■弘前大学哲学会 ( 論文)
ヘーゲルのカン ト解釈 と‑‑ゲル論理学
卜古谷 純
1.は じめに
ヘーゲル論理学は,哲学史において独 白の位置を 占めている.それはへ‑ゲル論理学の もっ独特の性格 による.その特徴を挙げる とすれば,次の二点に要約す ることができるで あろ う.①‑‑ゲルのい う 「 論理」は ,単 に思惟す る 主体にのみ属す る主観的な ものでは な く,事物の木質その もので もあって,論理学が 卜 l J l r 封こ存在論の性格を持つ.②その論理 学の契機をなす ところの諸々のカテゴ リーは,経験的に拾い 吊デられた り,既成の判断表 か ら演押 された りす るのではな く, カテゴ リーそれ
l⊥ 1 身か ら,いいかえれば概念の自己運 動によって必然的な仕 j jで導出される.( 隷そ して,その j J ' 法をなす ものがすなわち弁証法 であって,それによって論和学は対立お よび統一の 三肢構図に 甘かれた ▲ つの体系 として 叙述 され る.以 r . がヘーゲル論坤学の '
(二 な特徴であるが,実はこ うした‑‑ゲル論理学の 特徴をなす主要な契機は,すでに‑‑ゲルのカン ト解釈の うちに示 されている
(1) . カン ト 哲学が‑‑ゲル論理学に人きな影響を F 3 ‑ ‑ えた ことは,‑‑ゲルが 『論理学
』のいたる とこ ろでカン トに 言及 していることか らも明 らかであるが, とりわけヘーゲルが三批判の巾で も 「 主たる事柄」(
ⅩⅩ‑339)である とす るカン トの理論哲学の liえた影響は大きい.本稿 はカン トの理論哲学に対す るヘーゲルの解釈( 2) をた どりなが ら,そ こに示 され る‑‑ゲル 論理学の源泉 としてのカン ト哲学の性格 を明 らかにす る.
2.
統覚
カン トの理論哲学において‑‑ゲルが高 く評価 し,『論理学』の成 立に大きな影響 を与 えた と思われ る ものを,人き く凶つ挙げることができる.すなわち, 「 統覚」 , 「 アプ リオ リな総合判断」 , 「 ア ンチ ノ ミー」 ,そ して 「 カテゴ リ
ー」がそれである.以 卜, これ らのカン ト哲学の根本概念に対する‑‑ゲルの解釈を,『 論理学』との関係を念頭に置きなが ら, 具体的に見てい くこととしよ う.
上に挙げたカン ト哲学の r J t l つの根本概念の うち,‑‑ゲル論理学に最 も人きな影響を与
えた ものは,おそ らくカン トの統覚の理論であろ う.ヘーゲルの統覚解釈の特徴は,その
活動性 を強調す る点にある(
:i).「 統覚はむ しろそれに よってHかが私の意識の うちに定 立
され る活動である」 (
ⅩⅩ‑343/344).しか し,意識 とい う単純な ものの うちに何かが入る
ためには,それ もまた
l■」じく甲純な ものでなければな らないであろ う.か くして‑‑ゲル
によれば,統覚は感覚の多様 を意識に取 り込む活動である と同時に, 多様な ものを自我の
うちで単 一 化 し総合す る活動である. ところで, この 単 ・ 化の作用が生み出す ものは 「 私
の もの」であ り, 自我である.それゆえ, 自我はF J 1 分 [ ' j身を生産 している.か くて統覚 と は,他のものに関係することにおいて自分t ' J 身に関係する純粋な口己関係, 自我即自我で ある.そ して, 自我のこの単一一 化の仕方が抽象 され取 り出され ると,それがすなわち純粋 悟性概念,カテゴ リーなのである.
‑ーゲルは統覚 と概念の関係について
,『論理学』の第 三巻 「 概念論」に付 された序論
「 概念一般について」の巾で,詳 しく論 じている.その中でまず‑‑ゲルは, 自我 と悟性 の関係についてのわれわれの常識的な見方について述べている.それによれば,われわれ は通営, 自我 と悟性の関係について考える場合,両者の関係を外面的な ものとして捉えて いるとい う.‑‑ゲルは 言う
.「 常識的な 仕 方で, 自我が もつ悟性について語 られる場合, 人はこれによって 一つの能力,または一つの特性を理解する. この場合, これ らの能力ま たは特性は自我に対する関係の うちにあるのであるが,それはち ょうど物の特性が物その ものに対 して‑ つま り,物の特性の兵の根拠および規定者ではない ところの 一個の無規 定的な基体に対 して‑ あるの と同様である. こうした表象によれば,私が衣服や色や他 の諸々の外面的特性を持つの と同様に, 自我 も諸々の概念を,また概念そのものを持つの である
」 (Ⅵ‑254).すなわち,‑ーゲルによれば,通常, 自我 と悟性の関係は,実体 と偶 有性の関係 と考え られている.まず最初に,基体 としての自我があるが, この自我は感性 や理性,構想力等,様々な能力を持っている.そ して,そ うした諸々の能力の一つ として 悟性がある, とい うわけである.それはち ょうど物 とその物の もつ諸性質の関係 と同様で あって,=一 方が持つ もの とな り,他方が持たれるもの となる.か くして 自我 と悟性の関係 は,外面的な所有の関係である. しか も,悟性は一方で概念の能力であるとも言われる.
そ うすると, 自我 と悟性の関係が外面的である以上, 自我 と概念,概念そのものの関係 も また,持つ持たれ るの外面的な関係 とな らざるを得ない.か くして,私が衣服や色な どの 外面的性格を持つの と同様に, 自我 もまた諸々の概念を,すなわちカテゴ リーを持つので ある.
こうした 自我 と悟性についての常識的な見方に対 し,‑‑ゲルは,カン トは自我 と悟性, あるいは自我 と概念の外面的な関係を乗 り越えた と言 う
.「 カン トは諸々の概念お よび概念 そのものの能力としての悟性の, 自我に対するこうした外面的な関係を乗 り越えた.概念 の本質をなす統一が統覚の根源的‑総合的統一 として,すなわち 「 我思 う」または自己意 識の統一 として認識されたことは,理性批判の中に見山される最 も深 く,最 も正 しい見解 に属する
」(Ⅵ‑254).‑ーゲルはその根拠 として
,『 純粋理性批判』か ら次のような箇所を 引用 している
.「 客観 とはその概念において所与の直観の多様が結合 されているところの も のである.しか し, 表象のあ らゆる結合は,表象の総合における意識の統一を必要とする.そ れゆえ, この意識の統 一は,それのみが表象の対象に対する関係を, したがって表象の客 観的妥当性を・ ・ . 構成するところのものであって,悟性の可能性でさえもこれに基づ く
J(Ll)ここで‑‑ゲルが最 も注 目するのは,最後の 「 悟性の可能性でさえもこれに基づ く」 とい
う箇所である. ここには,悟性の可能性が統覚の意識統一に基づ くとい うことがはっき り
と言われている. これが意味するものは,一体何であろ うか.それはすなわち, この統覚
の続‑一 において自我 と概念 とが直接にイコールで結ばれ,概念が 自我そのものの作用 とな る, とい うことである.なぜな ら,カン トによれば,悟性は概念の能力にはかな らないか らである.概念の能力である悟仲が統覚に基づ くものである以上,概念 もまた統覚の うち に基礎を持つ とい うことになるのである.
常識は一方に
F' l我があ り,他方にその所有物 として概念があると考える. しか し,そ う した表象においては,た しかに概念はR我に属すると言われるものの,概念がどこまでも 自我の外に存在 し, 臼我に とって単なる付属物で しかない. したがって, このような表象 を前提する限 り,た とえデカル トが行ったように 「 我思 う」によって自我の確実性を保証 することができた として も,それは必ず しもそれに属する概念の確実性を意味せず,そこ では概念は依然 として偶然的な ものに とどまる.これに対 し,カン トは概念の能力として の悟性の根底に統覚の統 ・ があるとして,悟件を直接統覚の上に基礎づけた.それによっ て,概念は統覚そのもの と同 一 視 され ることにな り, ここに概念はそれまでの偶有的な性 格を脱 して, 自我に とって木質的な もの となるのである,
へ‑ゲルはこの日我 と概念の同 一 件の うちに,概念の自己規定‑の方向を見ている.統 覚の統 一 は単純なF l己
r'; i ‑であ り,それ 自体 としては無規定的な ものである. しか し,い まこの統覚の統 ・ に概念が基礎づけられた とい うことは,概念が規定性である限 り,統覚 がそれ 自身の うちに区別を含む ことを意味する. ここに‑‑ゲルは単純な統 ・ か ら区別, すなわち概念‑の推移を見るのである.‑‑ゲルは 言う, 「これに対 して,表象の客観的 規定の原理はただ統覚の超越論的統 一 の原則か ら導き
出されねばな らない
」(Ⅵ‑254/255)と.つま り,‑〜ゲルは,カン トが悟性は統覚の続 ‑ に基づ くと言ったのを統覚の側か ら 捉え返 して, これを統覚の統一 一が, 自己日身を分割 して諸々の概念 となる, とい うよ うに 解釈するのである.か くして, ここに ( 概念の口己規定) とい う理念が現れる.‑ーゲル が 『 哲学史』の中で, 「カン ト哲学の真相は,思惟がそれ 白身において具体的な もの,
自分白身を規定するもの として捉えられ るとい うことである」( XX‑ 3 31 )と言っているのは, 主 としてこ うした統覚の自己規定の原理を指 しているであろ う.
しか も,統覚の統一 と不可分 とされるこの概念は, カン トによれば, 自我に属する単な る主観的な ものではな く,同時に客観を構成するもので もある.すると, 「 1 我が概念を持 つ とい うのは, 自我は単に概念を持つ とい うに とどまらず,対象を持つ とい うことで もあ る.‑ーゲルはこの点に関 して,先の 『 純粋理性批判』か らの引用に触れなが ら,次のよ うに言っている. 「この叙述によれば,概念の統一一とは,それによってあるものが単なる 感情の規定,直観あるいはまた単なる表象ではな く,客観であるところのものであって, その客観的な統一 こそ臼我の
rl分 R身 との続
‑ ‑‑ ‑ である.‑ ある対象の概念的把握 とは実 際, 自我が対象を自分の もの として, これを貫通 し, これを自我L E J有の形式‑,すなわち そのまま規定件であるような普遍性‑,あるいはそのまま普遍性であるような規定性‑ も た らす ことにはかな らない.‑そ れゆえ,対象はこの客観性を概念においてもつ.そ して,こ の概念は自己意識の統一であって,対象は自己意識の続 ・ の中に取 り入れ られたのである.
だか ら,対象の客観性 または概念は,それ 自身意識の本件にほかな らず, 自我そのもの以
外のいかなる契機 または規定を ももたない
」(Ⅵ‑255).さらに,この後の ところでは,もっ とはっき りと次のよ うに言われいる
.「 前にカン トのカテゴ リーの演縛か ら次のことが挙げ られていた.すなわち, この演縛 によれば,客観 とはそれ において直観の多様が結合 され ている ところのものであるが, この統 ・ こそ l i l己意識の統 一によるものにはかな らない, とい うことである.それゆえ, ここでは思惟の客観性がはっき りと言い表 されてお り,概 念 と物 との「 司 一性が,そ して この同 一性が真理であることがはっき りと言い表 されている」
(Ⅵ‑262).
通常の I L : ̲ 観的観念論 も,対象を意識の うちに取 り入れ る とい う点では,統覚 と変わる と ころはない. しか し,その場合, 主観的観念論 においては,それ らの対象は表象 として, 感覚に対 して現れ るその外面性 を保持 したままで意識の うちに取 り入れ られる. これ に対 して,統覚は対象をその外 面性のままに放置せず,対象を概念 とい う自我凶有の形式にお いて 単一化 し, この概念 としての対象を取 り入れ るのである.そ して,ほかな らぬ この概 念が, カン トによって多様な表象を統一一し,客観を成立 させるものだ と言われているもの なのである.か くして,概念の統
一が統覚の総合的統 一 として把握 された とい うことは, 自我がそれ F l 身を諸々の概念‑ と展開す ることである とともに,対象が 自己意識の統 一の 中に取 り入れ られ る とい うことで もあるのである.‑‑ゲルはここに概念が同時に存在で もある とい う,いわゆる客観的観念論の萌芽を見ている. もっとも, この概念は対象の客 観性 をなす ものである と言われ なが ら, この対象が上観的な ものたる現象であるこ とに よって,再び 1 二 観的な ものである.それゆえ,‑‑ゲル 自身は概念の客観性 に到達す るに カン トと l 司じ方法を もってせず,感覚的意識を純粋概念の領域である絶対知‑ と高め, こ の絶対知において概念 と対象の同一性 を保証する 『 精神現象学』の迂路を通 って したので あるが,それで もカン トが概念がそのまま対象 と「 亘 トー であるよ うな この概念の客観性 に到 達 した とい う事実を‑‑ゲルは高 く評価す るのである.
こ うして,われわれ はカン トの統覚の考察 を通 じて,概念の 自己規定 と概念の客観性 と い う群念に到達 したのであるが, この 自己規定す る客観的な概念を‑‑ゲルは 「 絶対的概 念」 と名づけている.そ して,‑‑ゲルによれば,カン トの哲学史上,歴 史上の位置はこ の絶対的概念 とい うことによって規定 される.ヘーゲルは 『哲学史』のカン トの項で,吹 の よ うに言 っている, 「 か くして, F l 7 分 白身を思惟 し, 自分の うちに入 ってい く絶対的概 念 こそ,われわれが ドイツに現れ るをの 目にするものにほかな らない.その結果, R己意 識にはあ らゆる存在が含まれ ることになる」(
ⅩⅩ‑332)と.
3.
アプ リオ リな総合判断
とはいえ,統覚においては, この 自己規定する客観的な概念はあ くまで 一 つの理念 とし
て語 られているにすぎず,その具体的な展開が1iわれているわけではない.カン トの統覚
は単に統一一 か ら区別‑の推移の必然性,あるいは絶対的概念の原理 を宣 言す るに とどまっ
ている.‑‑ゲルによれば, この統覚の 自己規定の原理を具体的に実行す るものが,実は
アプ リオ リな総合l ' ‑ ‑ l J 断なのである.‑‑ゲルは言 う
.「 少 し思惟的な観点で これが意味す
ることを反省 してみ さえすれば,区別がそれゆえ l 司様に概念の本質的な契機 と見な され る とい うことが分かるであろ う.カン トは 「 アプ リオ リな総合判断がある」 とい う最 も重要 な思想によって この考えを取 り入れた. この統覚の根源的総 合はJ L i 弁的展開に とって最 も 深い原理の一つである
」 (Ⅵ‑260). この引用 を見ると,統覚 とアプ リオ リな総合判断は同 一の ものを指 しているよ うに も見えるが,厳密にはそ うではない.両者の関係は根拠 とそ の帰結の関係であ り,統覚の統一がアプ リオ リな総合判断の前提をな している.統覚その ものは,アプ リオ リな総合判断のよ うに区別を展開 させ る活動ではない.それはあ くまで
「 我思 う」の絶対的同 ・ 性に基づいた 「 1 己規定の理念であ り, 単純な統 ・ か ら区別,ある いは概念‑の推移の可能性であるにすぎない. これ に対 し,アプ リオ リな総合、 l ' ・ ・ u 断は, こ の
rT
J能性 に基づいて実際にこの統一をI x こ 別 し分割す る活動である. ここか ら‑〜ゲル とカ ン トの立場の違いは明 らかであろ う. カン トは 『 純粋理性批判』において,アプ リオ リな 総合判断 を提示す ることか ら始めて,そ こか ら根拠にさかのぼる形で続ノ 削 こ到達するので あるが,‑ーゲルはフィヒテ同様, これ を統覚の側か ら捉 え返 して,統覚を第
‑‑ の もの と し,その延長上にアプ リオ リな総合判断がある と考 えるのである.そ して,最終的に‑ー ゲルは このアプ リオ リな総合判断の うちに,カテゴ リーの体系的展開のために原理を見出 す ことになるのであるが,‑‑ゲルが実際にどのよ うに して こ うした考えに到達するのか,
‑ーゲルの解釈を具体的に見てみ ることとしよ う.
‑ーゲルのアプ リオ リな総合判断に対する解釈は,‑〜ゲルの次のような表現の うちに 卜分に表れている.すなわち,‑ーゲルは 『エンチュクロペデ ィ ー』 の巾でカン トの批判 哲学に言及 した際に, このアプ リオ リな総 合判断 とい う語にわざわざ括弧を付 して, これ を 「 対立す るものの根源的関係
」(Ⅶ‑11 3) と言い換 えている.つま り,ヘーゲルはカン ト のアプ リオ リな総合判断において,対立す るもの‑ ここでは主語 と述語‑ が関係づ け
られ,それが統 ‑ され るとい う点にその木質を見るのである.‑ーゲルによれば, 一 般 に 判断において,主語 と述語は前 者は特殊,後者は普遍 として
JL
Iu、 に対立 し合 うものである.
したが ってまた, この両者はそれ 自体 としては何の関係づけも持 っていない.アプ リオ リ な総合判断は この非 同 一 な ものに対 して,その絶対的な 同 一性 を表明するのである( 5) .
‑‑ゲルは 言っている, 「 カン トは概念のアプ リオ リな総合において, 二元性が統一にお いて,したが って兵理のために要求 されるものが認識 され うる高次の原理を見出 した
」(Ⅵ‑267)
と.
しか し同時に,アプ リオ リな総合判断は単に統 ▲ である とい うだ けでな く,アプ リオ リ
な統 一である. もし,アプ リオ リな総合判断が単に対立の統 一であるとい うことに終始す
るものであるとすれば,それは単なる外 面的図式の域 を出ないであろ う. しか し,アプ リ
オ リな総合判断はその名の示す通 り,単なる統一ではな くアプ リオ リな統一であ り,思惟
それ 白身か らす る必然的な結合である
.上の引用で‑‑ゲルがアプ リオ リな総合判断を「 根
源的関係」であると言 っているのはこのためである.か くして,‑‑ゲルは 『哲学史』に
おいて,アプ リオ リな総合判断 をいっそ う: l L確 に次の よ うに規定す る
.「 アプ リオ リな総
合判断は,対立す るものの自分 自身による連関, または絶対的概念にほかな らない.すな
わち,区別 された規定の関係,あるいは原l 大 は 結果等々のよ うな,経験によって与え られ るのではない結 合にはかな らない.すなわ ち,それは思惟規定である」 ( ⅩⅩ‑33
6/337).もし,【 天別 された規定を関係づ けるものが知龍か ら汲み取 られ るな らば, この結合は経験 的であって,必然性 を持たないであろ う. これに対 し,アプ リオ リな総合判断は思惟によ る統 ・ であ り,思惟それ R身に内在す る規定による連関である.
そ して, ここか ら‑‑ゲルの解釈の独 自の ものが出て くるのであるが,ヘーゲルはアプ リオ リな総合判断の この思惟による連関を,思惟の 側 か ら捉え返 し,思惟それ 口身が己れ を判断の両規定‑分割す る もの と見るのである.すでに上の引用の 「 対立する ものの 自分 円身による連関」 とい う表現がそれ を
示唆 しているが,‑‑ゲルは 『 論理学』の巾で もっ とは っき りと次の よ うに言 っている, 「 カン トの 自己意識のアプ リオ リな総合,すなわち 自分を分割 し, この分割の中に 自分 自身を維持す る, こ うした統 一 の活動」 (
Ⅴ‑102)と.
ここでは,アプ リオ リな総合判断ははっき りとある主体の活動 として位置づけ られている.
この点は,‑‑ゲルが 『哲
学史』でフィヒテのF ]我について述べた箇所 を見れば,一層明 らか となる
.「 そのまま現実 となっているこの概念 とそのままその概念 となっているこの現 実, しか もこの統 ・ を超 えた第二の思想はな く, またそれは区別や分離を∩分の うちに も たない厄接的な統 一 で もない, こ うした ものは 自我にはかな らない.すなわち,それは対 立す るものの R分 ∩身における
L'
J己差別である.それによって 「 1 我が r E l 分を思惟 の単純性 か ら区別 し, また この他者を区
別す る もの も,同様 【 ′ 1我に とって厄接的であ り, 自分に等 しいかまたは区別 されない.か くして,それは純粋思惟である.あるいは, 自我はカン ト が名づけた よ うに真のアプ リオ リな総合判断である」 (
XX‑389).ここで‑‑ゲルは, 自分 を百分
Fl身か ら区別 し, この区別 された ものにおいて再び 自己 と同等であるよ うなフィヒ テの F L l我をアプ リオ リな総合判断 と呼んでいるのであるが, これは裏を返せば,‑‑ゲル はこうしたフィヒテの 自我の活動に類す るものをカン トのアプ リオ リな総合判断の うちに 見ている とい うことである.カン トにおいては思惟規定は対立する両項に対 して,それ を 結びつける第三者 として外か ら登場す る印象が強いのであるが,‑‑ゲルはそれ をむ しろ 思惟の側か ら見て,思惟それ 白身が 自分を区別 し分割す る活動 として把握す る.これによっ てアプ リオ リな総合判断は思惟その ものの内在的な展開 とな り,か くて思惟 はそれ F ' l身の
うちで具体的な もの として
′」ミされ るのである.
そ して,‑‑ゲルはアプ リオ リな総合判断のこのアプ リオ リな総合,いいかえれば思惟 それ 自身か らする結 合の うちに, カテゴ リーの体系的展開,すなわち 「 概念の自己規定」
のための原理を見出すのである( 6 ) .ヘーゲルはカン トが このアプ リオ リな総合原則によっ て統覚の統一か ら概念を展開 させ,その自己規定の叙述を行 うもの と期待す る, しか し,
‑ ‑ゲルの この期待は裏切 られ る.‑‑ゲルは言 う
.「 カン トは,思惟がそれ 口身におい て具体的であ り,知覚か ら汲み取 られないアプ リオ リな総合判断を有す ることを指摘す る.
その中に存する理念は偉人である. しか し,展開その ものはまった く常識的で粗雑な経験
的 見解の内部に とどま り,決 して学的性格 を要求す ることができない.叙述には哲学的抽
象の欠乏があ り,最 も卑俗な仕方で語 られている.粗野な術語についてはこれ を言わない
に して も, カン トは心理学的見解 と経験的手法の巾に依然甘」 じ込め られているのである」
(XX‑337)
.つま り,‑‑ゲルは,カン トはアプ リオ リな総合判断において具体的思惟の 立場をfl ち 出 しているに もかかわ らず,それを実際に展開 している ところを見る と,それ が こ うした原理に一致 しない と言うのである.その理由 として,‑‑ゲルは叙述の仕方や 心理学的見解 といった点を挙げているが, これだ けではへ‑ゲルの意図するところは明 ら かではない. しか し, 幸いに も,‑〜ゲルはそれ を具体化する形で,『論理学』の巾で も, アプ リオ リな総合判断を深い原理だ と述べた後で,次のよ うに 言っている
.「 ‑ けれ ども, その後の展開が この始元にあま り 一 致 しない.すでに,総合 とい う表現が再び外面的統一, お よび即 且対 日的に分離 しているものの単なる結合 とい う観念に容易に導 く.次に, カン
ト哲学はただ概念の心理学的反映に とどま り,概念が常に
l自 二 観の多様によって制約 される とい う主張に立ち戻っている
」 (Ⅵ1261). ここか らヘーゲルの批 I F 叫の 1 : ̲ 旨は明 らかである
が,それは
(a)言葉の問題 と
, (b)心理学的立場 とい う 二 つの点に整理することができるであ ろ う. ここでは,前者の 言葉の問題はさてお くとして,後者の心理学的立場 とい うことが 重要である.
この心理学的立場 とい うのは,土でヘーゲルが述べているよ うに, 「 概念が常に直観の 多様によって制約 され る とい う主張」のことであ り,要するに概念 と直観の 二元論である が,‑‑ゲルの批、 帥ま,アプ リオ リな総合判断においてこの心理学的な立場が前提 されて いる とい う点に向けられている.そ もそ も,‑‑ゲルがカン トのアプ リオ リな総合判断を 評価す るのは,それが まさにアプ リオ リな統一であ り,概念その ものか らする統 一 である か らであって,彼はそ こに概念の自己展開の原理を見ていたのであった. ところが, カン トはその
一方で, l 自 : 観を欠いた概念は空虚である と言い,概念は直観の多様に適用 されて のみ意味を持つ とい うことがカン ト哲学の根本命題の ・ つ となっている.それゆえ, カン ト哲学においては,概念は実際にはそれだ けでは何 らの展開 も示す ことができず,それが 展開 し内容を持つためには常に感性的な素材を必要 とし,それに依存 しなければな らない.
か くして, カン トの概念はアプ リオ リに総 合だ と言われ るにもかかわ らず,その日己規定 の叙述を行 うことができないのである.
それでは, カン トは概念の 自己規定によらず して,いかに して諸々のカテゴ リーに到達
しうるであろ うか. ここでカン トが用いる 手段は,諸々のカテゴ リーをアプ リオ リな総合
判断 とは別に既成の論理学か ら借 りて くる, とい うことである. しか し, ここで注意 しな
ければな らないのは,いったんそ うした経験的な
什万が採用 され るや否や,統覚の 自己規
定の原理やその具体化たるアプ リオ リな総合判断の必然的な総合は完全に放棄 され,概念
の 自己規定の叙述は行われない ままに終わる とい うことである.‑ーゲルは言 う
.「 カン
トはアプ リオ リな総合原則についての深い考察 を樹 立 し,その根拠 として
t' ]己意識の統 ▲
を,したが って概念の 自己同
・件 を認識 したが,それに もかかわ らず,規定 された連関を,す
なわち関係概念 と総合原則その ものを形式論理学か ら所 I iの もの として採J Hしている.そ
れ らの演梓はあの口己意識の 単 純な統一の, この統 一 の諸規定お よび区別への推移の叙述
でなければな らなか ったであろ う. しか し, カン トはこの兵に総合的な進展の提示を,す
なわち自分 白身を滝山す る概念の捉示を行 うことを しなか ったのである」 (
Ⅵ‑505).か く して,‑‑ゲルはカン ト哲学について次のよ うに 言うのである
.「 カン ト哲学においては, さしあた りただ形式的な什方で,思惟が 自分を自分 白身か ら規定す るとい う原坤が立て ら れているにすぎず, この思惟の [ ' l己規定がいかに して,そ して どの程度 まで行われ るかは, カン トによってはまだ示 されていない
」 (Ⅷ‑147)と.それでは, カン ト哲学においては,概念の L z I L l 規定の原坤は単なる理念, 当為 として示 され るに とどま り, これ に対 して何の貝休的展開 もJ fえることができないのであろ うか.
そ うではない.実は‑‑ゲルによれば,カン トは上に述べた統覚お よび 自我にかんす る埋 説 とはまった く別のルー トを通 って概念の∩己規定の方法に到達 している.それがすなわ ち,われわれが次に述べ る ところの 「 ア ンチ ノ ミー」にほかな らない.
4.
アンチノミー
‑‑ゲルがカン トのアンチノ ミ‑を重要な もの と見ているのは周知の通 りである. しか し,‑‑ゲルによれば,それは 「 カン トが意図す るの とは違 った意味においてである」( XX‑
356)
.すなわち,ア ンチノ ミーは,われわれの認識をp l 能的経験の内部に制限す る といっ た ような意味において重要なのではない. またそれは, 弁証法 との形式的な類似性 といっ た もの とも異なっている.すなわち,‑‑ゲルによれば, カン トのアンチノ ミーにおいて 問題 となっているのは,思惟規定の本件 の問題である.‑ーゲルは言 う
.「ところで,カ ン ト哲学の関心は思惟規定のいわゆる超越論的な ものに匝】 け られたため,思惟規定その も のの議論は何の成果 も産み l H さなか った.すなわち, F ] 我 との抽象的な,すべてに同等な 関係を離れて,思惟規定がそれ 自身において何であるか とい うこと,思惟規定の他の規定 に対す る規定性や,それ ら相
Fl二 の関係は考察の対象 とは されなか った.それゆえ,思惟規 定の本性の認識は, この哲学によっては少 しも促進 されなかったのである. これ に関する 唯 一 の興味ある点は坤念の批判の中に見川され る」 (
Ⅴ‑60/61). ここで 「 理念の批判」 と 言われているものが 「 弁証論」,特 にその中の 「 ア ンチノ ミー」を指 していることは 言う まで もないであろ う.
‑‑ゲルは弁証論 ‑一 般の課題 を 「 無制約者‑のカテゴ リーの適用
」(Ⅷ‑124)と見,そ こに一種の形而上学‑の 方
向を見ている.理性は感性的な ものの有限な関係に とどまること ができず,無制約的な ものを認識 しなければな らない. ところで,認識す る とはある対象 を規定 し,その規定 された内容によってその対象を知ることである. したがって,無制約 的な ものを認識す るためには,それ を規定 しなければな らない. しか し,埋件はそのため の手段 として, カテゴ リー以外の手段を持ち合わせていない.か くして ,弁 証論において は,無制約者‑ の カテゴ リーの適用が問題 となる.そ して,その考察 の過程 で,カテゴ リーの内界が問題 となる と‑‑ゲルは言 うのである
.「しか し,理性がその対象の認識の ためにカテゴ リーを用いる,いわゆる適用の考察 に際 しては,カテゴ リーの内容が,少な くともい くつかの規定に関 して話題になるか,少な くとも話題にされ うる機縁がある
」(Ⅶ‑123/124).
この よ うに,‑‑ゲルは弁証論の課題 を 「無制約者‑のカテゴ リーの適用」 と見るので あるが,無制約者の巾で も,相 性が 世非 とい う無制約者を認識 しよ うとし,それにカテゴ リ‑を適用す る と,埋件 はア ンチノ ミーに陥る.すなわち,理性 は
「 l H
‑J
じ対象について二 つの対立す る命題 を主張す るこ とにな り, しか もこれ らの命題の各々がl司じ必然作 を もっ て主張 されなければな らな くなる」 (Ⅷ‑126).‑ ‑ゲル によれ ば,神性が ここで陥 る矛盾 とは, これ を人 き く言えば, 「有限」と 「無 限」 とい う‑ ‑ゲル哲学の根幹に関わ る二つの規定の矛盾 である.「現象は有限な内容で あるが,埋惟規定は無制約者,無制限者であるべ きである.世 与榊ま制限 された ものの連関 であるが, この内容が理性 によって思惟 され,無限 音の 卜に包摂 され る と,われわれは有 限者 と無限首 とい う矛盾す る 二つの規定 を持つ ことになる」 (XX‑356).われわれ に 与え られた現象の系列は どこまで も制約 された ものの連関であ り,有限な ものであるが, 一万 で理性 はそ うした現象の系列の和 眼な内容に満足できず,無制約 宵において系列を完結 さ せ よ うとす る.か くて, ここに有限 と無l眼とい う互いに矛爪す る二つの規定が生ず ること になる. この有限 と無限 とい う 二つの規定は,凶つのア ンチノ ミーにおいて さらに具体的 に規定 されて,「
制
限性」 と 「無制限性」, 「分離性」 と 「連続性」,「 I L l 日日
と 「必然」等々 といった諸カテゴ リーの対立 として論 じられ るのであるが,いずれ もその基本的な構図は 同様で, 有限 と無限 とい う二つの規定の対立に基づいている.そ して,ヘ ーゲルによれば,カン トのア ンチ ノ ミ‑は この
イ
JJ隈 と無限の対立が世 界や空 間時間 とい った特殊な基体に適用 され,具体的な形式において捉 え られた ものである.「卜
で指摘 した よ うに, カン トのア ンチ ノ ミーは,表象の特殊な基体 に適用
された, よ り具体 的な形態 にお ける有限 と無限の対立の叙述である」 (Ⅴ‑271).た とえば,節 ‑のア ンチノ ミーは物質お よび空間時間に適用 された 「量的な」有限 と無限の対宜の叙述であ り,第 ‑. のア ンチノ ミーは同 じく空間時描
Jに適用 された 「質的な有
限件 と鮒 眼性 との対 立」の叙述 である.しか し,ア ンチノ ミーを 「思惟規定の本性」の考察 と見るヘ ーゲルの立場か らすれば, これ ら空間時間等の,概念に川 縫す る具体的な形式は全 く余許な ものである.なぜな ら, これ らの具体的な衣象は,ア ンチノ ミーの木質をなす思惟規定の対 立を覆い隠 し,それ を 見えに くくす るだ けだか らである.‑ ‑ゲルは 言 う.「さらに,カン トはア ンチ ノ ミーを 概念その ものにおいてではな く,宇
I t i
l諭的規定 とい うすでに具体的な形式において捉 えた.ア ンチ ノ ミーを純粋 に捉 え,それ をその単純 な概念 において取 り扱 うためには,思惟規定 はその適用 において, また世界,空間,時間,物質等の表象 との混合において捉 え られ て はな らず,む しろ思惟規定はそ こでは何の力も威 力も持たない こ うした具体的な素材 を離 れて,純粋にそれだ けで考察 されなければな らなか った.なぜな ら,思惟規定のみがア ン チノ ミ‑の本質 と根拠 をなす ものだか らである」 (V‑217).‑ーゲルに とって,対象を兵 にその対象た らしめているものは概念であって,概念を欠 くとき対象は単なる表象あるい は単なる名前で しかない.人間か ら人間である とい うことを取 って しまえば,それ は もは や人間ではな くな って しま うよ うに,一般 に概念 と区別 されて対象 とされている もので も,
実は概念に依存 し,概念の うちに根拠を持 っている.それゆえ,アンチノ ミーの対立は対 象や表象における対 r l ' I 二 であるかのように見えて,実は概念の対立であ り,そ こでは概念そ の ものが空間時間等の余計な火雑物を離れて,純粋にそれ 日身 として考察 されねばな らな かったのである.
また,カン トはアンチノ ミーを叙述するに当たって,対立する命題のそれぞれについて 詳細な証明 と補助証明 とを行っているが,ヘーゲルによれば これ らの証明 も,あの概念が 無理に押 し込まれている貝体的な形式 と同様に, まった く不要な ものである.なぜな ら, カン トはアンチノ ミーの証明 として,対. 立す る命題の不 合理を示す ことで間接的にその命 題の真を証明す る間接帰謬法的証明を採用 しているが, この間接証明の中には本来それに よって証明され るべきものが顔 を出 し,それが前提 とな って証明が行われ るか らである.
ヘーゲルは 言う
.「しか し,われわれ は直ちに次の ことに気づ くのである.すなわち,証明をH H接帰謬法的に行 うこと,あるいは, ・ 股に証明 され るべ きものの主張を証明その も のの中でそのまま根底に置き,それによって証明を行 うことは不必要であった とい うこと である」 (
Ⅴ‑272).それゆえ,カン トのア ンチノ ミーの証明は,その込み入った論証の外観に もかかわ らず
,「二つの対立す る命題の断片的な主張で成 り立 っている
」(Ⅵ‑ 441 ). し たがってまた,カン トのア ンチノ ミーその もの も,対立す る命題相互の断片的な主張以 卜 の ものを含んでいないのである.
か くして‑‑ゲルによれば, カン トのアンチ ノ ミーの重要な点は,概念に付随す る具体 的な形式やあの細々とした証明の論述にあるのではな く,そ こにおいて 「 仮象の客観性」
と 「 矛盾の必然 性」 が認識 された とい う点にある.「 純粋埋件 のア ンチノ ミーの中にある カン トの弁証法的叙述は,た しかにこれを詳細に考察すれば,‑・ もちろんそれほど褒め ら れ るものではない. しか し,彼が根底に置き,主張 した ところの普遍的理念は仮象の客観 作 と矛盾の必然性 とい うことであ り, この矛盾が思惟規定の本性に属す るとい うことであ る
」 (Ⅴ‑52).ヘーゲルはその根拠 となる箇所を 『 純粋理性批判』か ら引用 して
(7),次の よ うに言 っている.「 カン トはこのア ンチ ノ ミーの概念について,それは脆弁的技巧では な く,理性が必然的に ( カン トの表現によれば)突き当た らねばな らない矛盾である と述 べているが, これは重要な見解である.‑ 『ア ンチ ノ ミーの日然的仮象について, もし 理性がその根拠を洞察すれば,た しかに理性はもはや欺かれ ることはないが, しか し依然 として惑わ され る』
」(Ⅴ‑217).まず第 ・ に,この仮象は客観的である.なぜな ら,ここで 理性の陥る矛盾は相 手を打ち負かすためのまやか しで もなければ,推理や論証における主 観的誤謬で もな く,相 性か ら
不H I 避的に牛 じて しま うものだか らである.第 二に, この矛 盾は必然的である,なぜな ら
,理性は認識のためにカテゴ リー以外の手段を持たず,無制 約 音へのカテゴ リーの適用は必然的だか らである.そ して,以 L ‑ . のことを‑‑ゲルは, 「 矛 盾が思惟その ものの本性に属す る」 ことを示す もの と見るのである
(臼),しか し,‑‑ゲルがカン トのアンチノ ミーの うちに認識す るものが 「 ), 盾の必然性」だ
けだ とい うのでは,成果が少なすぎるよ うに も見える
(9) .けれ ども,その一方で,ヘーゲ
ルは 『エ ンチ ュクロペデ ィー』の中で次のよ うに言 っている, 「この悟性 の諸規定によっ
て理性的な ものの うちに定立 され るX, 盾が本質的であ り必然的である とい うこの思想は, 近代哲学の最 も重要な,最 も根本的な進歩の 一 つ と見られなければな らない
」 (Ⅶ‑126)と.
この‑‑ゲルの記述 を見る限 り, 「 矛盾の必然性」 とい う思想は‑ーゲルに とって非常に 重要な意義を持つ もの と言わねばな らない.それゆえ,ヘーゲルのアンチノ ミー解釈 を理 解するためには, この 「 イ・ 盾の必然性」 とい うことが何を意味 しているのかを検討するこ
とが重要になって くる.
それでは, カン トのアンチノ ミーにおいて認識 された このX, 盾の必然性 とは,一体何を 意味す るのであろ うか. この点は関 して
,『 論理学』の序論 「 論理学の ・ 般的概念」の巾に, カン ト哲学について述べた と思われ る,次の よ うな興味深い箇所がある
.「 けれ ども,認 識が受け取 り,損失 と退歩のよ うに見えるこの転向は,根底に深い ものを蔵 しているので あって, ・ 椴に近 世哲学のよ り高い精神‑の理性の高揚は この点に基づいている.すなわ ち,あの ・ 般的 となった表象の根底は,悟作の諸規定が 口分 自身 と必然的に矛f t J = ] ' す るとい う洞察の中に求め られ るべきである.‑ 上述の反省 とは,具体的で直接的な ものを超 え l I l て,それ を規定 し,分離す ることにほかな らない. しか し,反省は同様に, この日分の 分離す る規定をも超え出て, まず これ らを関係 させなければな らない. この関係づけの立 場において,規定間の矛盾が現れるのである. しか し, この反省の関係づけはそれ r L l 身, 理性に属す る.規定間の矛盾の洞察 に達す る ところのあの規定の 追 出は,理性の頁の概念
‑の偉大な否定の歩みである
」(Ⅴ‑38/39).ここには,矛盾の必然件 とい うことが何 を意味す るものであるかが,はっき りと述べ ら れている.すなわち,ヘーゲルによれば,矛盾の必然性 とは,悟性 の . 面 的な規定が 自分 自身の限界を超越 し,他の規定‑ と関係する, こ うい う思惟規定の超E l i の作
川であ り, し か もこの超出が思惟規定の本性か らして必然的に′ Lじる とい うことにはかな らない.悟性 の働きは 一般にその内容に普遍性の形式を与え,対象に確固たる規定を与えることにある.
しか し,確固たる規定を与 える代わ りに,悟性の立てる規定は一面的であって,その規定
を他の規定か ら切 り離 して固定 して しま う.そ して,悟性は こうした 一 面的で有限な規定
を,それだ けで存立 しうるもの と考え,それ を真実の ものである として固執する. こ うし
た悟性の 一 d l 一 的な規定が本来全体 として存在す る員体的な もの,無限な ものに対 して立て
られ るな らば,無限な ものは 一面的にすぎない ものに旺め られ,有限な ものになって しま
う. したがって,全体たるべき無限な ものを認識す るためには, この ▲ 血的な規定の有限
性 を明 らかにすることで, この凶定 した規定をふたたび動揺 させ,他の規定‑ と展開 させ
なければな らないが,へ‑ゲルによれば,矛盾はその過程でl t ̲ じるものなのである.上の
引用では,ヘーゲルは この作 川 を理性 に属す るもの と言っているが,厳密に 言えば, これ
は 『エンチュクロペデ ィー』にい う論理的な ものの 三側面の うち,第二の 「 弁証法的側面
あるいは内定的埋性的側 面」に属す るものであ り,狭義の弁証法に属する.か くして,カ
ン トのア ンチノ ミーにおいて矛盾の必然性が認識 された とい うことは,そ こにおいて この
狭義の弁証法,すなわち思惟規定のその反対物‑移行が認識 された とい うことである.そ
して,これがへ‑ゲルが 冒 頭で 「 思惟規定の本性」と呼んでいた ものにほかな らない.‑‑
ゲルは 言 う
.「 近 世において再び弁証法 を想起 させ,それ を新たにそれ にふ さわ しい地位 に置いたのは, とりわけカン トであった. しか も,彼はそれを 卜述のいわゆる埋件のアン チノ ミーの考究によって行ったのであって,そ こで問題 となっているのは, 単に埋巾に基 づいて行 った り来た りす ることで もなければ, 単に主観的な行為で もな く,む しろあ らゆ る抽象的な悟性規定は,それが 自分「l 身を示す通 りに受け取 りさえすれば,直接にその対 立物に転化す ることを示す ことである
」 (Ⅶ‑174).そ して, このア ンチノ ミ‑における思惟規定の移行は,先の引用に もあったよ うに,同 時に悟性か ら理性‑の移行である.そ して,それ以前の形
I如上学が上述 したよ うな意味で の悟件に基づき,ア ンチノ ミーがその悟性規定の崩壊 を示す限 り,ア ンチノ ミーは 占い形 而 L学か ら近世哲学‑の移行の役割を果たす ものである
.「これ らのカン トのア ンチノ ミー は常に批判哲学の重要な部分であ り続 ける.それ らは とりわけ,それ以前の形而 L学の崩 壊を引き起 こ した ものであ り,近 世哲学‑の 主要な移行 と見なす ことのできるものである.
とい うの も, これ らのア ンチノ ミーは,特 に内容の面か ら有限性の諸々のカテゴ リーの空 しさの確信を引き起 こす ことに貢献 したか らである
」(Ⅴ‑216).そ してこの点が,先に‑ー ゲルが矛盾の必然性 とい う思想を 「 近代の最 も重要で最 も根本的な進歩の一つ」 と言 った ことの
意味にほかな らない.
とはいえ,われわれはカン トのア ンチノ ミーその ものの うちに,直接 こ うした内容を見 川す ことはできない. カン トの 言う矛盾の必然性はあ くまでカテゴ リーの適用において生 ず るものであ り,‑‑ゲルが 言 うよ うな意味での矛盾の必然性 とは異なっている. しか し,
‑‑ゲル もそのことを知 らないわけではない.‑ーゲルは先にア ンチノ ミーの功績を 「 仮 象の客観惟」と 「矛盾の必然性」にあるとした箇所に続 けて,次のよ うに言 っている.「 た しかに, 〔 その矛盾は〕 さ しあた りこれ らの規定が理性 によって物 自体に適用 され る限 り f f : . ず る性質の ものではある. しか し,まさにこれ らの規定が理性の巾にあ り,それ 自体で あるものに関係 しているとい うことこそ,思惟規定の本性なのである」 (
Ⅴ‑52).つま り,
‑‑ゲルはア ンチノ ミーの解釈において,カン ト白身の立場を無視 して慈恵的な解釈 を行 お うとしているわ けではな く,む しろカン トの立場を理解 した 卜で, さらにそ こに含まれ ているものを明 らかに しよ うとす る立場を とるのである.か くして,われわれはヘーゲル のアンチ ノ ミー解釈を,次のよ うな もの として見ることができるであろ う,‑ ①本来, 矛盾の必然件 とい う思惟は,思惟規定の運動の結果 として矛盾が必然的に/ I : ̲ じるとい う理 性の事実を 言い表 している.② カン トのア ンチノ ミーはそれをカテゴ リーの適用の結果 と して,結論だ けを先行 させ る形で示 した ものである.③‑ーゲルは, このカン トが 言わば 直接的に示 した矛
盾の必要件 とい う結論を
,潮行的にカテゴ リーそれ 自身の作
JHとして読 み取ることで,それ を媒 介された もの として提示 した‑
こ うして,ア ンチノ ミーの最 も重要な成果は思惟規定の反対物‑移行,すなわち論理的
な ものの弁証法的モ メン トが認識 された とい うことであるが,‑‑ゲルは この思惟規定の
運動 とい うことをさらに ▲ 歩進めて,ア ンチノ ミーの うちには この運動によって生 じる二
つの規定が統一の うちにある とい うことが含まれている と言 う
.「 それにもかかわ らず,こ
れ らのア ンチノ ミーを提示 した ことは,それによって ( さしあた りただ主観的で直接的に であるにせ よ)悟性がその分離において固持 しているあの諸々の規定の事実上の統一が 言 い表 され る限 りで,常に批判哲学の非常に重要な,賞賛すべき成果であ り続 ける
」(Ⅷ‑129).こ うして,狭義の弁証法の 肯定的な ものが認識 され,その統 一 一 が認識 され ると,それがい わゆる 「 思弁」の立場であ り,広義の弁証法なのであるが,‑‑ゲルによれば,アンチノ ミーには本来 こ うした思弁の立場が含まれている.そ して,それがア ンチ ノ ミーの 「 真の 肯定的な意味 」 なのであるが,‑〜ゲルによれば, カン トはこ うした 「 アンチノ ミーの兵 の肯定的な意味の認識にまでは突き進まなか った
」 (Ⅶ‑128).なぜな ら,カン トはア ンチ ノ ミーを,矛盾を対象の
側か ら主観の側に置き換えることによって解決するのであるが, そこでは矛盾は依然 として存続 し,矛盾が解かれ ることはないか らである.か くして, カ ン トのカンチ ノ ミーの功絹は,そ こにおいて矛盾の必然性,すなわち思惟規定のその反対 物‑の移行が認識 された とい うことである.そ して, ここに‑ーゲルは先のアプ リオ リな 総合判断においては断念 されていた,カテゴ リーの自己展開のための具体的な方法を見出 すのである.
5.
カテゴ リー
こ うして,へ‑ゲルによれば, カン トのア ンチ ノ ミーは狭義の弁証法をその本質 とし, さらにその延長上に思弁の 立場を も含む ものであるが, こ うしたアンチノ ミーの立場が 一 つの j J 一 法 として確 立するには, さらにそれが 一 つの形式を F j ‑ ・ えられ,定式化 されることが 必要である. この点に関 して,へ‑ゲルに人きな示唆 を 与えているのが,カン トのカテゴ
リーについてのf L t ! 説である.
‑‑ゲルがカン トのカテゴ リーを高 く評価するのは周知の通 りである.その最 も大きな 理山は,カン トのカテゴ リーが基本的に二分法によって区分 されている とい う点にある.
‑‑ゲルは 言う
.「 カン トによれば,十二の根本 カテゴ リーがあって, これが川つの綱 に 分け られ る.そ して,各類が 再び三 件
(Dreiheit)をなす ことは注 目に値する し,また 一 つ の功績で もある」 (
XX‑344).つ ま り,‑〜ゲルは,カン トのカテゴ リ‑が (単一僅 ・数 多性 ・総体性) , ( 実在性 ・吾定性 ・制限性)等々のよ うに,それぞれ 三 つずつに分 けられ ている点をまず カン トの功績 とす るわけである.
本来, カン トのカテゴ リーのこ うした三分法によるL *分は,必ず しも 卜分な根拠 を持つ
ものではない.た しかに,カン トに従えば, これ らのカテゴ リーは、 棚析表に したが って導
仕ほ れた ものであ り,判断表の区分が二分法によってな されている以上,それに従 うカテ
ゴ リー もまた: 二 つずつに
1* ̲ 分 され るのは当然だ とい うことになるであろ う. しか し,それ
ではそ もそ もなぜ 判断表における区分が三つずつでなければな らないか とい うことになる
と,カン トはこれに対 して何の解答 も与えていない.実際,現れ三 のカン ト研究においては,カ
ン トはカテゴ リーを、 川桁表か ら導出 した と言っているが,実際はカテゴ リー表が判断表か
ら独立に先にあって,それを体系的に基礎づ けるために判断表を考え州 した, とい うのが
カン トのカテゴ リーに例す る有ノ J な説なのである( l l ' ) . また,カン トが概念の区分 として妥
当な もの と見ているのは, 二分法 よ りむ しろ二分法の万である. とい うの も, カン トは
「 概念のアプ リオ リな区分は 一 般 にはすべて二分法に したがわねばな らない」 ( 川と言い, 概念の区分は矛盾律に基づいた
Aと非
Aの二分法が本来の区分である と述べているか らで ある. このよ うに, カン トのカテゴ リーの区分は必ず しも二分法である必要はないのであ り,む しろカン トの 言うところか らすれば, 二分法を とった方が よほど「 1 然である.それ に もかかわ らず,なぜかカン トはカテゴ リーの区分において 二分法を固 くとって譲 らない.
ここに‑‑ゲルはカン トの偉大な 「 本能」を見て取 り,その卓越 した哲学的な喫覚を賞賛 す るのである.
しか し,‑‑ゲルがカン トのカテゴ リーを賞賛す るのは,単にそれが三分法によって 区
分 されている とい うことだけによるのではない.‑‑ゲルがカン トのカテゴ リーを賞賛 し てや まないのは, カン トがカテゴ リーを三つに分か っただ けでな く,それ に加 えて, 各綱 目の第 三のカテゴ リーを第 一 の もの と第 二の ものの総合である, とした点にある.ヘーゲ ルは 言 う
.「カン トが第 一 のカテゴ リーは 肯定的であ り,第 二の ものは第 ‑ の ものの否定 であ り,第 二の ものは両者か らの総 合だ と言っているのは,概念の偉大な本能である」
(XX‑345)
. もっとも, カン トロ身はカテゴ リーを‑‑ゲルが 言うよ うに 肯定 ・再定 ・総 合 とい う形で定式化 しているわけではな く,節 三の ものは前 二 音の総合であると言ってい るにすぎない. しか し,‑‑ゲルはそれ を内容の面か ら考察 し,カン トのカテゴ リーが実 質的に背走 ・否定 ・総合 とい う図式に貫かれていることを洞察するのである.
た とえば,へ‑ゲルはカン トの員のカテゴ リーについて,次の よ うに言 っている. 「 数 多性は‑者の否定であ り,差異が数多性である.そ して,第三の もの,最初の二つの合 ・ ,
rkl じられた もの としての数 多性が,総体性である.総体性は‑ として定立 された数多性で ある.多は無規定的であるが, ・ として総括 される と,それが総体性なのである.総体性 は包括 された数多性である
」(ⅩⅩ‑344/345). まず始めに,単一性が肯定的な もの として ある.次にそれが所定 され,差 異が立て られ る と,単 一 件は分裂 し,複数の もの となる.
これが数多件である.最後に, この数多作が単なる多 としてバ ラバラにあるのではな く, 全体が一つの もの と見なされ, 一 考 として総括 され る と,それが総体性である.‑‑ゲル はカン トの量のカテゴ リーをこのよ うに説明す るのであるが,
一ノJ, これについてのカン ト自身の説明は 「 総体性 ( 全体性)は
単・ 性 と見な された数多性 にはかな らない
」(12
)とい うものである. この両 者を見比べてみれば,その違いは明 らかであろ う.カン トが第三の カテゴ リーに関 してのみその総合的性格 を指摘するに とどまっているのに対 し,ヘーゲル は単 一 性その ものか ら数多性 を展開 させ,そ こか らさらに総体性‑移行する とい うように, カテゴ リー相I 上の内在的な連関を強調 している. とりわけ,数多性 を単一性の否定 音 と位 置づ けることで,量のカテゴ リー全体 をその運動において把握する点がその特徴である.
あるいはまた,質のカテゴ リーについて も,カン トは第三の制限性のカテゴ リーを 「 否
定性 と結合 した実在
惟」( 1 : i ) と規定 し,それが前の二つのカテゴ リーの総合であることを示
すのであるが,‑ーゲルは これ を ・ 歩進めて 「 限界は同様に実在的な ものであ り, 肯定的
な ものであるが , 同様に否定性等々で もある
」(ⅩⅩ‑345)と説明 し,制限性が肯定的な も
の と否定的な ものか らの総合である所以を明 らかにする.その他の,関係および様相のカ テゴ リーについて も同様である.それ らについての詳 しい説明は 『論理学』の叙述に譲 ら ねばな らないが, このカン トの肯定 ・否定 ・総合 とい う形式の うちに後の弁証法の原型が すでに見出されるとい うことは, ここであ らためて 言うまで もないであろ う.
カン トの二分法による区分は,単にカテゴ リーだけに とどまるものではない.彼はその 体系の区分の多くをこの二分法によって行 っている.それは批判を三つに分けたことや, 魂,世界,神 とい う理性理念の分類等に最 も顕著に現れている. 「 カン トの本能は,彼に とって,そ こに向かって全体がいたるところで分裂 していくすべての配列を,た しかに没 精神的ではあるが,二重性の図式によって行った . α) 理論 〔 理性〕 , β)実践理性,
γ)両者の統 一 一 一 ,すなわち判断力 〔とい う l x J . 分がそ うであるが〕 ,それ以外のたいていのr X J . 分, カテゴ リーや理性理念の区分において も同様なのである」 (
XX‑385).か くして,ヘーゲルは三重性 とい う観点か らカン ト哲学を次のよ うに総折する. 「 か く て 〔 カン トの本能は〕認識の,学的運動の リズムを普遍的L 父] 式 として描き,いたるところ で定立,反定立,総合 とい う精神のあ り方を樹立 した」 (
XX‑385).すなわち,カン トの鋭敏な哲学的本能は,認識の うちに静かに流れ る 「 学的運動の リズム
」を聴き取 り,それ を 「 定位,反定立,総合」 とい うトリアーデの匝l 式 として衣現することで,精神,すなわ ち弁誰法的な もののあ り方を確 立した.そ して,それがまさしくカン トの偉大な所以だ と
‑‑ゲルは言うのである.それゆえ,へ‑ゲルによれば,カン トのカテゴ リーの功績は, 一 般にそ う思われているように, カン トがカテゴ リーを人閥の認識能力の 「 絶対的な有限 性の
蜘」として定立 したことにあるのではない.む しろ,カン トの功績は,彼が 「 悟性 と
しての思惟を寅の形式 として,すなわち三重性 として把握 したこと
」(Ⅲ‑316)にあるので ある.か くしてここに,先のアンチノ ミーにおいて認識された思惟の弁証法的運動は, ト
リアーデ とい う形でその形式を獲得するのである.
6.