ くものである。それゆえ、反射 は、 (1)知 覚 された場面、 (2)活 動そ して (3)有 利 な予 期 された帰結 という二部分か らなるモデルヘと構成 しなおされる。高等動物の行動パ ター ンは それほど固定的ではないので、反射モデルか ら固定性を除去すれば、それは認識モデルに適用 す ることができる。その定式 は、「 1.一 定の場面の確認、 2.そ の場面 と連合された特定の活動、
3。
その活動が、以前に経験 された帰結を産み出すという期待」(0と いうものである。
その図式パ ターンに従えば、確かに、同化 と調節の意味と働きが的確に把握されるであろう。
第 1項 は同化の帰結である。その経験的な場面が、過去の有効な帰結を産み出 した場面 と同様 な特性条件を備えていれば、それは図式の出発点 として認められる。そ してその場面 は連合 さ れた活動を解発する。その第
2項の活動 は、生命体が同化させたいと期待する帰結を産み出そ うとす るのである。それに失敗すれば、同化によってむ しろ無視 されたその場面の諸特性 が見 直 される。あるいは、予期 されなか った結果が有効なものであれば、古い図式か ら新 しい図式 を分離 して構成することになる。これが調節の過程である。
一般に、調節 は単に同化の反対的なこと、つまり同化できない場合にいわば自動的に作動す
ることのように見なされているがそうではない。「 ……調節 は、図式 (ス キーマ )が 予期 された
帰結を もた らさない場合 にのみ生 じうるものである」。つとグラッサーズフェル ドは解釈 してい
る .そ れゆえ、調節 は感覚的なイ ンプ ットにではな く、主として認識する行為主体の予期によっ
て決定 されるものである。心の調節操作が予期 (期 待 )に よって規定 されているとす る捉 え方
は、生命体の目標指向性 という特徴 とも整合 しており、適切かつ有意味なものと思われる。
調節 の作動 は一定 の安定状態す なわち 〈 均衡 (equilibration)〉 を もた らす。 ピア ジェに よれ ば、認識 的な発展 は 〈均衡 の拡張〉 によ って特徴づけ られ るのである。例 えば、認識 す る主観 が新 たな問題 を解決す るために有効 とされた概念 や知的操作 が、以前 に確立 された概念や操作 と両立 しない場合がある。そ うした非一貫性 が生 じた時 には、反省作用 によって、両者 を包括 す る高 い レベルの図式 を構成す ることにな る。 これが均衡 を拡張す るとい うことであ る。 そ し て、 この均衡 の拡張 は可逆性の増大 で もあることを押 さえてお きたい。
この均衡 は社会的な相互作用を も契機 として作動す るものであ る。人 が他者 との相互作用を、
特 に言語的 な相互作用をす る場合 に意思疎通 での混乱が生 じ、それを除去す るための調節 が お こなわれ る。その調節 は各個人の概念的な諸構造 の間の新 たな均衡 を成立 させ るのであ る。
上 の ことをお さえて、 ピアジェの研究か ら明 らかになる学習理論 を グラッサーズフェル ドは 次 のよ うにまとめて いる。「 特定 の方 向性 を有す る認識的な変化 と学習が行 われ るのは、図式 が予期 された帰結を生 み出さな くて、混乱を もた らし、そ して次 にその混乱 が均衡 を維持 な い し再確立す る調節を もた らす場合 であ る」①。 この規定か ら、学習およびそれが創 り出す知 識 は道具的(instrumental)な ものである。知識、認識が く道具的〉 な働 きを して生 命 体 の 目標 指 向 に寄与す る性質 は く viability・ 実行可能性〉 (発 展性 、有 用性 を も含意 して い る [筆 者 ])
と呼ばれて いる。 く 実行可能性〉 は構成主義 的 な観点 での重要 な概 念 で あ る。 とい うの は、
「 科学 的な知識 の価値 は、哲学者 の意味での真理 にではな くて、 く実行可 能性〉 に依拠 して い る」
(1のか らであ る。
ピア ジェの理論 で は、 この実行可能性 は二種類 あ り、 したが って道具主義 は二重 にな って い る。感覚運動 レベルで は、感覚的な均衡 と生存 とい う生命体 の目標 を達成す るのを援助 す る と い う意味で、実効的な行為図式 は道具的である。そ して、反省 的 な抽象化作 用 の レベ ルで は、
生命体 が整合的 な概念構造 を獲得す るのを援助す るとい う意味で、心的操作 の図式 は道具 的 と 言 え るのである。心 の抽象化作用 (後 で解説 され る )レ ベルでの概念の実行可能性 は、実用 的 な価値 によ ってで はな く、概念構造への無 一矛盾的な適合 (fit)に よ って測定 され るので あ る。
言 うまで もな く、前者 は功利主義的 な道具性 であ り、後者 は認識論的な道具性 であ る。 こ う し た二重 の道具性 を内包 している点か ら、構成主義 はブラグマテ ィズムの観点 を取 り込 んで はい るけれ ど も、 ブラグマティズムと同一視 され るものではないと言 え るであろ う。
そのよ うな二重性 は、 〈形象的〉 な身体的 〈 行為〉 と く 操作的〉 な心的 〈操作〉 との区分 と 通 ず るものであ り、 ピアジェの理論 を特徴づ けているものである。身体運動 によ りもた らされ た感覚的お よび運動的な複数 の シグナルか ら合成 される形象的な諸パ ター ンの抽象 は、 く経 験 的 な抽象作用〉 と呼ばれ る。それゆえ、子 どもが感覚運動的 な複数 の シグナルを連合的 に結 合 して構成す る対象物 の概念 は経験的な抽象物である。他方 の く反省的な抽象作用〉 は、感覚 的 な素材 に基 づか ないで、思考す る主観 自身が遂行す るもろ もろの心的な操作 を素材 に して、一 定 の図式 を構成す るのである。 この点 は、 ロックにおける 〈 観念 の第二 の源泉〉 と類似 して い ると言 えよ う。対象物 と図式 との構成が抽象作用 によつてなされ るその仕方 は、本質的 に帰納 的 な性格 を もつ ものである。ただ し、その帰納 には、 く 過去 において成功的 に機能 した ものを 保持す ること〉 とい う構成主義 の基本原則 に従 うという条件 が付 されてい る。
4‑2。 反省作用 と抽象作用
反省 (リ フ レクション )と 抽象 (ア ブス トラクション )の 重視 は、上述 か ら明 らか な如 く、く知
ること〉を心的な操作 (operation)と して捉えるビアジェの立場を示す ものである。グラッサー ズフェル ドはそれ らの概念につ して彼なりの考察を し、それに基づいて ピアジェの見解の解釈 を試みている。ここでは、その結論的な内容の要点をおさえ、それ らの心的操作の特徴を把握
しておきたい。
先に触れたロックの見解を支持 し発展 させた ピアジェの反省概念を考察するに当たり、グラッ サーズフェル ドは、時代的に両者の中間に位置する W.v。 フンボル トの次のような遺稿 メモを手 がか りに している。
1。
考えることの本質 は リフレク トす ることに、すなわち考えることと考え られていること とを区分す ることにある。
2.リ フレク トす るためには、心 は、暫 くの間、その前進的な活動を静止 しなくて はな らな い。そ して、その時に表象されたことを一まとまりとして捉え、次にそれを心 自身 に対 し て対象物 として配置 しな くてはな らない。
3。
心 は、次 に、幾つかのまとまり (そ れ らの内い くらかはそのような仕方で造 り出され う る )を 比較 し、心の要求 に従 ってそれ らを分離 したり結合 したりするのである。
グラッサーズフェル ドは、まず第二項の く表象 されたことを一まとまりとして捉える〉 に注 目し、それは連続す る経験の流れを止めることであるか ら一種の抽象作用 (抽 出の意味で )で
あるとす る。そ して、そのまとまりを ぐら自身に対 して対象物 として配置する〉を く再 ―現前 化 (re̲presenting)〉 の作用 と解するのである。つまり、反省の作動 (操 作 )は 抽象 と再 ―現前 化を前提に しているのである。
抽象、特に経験的なまとまりの抽象 は、 ピアジェ等によって く一般化する抽象〉 と呼ばれて お り、ネー ミングやカテゴ リー化 において重要な働 きをす るものである。 ロックによれば、
くそれ (抽 象 )に よって、観念 は特殊なものか ら一般的な表象 となる〉のである。そうならば、
一般的表象である観念がそのまま再一現前化されることになろう。ところが、それに対 してヒュー ムは、再―現前化 (再 ―表象化
)されるものは「特定の性格 Jを 持 うていて一般的な観念 を持 ち得ないと指摘 したのである。グラッサーズフェル ドはこの指摘を基本的には認め、再 ―現前 化の特徴を追究 している。
再 ―現前化の強調 は、英語のRepresentation(表 象 )概 念の不十分 さを確認することで もあ る。彼によれば、それは一般的な観念の単なる再生、コピー (模 写 )を 意味す るが、経験 した ことを意識化 させる能動‐ 的な作用を指示す るのには適 さないのである。つまり、再 ―現前化 と は、「先行の経験を個人の意識にもたらす心的な行為」。のなのである。
記憶を必要 とする点において、再 ―現前化 は認知 (Recognition)(再 認 )と 似て いる。 しか し、顔を会わせれば知人 と再認できるが、日前に居合わせなければその容貌を適切なイメー ジ で想起できないことがある。再認 は発達的に再―現前化に先行することは周知のことである。
再 ―現前化 は、特定の感覚的な素材を必要 とす るのである。その素材は特別に産み出されな
くてはならない。具体的に言えば、例えば、ゴルファーは自分の手で握 ったクラブの感触 を呼
び起 こさないとその くスイ ング〉を正確に再一現前化できないものである。そんなわけで、一
般的な観念を自分で再 ―現前化すれば、その一般的観念は特定のものに変わると言えるのであ
る。というのは、一般的観念の発効(imprementation)は 、それが抽象化 された元 のある種の
素材を必要 とす るか らである。勿論その素材 は、それを必要条件 としている再 ―現前化か ら受
け取 られ るのである。なお、 シンボルは一定の素材 を示唆 しているか ら、 シンボルに関 して は 実質的 に再 ―現前化 は進行 して心的活動を次のステ ップヘ と推進 させ るのであ る。
要す るに、思考 は再 ―現前化 された内容 を分離、結合 して概念 を構成す るのであ る。 それ ゆ え、心 は心 自 らが構成 した要素 と関わ り、新 たな心的構成物 を産 み出すのである。それ は一 見 外界 との相互作用を欠落 させているかのよ うな印象 を与 え るが、実際 には心 はいわば裸 で直接 外界 と接触す ることはな く、心的な概念装置を媒体 に して間接的に関わ って いるのである。
ここで、 ピアジェによる抽象作用の分類 をおさえてお こう。彼 は次 の 4種 類 に分類 している。
(1)経 験的な抽象 :経験 の一定 の感覚的特性 (属 性 )を 分離す ること。例 えば、行為 主体 の運 動 によって惹起 された内的感覚 は、運動パ ター ンの図式での経験的抽象作用のための生 の素材 で あ る。 (2)投 射 的 (リ フレクテ ィヴ )な 抽象 :先行す る レベルでの心的操作がその レベルの操 作 か ら抽象 され、次 の レベルに適用 され ること。また、認知的 に再構成 ない し再組織化す る こと も 含 め られ る。 3)反 省 された (リ フ レクテ ド )抽 象 :概 念を構成す る過程 を回顧的 に主題化 す る こ と。 リフ レク トは思考 の働 きで もあるので、 これは リフ レクションを リフ レク トす るとい うこ とである。 これは反省的思考、意識的な思考 と呼ばれ る。そ して (4)疑 似経験 的な抽象 :適 切 な 感覚運動 のの素材が利用 しうる場合 にのみ行われ る。例えば、幼児が一定 の ものを再 ―現 前化 で きるが、未 だ完全 には具体的操作 の レベルには達 していない場合 の抽象 である。
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