• 検索結果がありません。

基礎的考察 大 谷

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "基礎的考察 大 谷"

Copied!
9
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

音楽のCAIシステムの開発のための       基礎的考察

大  谷

尚*

(昭和55年10月31日受理)

   A Fundamental Study fgr Development

of Computer Assisted Instruction System in Music

Takashi OTANI

(Received,October31,1980)

1.はじめに

 今日の科学技術の発達を背景にして,その成果を教育実践と教育研究とに役立てようと する教育工学の研究が,教育の形態や組織に少なからぬ影響を及ぽすに至っている。その 結果,従来行われなかったような様々な新しい学習形態が開発されて行われているが,そ の内のひとつとして「CAI(ComputerAssistedlnstmction)」があげられる。

 CAIは,これまで主に算数・理科などの「言語を媒体とした論理的な構造をその中核と する」ような教科の学習のために研究され,利用されてきた。しかしコンピュータそのも のの能力の向上と,その応用(アプリケーション)技術の多様な発展によって,さらに柔 軟なCAIの利用が研究され,実用に供されようとしている。

 このような状況の中で,我国でもごく最近,音楽の学習のためのCAIに関する研究,あ るいはそのための基礎となる研究が進められてきている。そしてこれらは,いわゆるマイ

クロエレクトロニクス技術を応用した,音に関する諸装置の発達に負うところが多い。たと えば,鍵盤付のシンセサイザーは,コンピュータに接続して,その鍵盤を「演奏」という 動的な音楽情報の入力装置として使うことができる。また,音を出させれば,音楽情報の 出力装置として使うことができる。そこで,これを用いて「演奏」を情報として入力し,

それをコンピュータで解析して,演奏に関する診断を行うようなことが可能になってくる わけである9)

 一方,このような研究に対する批判も存在するようである。そしてその多くは実践家たちに よるものであって,それは彼らの,このようなシステムヘの「反発」から出ているもので あるように思う。けれども実践家とシステム開発者とのこのようなギャップは,正しく埋

*長崎大学教育学部附属教育工学センター

(2)

344

長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第4号

められなければならない。そしてそのためには,なによりも討論や研究交流が必要である

と考える。

 しかしながらこれらのシステムの開発者のほとんどは,システムに関する技術的な専門 家であって,それを応用しようとする分野の専門家ではない。そのため自分が開発したシ ステムが,それが応用される分野において,どのような意義を持ち,どのように位置づけ られるかということに対する考察を,欠いていることが多い。また,応用される分野の専 門家は,そのようなシステムの機械的な特性などが理解できず,かつそのようなシステム 無しに現実に教育は行われてきたのだということさえ感じている。そこで彼らは,あえ てそのシステムを理解して自分の分野に位置づけ,有効に利用しようとするような態 度を欠いていた。これらのことが,先のギャップが埋められない原因だといえるだろ

う。

 この問題に関して筆者は,システムの開発者の方が責任を負うべきだと考えている。そ もそも音楽教育に限らず教育全体は,常に価値を求めて,継続的にかつ計画的に進められ てゆく営みである。そこでその内の一時的,あるいは部分的な能率を,あるシステムが向 上させるということがたとえ明らかになっても,全体的な価値への見通しが立たなければ,

それを採用する訳にはゆかないのである。だからむしろ,本来このような状況において採 用されるべきシステムとは,現実の教育の問題を検討する中から生みだされたものである

といってよいだろう。そうではない単なる技術的発案から生まれたシステムを,教育の現 実的問題とは関係なしに現場に提示すれば,現場を困乱に導くか,無視されるか,あるい は反発されるかの結果を招くのは,当然だと考えざるを得ないのである。

 そこで筆者は,現実にどのようなシステムが開発されており,それに対してどのような 批判がなされているかを基にして,この問題に関する更に詳細な考察を行い,自らのシス テム開発に役立てようとした。しかし現実には,先に述べたようなギャップがあるために,

積極的な批判・再批判・討論は,ほとんど行われていないようである。また,行われてい ても,それは研究発表に関わる質疑・応答の形であったりして,論文等の形態をとってい ないために,それらを考察のための客観的な材料とすることはできない。

 そうであれば,そのようなシステムの研究・開発にあたる者として,少なくとも自らの システムに関する自らの位置づけを明確にし,どのようなシステムとして開発しようとす るのかを述べて,批判をあおぎながら研究・開発を進めてゆくことが必要ではないかと考

えた。

 小論は,そのような位置づけのための考察をまとめたものである。以下,「音楽の教育内 容とは何か」ということを問題にしながら,三つの観点からの論述を行う。

2.「音」による学習について

 筆者が開発にあたっている音楽のCAIシステムの第一の特徴は「音が出る(楽音を発生 する)」ということである。このことについて以下に述べる。

 そもそも音楽は,音を媒介として成立している。それゆえ音楽の学習も,「音」なくして

成立するものではない。このことについて,八木(1979)は,「音を媒介としない音楽・音

楽教育はおよそ考えられない。すでに述べたように,音楽の教育内容は技術の体系として,

(3)

子どもたちの前に客観的に存在している。当然のことながら,子どもたちは,実際に音を 操作することによってしか,客観的な教育内容を内化することができない。つまり極端に 言ってしまえば,何らかの仕方で自分の体の一部を使ってしか,音楽的認識能力の発達は 望めないということにもなろう。」と述べているぎ)

 これは,「音楽の教育内容」が,客観的な「知識の体系」として,子供の「外」に存在す るのではなく,子供と教材が「学ぶ」という形で対峙したときにはじめて,子供たちの前 に,「技術の体系」としてたち現われることを意味している。そしてそもそも,その「学ぶ」

ということが,実際に「音」を操作することによってしか成立しないことを述べたもので

ある。

 しかるに現実の教育においては,音によらずに音楽教育を行うことが多い。もしくは,

音よりも「言語」を優先させて,それによって教育を行うことが多いようである。先の引 用のようなことがらが,あらためて強調されて述べられるのも,実はこのような現実への 批判としての意味を有しているからではないだろうか。

 例えば「長調は明るく楽しい感じがする調で,短調は暗く悲しい感じがする調です」と いうような説明が,実にしばしば教師によってなされている。そしてこの説明に基づいて,

子供に長調と短調とを聴きわけさせることがよく行われている。

 ところで仮に,「長調と短調には,それぞれ客観的な聴こえ方(感じ方)がある」という ことと,「長調は明るく楽しく,短調は暗く悲しく感じるのが客観的である」ということが 真実であるなら,先の教師の説明は,「客観的な知識内容の伝達」を意図するものであるから,

なされてもよいことになろう。しかし,聴こえ方(感じ方)は客観的なものではない。先 の教師の説明はむしろ,長調と短調に対するひとつの主観的な「解釈」である。ぞしてそれ は,このような主観的な解釈を客観的な聴こえ方であると決めつけてしまい,乏れを基に して,「言葉」によって「聴こえ方」までも定義して,子供に理解させ,定着ざせようとす ることになるのである。

 けれども音楽の教育で重視すべき,子どもの,自由で個性的な認識の発達は,教師のこ のような態度によって,大いに防げられると考えなければならない。そもそも音階や和音 や楽器の音色は,個々人のそれまでの生活経験や学習環境に密接に関わって,ひとりひと りの聴こえ方に,少なからぬ差異があってよいはずである。だから,音階や和音や音色な どの「音」は,本来ひとりひとりの内で,ひとりひとりの「聴こえ方」「感じ方」によって こそ定義されるべきである。

 そして重要なことは,さらにそれらが基礎となって,ひとりひとりの主体的で個性的な 音楽体験がかたちづくられてゆくということである。その意味でこのような,音楽の基本 的要素に対する個性的な態度こそが,ひとりひとりの「鑑賞」へと,さらには「演奏」や

「創作活動」へと密接に結びついてゆくのである。

 さて以上を要約すると「音の聴こえ方,感じ方に関する解説は,音への個性的な認識を 基盤として成立する個性的な音楽の学習の防げになるので,これを行うべきでない」とい

うことである。

 そこで,開発中のCAIのコースウェアは,チュートリアルモード(個別教授様式tutorial

mode)では,「できるだけ音そのものを提示し,その音に対する言語による説明は,科学

(4)

346

長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第4号

的事実とか史的事実であって客観的な知識として理解すべきものだけについて行う」こと を第1の条件とする。

 さてこれまで述べて来たことによって,ここでの「説明しない」という態度が,単に消 極的な態度なのではないということが,理解されたと思う。それはむしろ,学習者の個性 を伸ばすことを目的とした,積極的な態度であるぎ)そしてそのような態度は,単にCAIの コースウェア作製者だけに必要なのではなく,音楽の教師の全てに必要な態度であると考 えている。また,音楽教育におけるこのような問題を考えるとき,「教える」ということ が,っねに「教えない」ということを含んで成立していることに気づかずには居られない。

3.「技能」と練習について

 さて,前項で引用した八木の「技術」が,ひとりひとりの学習者に内化されたものを,

「技能」といってよいであろう。そして音楽の学習とは,そのような「技能」を中核とし て成立する内容を,「技能」を通して内化することである。この意味で,音楽の学習は「技 能学習(ski111eaming)」である。ただしこの「技能」は,必ずしも,表面的に「楽器の演 奏」のような何らかの行為をともなっていない場合もある。

 たとえば,演奏を聴くことは,表面的には受動的な過程である。しかし,曲が演奏され るのは,技能においてである。そして,曲と演奏の音楽的内容は,技能において具現され ている。それゆえにその内容は,再び「聴く技能」を介して聴かれなければならない。

 それはちょうど,「言語」の能力と似ている。ある人とある人とが日本語を通じて会話を するとき,話し手の話すの(whathespeaks)は「日本語」であるが,話し手のいわんとするこ

と(whathemeans)は「日本語」ではない。そこでは,「日本語」は表現・伝達のために 使用されているにすぎない。一方聞き手は,「日本語」を介して話し手のいわんとするとこ

ろを「聴く」しかないが,その時彼は,「日本語」を聴いているのではなく,「日本語」の 能力を用いて,話し手の発する意味を聴いている。ところでこのような「言語」の能力の 発達のためにも教育は行われるが,それは決して,「言語」そのものを聴けるようになるた めに行われるのではない。「言語」の能力の発達のための教育を受けないものは,思考を伝 えることはおろか,思考することさえできないのである。そのために言語の教育は行われ るわけである。

 このような意味において,「音楽を聴く」ためには「技能」,つまり「音楽的能力」が要 るのである。また,このような意味において,「技能」を身につけ,発達させるための教育 が行われなければならないのである。だから「演奏を聴くためには技能が必要だ」という

ことは,「長調や短調を違ったものとして聴き,感じとれる」とか,「種々の和音のひびき を違ったものとして聴き,感じとれる」とかの「聴く能力」が,音楽を「聴く」ことの基 底として,音楽を聴くときにいつも働いているということである。その意味でこの「技能」

とは,「音楽的聴感覚」や「音楽的技能」,つまり「知覚運動技能(perceptua1−motor skill)」

であって,先の「技能学習」は,「知覚運動学習(perceptua1−motor leaming)」や「感覚 運動学習(sensori−motor leaming)」を含むものである。

 以上のような理由から筆者は,音楽の教育においては,「聴く」ということを「技能」と

して積極的に取り上げ,それを表面的に能動的な他の技能と同様に,習得させることが,

(5)

重要であると考える54)

 しかし「技能」とは,例えば聴いたときの「感じ」とか,歌うときの「息の使い方」や

「のどのかたち」などのように,学習者が自らの肉体の感触を通して得る「主観的な法則 性」によって成り立っている。そしてそのような技能に習熟することは,経験的な反復練 習を積み重ねることによって,個人の行為の内にそのような法則を把握し,かつそのよう な法則に従って行為できるようになることである。それゆえ,技能とは,客観的な知識と して他人から伝えられるものではない9)確かに技能にまつわる知識や,技能を科学的に分 析した結果等を聞くことは有益である。しかしそれでもなお,最終的には,練習によって

しか技術は技能として内化されることがない。そこで「聴く」ことの技能も,練習によっ て習熟させることが必要であると考えざるを得ない。

 っまり音楽の学習は,「学習された後に練習によって習熟される」のではなく,「練習に よって初めて,技能を中核として学習される」のである。

 ただし一般的に,「歌う」とか「演奏する」などの表面的に能動的な技能は,練習させや すく練習しやすいのに対して,「聴く」という表面的に受動的な技能は,練習させにくく練 習しにくい。それは,前者の場合,習熟の度合いが表面に現れ,指導者も学習者もそれを 外見的に判断しやすいのに対して,後者の場合,習熟の度合いが表面に現れないため,指 導者がそれを評価できないばかりか,学習者さえそれを自覚できないという理由によると 考えられる。また,後者の練習のためには,つねに弾いたり歌ったりして聞かせてやる者 が必要であることも,練習の行われにくい一因であろう。

 そこで,開発中のCAIシステムでは,音を発生させることによって,教師についていて もらわなくても,ひとりで学習できるようにするとともに,練習を重ねながら,技能の習 熟について自分自身で確かめられるような機能を持たせることを第2の条件としている。

このシステムでは,このような技能の練習も学習者が自発的に自由に行えるような,ドリ ルモード(練習演習様式drill and practice mode)のコースウェアが,大半を占めること

になるぎ)

 ところで,Bloomら(1971)によれば,学習においては,その適当な時点において診断 のための形成的テストを行い,その結果に応じて,個人に即した治療的補償的指導を行う

ことが必要であるとされている曽)そして一般的なCAIのチュートリアルモードのコース ウェアでは,このような機能をコースウェア自体に持たせてあることが多い。

 しかし,先に述べたように,技能の習熟による学習をその中核とする,音楽の学習のた めのCAIでは,ドリルモードのコースウェアが,多くの部分を占めることになると考えら れる。そこで,ドリルモードのコースウェアにも,ドリルの学習履歴によって形成的評価

を行い,その結果に基づいて,学習者に即したチュートリアルモードのコースウェアを呼 び出したり,それを学習することを勧めたりするメッセージを出したり,あるいは異なる

ドリルをさせたりする機能を持たせることが必要であると考える。このように,ドリルが,

単なる「学習の後の習熟」のためだけではなく,「ドリルによって学習する」という意義を

も有しているならば,単にドリルコースを量的に増やすだけでなく,そこでの学習におい

ても適切な指導・フィードバックがなされるように,コースウェアを組む必要があると考

えている。

(6)

348

長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第4号

4.教師による「学習状況の把握」について

 さて,ここまでは,「音」そのものによる「技能の習熟」を中心とした,自発的で自由な 個別学習のために,音楽のCAIシステムを開発しようとしていることを述べてきた。

 しかしCAIは,教師に代わって子供を教えるものではない。CAIとは,教師がそれを用 いて子供を教えるものとして,位置づけるべきである。その意味で,CAIシステムを子供 に与えるには,それを用いた個別の学習を,教師が自分の学習指導全体の中に位置づけ,

そこへ子供たちを導き,そこでの学習状況を把握し,必要に応じて彼らに適切な指導を行 うことができなければならないと考える。そこで,開発中のシステムは,学習履歴を記録 し,教師がそれを見ることができるような,「学習状況の把握のための機能」を有すること を,第3の条件としている。

 もっともそのような機能がなく,音に関する機能だけを充実させたシステムでも,学習 者の主体的な学習の役に立つことがあるかもしれない。しかしそのシステムは,役に立た ない使い方をされたときに,教師がすぐその状況を把握して学習者を個別に指導するため の情報を,教師に与えることができない。また,そのようなシステムは,システムの使わ れ方を調べて,それをより良いシステムに改良してゆくための情報を,たくわえることが できない。そこでこの第3の条件を必要とするのである。

 それから,CAIシステムが,教師による学習状況の把握のための機能を持つということ は,このシステムに,もう一つの可能性を持たせることになる。それは以下の点において

である。

 そもそも音楽の学習には,これまで述べてきたように「聴こえ方」「感じ方」のような,

「情緒的・感情的(affective)」な要素が深く関わっている。それに対して従来のCAIの研 究では,主として「認知的(cognitive)」な教材が取りあげられており,「情緒的」な要素 を多く含み持つような教材に関する研究は,充分でなかった。筆者はこのような「情緒的」

な要素は,音楽においては「技能」と不可分であると考え,むしろ「技能」の自発的で自 由な学習を保障することによって,各学習者の内で「情緒的」な要素を満たした学習が成 立することを期待し,そのような練習を重視したCAIシステムの開発を計画したのであっ

た。

 それでは,CAIの利用を含んだ教師の教育活動の中で,学習の「情緒的」な要素に対し て,教師は何ができるだろうか。また教師に対して,CAIシステムは何を提供できるだろ うか。この問題を考察する上でのひとつのヒントとして,Falzetta(1973)の見解をここに 取り上げようと思う。彼は以下のように述べている。

 CAIは「認知的」な教育過程において有効であり,教師はそのような教育からある程度 開放されて,むしろ「情緒的」なことがらを充分に扱えるようになる。そのような状況の 中で,教師は,「コンピュータと学習者との仲だち(human interfacebetweenstudentsand machines)」をすることができる。そして教師が,自らの教育システムの中で,自らそのよ

うな役めを果たすことによって,教育環境を「人間化(humanization)」することができ

る。その中で,「認知的」と「情緒的」の2つの領域のバランスがとれたカリキュラム,し

かも子供の生活や学習過程に即したカリキュラムを用意することによって,コンピュータ

(7)

は,教育の「人間化」のための重要な道具になり得る9)

 Falzettaの見解は以上であるが,彼は「情緒的領域」として「価値(values)」とか「気 分(feelings)」などを掲げている。これらはまさに「情緒的」な中核を持つ内容である が,技能を介して学びうるようなものではないので,専ら教師が扱うが,その際に教師は,

CAIと学習者との間のインターフェースとなって,「認知的学習」と「子供」との間にでき た「情緒的なすきま」を,自ら埋めてやることができる,そしてそのことによって,その

ような教育を人間的なものとして成功させることができるというのである。

 音楽のCAIにヒントとして取り入れたいのは,まさにこの点である。つまり,技能はあ くまで練習によって学ばれ,その際CAIは学習者に自発的で自由な学習環境を保障してや ることができる。しかし,それぞれの学習者が,技能の「情緒的な要素」をうまくっかめ ないで学習が滞っている時,何か教師がしてやれることがあるはずである。それは学習へ のほんの小さなキュー(cue)を与えることかもしれないし,単にはげましてやることかも

しれない。また,「教師のことばによる情緒的な啓発(決してことばで定義することでなく)」

であるかもしれない。そのような必要があったときに,いつでも教師が,CAIと学習者と の仲だちになって働き,教師のみの教育環境よりも,CAIのみの教育環境よりも,人間的 で柔軟な環境が作り上げられれば,そのときにこそ,人間のためのシステムとして,CAIが 使いこなされたことになると考える。

 この項の前の方で述べた,教師による学習状況把握のための機能の,もう一つの可能性 とは,このことを指したものである。筆者は,学習履歴をデータとして蓄積し,教師に学 習状況を把握させることによって,教師自身がそれをもとにして,ここに述べたような CAIと学習者との仲だちをすることを,システムが支援できるのではないかと考えてい

る。その意味においても,この第3の条件は,欠くことができないと考えるのである。

5.おわりに

 以上,「音楽の教育内容とは何か」を問題にしながら,開発中のCAIシステムについて,

3つの観点から論述してきた。そして,このような考察を終えるにあたって感じることは,

CAIに限らず,教育工学の成果を具体的に適用して教育を行う時には,つねに,あるギャッ プを越える努力をしなければならないのではないか,ということである。そしてそのギャッ プとは,「技術(technology)」としての「教育工学(Educational Technology)」と,「人 間の術(Art)」としての「教育の術」とのギャップなのではないだろうかということであ

る。

 ただしこれは,教育工学は本質的に教育の術以下であるという意味ではない。音楽の学 習において,学習者の前に存在する「技術」の体系を,学習者が音を通して学習すること

によって,彼の「術」とすることができるように,技術はむしろ使われてはじめて,教育の 術になるのだと考えるべきであろう。しかしそのような問題に関する研究が,教育工学の 具体的な成果にかかわった形では,ほとんど行われてこなかったのも事実である。そこで今 後,このような方向での考察を行ってゆく必要があると考えている。

 なお,筆者が実験的に開発したマイコンによるCAIシステムでは,小論に述べた3つの

条件を,充分ではないが満たしている。そのシステムを用いた実験の概要と結果の一部に

(8)

350

長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第4号

っいては,既に発表した曾)またその詳細については別の機会に公にするつもりである。そ れとともに,今後これらの条件を充分に満足するようなシステムの研究・開発を行ってゆ

く計画である。

(1)横尾能範,鈴木寛,横田幸代,永岡慶三「鍵盤楽器演奏練習の自動評価システムについて一シンセ  サイザー演奏のコンピュータによる計測と分析一」国立大学教育工学センター協議会研究発表論文集  1979・10参照

(2〉八木正一「小学校音楽科における教科課程構璋に関する一考察一っくる学習活動を中心とした教科

 課程構成への一視点」日本教科教育学会誌1979,10:第4巻第4号p59

(3)この「個性のために語らない」ということが,芸術の教育において必要であることを示す2つの例を  ここに記す。両例とも音楽の専門教育に関するものであるが,音楽の一般教育が,画一的な音楽文化教  育となってしまわず,音楽芸術へ真に児童生徒を導くことを目的とするなら,むしろこのような専門教  育における教師の悩みを,一般教育の教師は同感できるものであろう。

  (ジャック・ティボー(バイオリニスト)が,ユジェーヌ・イザエに師事していた時のエピソードを語っ

 たもの)

 「そこで私はイザエに尋ねました(彼が簡単に教えてくれるだろうと考えて)。『このフーグはどんな風に  弾いたものでしょうか。』先生はしばらく考えていましたが,やがて彼の答えによって私の期待はこなご  なに打ち砕かれました。『何だって!このフーグは立派に弾かれなければならない。それだけだよ。』初  めは私も腹が立ちましたが,よく考えてみますと,彼の考えは,もし彼が私に教えてくれたら,私は彼  と同じ演奏をするに違いない。ところが,彼が私にやらせたいのは,私がこの曲の自己版をっくり,私

 の創意に信頼させようとしているのだということがわかりました。』F.H.マーテンス 高杉忠一訳

 (1973)『バイオリン技法』p.166

 「真の芸術的な意味での曲の解釈は,直接手をとって教えることはできない。なぜなら,独力での創造  的なとらえ方以外に真に芸術的なものはあり得ないからである。教師から伝えられた二次的なものは,

 純粋に創造的な芸術の名には値しない。したがって,教師がすべての生徒に自分自身の解釈を押しつけ

 ることは大きな誤りである。」

  イヴァン・ガラミアン アカンサス弦楽研究会訳(1965)『ヴァイオリン奏法と指導の原理』

(4〉加藤周一は,芸術教育における技能の問題について,以下のように述べている。「芸術教育の内容その  ものは,眼や耳の訓練,またはそのこととむすびついて,手足の訓練を基礎として,知識を主にすべき

 ではない。なぜならそれが芸術という現象の要点だからであり(後略〉」「現代教育学」vol.8,P.

 20『今日における芸術教育の意味と問題』1960

(5〉清原道寿・松崎巌(1966)『技術教育の学習心理』参照

(6)Bloom,B.S,Hast三ngs,」.T.&Madaus,G.F.(1971) Handbook on Formative and Summative

 Evaluation on Student Leaming

(7)Falzetta,John N. Computerization:A Key to Humanization ,Association for EducationaI  Data Systems Annual Convention(New Orleans,Luisiana,Apri口6through19,1973)

(8)「パーソナルコンピュータによるCAI・CMIモジュールシステムー音楽のCAIのための実験的研究

 一」拙著,日本科学教育学会年会論文集4,pp.41〜42,1980.8

参考文献

○『音楽的能力に及ぼす放送教育の効果について』石川桂司 岩手大学教育学部研究年報,第36巻,pp,

(9)

279〜297,1976.11

0『コンピュータによる楽音認識の試み』北垣郁雄;清水康敬;末武国弘,日本音響学会誌,第33巻,第9

号,pp.464〜469,1977.9

0『音楽教育と視聴覚機器』星 旭,宇都宮大学教育学部教育工学センター紀要,第1号,pp.15〜17,

 1978.3

0 Design and Evaluation of a Concerto Simulator Ikuo Kitagaki,Chiaki Sakaguchi,Yasutake

 Shimizu and Kunihiro Suetake,Educational Technology Research,voL11977PP.33〜37 0『音程指導における教育工学的方法(1}一吹奏及び発声における音高一』山下太利;前田健吾;渡辺欣

也,日本教科教育学会誌 1980.4.第5巻第2号 pp.25〜29

0『マイタロコンピュータを用いたピアノ基礎練習者の奏法特徴抽出とその評価』北垣郁雄;末武国弘,国 立大学教育工学センター協議会研究発表論文集1979.10

参照

関連したドキュメント

シークエンシング技術の飛躍的な進歩により、全ゲノムシークエンスを決定す る研究が盛んに行われるようになったが、その研究から

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と

「自然・くらし部門」 「研究技術開発部門」 「教育・教養部門」の 3 部門に、37 機関から 54 作品

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

FSIS が実施する HACCP の検証には、基本的検証と HACCP 運用に関する検証から構 成されている。基本的検証では、危害分析などの

脱型時期などの違いが強度発現に大きな差を及ぼすと

市民的その他のあらゆる分野において、他の 者との平等を基礎として全ての人権及び基本