意識の複数性 : ミラーニューロン理論に関する哲
学的考察
著者
柴田 健志
雑誌名
鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集
巻
73
ページ
93-123
別言語のタイトル
Plurality of minds - philosophical meaning of
the discovery of mirror neurons
九三
意識の複数性
─ ミラーニューロン理論に関する哲学的考察 ─
柴
田
健
志
はじめに
この論文の目的は、ミラーニューロンと呼ばれる脳神経細胞に関する実証的研究成果を踏まえ、このニューロンの発見 が持つ意味を哲学的な観点から考察することである。 ミラーニューロンとは、他者の身体動作を「映す」ニューロンという意味である。イタリア、パルマ大学の研究チーム が一九九○年代にこの特殊な脳神経細胞の存在を主張し始めて、すでに二十年近くが経過しようとしている。その間、脳 神経科学の分野ではミラーニューロンの機能に関する実証的な研究が急速に発展してきた。哲学的な観点から見て、その なかで特に注目すべき研究成果は、次のような他者理解にかかわるものである。 われわれは他者の身体動作をもとにその意図を読みとることができる。例えば、隣のテーブルの人がコーヒーカップに 手を伸ばすのを見れば、その人がいまから何をするつもりなのかは、誰でも暗黙のうちに分かるはずである。コーヒーを 飲もうとしているのである。でも、どうしてそれが分かるのであろうか。いっけんすると、このような問いは無用の問い柴 田 健 志 九四 であるように見える。それが分かるのは誰にとっても自明のことだからである。 しかし、このことは決して自明なことではない。例えば、この問いは次のように書き直すことができる。──われわれ はなぜ他者の外的な動作を見ただけで、その内的な意図が分かるのであろうか。このように書き直してみると、いっけん 自明に見えたことがひとつの問題として認識されうるであろう。 外 的 な も の が 内 的 な も の へ つ な が っ て い る だ け で は な い。 「 見 る 」 と い う こ と が「 分 か る 」 と い う こ と に つ な が っ て い る の で あ る。 こ れ ら の つ な が り は 自 明 の も の で は あ り え な い で あ ろ う。 そ れ ゆ え、 こ の 種 の 問 い は 哲 学 史 上 の 難 問 の ひ と つ で あ っ た。 ま た 現 代 で は、 「 社 会 的 認 知 (social cognition) 」 に 関 す る 諸 問 題 の 中 の 中 心 に 位 置 づ け ら れ る 問 い で あ る。 ミラーニューロン理論はこの問いに明確な解答を提案しているのである。 以下、次のような順序で考察を進めていこう。一節では、他者の身体動作からその意図を読みとることすなわちマイン ド・リーディングを可能にするのは何かという問いに対して、ミラーニューロン理論がどのような解答を提案しているか を見ていかなければならない。二節でその解答の特色を明確にした上で、三節ではミラーニューロンの発見が持つ意味を 哲学的に掘り下げて考察してみることにしよう。 なお、この論文の題名である「意識の複数性」は、以上の考察の結論として提案されるものである。ミラーニューロン の発見の哲学的な意味は、意識が複数形でなければ存在し得ないということを示唆する点にあると主張されることになる であろう。
意識の複数性 九五
一
マインド・リーディング
他者の身体動作の知覚には、たんなる物体の運動の知覚とは異なる性質が認められる。他者の身体動作を知覚するとい うことは、その意図を理解することを意味するからである。例えば、あなたは「コーヒーカップの方に彼の手が近づいて い く 」 と は い わ ず に、 「 彼 は コ ー ヒ ー を 飲 も う と し て い る 」 と い う で あ ろ う。 こ の よ う に、 わ れ わ れ は 他 者 の 意 図 を 瞬 時 に読み取って彼がこれから行おうとしていることを的確に言い当てることができるのである。では、いかにしてそれが可 能になっているのであろうか。これがいわゆるマインド・リーディングに関する問いかけである。 この点に関して、哲学においては従来から二つの説明が提案されてきた。ミラーニューロン理論からの提案を検討する にあたって、まずこれら二つの説明を見ておく必要がある。 そ れ ら の 説 明 は そ れ ぞ れ「 理 論 」 理 論、 「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 と 呼 ば れ て い る。 前 者 に よ れ ば、 わ れ わ れ は 他 者 の 意図を「理論」によって推測しており、また後者によれば、われわれは他者の意図を「シミュレーション」によって推測 している。つまり、 どちらも他者の意図は推測によってだけ知ることができると認める点では同じなのである。ここでは、 論述の都合でこれらの相違点よりもむしろこのような共通点を強調する形でこの二つの理論の特徴をまとめていくことに する。 これらの理論はともに、他者の内的な状態をわれわれは直接的に知覚することができないということを前提にして組み 立てられている。われわれに知覚できるのは他者の身体の振舞だけである。ところが、われわれは他者の行為を理解する ときにはその意図に言及している。 では、意図はどうやって分かったのであろうか。意図は推測されるほかない。──われわれは他者の身体を外側から知柴 田 健 志 九六 覚して得られた情報のみをもとにして彼が何をやろうとしているかを理解しているとすれば、そこには何らかの推測が関 与していると考えざるを得ないわけである。 「 理 論 」 理 論 と「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 は、 こ の 推 測 な い し 推 論 の タ イ プ に 関 す る 二 つ の 異 な っ た 理 論 と み な す こ と ができる (一) 。この点についての両者の主張を順番に見ていこう。 まず「理論」理論 (theory theory) である。なぜこのような名称が与えられているのであろうか。この理論によれば、 他 者の意図を推測する際にわれわれが訴える推論のタイプは、科学の場合と同じく一種の「理論」であると考えられる。だ から「 理論 0 0 」理論なのである。 この理論によれば、 われわれは人間の行為を理解するための 「理論」 を持っている。 ではその 「理論」 とはどのような 「理論」 なのであろうか。人間の行為とは、 ある目的への 「欲求」 が「信念」 と結びつくことで得られる目的実現のための行動パター ンであると考えられる。その行動パターンを開始する命令が「意図」である。これは現代の認知科学においても採用され ている 「信念=欲求理論 (belief-desire theory) 」 にほかならない。われわれが持っているとされているのはこのような 「理 論」である。 具 体 的 に 考 え て み よ う。 「 コ ー ヒ ー が 飲 み た い 」 と い う「 欲 求 」 を 満 足 さ せ る に は、 例 え ば 喫 茶 店 に 入 っ て コ ー ヒ ー を 注文することが必要である。その後の行為に焦点を当ててみよう。目の前に出されたコーヒーについていくつかの 「信念」 をわれわれは持っている。 「陶器のカップは熱くなっている」 とか 「傾けるとコーヒーが溢れる」 とか 「このカップは手で持っ ても変形しない」 とか。こういった 「信念」 をもとにどうすればコーヒーを首尾よく飲むことができるかが計算された結果、 適切な身体動作のパターンがはじき出される。そして最後に、 その行為を発動する命令が下される。それが 「意図」 である。 誰かがコーヒーカップに手を伸ばす際には、こうした内的過程が完了しているということをわれわれは知っている。つ
意識の複数性 九七 まり「心の理論 (theory of mind) 」をもっているのである。ただし、学校で学んだ体系的な「理論」ではない。それゆえ、 この「理論」は「民間心理学 (folk psychology) 」と呼ばれる。 他者の意図を読み取る際には、誰でもこの理論をあてはめて、観察可能な行為からその意図を推し量っている、とされ るのである。 次に「シミュレーション」理論の主張がどのようなものであるかを見てみよう。 何 か を シ ミ ュ レ ー ト す る と い う こ と は、 実 際 に は そ れ を 行 わ ず に た だ 行 っ た ふ り 0 0 を す る と い う こ と を 意 味 す る。 し た が っ て、 「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 と は、 他 者 の 意 図 を 理 解 す る と き わ れ わ れ は い わ ば そ の 人 に な っ た ふ り を し て い る の だ、という主張である。ある人間が具体的な状況の中で何をするつもりなのかを、その身体動作から読み取る際、われわ れはその人の立場に身をおいてそこからその意図を推測している、というのである。 「彼はコーヒーを飲もうとしている」 ということが瞬時に理解できるのは、コーヒーを飲むときには自分もそうするからである。隣の人がコーヒーを飲むのを 見ながら、じつはそのような推測が瞬時になされているのである。 自分は実際にはその行為を行わず、心の中で仮想的に行っているだけだから「シミュレーション」理論と呼ばれるので ある。 このように、これらの理論は他者理解が推論によってなされているとする点で共通しており、ただその推論のタイプに お い て 異 な る に す ぎ な い。 「 理 論 」 理 論 に よ れ ば、 わ れ わ れ は 心 理 学 的 な 理 論 を 用 い て 推 論 す る こ と に よ っ て 他 者 を 理 解 し て い る。 こ れ に 対 し て、 「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 に よ れ ば、 わ れ わ れ は 理 解 す べ き 他 者 を 自 分 に 置 き 換 え て み て、 自 分ならこうである、だから彼もこうであろうという形で推論することによって他者を理解している。無論、推論である以 上はどちらも外れることがあり得る。
柴 田 健 志 九八 ミラーニューロン理論が主張するのは、これらとはまったく異なる他者理解の説明である。なぜなら、以下で見ていく ように、ミラーニューロンの発見によって、他者理解が推論にもとづくと考える 必要 0 0 がなくなったからである。 しかし、ミラーニューロンの発見に先立って、他者理解の主要な部分が推論に依存しているという主張に疑問を抱かせ るような実証研究がすでに存在していた。ミラーニューロンの意義を理解する重要な文脈として、この点にひとこと触れ ておかねばならない。 「 理 論 」 理 論 に よ れ ば、 わ れ わ れ は 他 者 の 意 図 を 理 解 す る 際 に 心 に 関 す る「 理 論 」 を 駆 使 し て い る。 言 い 換 え れ ば、 心 理学的な法則の知識が他者理解に要求されているのである。ところが、発達心理学者メルツォフは、生後十八ヶ月の幼児 が す で に 正 確 に 他 者 の 意 図 を 読 み 取 る こ と が で き る こ と を 実 験 に よ っ て 示 し た ( 二 ) 。 す る と、 「 理 論 」 理 論 が も し 正 し け れ ば、二歳にも満たない幼児が心理学的な法則を適用して他者の心を推論していると考えざるを得なくなるであろう。しか し、それは到底ありそうもないことである。 同じことは、 「シミュレーション」理論に対しても指摘できる。この理論の元祖は、J ・ Sミルが提案したいわゆる「類 似説 (argument from analogy) 」であると考えられる (三) 。それは自分をモデルにして他者を理解するというということを 意味している。ということは、他者を理解するにはまず自己が明瞭に理解されていなければならない。しかし、二歳にも 満たない幼児に推論のモデルとなるような自己の認識があるであろうか。 到底ありそうもないと考えるのが自然であろう。 そのような認識がないのに他者の意図が分かってしまうということは、やはり他者理解にこのタイプの推論は介入してい ないということを示しているであろう。 ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン 理 論 は、 「 理 論 」 理 論 と も「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 と も 異 な る、 ま っ た く 新 し い 説 明 を 提 案 す る こ とになる。それは、メルツォフの実験結果によって反駁され得ないような説明である。
意識の複数性 九九 パルマ大学の研究チーム(ジャコモ ・ リゾラッティ、ヴィットリオ ・ ガレーゼ、ルチアーノ ・ ファディーガ、レオ ・ フォ ガ ッ シ ) は、 「 も の を つ か む 」 な ど の 目 的 指 向 的 な 動 作 を 行 う 際 に 活 性 化 す る ニ ュ ー ロ ン が、 他 者 が 同 じ 動 作 を 行 う の を 観察する際にも同様に活性化しているという驚くべき事実を発見した。これがミラーニューロンである。前述の例に置き 換 え る と、 ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン と は 自 分 が コ ー ヒ ー を 飲 も う と し て コ ー ヒ ー カ ッ プ を つ か む と き に 活 性 化 す る だ け で な く、 他者が同じようにコーヒーカップに手をもっていくのを知覚したときにも活性化するというニューロンなのである。つま り、われわれは他人の動作を見るとき、たんに見ているのではなく暗黙に同じ身体動作をしながらそれを見ているのであ る。暗黙に同じ身体動作をするということは、言い換えれば、あたかもそれを自分がやっているかのようにして見る、と いうことである。 研究チームの一人であるヴィットリオ・ガレーゼは、この現象を次のようにまとめている。 「 誰 か が あ る 行 為 を 遂 行 し て い る の を わ れ わ れ が 見 る と き に は、 様 々 な 視 覚 野 で 活 性 化 が 生 じ る の に 加 え て、 わ れ わ れ 自身がその行為を遂行する際に用いられる運動回路が必ず同時に活性化するのが見られる。われわれは観察された行為を あからさまに再現するのではないが、それでもわれわれの運動システムは「あたかも」われわれが観察しているのと全く 同じ行為をしているかのように活性化するのである」 (四) 。 驚くべき発見である。 では、マインド・リーディングに関してここからどのような解答が得られるであろうか。いうまでもなく、われわれは 他人の動作を自らのうちに暗黙に「映す」ことによってその意図を理解しているという解答がここから導き出されるであ
柴 田 健 志 一〇〇 ろう。この理解は推論による理解ではない。自分も他者と同じことをやっているから、推論などしなくてもそのまま他者 の意図が分かるのである。 こ こ か ら、 次 の こ と が 指 摘 し う る。 推 論 を 基 本 に し て 組 み 立 て ら れ た マ イ ン ド・ リ ー デ ィ ン グ に 関 す る 従 来 の 説 明 は、 いずれもミラーニューロンの発見によって端的に退けられるであろう。 この点が明確に表明されたガレーゼ等のテキストを引用してみよう。 「 わ れ わ れ が 他 の 人 々 の 心 を 経 験 的 に 直 接 把 握 す る こ と が で き る よ う に し て い る の は、 概 念 的 な 推 論 で は な く、 観 察 さ れた出来事のミラーメカニズムによる直接的なシミュレーションである」 (五) 。 このように、ミラーニューロンの発見はマインド・リーディングに関するまったく新しい説明を実証的な水準から提案 している。人間身体の知覚は物体の知覚とは根本的に異なるという認識の意味がここではじめて明瞭に理解されたといっ ても過言ではあるまい。われわれが物体と人間身体を別の仕方で知覚するのは、人間身体の意図的な動作に対して選択的 に反応するミラーニューロンというニューロンが存在するからである。誰かの手がコーヒーカップの方へ伸びていくのが 知覚されると同時にこのニューロンが活性化し、あたかも自分が同じ動作をしているかのような状態が脳内に生み出され るのである。 そ れ ゆ え、 「 コ ー ヒ ー カ ッ プ の 方 に 彼 の 手 が 近 づ い て い く 」 と い う の は、 そ れ を 知 覚 す る 側 の 運 動 性 と は 関 係 の な い た んなる知覚情報なのではない。 目的指向性を含むこの動作の運動性が、 知覚する側の運動性に転移するがゆえに、 「コーヒー カ ッ プ の 方 に 彼 の 手 が 近 づ い て い く 」 の が 知 覚 さ れ る と 同 時 に、 「 彼 は コ ー ヒ ー を 飲 も う と し て い る 」 と い う こ と が 理 解
意識の複数性 一〇一 されるのである。脳神経の水準では自分も同じ事をやっているからである。 と こ ろ で、 い ま 引 用 し た ガ レ ー ゼ 等 の テ キ ス ト に も あ る よ う に、 こ れ は 一 種 の シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 理 論 で あ る。 し か し、 われわれは自己との類似をもとに他者を理解しているという従来のシミュレーション理論とは異なる。なぜなら従来のシ ミュレーション理論が最終的には「推論」という意識内での操作にもとづくものであったのに対して、ミラーニューロン 理論が提案するのは脳神経の水準でのシミュレーションであり、われわれの意識の外で暗黙に生じているシミュレーショ ン だ か ら で あ る。 そ こ で ガ レ ー ゼ は、 「 身 体 化 さ れ た 0 0 0 0 0 0 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン ( embodied simulation) 」 と い う 言 葉 遣 い に よ っ て この相違を強調しているのである。 ガレーゼはこの相違を次のように述べている。 「 私 が シ ミ ュ レ ー シ ョ ン を 特 徴 づ け る や り 方 は、 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 理 論 を 支 持 す る 人 た ち の 議 論 す る シ ミ ュ レ ー シ ョ ン の概念とは異なっているという点は明瞭なはずである。シミュレーション理論によれば、行為者の振る舞いを理解するた めに解釈者が用いる擬似的状態は、解釈者の側で意図的になされたことの結果である。私が論じているシミュレーション 過程は、むしろ自動的であり、無意識であり、前=反省的なものなのである」 (六) 。 ところで、ミラーニューロンの研究はもともとマインド・リーディングに関する研究として始まったわけではない。こ の点には注意しておかねばならない。パルマ大学で行われていたのはマカクザルを用いた運動性ニューロンの研究であっ て、 そ の 研 究 過 程 で い わ ば 偶 然 に 発 見 さ れ た の が ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン な の で あ る ( 七 ) 。 そ し て そ の 後 の 研 究 に お い て、 同 様 の機能を持つニューロンがヒトの脳にも存在することが実証されていったのである。
柴 田 健 志 一〇二 その時点で、他者の動作を映すという奇妙な機能を持ったニューロンが、いったい何のために存在しているかが問題に なるのは当然である。いうまでもなく、この問題は実証とは水準が異なる。この問題の探求の結果として、ミラーニュー ロン理論は他者理解という重要な問題にたどり着いたのである。 その理論的な背景を次のようにまとめてみることができる。 一般的にいって、脳神経科学が任意のニューロンの存在の意味を問いかつそれに答えようとするときには、すでに進化 論を前提にした一定の方向づけがなされていると考えられる。つまり、他者の身体動作を映すニューロンの存在の意味を 問 う と い う こ と は、 そ れ が ど の よ う な 意 味 で ヒ ト と い う 種 の 保 存 に と っ て 有 利 な の か を 問 う と い う こ と を 意 味 し て い る。 このような問いの構えの中で、次のような事実がおのずと視野に入ってこよう。──ヒトという種はその他の霊長類と同 様に集団を形成して生活している。また霊長類のなかで唯一、明瞭に模倣による学習をする種であることがすでによく知 ら れ て い る ( 八 ) 。 す る と、 自 己 の 動 作 遂 行 と 他 者 の 動 作 観 察 を 結 び つ け て い る ニ ュ ー ロ ン が 存 在 し て い る の は、 そ れ が 何 か社会生活に役立つものだからであるに違いないという推定が成立するであろう。 このような背景に加えて、 研究チームを構成するメンバーのひとりであるヴィットリオ ・ ガレーゼは、 メルロ=ポンティ の哲学に通じていた。身体の機能を中心にして他者理解を考察した哲学がすでに存在することを知っていたのである。そ こでガレーゼは、アメリカの哲学研究者アルヴィン・ゴールドマンとコラボレーションを図り、ミラーニューロンの機能 をマインド・リーディングという現象に結びつける主張を、すでに九○年代後半にいちはやく展開していったのである。 その後、この路線はミラーニューロン研究の中で主流を構成していくことになるから、ガレーゼの功績は大であるとい わねばなるまい。出発点となった論文「ミラーニューロンとマインド・リーディングに関するシミュレーション理論」で は、後にガレーゼをはじめとする複数の研究者によって精緻に展開されていくことになる基本的な着想が次のように述べ
意識の複数性 一〇三 られている。 「この論文でわれわれは次の提案をするつもりである。人間が持っているマインド ・ リーディングという能力は、シミュ レーションという手段を用いる能力に依存している。この能力は、行為遂行と行為観察を結びつけるシステムからおそら く進化してきたものであって、神経でそれに対応するのは、近年マカクザルの運動前皮質に発見された一群のニューロン すなわちミラーニューロンに相当するものである」 (九) 。 このように、他者の行為をシミュレートするニューロンの存在の意味が、進化論を前提した理論的枠組みの中で考察さ れた結果、その機能が他者理解にあるという仮説が提案されたと理解することができるのである。 ただし、この論文が書かれた時点では、まだ従来の「シミュレーション」理論が温存されており、ガレーゼがすぐ後に 展開していくことになる「身体化されたシミュレーション」という考えはまだ提出されていないという点には注意してお かねばならないであろう。その意味で、 この論文で述べられているミラーニューロンの解釈は、 少なくともガレーゼにとっ ては本来の形をとってはいなかったと評価しておくことが妥当であろうと思われる (一〇) 。 この点を踏まえた上で、以上の議論をここでひとまずまとめておこう。他者の身体動作を知覚する際にその動作をあた か も 自 分 が 行 っ て い る か の よ う に 活 性 化 す る ニ ュ ー ロ ン の 機 能 は、 他 者 の 意 図 を 読 み 取 る こ と に あ る と 考 え ら れ て い る。 そして、この機能が人間の社会生活を支える重要な機能であるという認識が、ミラーニューロン研究の方向性を決定して いるのである。 では、ミラーニューロン理論の特色は何であろうか。私は、ガレーゼのいう「身体化されたシミュレーション」という
柴 田 健 志 一〇四 考えにその最大の特色があると考えている。したがって、この考えをもっと掘り下げて考察してみなければならない。そ の際、次の点に留意すべきである。ミラーニューロンの発見は、従来の心の理解の枠組みを根本的に変えてしまうほどの ものだった。従来は知覚系と運動系は相互に独立した神経回路であると考えられてきたのであるが、ミラーニューロンの 機 能 は そ の よ う な 枠 組 み で は 説 明 の で き な い も の だ っ た か ら で あ る。 こ の 側 面 か ら と ら え 直 さ れ る こ と で、 「 身 体 化 さ れ たシミュレーション」という考えの意味はさらに鮮明にされうるであろう。
二
知覚と運動
マインド・リーディングに関する説明として、従来から「理論」理論と「シミュレーション」理論とがある。これらに ついてはすでに述べた。ここではさらにこれらの理論的な背景に踏み込んでみなければならない。 説明すべき事象をもういちど確認しておこう。その事象は次のように簡潔に言い表すことができるものである。──他 者の身体動作を知覚することでわれわれはその意図を理解している、と。しかし、このように簡潔に言い表すことのでき る 事 象 が じ つ は 人 間 の 社 会 的 認 知 の 基 礎 で あ る と い っ て よ い ほ ど の 重 要 性 を 持 っ て い る。 ち な み に、 自 閉 症 (autism) の よ うな症例において著しく損なわれているのは、このような他者理解の機能にほかならない (一一) 。 さて、このような事象を説明するために、 「理論」理論は各人が他者の意識状態と身体動作を対応させる暗黙の「理論」 をもっていると主張していた。他者の意図するところを理解するというごく自然なことが、実際には「理論」を用いてな されているというのである。意識の複数性 一〇五 珍奇な説だが、意識状態は本人だけに与えられているという点を前提すれば、きわめて合理的な説といいうる。各人が 知ることができるのは自分の意識状態だけであって、 他者の意識状態については何らかの仕方でそれを推測するほかない、 と考えざるをえないからである。しかも、他者の意識状態を推測するには、他者の意識そのものの存在が前もって措定さ れていなければならない。すると、他者とは各人が主観的に構成した対象であることになる。これがわれわれの直感的な 理解に反するものであることはいうまでもない。 し か し、 よ り 重 要 な 点 は、 こ の よ う な 主 張 が 組 み 立 て ら れ る 枠 組 み と し て、 「 知 覚 系 」、 「 運 動 系 」、 「 認 知 系 」 が 脳 内 で 機 能 的 に 独 立 し た 領 域 と し て 設 定 さ れ て い る と い う 点 で あ る。 す な わ ち、 外 部 世 界 か ら の 刺 激 を 処 理 す る「 知 覚 系 」、 知 覚系で処理された情報を解読し、 外部世界に対して動作を計画する 「認知系」 、そしてその計画を外部に向けて実行する 「運 動系」である。これは、七○年代から八○年代をとおして、いわゆる認知科学に共通の枠組みであったといってよい。 「理論」 理論はこのような枠組みの中で出てくる当然の結果として理解することができる。その点はじつは 「シミュレー ション」理論も同じである。すなわち、知覚系が処理できるのは「コーヒーカップの方に彼の手が近づいていく」という 情報にすぎない。このような情報をもとに有効な仕方で外部世界の状況に対処するには、情報が認知系において解読され なければならない。この解読が心理学的な法則の知識にもとづいてなされるか( 「理論」理論) 、あるいは自分の心理をモ デルにした類推によるか( 「シミュレーション」理論) 、いずれにしてもそのような推論を経てようやく「彼はコーヒーを 飲もうとしている」という理解が出てくる、というわけである。この理解が成立した後で、そのような外界の状況に対処 するための運動計画が作り上げられ、運動系によってそれが外界へ出力される。つまり、知覚と運動はまったく別なので ある。 これと対照させて見れば、ミラーニューロン理論が提案する「身体化されたシミュレーション」の枠組みは次のように
柴 田 健 志 一〇六 述べることができるであろう。他者理解が身体化された自動的なシミュレーションの過程にもとづくという主張の前提と し て、 知 覚 系 と 運 動 系 が 相 互 に 独 立 し た 領 域 と し て は も は や 考 え ら れ な い と い う 認 識 が あ る。 他 者 の 身 体 動 作 を「 知 覚 」 することがそのまま自己の身体動作を遂行するニューロンの活性化をもたらすという実証的なデータの存在が、そのよう に 考 え る こ と を 許 さ な い か ら で あ る。 言 い 換 え れ ば、 「 身 体 化 さ れ た シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 の 枠 組 み と な っ て い る の は 知覚と運動の混成系というべきものである。 メルロ=ポンティはガレーゼのいう「身体化されたシミュレーション」という考えを哲学的に先取りしていたが、メル ロ=ポンティが次のように書くときにはやはり知覚と運動の混成系のようなものが想定されている。 「 例 え ば 他 者 が 絵 を 描 い て い る の を 見 た と す る と、 私 は 絵 を 描 く と い う こ と を ひ と つ の 行 為 と し て 理 解 で き ま す が、 そ れは絵を描くということが直接に私自身の運動性に語りかけてくるからです」 (一二) 。 こ の よ う に、 「 見 る 」 と い う こ と が そ の ま ま「 運 動 性 」 へ の 働 き か け( 「 語 り か け 」) と し て と ら え ら れ て い る。 彼 は 絵 を描いているのだなという意図の理解はここから立ち上がってくるというのである。一般化していえば、他者の身体動作 を知覚することが自己の身体を同様の動作へと誘導しており、 その結果として他者の意図が理解されるということになる。 意図の理解という点にスポットを当てて読み直せば、これこそ「身体化されたシミュレーション」理論である。 メルロ=ポンティがこの点をもっと鮮明に書いているテキストを引用しよう。 「 他 者 知 覚 に お い て は、 私 の 身 体 と 他 者 の 身 体 は 対 に さ れ、 い わ ば 二 人 で ひ と つ の 行 為 を 成 し 遂 げ て い ま す。 つ ま り、
意識の複数性 一〇七 私は自分がただ見ているだけのその動作を、いわば離れたところから生き、それを自分のものとし、それを自分でやり直 し、言い換えれば理解するのです」 (一三) 。 引用前半の部分はフッサールの「対の現象」への言及である。メルロ=ポンティ自身が自己の発想の原点を指示してい る の で あ る。 し た が っ て、 メ ル ロ = ポ ン テ ィ 独 自 の 考 察 は 引 用 後 半 の 部 分 に あ る。 そ こ で は、 他 者 の 行 為 を た だ「 見 る 」 ことが、そのままその行為を自分で行うことであるという点が確信を持って主張されている。 特 に、 他 者 の 行 為 を「 や り 直 す (reprends) 」 と い う 語 と「 理 解 す る (comprends) 」 と い う 語 が「 言 い 換 え れ ば (ou) 」 と いう語で繋がれている点に注意すべきである。他者の行為を自分でやり直すことがすなわちそれを理解することであると 主張されているわけで、まさしくシミュレーションなのである。しかも、それを推論ではなく身体がやってしまうという 点で身体化されたシミュレーションなのである。 こ の よ う に、 「 身 体 化 さ れ た シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 は 知 覚 と 運 動 が 混 成 系 を な し て い る と い う 想 定 の 上 に 成 り 立 っ て いる。そのような混成系の存在を、 メルロ=ポンティは 「知覚と運動性との根本的対応」 (一四) という言葉で示唆している。 ミラーニューロンの発見が示唆することになるもこのような混成系の存在である。言い換えれば、メルロ=ポンティが 哲学的に語ったことを実証的に示唆するようなデータが示されてしまったのである。 そのような実証データとは、繰り返していえば、任意の目的指向的な動作、例えば「コーヒーカップをつかむ」という ような動作を行う際に活性化するニューロンが、他者が同じ動作を行うのを知覚する際にも活性化する、というものであ る。そのようなニューロンがミラーニューロンである。 このようなニューロンの活動が現実に存在するとすれば、知覚系と運動系という別個の脳領域が認知系といういまひと
柴 田 健 志 一〇八 つの脳領域によって媒介されているという枠組みを採用することはできないであろう。他者の動作を「見る」ことが、暗 黙にではあれただちにそれと同じことを「行う」ことになっているからである。むしろ、知覚系と運動系とが何らかの仕 方で融合しており、それを基盤にして他者理解が成立していると考えなければならないのである。 ガレーゼ等は次のように書いている。 「この観点によれば、 〔他者の〕行為を理解するということは、 視覚表象の活性化(活性化は明らかに起こっている)と、 そ れ に 続 く 概 念 中 枢 シ ス テ ム に よ る 解 釈 に も と づ い て な さ れ る の で は な く、 視 覚 情 報 が 観 察 者 の 経 験 的 な( 「 一 人 称 の 」) 運動の知識に「浸透」していくことにもとづいてなされるのである」 (一五) 。 このようにガレーゼはマインド・リーディングに関して「理論」理論や「シミュレーション」理論が前提する枠組みを 否定した上で、別の枠組みを提案しているのである。私はその枠組みをこれまで知覚と運動の混成系と呼んできたが、ガ レーゼはそれと同じ事を知覚( 「視覚表象」 )の運動への「浸透 (penetration) 」という語で示そうとしていると考えられる のである。 他者の身体動作を「映す」ニューロンの存在理由はシミュレーションによる他者理解にあるのではないかとガレーゼは 考えていた。先に引用したゴールドマンとのコラボレーション論文は、哲学的な「シミュレーション」理論を援用してこ の着想に形を与えたものである。しかし、すでに指摘した通り、その論文ではシミュレーションという言葉がまだ従来の 意味で使用されていた。すなわち、その人になったふりをするという意味で使用されていた。シミュレーションは意識内 部での操作とみなされており、そのような操作を脳神経の水準で支持しているのがミラーニューロンであると考えられて
意識の複数性 一〇九 いたのである。 私の考えによれば、知覚と運動の混成系という、従来の認知科学のパラダイムを超えるパラダイムをミラーニューロン の存在が要求するという点が、この時点ではまだ十分に認識されていなかったのではないかと思われる。ミラーニューロ ンが要求するパラダイムとは、知覚と運動が認知を媒介せずに直接つながっているというものである。 意識の操作が及ばない領域で他者の身体動作のシミュレーションが行われているという驚くべき結論は、この重要な点 が 鮮 明 に 認 識 さ れ た 後 に し か 出 て こ な い で あ ろ う。 「 身 体 化 さ れ た シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 と い う ガ レ ー ゼ が た ど り つ い た 結 論は、このような認識の成熟を経たものであると考えることができるのである。このように見てくれば、 「身体化された」 という表現は、知覚と運動が直接的につながっているということの言い換えとして理解することもできるのである。 「 身 体 化 さ れ た シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 と い う 考 え が 形 成 さ れ た 背 景 に は、 以 上 の よ う な 思 索 の 過 程 が 存 在 し た と 私 は 推 測 している。その思索の結論をここで確認しておこう。──ミラーニューロン理論の特色は、知覚と運動を直接的に結びつ ける神経回路の存在を実証的データにもとづいて主張することによって、メルロ=ポンティが哲学的に語っていた「身体 化されたシミュレーション」という考えを採用することを不可避なものにしたという点に認めることができる (一六) 。
三
共有される意味
以上の議論を踏まえ、ミラーニューロンの発見がどのような意味を持ちうるかを哲学的な関心の下で考察してみなけれ ばならない。柴 田 健 志 一一〇 ミラーニューロンとは、他者の身体動作を知覚する際にあたかも自分がそれをやっているかのように活性化するニュー ロンであり、このニューロンが他者の意図を読み取ることを可能にしていると考えられている。これはすでに述べたこと の繰返しにすぎない。 さて、 ここでは、 ミラーニューロンによる暗黙のシミュレーションによって他者の意図が理解されるということを、 もっ と広い視点からとらえ直してみなければならない。 メルロ=ポンティの哲学が考察の手引きとなってくれるであろう。他者の意図が分かるということは、彼がどういう仕 方で外的世界に関わっていこうとしているかが分かる、 ということである。 シミュレーションによって自分も暗黙に関わっ ていくから分かるのである。 メルロ=ポンティはこの点を次のように言い表している。 「もし私がものに向けられた意識であるとすれば、 私はそのものにおいて行為に出会いますが、 それは他者の行為であり、 私はこの行為に意味を見いだすことができます。なぜなら他者の行為は私自身の身体にとって、可能な活動の主題となる からです」 (一七) 。 私の意識はそれが向かっていくものにおいて他者の行為に出会う。この時点で私がその行為の意味を見いだすことがで きるのはなぜであろうか。メルロ=ポンティによれば、他者の行為が私の身体の「可能な活動の主題となる」からなので ある。つまり、その対象への関わり方が私の身体に対して暗黙のうちに与えられているからなのである。ミラーニューロ ンの発見によって実証されたのはこの点である。
意識の複数性 一一一 ところで、この短いテキストには、これまで明示的には触れてこなかった論点が含まれている。すなわち、他者の意図 を読み取る際、われわれの意識は基本的には他者が関わっていく対象に向けられており、その対象との関係で他者の身体 動作が読み取られる、という点である。われわれの関心は他者でなく「コーヒーカップ」にあり、その対象との関係では じめて他者の身体動作が視野に入ってくると考えなければならないのである (一八) 。以下では、 この点を特に強調しながら 考察を進めていかねばならない。 私が主張したいことはごく単純である。それをあらかじめ次のようにまとめておくことができる。他者の意図を読み取 るということは、対象への関わり方を他者と共有するということを意味しているということ。さらにこの共有という点を 問いつめていくと、それが自他の同一性という存在論的な主張を含意しているということ。 これは私の思いつきではない。ミラーニューロンの機能に関するガレーゼの考察をたどっていくと、やはりこのような 主張に帰着するのである。この点は追々明らかになっていくはずである。 そこで、ガレーゼの論考を適宜参照しつつ、前節で取り上げた知覚と運動の混成系という論点を掘り下げてみることに しよう。 ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン の 機 能 は 、 脳 神 経 の 水 準 に お け る 知 覚 と 運 動 の 混 成 系 の 存 在 を 仮 定 し な け れ ば 説 明 が つ か な い 。 と こ ろ が 、 同 じ よ う に こ の 混 成 系 の 存 在 を 前 提 し な け れ ば や は り 説 明 の つ か な い ニ ュ ー ロ ン が も う 一 種 類 存 在 し て い る の で あ る 。 カノニカルニューロンと命名されたそのニューロンは、ミラーニューロンと同様に、何らかの目的指向的な身体動作を 行うとき、例えばコーヒーを飲むためにコーヒーカップを手でつかむというような動作を行うとき活性化するニューロン の一種であるが、ミラーニューロンとは違ってその対象(ここではコーヒーカップ)をたんに見ただけでも活性化すると いう性質を持ったニューロンである。ただし、他者の同じ身体動作を見てもこのニューロンは活性化しない。その点でミ
柴 田 健 志 一一二 ラーニューロンとは明瞭に区別される。 この二種類のニューロンの存在を考察の手がかりにしてみよう (一九) 。 考察を進めるにあたって留意すべき点は、これらが運動前野に存在するニューロンであって、それゆえどちらも基本的 に運動系のニューロンであるという点である。したがって、これらのニューロンの特性は、運動系のニューロンが知覚に よっても活性化するという形で押さえておくべきであろう。運動によっても知覚によっても活性化する、というような理 解の仕方では論点が曖昧になってしまうおそれがあるからである (二〇) 。 この点を確認した上で、コーヒーカップをつかむ際に活性化するニューロンが、コーヒーカップを見ただけでも活性化 する(カノニカルニューロン)ということは何を意味するか考えてみよう。 ガ レ ー ゼ は、 カ ノ ニ カ ル ニ ュ ー ロ ン の 機 能 を 次 の よ う に 言 い 表 し て い る。 「 対 象 を 見 る と い う こ と は、 〔 そ の 対 象 へ の 〕 潜 在 的 な 行 為 を 意 識 せ ず に シ ミ ュ レ ー ト す る こ と な の で あ る 」 ( 二 一 ) 。 つ ま り、 脳 神 経 の 水 準 に お い て は、 あ る 対 象 の 知 覚 は そ の 対 象 へ の 身 体 の 関 わ り 方 と 区 別 さ れ な い。 具 体 的 に い え ば、 我 々 の 意 識 が コ ー ヒ ー カ ッ プ に 向 け ら れ て い る と き、 われわれの身体は暗黙にコーヒーカップをつかみにいっていると考えられるのである (二二) 。 で は、 コ ー ヒ ー カ ッ プ を 見 た だ け で は 活 性 化 し な い が、 他 者 が コ ー ヒ ー カ ッ プ を つ か む の を 見 た と き に は 活 性 化 す る ニューロン(ミラーニューロン)をこれと比較してみよう。カノニカルニューロンの活性化には他者の身体動作の知覚は 関わらないが、ミラーニューロンの活性化にとってはそれが不可欠である。この違いをどのように理解すべきかを考えて みなければならない。 はじめから整理すると、自分がコーヒーカップをつかむ際に活性化するニューロンの中には、コーヒーカップを見たと き活性化するもの (カノニカルニューロン) と、 誰かがコーヒーカップをつかむのを見たとき活性化するもの (ミラーニュー
意識の複数性 一一三 ロン)とがある。事物の知覚であれ、その事物へ関わっていこうとする他者の知覚であれ、このようにたんに知覚によっ て活性化するニューロンが、基本的には自分の身体の運動を制御するニューロンであるという点はどちらの場合も同じで ある。違いは、ミラーニューロンにおいては、コーヒーカップという対象にどう関わっていくかという点が、すでに自分 以外の身体によって実演されているという点にあることは明瞭であろう。 知覚によって運動性のニューロンが活性化し、対象への身体の関わりが意識されずにシミュレートされるという点はど ちらも同じだから、カノニカルニューロンについてすでに指摘した特性は、基本的にミラーニューロンにも当てはまると 考えてよい。すなわち、ミラーニューロンが活性化している際にも、我々の意識はやはりコーヒーカップという対象を指 向し、暗黙にそれに関わっていっていると考えられる。 そこで、 次のように考えることができる。ミラーニューロンによって、 われわれはやはり対象へと関わっていくのだが、 ただし他者とともにその対象へ関わっていくことができるのだと。他者がある対象に関わることで、自分の身体にもその 対象への関わり方が与えられるのである。 このように、ミラーニューロンの存在によって、われわれは対象への関わり方あるいは対象の〈意味〉を、暗黙の裡に 他者と共有することができるようになっているのではないかと考えられるのである (二三) 。いや、 脳神経の構造上、 共有せ ざるを得ないようになっていると考えられるのである。 さて、このように考えてみると、他者の意図を読み取るというごく日常的な行為には、世界の中にある任意の対象の意 味を他者と共有していく可能性が含まれていたということが理解できよう。他者の意図を読み取るという、現象としては ごくありふれたことが、人間の社会生活を支える重要な機能であると考えられるのも、それがこの点を含意するからであ ると考えられるのである。
柴 田 健 志 一一四 では続いて、意味の共有という論点に関する以上の考察をもう一歩先に進める形で自他の同一性という論点を考察して いかねばならない。 ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン の 存 在 に よ っ て、 対 象 へ の 関 わ り 方 は 他 者 と 共 有 さ れ う る も の と な っ て い る。 こ の こ と を、 対 象 の 意 味 が 他 者 と 共 有 さ れ る 空 間 が 開 か れ る、 と 言 い 換 え て も よ い。 お そ ら く こ の 意 味 で、 ガ レ ー ゼ は「 共 有 空 間 (shared space) 」 (二四) という言葉を使っている。 ガレーゼによれば、この空間は主観に先立って存在する。通常の用語法とはやや異なるが、その意味で間主観的な空間 で あ る。 そ れ ゆ え、 「 共 有 空 間 」 に お い て は 自 他 の 区 別 は 存 在 し て い な い。 む し ろ 幼 児 に お い て 見 ら れ る の と 同 様 の「 自 他の同一性」が成立している。 われわれは、この主張をもっと具体的に考えてみなければならないであろう。 例えば、 コーヒーカップという対象の意味をはじめから知っている、 ということはありえない。意識がその対象に向かっ ていくことはできても、 身体はまだそれとどのように関わればよいのかを知らない。この意味では、 われわれの意識はコー ヒーカップを虚しく志向しているにすぎない。このような状態においては、意識はまだ本来の意味では存在するとはいえ ないであろう。ではそのような空虚な意識はどのようにして意味で充実させられることができるのであろうか。言い換え れば、コーヒーカップの意味はどのようにして学ばれるのであろうか。 コーヒーカップが何であるか(つまりその意味)は、他者がコーヒーカップと関わるのを知覚することによって暗黙に 学ばれるのである。必要なことは、ただ他者と対象との関わり方を見ることだけである。それだけで対象の意味が学ばれ るような空間の中にわれわれはすでに身を置いているからである。ガレーゼのいう「共有空間」とはそのようなものであ
意識の複数性 一一五 る。それは、ミラーニューロンが複数の身体のあいだに張り巡らせた空間である。主観は、そのような間主観的な空間の 内部で発生すると考えられる。 ミラーニューロンの活動によって、対象の意味はこのように暗黙に学ばれている。つまり、自他の区別を前提した上で 意図的に学ばれるのではなく、他者の対象への関わりがそのまま自分の関わり方となっていくのである。自他の区別が存 在しないというのはこのようなことを意味している。べつに自己と他者がひとつの人格になってしまうというようなこと ではない。むしろ、自己と他者がそれぞれの意識の表象内容によっては区別されず、空間的な位置等によってたんに数的 にのみ区別されているという意味である。 以上の「共有空間」を巡っての議論の主旨は次のように言い表すことができよう。対象の意味は、したがってまた諸対 象の結びつきから成る世界の意味は、はじめは他者とともに学ばれるであろう、と。このような学びがいわば世界の意味 の基底にある。それゆえガレーゼは、そのように自他の区別の存在しない空間が、自他の区別にもとづく成人の認識活動 においてもその意味論的な空間を支えるものとなっていると主張するのである。 「 わ れ わ れ が 誕 生 以 来 そ の 中 で 生 き て い る 間 主 観 的 共 有 空 間 は、 そ の 後 も ず っ と わ れ わ れ の 意 味 論 的 な 空 間 の 実 質 的 な 部分を構成し続けるのである」 (二五) 。 このように、意味の共有という事態をさらに掘り下げてみると、対象の意味というものは、主観に先立つという意味に 解される間主観的な領域において生成しているという理解が得られ、さらにそれがわれわれの相互理解を根底で支えてい るという主張につながっていくのである。
柴 田 健 志 一一六
意識の複数性─結論にかえて─
ミラーニューロンの発見の意味とは何であろうか。これが以上の論考の主題であった。この主題をもとに、私は三つの 側面からミラーニューロンが果たす理論的役割を考察した。 第一に、それは「マインド・リーディング」という現象を可能にするメカニズムを神経生理学的な水準で明らかにする ものであった。 第二に、それは「身体化されたシミュレーション」という機能を前面に出すことによって、従来の認知科学の枠組みに 根本的な変更を求めるものであった。 第三に、 対象の意味とは複数の意識によって共有される形で発生するという考えに実証的な基盤を与えるものであった。 これら三つの論点はそれぞれ独立した意味を持っており、それゆえ今後別々に発展させられることができる。しかし同 時に、私の意図としては、論点を深化させるような仕方で議論を構成したつもりである。したがって、私の考えとしては 最後の論点が最も重要な論点となっているのである。その主旨は、対象の意味が学ばれるのは暗黙に他者とそれを共有す るという仕方においてである、というものである。明示的な学習はこの暗黙の学びを前提している。ミラーニューロン理 論が含意するのは、このような「われわれ」としての意識のあり方が、脳神経組織にもとづくものである限り乗り越える ことのできないものであるという認識である この認識を少しばかり敷衍して論文を閉じることにしたい。 ヒトという種の脳神経組織は、 それが進化の所産であるという意味では、 必然的なものではなく偶然的なものであろう。意識の複数性 一一七 しかし、同じ理由で、それがわれわれに課す限界は必然的なものである。 われわれが世界を見出すのは、そこに意味を認めるときである。しかし、われわれの意識はそのような意味に先立って 存在するのではない。──意識とはつねに何かについての意識だが、その何かとは意味を持った何かでなければならない と考えられるからである。 また、世界の中にある対象の意味をはじめから知る者は誰もいない。他の誰かから暗黙に学ぶ、という仕方でのみそれ らの意味は立ち現れてくるのである。対象の意味を暗黙に学ぶということは、ミラーニューロン理論が明らかにしたよう に、それを他の意識と「共有」するということにほかならない。 するとこういうことになる。自己の意識は世界が意味を持つのと同時に存在すると考えられ、かつ世界の意味は他者と ともにしか知られ得ないとすれば、自己は他者とともにしか存在し得ない。つまり、脳神経組織がわれわれに課す限界と は、われわれの意識がつねに複数形で世界に向かって存在しており、それ以外の仕方では存在しえないという、存在論的 な限界である。 このような認識が様々な形で哲学に波及しないはずがない。ここでは二点のみ指摘しておこう。 第一に、メルロ=ポンティの哲学をこのような限界についての思考として読み直すことの必要性が認識されなければな らないであろう。メルロ=ポンティの洞察の深さが評価し直されなければならないのと同時に、そのテキストのもつ意味 自体が変わってしまうはずなのである。 第二に、哲学史的な関心の下でデカルトの「コギト」に触れておかねばならない。私の考えでは、デカルトの哲学はミ ラーニューロンの発見によって否定されはしない。デカルトが主張した単独性という意識の存在の仕方(コギト)は可能 である。ただし、 身体化されたシミュレーションによってもたらされる複数性という意識の存在の仕方を否定すること (デ
柴 田 健 志 一一八 カ ル ト の い う「 懐 疑 」) に よ っ て の み 可 能 で あ る。 実 際、 デ カ ル ト は コ ギ ト の 存 在 を 主 張 す る 手 続 き と し て 身 体 の 存 在 を 否定しなければならなかったのである。デカルトは、身体と他者との密接な関係に気づいていたからこそ否定という作用 を重視したのではないかとさえ考えられるのである。 私はこの論文でミラーニューロンの発見の意味を哲学的に掘り下げてみた結果このような認識に到達したのだが、その 認識の整合性ないし妥当性に関する検討は今後の課題としなければなるまい。 注 (一) 「 理 論 」 理 論 と「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 と い う 対 立 す る 二 つ の 見 解 を こ の よ う な 形 で 整 理 す る こ と が で き る の は、 こ れ ら と 対 立 す る ま っ た く 別 の 第 三 の 理 論 を 前 提 し て い る か ら で あ る。 そ の 別 の 理 論 と は い う ま で も な く ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン 理 論 に よ っ て 提 案 さ れ て い る 社 会 的 認 知 の 理 論 で あ る。 同 じ 観 点 か ら「 理 論 」 理 論 と「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 を ひ と ま と め に し て 論 じ て い る の は Gallagher[2008] p.536 で あ る。 し か し こ の 論 文 で の 第 三 の 理 論 は 社 会 的 認 知 に お け る「 直 接 知 覚 (direct perception) 」 理 論 で あ り、 ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン は こ の 理 論 を 支 持 す る も の と し て 解 釈 さ れ て い る。 pp.541-542. 興 味 深 い 解 釈 だが今回は取り扱わない。 (二) Meltzoff[1995] 実 験 の 概 要 は 次 の よ う な も の で あ る。 ─ ─ 実 験 者 は 子 供 の 前 で 道 具 を 用 い た 行 為 を し て み せ る。 例 え ば、 お も ち ゃ の ダ ン ベ ル の 両 端 の 輪 の 部 分 を 手 で 持 ち、 ど ち ら か 一 方 の 端 の 部 分 を 軸 か ら 引 き 抜 く こ と を 意 図 し た 行 為 で あ る。 し か し 実 際 に は 実 験 者 は わ ざ と 失 敗 し て み せ る。 つ ま り、 子 供 が 見 る の は 手 が す べ っ て 輪 が 引 き 抜 か れ な か っ た と い う 結 果 で あ る。 そ の 後、 子 供 は そ の 行 為 を 今 度 は 自 分 で 再 演 さ せ ら れ る。 ─ ─ 実 験 は こ の よ う な も の で あ る が、 問 題 は 子 供 が 何 を す る か で あ る。 子 供 は 行 為 に 失 敗 せ ず、 ダ ン ベ ル の 輪 の 部 分 を 軸 か ら 抜 き 取 っ て し ま う の で あ る。 子 供 は 失 敗 例 し か 見 て い な い の に そ れ が 失 敗 だ っ た と 分 か っ て お り、 自 分 は 正 し く そ の 行 為 を 遂 行 し た の で あ る。 こ の こ と は、 そ の 行 為 の 意 図 を 子 供
意識の複数性 一一九 が 理 解 し て い る こ と を 示 し て い る。 メ ル ツ ォ フ は こ の 実 験 結 果 に つ い て 次 の よ う に 述 べ て い る。 「 こ の 結 果 は、 十 八 ヶ 月 の 子供が他者の意図について何かを理解しているということを示唆している」 。 p.839 興 味 深 い の は、 実 験 者 の 代 わ り に 機 械 を 使 用 し て 同 じ 行 為 に 失 敗 す る の を 見 た 後 で の 子 供 の 再 演 が ま っ た く 違 っ た 結 果 を も た ら し た と い う 点 で あ る。 す な わ ち、 子 供 は 正 し く 行 為 を 遂 行 す る こ と は で き な か っ た。 な ぜ だ ろ う か。 機 械 に 対 し て は 意 図 を 読 み 取 る こ と が で き な か っ た か ら で あ る と 解 釈 で き る。 つ ま り、 子 供 に は 機 械 に 意 図 が な い と い う こ と も 分 か っ て い た のである。 (三) Mill[1867] pp.237-238 (四) Gallese[2001] p.37 (五) Gallese et al.[2004] p.396 (六) Gallese[2003b] p.521 (七) di Pellegrino et al.[1992] この論文にはまだ 「ミラーニューロン」 という術語の記載は見られないが、 実質的にはミラーニュー ロンに関する最初の論文である。 (八) チンパンジーやニホンザルが見せる学習は、 「模倣学習 (imitation learnig) 」とは区別され「エミュレーション学習 (emulation learning) 」 と呼ばれる。 「模倣学習」 とは行為の意図が理解されていることを前提とした学習である。これに対して 「エミュ レーション学習」には意図の理解は前提されない。 Cf. Tomasello et al.[1993][2005] (九)
Gallese & Goldman[1998] p.493
(一〇) こ の 論 文 で「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 が 展 開 さ れ た 部 分 は お そ ら く ゴ ー ル ド マ ン の 主 導 で 書 か れ た 部 分 で あ ろ う。 ゴ ー ル ド マ ン は、 フ ォ ー ダ ー に 代 表 さ れ る「 理 論 」 理 論 に 対 抗 す る「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 の 代 表 的 論 客 で あ る。 し か し ゴ ー ル ド マ ン は 後 に ガ レ ー ゼ の い う「 身 体 化 さ れ た シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 と い う 水 準 を 認 め、 そ れ を 自 分 の「 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン 」 理 論 の 中 に 盛 り 込 ん で い る。 ゴ ー ル ド マ ン に よ れ ば、 シ ミ ュ レ ー シ ョ ン を 用 い た 他 者 理 解 に は 二 つ の 水 準 が 区 別 さ れ る。 「 高 水 準 (high-level) シミュレーション」 と「低水準 (low-level) シミュレーション」 である。 Goldman[2006] p.111. 意図的なシミュレー
柴 田 健 志 一二〇 シ ョ ン に よ る 他 者 理 解 は「 高 水 準 」 で あ り、 そ れ に 対 し て 意 識 さ れ な い、 自 動 的 な、 身 体 化 さ れ た シ ミ ュ レ ー シ ョ ン は「 低 水準」のものであると位置づけられている。 (一一) ガ レ ー ゼ は ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン・ シ ス テ ム の 機 能 不 全 を 自 閉 症 の 主 な 原 因 と み な す 説 を 提 案 し て い る。 Gallese[2003a] [2006] ま た、 ラ マ チ ャ ン ド ラ ン を は じ め 一 部 の 臨 床 医 は こ の 説 を 支 持 し て い る。 Oberman & Ramachandran[2007], Williams et al.[2001] (一二) Merleau-Ponty[1962] p.30 (一三) ibid., p.32 (一四) ibid., p.69 (一五) Gallese et al.[2004] p.396 (一六) Gallese[2005a] では、 「身体化されたシミュレーション」の内容と射程が詳細に論じられている。 (一七) Merleau-Ponty, op.cit., p.30 (一八) Legrand & Iacoboni[2010] p.236 はこのような構図を「三角関係 (triangular relation) 」と呼び、ミラーニューロン理論にも とづく間主観性の考察の中心に置いている。つまり、重要な論点なのである。 (一九) 「カノニカルニューロン」 と 「ミラーニューロン」 のそれぞれの特徴を鮮明に対比させて論じているのは Gallese[2000a] p.327 (二〇)この点を鮮明に議論しているのは Metzinger[2009]pp.166-167 (二一) Gallese[2000b] p.31 ( 二 二 ) コ ー ヒ ー カ ッ プ と い う 対 象 の 意 味 は、 わ れ わ れ が そ れ に ど う 関 わ る か に も と づ い て 発 生 す る と い う こ と が 含 意 さ れ て い る。 同 じ こ と を 逆 か ら と ら え れ ば、 コ ー ヒ ー カ ッ プ と い う 対 象 が わ れ わ れ に 対 し て 何 を afford し て い る か が コ ー ヒ ー カ ッ プ の 意 味 で あ る と い う こ と に な る。 こ の よ う に、 ギ ブ ソ ン の ア フ ォ ー ダ ン ス の 考 え と ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン の 理 論 は 逆 方 向 か ら 同 じ 問題に向かっているように見えるが、この点は今後探求すべき論点としてメモしておくに止める。 ( 二 三 )「 こ の 意 味 に お い て な ら、 こ れ ら の ニ ュ ー ロ ン〔 ミ ラ ー ニ ュ ー ロ ン 〕 は「 共 有 ニ ュ ー ロ ン (sharing neuron) 」 と 名 づ け ら れ
意識の複数性
一二一
ることもできたであろう」
。
Legrand & Iacoboni[2010]p.238
(二四) Gallese[2005b] p.101 (二五) ibid., p.114 文献 di Pellegrino, G., Fadiga, L., Fogassi, L., Gallese, V., Rizzolatti, G.[1992] “Understanding motor events: a neuropsychological study, ”
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