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ヴォルテールの『リスボンの災禍についての詩』

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(1)

ヴォルテールの『リスボンの災禍についての詩』

とポウプ流オプティミズム

― «Whatever is, is right.» vs «Tout est bien.» ―

越   森 彦

「検討」の原因

 ベルン教会筆頭牧師のエリー ・ベルトランに宛てた1755年11月28日付の 書簡のなかで、ヴォルテールは修辞的疑問文(question rhétorique

1

)を発 している。「もしポウプがリスボンにいたとしたら、すべてはよい(«Tout  est bien.»)と言う勇気があったでしょうか」(Best. 4627

2

)。実際、二週間 前に発生したリスボン大震災(マグニチュード8.7)は津波と火災によっ て3万人以上の死者を出していた

3

。当初、死者数は10万人以上であると知 らされていたこともあり、ヴォルテールは動揺した。リヨンの卸売商で銀 行家のジャン=ロベール・トロンシャンに書簡を送った際に、宛先の住所 にLyonと書くべきところをLisbonneと書いてしまうほどであった。その 書簡は次のようにはじまっている。

1  文彩の日本語訳については以下の辞典に依拠した。野内良三 :『レトリック辞典』 国 書刊行会 1998年 2005年。

2  ヴォルテールの書簡については以下の版を参照した。Correspondance, éd. Theodore  Besterman,  reprise,  avec  des  notes  en  français,  par  Fr.  Deloffre,  Gallimard,  coll. 

«Bibliothèque de la Pléiade», 1977-1993 ; tome IV, 1978.「Best.」と表記して書簡番号を 示す。

3  cf.  Theodore  Besterman,  «Voltaire  et le désastre  de  Lisbonne  : ou,  La mort  de   l’optimisme », Studies on Voltaire and the Eighteenth Century, Vol. 2, p. 7-24 ; René  Pomeau,  Christiane  Mervaud,  De la Cour au Jardin,  Voltaire  Foundation  Taylor  Institution, 1991 ; Christiane Mervaud, «Comment penser le cataclysme : Voltaire et le  désastre de Lisbonne», Lumières, 2005, No 6, p. 25-40.

(2)

 自然は実に残酷です。「ありうる世界での最善の世界」(«le meilleur des mondes possibles»)に、これほどおぞましい災禍を運動の法則はど うやったらもたらせるのでしょうか。推測しようとしても途方に暮れる だけでしょう。我々の隣人である10万の蟻たちが蟻塚のなかでいきなり 押し潰されています。おそらくその大半が言葉では言い表せない苦悶の なかで息絶えているというのに、瓦礫のなかから引き出してやることも できないのです。(中略)人生が戯れであるとしても、なんと痛ましい 偶然の戯れでしょうか。(Best. 4625)

 オプティミズム(最善説・optimisme

4

)は地上の悪を以下のように解釈 する。神は「完璧な世界」(maximum)を創造することはできなかったの で、「最善の世界」(optimum)すなわち「ありうる世界での最善の世界」

を選択した。個別的・個人的な不幸・悪は「偶然の戯れ」にしか見えない かもしれない。しかし、「最善の世界」においては、どのような不幸・悪 でも全体的・一般的な幸福・善の構成に寄与している。

 オプティミズムの論理に従うならば、震災のもたらした死がどれほど理 不尽で無意味に見えても、その死をおしむべきではない。しかし、理屈の 面では納得しても、ヴォルテールの心情は説得されなかった。理屈では割 り切れない怒りをぶつけるかのように、ヴォルテールはわずか一週間で 136行の詩をアレクサンドラン(12音節詞句)で書き上げた

5

。この初稿に 修正を施したものが全234行の『リスボンの災禍についての詩』(以下『リ スボン』と略記)である。「<すべてはよい>」という公理の検討」とい

4  cf. Laurent Loty, l’article «optimisme, pessimisme», dans le Dictionnaire européen

des Lumières, Michel Delon (sous la dir. de), PUF, 1997, 2007, 2010.

5  cf. Haydn Mason, «Voltaire’s ‘sermon’ against optimism : the Poème sur le désastre de Lisbonne », dans lʼEnlightenment essays in memory of Robert Shackleton,  ed. by  Gilles Barber and C. P. Courtney, The Voltaire Foundation at the Taylor Institution,  1988, p. 189-203.

(3)

う副題が添えられていた。「すべてはよい」 ( «Tout est bien.»)という句は、

ポウプが1733年に発表した『人間論』の「第一書簡」を結ぶ句 «Whatever  is, is right.»の仏訳である。

自然全体は汝の知らぬ技術で、

すべての偶然は汝には見えない掟なのだ。

一切の不調和は汝の理解を超えた調和で、

部分的な悪はことごとく全体的な善なのだ。

思いあがりや、誤りやすい判断にもかかわらず

一つの真理は明白だ ― すべてあるものは正しいのだ(«Whatever is, is  right»)。  (P. p. 34

6

.)

 テオドール・ベスターマンによれば、『リスボン』はポウプ流オプティ ミズムに対する「訴訟のはじまり

7

」である。ベスターマンの主著『ヴォル テール』の第27章は「The death of optimism, 1755」と題されている。し かし、このような全面的廃棄はあまりに劇的であるように思われる。『リ スボン』が「訴訟」であるならば、同時に公表された『自然法についての 詩

8

』にある次のような賛美を理解できるだろうか。

ポウプは彼ら(ホラティウスとボワロー)がかすめただけのものを深めた。 

6  アレクサンダー・ポウプ(上田勤訳):『人間論』 岩波文庫 1950年 2001年 p. 30-31. 表 記を一部変更した。以下、「P.」と略記した後に頁数を記す。原文に関しては以下の版 を参照した。Alexander Pope, Selected Poetry and Prose, Introduction by William K. 

Wimsatt, Jr., Rinehart, 1967.

7  Theodore Besterman, Voltaire, Blackwell, 1969,1970, 1976, p. 373.

8  1756年3月にクラメールによって『リスボン』が出版されたとき、その表紙には以下の タイトルが付けられていた。『リスボンの災禍と自然法についての詩および序文と注その 他 』(POEMES SUR LE DESASTRE DE LISBONNE ET LA LOI NATURELLE, AVEC DES PREFACES ET DES NOTES, &c.)

(4)

より大胆な精神で、より確かな歩みで、

彼は人の心の深淵に松明をもたらす。

人は彼とだけ自分自身を知ることを学ぶ。 

韻文の技術はときとして軽薄だが、ときとして神の技術にもなる。

それは、ポウプにおいて、人類に有益なものとなる。(M. p. 273.

9

 ここで賛美されているのは詩人ポウプであって哲学者ポウプではないと いう反論もあるだろう。『哲学書簡』の第24信「「ポウプ氏ほか若干の有名 詩人について」を参照されたい。「プラトンは詩人としてほとんど意味の 分からない散文を書いたが、ポウプは哲学者として驚嘆すべき韻文を書い た

10

」とヴォルテールは追記をしている。それも『リスボン』を執筆した数ヶ 月後にである。さらに、ある書簡でも「ポウプを攻撃するのは悔やまれま すが、それはポウプを敬服してのことなのです」(Best. 4414)と胸中を明 かしている。ヴォルテールのポウプに対する評価は肯定か否定では割り切 れない。だからこそ、『リスボン』の「序文」でヴォルテールは読者に注 意を促しているのである。

 著者が反駁していること( «ce qu’il réfute»)を、その著者が自分の ものとして受け入れていること( «ce qu’il adopte»)と取り違えてはい けない。(M. p. 273.)

 リスボン大震災を契機にしてポウプ流オプティミズムを「検討」した結

9  Voltaire, Mélanges, Bibliothèque de la Pléiade, 1961, p. 273. 以下、本文においてM.と 略記して頁数を示す。原文を示す際にはクラメール版の表記方法に依拠するが、綴りは 現代のものに変更する。

10  Voltaire,  Lettres philosophiques,  Présentation  par  Gerhardt  Stenger,  GF  Flammarion, 2006, p. 223.

(5)

果、ある論点は拒絶して、ある論点は容認した。それが実情だったのでは ないか

11

。そうであるならば、何を拒絶して、何を容認したのだろうか。

ポウプ流オプティミズムの「悪用」

 「序文」において、ヴォルテールは執筆の目的を次のように明らかにし ている。

 『リスボン』の著者は、高名なポウプに少しも反駁していない。彼は ポウプをいつも尊敬してきたし、愛していた。(«L’Auteur du Poème  sur  le désastre  de Lisbonne  ne combat  point  l’illustre  Pope,  qu’il  a  toujours admiré et aimé ; (…). ») 彼はほとんどあらゆる点についてポ ウプと同じように考えている。しかし、人間の諸々の不幸を熟知した彼 は、<すべてはよい>という、この新しい公理について人々のなす悪用

(«les abus qu’on peut faire du nouvel axiome

12

»)に対しては反対する。

<この地上には悪がある>という、すべての人間によって認められた、

この悲しくも、より昔からある真理を受け入れる。<すべてはよい>と いう言葉は、それを絶対的な意味で、未来への希望もなく受け取るのであ れば(«pris dans un sens absolu et sans l’espérance d’un avenir»)、我々 の生の苦しみに対する侮辱でしかないことを彼は認める。(M. p. 302.)

11  cf. Richard Gilbert Knapp, The Fortunes of Popeʼs Essay on man in 18th century France, SVEC, Vol. 82, 1987, (ch. III. Votaire’s reaction to the Essay on man). 本稿の 対象は『リスボン』の著者としてのヴォルテールに限られるが、クナップは『人間論』

に対するヴォルテールの反応をより長い期間で捉えて研究している。

12  プレイヤード版では«de cet ancien axiome»(「この昔からある公理」)となっている。

校訂者がどの版に依拠しているのかは不明である。ジュネーヴの出版者クラメールに よる初版本(以下「クラメール版」と呼ぶ)に従って«du nouvel axiome»を採択した。

クラメール版はフランス国立図書館の電子図書館(Gallica)で閲覧することができる。

http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5727289v

(6)

 『リスボン』をポウプ流オプティミズムの死亡宣告書としか見なさない 読者は、冒頭の一文に驚くであろう。ヴォルテールが「反対」しているの は、ポウプの説そのものではなく、それについて「人々のなす悪用」であ る。<すべてはよい>という公理について、ヴォルテールが「新しい」と 限定していることにも注意しよう。『人間論』が発刊されたのは20年以上 も前のことである。けっして「新しい」とは言えない。ヴォルテールが問 題にしているのは本来のポウプ流オプティミズムではない。

 「悪用」の結果生まれたオプティミズム― それを俗流オプティミズム

(optimisme vulgaire)と呼ぼう― とはいかなるものか。それは、<すべ てはよい>という公理を「絶対的な意味で、未来への希望もなく受け取る」

ことから生じる歪曲的解釈である。どんなに理不尽な状況におかれても「す べてはよい」と盲目的に信じることである。

 リスボン、メクネス、テトゥアン、そして他の都市が、1755年11月の ときのような多数の住民とともに地中に飲み込まれたときに、命からが ら廃墟から逃れてきた不幸な人々に対して次のように叫ぶ哲学者たちが いたとしよう。「すべてはよい。死んだ人々の相続人の財産は増えるで あろう。家を建て直すことによって石工たちは金を儲けるだろう。獣た ちは瓦礫に埋まった死体で栄養をつけるだろう。それが必然的原因の必 然的結果というものだ。あなたの個別的不幸(«mal particulier»)は何 でもない。あなたは一般的な善(«bien général»)に貢献しているのだ から」。このような演説が、地震のもたらす痛ましさと同じくらい残酷 なものであることは確かである。そして、このことを『リスボン』の著 者は述べているのである。(M. p. 303.)

 俗流オプティミストの「演説」は原文でも引用符(« »)に入れられて、

(7)

地の文とは厳密に区別されている。さらに、俗流オプティミズムは間接話 法を通じても紹介されている。

 解釈されうることなら悪意をもってすべて解釈して、成功したすべて の人をけなしたがるのは私たちが生まれつきもっている欠点のひとつで ある。

 したがって、人々は「すべてはよい」という命題のなかに通念の基礎 をひっくりかえすものを見たと信じた。もし、すべてがよいならば  

― と人々は言った― 人類が堕落しているというのは間違っている。も し、一般的秩序によってすべてが現在のままであることを要求されてい るならば、人類は腐敗していない。したがって、人類には贖い主など必 要ない。もし、この世界が、今のままで、可能世界のうちで最良である ならば、より幸せな未来を望むことはできない。もし、私たちを打ちの めすすべての悪がひとつの一般的善であるならば、すべての文明化され た国民が物理的悪と道徳的悪の起源を探求しているのは間違っている。

もし、獣たちに食べられた人間がこれらの獣たちの幸福となっていて世 界の秩序に貢献しているのであれば、もし、すべての個人の不幸がこの 一般的かつ必然的な秩序の帰結にすぎないのであれば、私たちは大きな 機械を動かすための歯車でしかない。私たちが神の目に大切なものだと しても、それは私たちをむさぼり食う動物がそうであるのとかわらない。

 以上がポウプ氏の詩から人々が引き出した結論である。そして、こう した結論自体が作品の名声と成功をよりいっそう高めた

13

。(M. p. 301.)

13  この箇所を記載する際に、プレイヤード版の校訂者はイタリック体と引用符を用 い て い る(«Si tout est bien, disait-on, il est donc faux que la nature humaine soit déchue. (…).»)。しかし、クラメールによる初版では、ヴォルテールはイタリック体 も引用符も使用していない。拙訳もクラメール版の表記方法に合わせた。なお、リタ・

ゴールドバーグは、地の文(話者としてのヴォルテールによる言説)と引用文(直接 話法によって導入された他者の言説)の区別をしなかったために、俗流オプティミズ

(8)

 執拗な頭語反復(「もし…」)によって滑稽なまでに誇張されているのは、

俗流オプティミズムが特徴とする宿命論(fatalisme)である。さらに、宿 命論がもたらす放任主義(laxisme)である。人類は腐敗などしていない。

現状よりも幸せな未来は望めないし、その必要もない。悪の起源を探そう としても、そもそも悪など存在しない。私たちは歯車でしかない。神の目 には人間も獣も同じである。すべては決定済みである。だから、人間が悲 惨な現状を改善するために努力するのは無駄である。不幸に見えることも 実はそうでない。だから、現状を改善する必要もない。何をしてもしなく ても状況は変わらない。俗流オプティミズムは人を怠惰で無気力にする。

 ポウプは宿命論も放任主義も提唱していない。ヴォルテールによれば、

『人間論』という「卓越した作品」において「考慮されるべきだったのは、

神への崇敬、神の至高の秩序への屈服(«la résignation»)、健全な道徳、

寛容だった」(M. p. 302.)のである。『リスボン』は、ポウプ流オプティ ミズムの全面的な拒絶を目的とした作品ではない。

悪の必然性

 震災の状況をヴォルテールは悲痛な口調で語っている。

おお憐れなる人々よ、おお痛ましき大地よ。

おおおぞましき天災地変よ

14

。 永遠に続く無用の苦痛よ。

ムの言説をヴォルテール自身の言説として説明している。cf. Rita Goldberg, «Voltaire,  Rousseau and the Lisbon earthquake», Eighteenth Century life, mai 1989, Vol. 14, No 2,  p. 1-20. (p. 4-5.)

14  プレイヤード版には«de tous les mortels»とあるが、クラメール版には«de tous les  fléaux»と書かれている。ヴォルテールの意図を忠実に反映しているのはクラメール版 である。cf. George R. Havens, «The Beginning of Voltaire’s Poème sur le désastre de Lisbonne», Modern Language Notes, Vol. 62, No. 7, 1947, p. 465-467. 

(9)

「すべてはよい」と叫ぶ迷妄の哲学者たちよ。

駆けつけよ、とくと見よ、この恐ろしい廃墟を。

この残骸、この破片、この憐れな遺灰を。 ( M. p. 304.)

 呼びかけ法(apostrophe)の対象となっている「迷妄の哲学者たち」

(«philosophes trompés»)は書斎で思索にふけっている。現実世界に目を 向けようとしない。彼らは「できごとの原因を心安らかに探求しているが、

涙を流すべきなのである

15

」とベスターマンはヴォルテールの心情を代弁 している。ベスターマンの見地に立てば、「迫真法」(hypotypose)によっ て被害の状況が克明に描写されているのは、「すべてはよい」と豪語する ポウプに悲惨な現実を直視させるためである

16

。しかし、「迷妄の哲学者」

という迂言法(périphrase)が示しているのはポウプなのだろうか。

 彼らの遺灰がくすぶっている恐ろしい光景を前にして

 あなたがたは言うのか。これは永遠の法則による結果なのだ。

 それは、自由で善良な神の選択を必然的にしている。

 この積み重なった犠牲者の山を見ながらあなたがたは言うのか。

 神は復讐された。彼らの死は罪の報いである。 (M. p. 304. 下線筆者)

 直接話法

17

によって二つの言説が導入されている。ポウプ流オプティミ ズムとは両方とも無関係である。二番目の言説は神の「復讐」と人間の「償

15  Besterman, op. cit., (Voltaire), p. 19.

16  以前、筆者も「迷妄の哲学者たち」はライプニッツとポウプを指すと考えていた。

cf. 越森彦 : 「リスボン大震災後のヴォルテールとルソー ― 神がいるなら、この世にな ぜ悪があるのか」『文学と悪』「アウリオン叢書15」白百合女子大学 言語・文学研究セ ンター編 越森彦責任編集 弘学社 2015年 p. 21-34 (p. 28).

17  プレイヤード版には引用符がついているが、クラメール版にはない。

(10)

い」を説く神罰論の言説である

18

。一番目の言説は悪の非存在を含意して いる。ポウプ流オプティミズムに接近しているように思われる。実際、 『人 間論』の「第一書簡」には、「人間について我らが「悪」と呼ぶものは、/ 

全体との関連では「善」であるかもしれないのだ」(P. p. 18.)という一句 がある。この地上に悪があることをポウプは否認している印象を与える

19

。  しかし、オプティミズムは悪の存在を否認しない。それどころか、人間 が苦痛をもって経験している悪が世界の必然的構成要素であることを肯定 する

20

。善は悪より生じる。それ以外の方法では生じることができない。

 やめるがよい、秩序を不完全呼ばわりすることを。

 我らにふさわしい幸福は、我らが非難するものに依存しているのだ。

 汝ら自身の立場を知るがよい。この種類この程度の盲目や弱さは、

 神が汝に与えたものなのだ。(P. p. 33-34.)

 たしかに、神の意志によって悪の存在は最小限度に抑えられている。し かし、悪は必ず存在する。この世界は「最善」・「最適」なのであって 

「完璧」なのではない。さらに、悪の存在理由は人間には理解できない。

このような気の滅入るような真理をヴォルテールは苦痛ともに受け入れて いる。

18  アーサー・O・ラヴジョイによれば、筆者が「二つの言説」と呼んでいるものは「二 つの明白なそして本質的に対立した形の弁神論」であり、それぞれ別の対象を目指し ている。しかし、ヴォルテールは二種類の弁神論を一度に議論しているため「混乱し ている」という。cf. アーサー・O・ラヴジョイ(内藤健二訳):『存在の大いなる連鎖』

ちくま学芸文庫 2013年 p. 572. 

19  『リスボン』について詳細な個別研究をしているマソンもポウプは悪の存在を否認し ていると解釈している。cf. Masson, op. cit., p. 199.

20  cf. 前掲書 p. 328. 

(11)

神の不介入

 『人間論』において「考慮されるべきもの」として「神の至高の秩序へ の屈服」が挙げられていた。「神はすべての被造物から運命の書をかくす」

(P. p. 20.)とポウプが述べれば、「運命の書は私たちの目の前で閉じられ ている」(M. p. 308.)とヴォルテールも応えている。「自然全体は汝の知 らぬ技術で、/ すべての偶然は汝の目には見えぬ掟なのだ」(P. p. 34.)と いうポウプの主張をヴォルテールが言い直せば以下のようになる。

 どのような立場を取ろうとも、私たちはおののいていなければいけ ないだろう。

 私たちが知ることのできることは何もないし、恐れなくていいよう なことも何もない。

 自然は黙ったままで、私たちが問いかけても無駄である。(M. p. 308.)

 この世界に悪が充満しようとも、神はいったん創造した世界には干渉し ない。しかし、それでも人間は生きていかなければいけない。神の不介入 を摂理として受け止めて、それに耐えながら。

 闇夜のなかで自分を照らしてくれる光を探しながら 

 私にできるのは耐え忍ぶことであり、不平を言うことではない。

  (M. p. 309.)

 この受忍は、「私たちの庭を耕さなければいけない」(«Il faut cultiver  notre jardin.»)という『カンディード』の結論へと辿り着くであろう。

ある論者は『リスボン』について「この詩は神の摂理に基づく楽天的な哲

学に対する苛立ちと、人間を襲った不条理な天災への絶望的な怒りに満ち

(12)

ていて、かれが書いたもっとも激しい表現の一つといえるかもしれない

21

」 と推測している。

 しかし、オプティミズムはけっして「楽天的な哲学」ではない。ヴォル テールもそう考えたことはない。それどころか、1756年2月18日のベルト ラン宛書簡では「オプティミズムは人を絶望させます。慰めとなるような 名称を掲げていますが、それは残酷な哲学です」(Best. 4370)とまで述べ ている。

 『リスボン』が「絶望的な怒り」に「満ちて」いるのは冒頭部分だけで あり、詩行が進むにつれて作家の口調は怒りから諦念へと変化している。

神の不干渉という現実を受忍している。

「希望」

 初稿の段階では、『リスボン』の結論部(péroraison)は以下のように 締めくくられていた

22

 おお、人間よ、何をすべきだろうか。人間よ、苦しみに耐えて、

 黙って従い、崇拝して、死んでいくべきなのである。

 「屈服

23

」が「検討」の結論である。二行連句は詩の末尾を飾るのにふさ わしかった。しかし、その文言は神の不介入を嘆くあまり、摂理に対する 批判と捉えられる危険性があった。ヴォルテールは微調整をした。

21  保苅瑞穂 :『ヴォルテールの世紀 精神の自由への奇跡』 岩波書店 2009年 p. 118.

22  結論部の修正については以下の論考を参照されたい。George R. Havens, «Voltaire’s   Pessimistic Revision of the Conclusion of his Poème sur le désastre de Lisbonne »,  Modern Language Notes, Vol. 44, No 8, 1929, p. 489-492; «The Conclusion of Voltaire’s   Poème sur le désastre de Lisbonne», Modern Language Notes, Vol. 56, No 6, 1941, p. 

422-426; Masson, op. cit., p. 197.

23  「至高の存在への屈服 («résignation»)が私には似つかわしいのです」(1756年3月 22日付ダルジャンタル宛書簡 : Best. 4414)。

(13)

 おお、人間よ、何をすべきだろうか。人間よ、苦しみに耐えて、

 沈黙しながら従い、崇拝して、希望を抱いて、死んでいくべきなの である。

 ヴォルテールによれば、「希望」とは「死後も存在するという希望」(M. 

p. 1443.)を指す。神は人間に来世の幸福を約束している。霊魂不滅を暗 示することによって、悲観主義という批判をヴォルテールは回避しようと した。しかし、「希望を抱く」(«espérer»)の一語を加えるだけでは不十 分であった

24

。ベルトランの助言もあり

25

、二行連句を削除して18行の韻文 を加筆した(1756年3月10日クラメール宛書簡:Best. 4399)。それは、「ケ ルベロス(番犬=ジュネーヴの牧師)をなだめるため」の餌であった(3 月12日付ティエリオ宛書簡 : Best. 4400)。

 「いつの日か、すべてはよくなるだろう」。これは私たちの希望である。

 「今日、すべてはよい」。これは幻想である。

 現世の苦しみからの解放と救済として来世が用意されている。直接話法 によってヴォルテールは「希望」の可能性をはっきりと示した。しかし、

現世の幸福に関しては「幻想」にすぎないと直後で断言している。これで は「ケルベロスをなだめる」ことはできない。さらに、詩の最終行では依 然として神の不介入を嘆いていた。

24  「出まわっている写しは、あなたが賢明にも最後に付け加えた「希望を抱く」という 美しい言葉にもかかわらず、人々を憤慨させています」(1756年3月14日付クラメール 宛書簡:Best. 4403)。

25  「あなたの賢明かつ正当な考察を私が利用したのをあなたはご覧になるでしょう」

(1756年3月7日ベルトラン宛書簡:Best. 4390)。

(14)

 私の心は人の世の苦しみに同情して呻いても不平をもらさない。

 神を責めることはせず、助けてくださるように嘆願すべきである。

 この二行連句も削除して、ヴォルテールはある寓話を挿入することにした。

 かつてある一人のカリフは臨終の際に

 崇敬していた神にこう言って、すべての祈りとした。

 「おお、唯一の王、唯一の無限なる存在者よ、御身のもとに持って まいります。

 御身がその広大無辺のうちにもっておられないすべてのものを。

 七難を、後悔を、そして無知を。」

 しかし、カリフは希望と付け加えることもできたのだ。(M. p. 309.)

 («Mais il pouvait encore ajouter l’ESPÉRANCE.»)

 「希望」という言葉をヴォルテールは大文字で書いた。ようやく校了と なった。しかし、新版の出版にあたって、この最終加筆すらもヴォルテー ルは修正しようとしていた

26

 「いつの日かすべてはよくなるだろう」。これは私たちの希望である。

       →なんとはかない希望か!

 「今日、すべてはよい。これは幻想である」。

        →これはなんたる幻想だ!

26  修正の指示をクラメールに送った際に、ヴォルテールは自分の所有している第二版

(1756年3月出版)に書き込みをしている。現在、この第二版は、サンクトペテルブル グのヴォルテール・ライブラリーに所蔵されている。結局、新たな修正は採用されなかっ た。おそらくは慎重を期するためであろう。なお、書き込みをした時期については不 明である。cf. Havens, op. cit. (Voltaireʼs pessimistic), p. 491-492.

(15)

 「希望」は「はかない」ものである。頼りにすることできない。慨嘆に 耐えないと言わんばかりにヴォルテールは感嘆符を用いている。「これは 幻想である」という平叙文も感嘆文に書き換えている。幻滅のあまり嘆く ことしかできないのである。

 ヴォルテールはカリフの寓話も修正した。

 しかし、カリフは希望と付け加えることもできたのだ。

 («Mais il pouvait encore ajouter l’ESPÉRANCE».)

       ↓

 しかし、カリフは希望と付け加えることができたであろうか。

 (Mais pouvait-il encore ajouter l’espérance ?»

 肯定文を疑問文(しかも修辞的疑問文)に書き直している。もはや「希 望」を大文字で書くことはなく、すべて小文字にしている

27

 ヴォルテールはなぜ修正を試みたのだろうか。

 ヘイヴンズによれば、真意にかなっていたからである。すなわち、もと もと「希望」という言葉は「ケルベロス」の非難をかわすための餌にすぎ ず、来世の存在をヴォルテールは信じていなかった。修正は、自己の「悲 観主義」(pessimisme)に忠実であろうとした結果である。

ヘイヴンズに対する反論

 ヘイヴンズの主張には二人の研究者が反論をしている。

 最初に、井上堯裕は、 「ヘーヴンズのように、この加筆された結論はもっ

27  «Mais pouvait-il encore ajouter l’ESPERANCE !»とマソンは転記している。本稿 ではヘイヴンズの転記に従った。cf. Masson, op. cit., p. 198 ; l’article «Poème sur le  désastre de Lisbonne», dans le Dictionnaire générale de Voltaire, Raymond Trousson,  Jeroom Vercryuysse (sous la dir. de), Honoré Champion, 2003.

(16)

ぱら神学の番犬どもをなだめまぎらわす餌にすぎず、ヴォルテールの真意 はまったくのペシミズムにあると言うのも当をえてはいないように思われ る

28

」と反駁を加えている。根拠として引用されているのは、1756年4月 12日ティエリオ宛書簡にある一節である。「これら二つの作品(=『リス ボン』と『自然法についての詩』)の表現をできるだけやわらげました。

そして、考えていることはすべて言いながらも、おおぜいの人々が腹を立 てないようにする秘訣を見出したと自負しています」(Best. 4433)とヴォ ルテールは述懐している。この一節を根拠にして、「自分の全く真意でな い結論を付け加えることは、形式論理的にはともかく、この言明と矛盾し ないであろうか

29

」とヘイヴンズの主張に井上は(修辞的)疑問を投げか けている。

 管見によれば、井上の指摘する「矛盾」は存在しない。その理由は二つ ある。

 1)「形式論理的にはともかく」と井上は示唆しているが、考えている ことを言いながらも、考えていないことも言う可能性を排除する理由はな い。「考えていることならば言う」(Aならば B)の「逆」は「言うならば 考えている」(BならばA)である。「逆」は必ずしも「真」ではない。つ まり、「希望」についてヴォルテールが語ったからといって、それを信じ ているということにはならない。牧師の批判をかわすために、真意ではな いが「希望」の一語を加えたのである。真意でないから修正をしたのであ る

30

 2)仮に「形式論理的にはともかく」としても、問題の一節を文脈に戻

28  井上堯裕:『ルソーとヴォルテール』 世界書院 1995年 p. 223. 

29  同書 p. 223.

30  ちなみに、「矛盾」(AかつAではない)が生じるとすれば、ヴォルテールが「考えて いるのに言っていない」場合である。しかし、周知のように、ある事象が存在しない ことを証明するのは、存在することを証明する場合に比べて極めて困難である。

(17)

してみれば「矛盾」はないことが分かる。井上の引用した一節の直後で「私 は序文ですべてを説明して、読者の興味を十分に引くような注を詩の最後 につけました」とヴォルテールは補足説明をしている。つまり、「考えて いることはすべて言った」という文言は「序文」について述べているので あって、詩そのものについて述べているのではない。「自分の全く真意で ない結論」とは無関係である。いかなる接点もない。「矛盾」が生じる契 機がそもそもない。

 次に、「ヴォルテールの思想は悲観主義的ではない」とポモーはヘイヴ ンズに反論している。ポモーによれば、ヘイヴンズの解釈は「ヴォルテー ルの思想にそれがけっしてもっていなかった一貫性を与える

31

」ことにな り、「霊魂の不滅に対するヴォルテールの考えの移りやすさを忘れてい る

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」という。すなわち、霊魂は不明であり来世は存在するという「希望」

が作品によって揺れ動くことはあっても、ヴォルテールは「魂に釘打ちさ れた希望

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」をもっている。その根拠として、同時代人の証言および『ザ ディーグ』と『スカルマンタド』の明るい結末をポモーは提示している。

しかし、「魂に釘打ちされた希望」をもっているならば、ヴォルテールは なぜ修正を加えたのだろうか。修正案についてポモーは言及していない。

ポモーの主張に従えば、修正は「考えの移りやすさ」の反映であり、一時 期の気まぐれだったということになる。

 ヴォルテールが来世における神の介入(霊魂の不滅)に対して懐疑的で

31  René Pomeau, La religion de Voltaire, Nizet, 1995, p. 289. なお、カリフの寓話がな かったとしても、作品全体のトーンは変わらなかっただろうとポモーは推測している。

しかし、悲観主義的な印象があまりに強すぎると判断したからこそ、ヴォルテールは 寓話を付け加えたのである。「希望」をめぐる解釈に限れば、ポモーの主張には具体的 な裏付け(作品や書簡の引用文)がない。逆に、ヘイヴンスの論文には、書簡による 友人達からの助言を取り入れながらヴォルテールが作品を完成していく過程が豊富な 実例とともに描かれている。

32  Ibid., p. 289.

33  Ibid., p. 290.

(18)

あったことを修正案は示している。その意味で、『リスボン』は悲観主義 を基調にした作品である。ヘイヴンズの主張は正しい。修正は悲観主義の 結果である。

「存在の連鎖」

 「すべてが正しいなら何を望めるというのか」(« What can I hope when  all is right ? »)とヴォルテールは『人間論』の欄外に英語で書き込んだ。 「希 望をもて」( «hope »)というポウプの言葉に反発したのである。

 英雄が死に、雀が落ち、

 原子や組織が崩壊し、

 水滴が破れ、世界が裂けるのを、

 神はすべて一様の眼で眺めるのだ。

 されば慎ましく希望をもて、天翔る翼は戦

おののき

慄を持たねばならない。

 (« Hope humbly then; with trembling pinions soar;») 

 偉大な教師たる死を待ち、神を崇めるがよい。

 未来の幸福は、知るために汝に与えられたのではない。

 それを憧憬し、現在の希望とすること、これが神の意志なのだ。

 希望は人間の胸中の尽きぬ泉だ。

 人間は幸福ではない、しかし常に将来に幸福を期待する存在なのだ。

 (P. p. 20-21. 下線筆者)

 「偉大な教師たる死」を人間が待たなければいけないのはなぜか。現世 において幸福になれないのはなぜか。現在の状態以外の状態を「憧憬」す る必要があるのはなぜか。つまり、「存在するものはすべて正しい」のか。

 「正しい」(«right»)という言葉は、宇宙に存在するものが「最適」(ベ

(19)

スト)な位置に配置されている状態を指している。それは、ある存在者が 別の存在者と相互に結びつくことによって一つの全体の形成に貢献してい る状態である。輪と輪が絡み合い、一つの鎖を成すように。

 存在の巨大な鎖!それは神に始まり、

 天のもの、地のもの、天使、人間、

 けだもの、鳥、魚、虫、 

 眼に見えぬもの、望遠鏡のとどかぬもの、無限から汝へ、汝から無 へ ―

 上なる力に我らがつづくとすれば、下なる力は我らにつづいている。

 さもないと、完全な創造に間隙ができて、

 踏み段の一つが折れても、大階段の全体が崩れるのだ。

 自然の鎖のどの輪を破壊しても、― 十番目でも、一万番目でも ―  鎖は同じように壊れるのだ。

 (P. p. 30-31.)

 「普遍的な鎖はすべての存在を結ぶ連続的な階梯であると言われてきた が、まったくそんなことはない」と述べて、「存在の大いなる連鎖」という 観念をヴォルテールは批判する。その「連続の原理」が過度の一般化をも たらすからである。«Whatever is, is right.»とポウプは言う。しかし、その 配置が「正しい」ものもあれば、そうでないものある。なぜなら、「結果を ともなう出来事があり、また結果をともなわない出来事がある」からである。

たとえば、「カエサルが唾を吐いたのが右だったのか左だったのか(中略)

そんなことは全体の仕組みを何一つ変えていない」(M. p. 1441)のである。

「全体の仕組み」に貢献する「部分」もあれば、しない「部分」もある。

 もし自分が「全体の仕組み」に貢献しないほうの「部分」であったなら、

(20)

「希望」をもつことができるであろうか。貢献する「部分」と同様に、貢 献しない「部分」も神は救済するのであろうか。両者に対して平等に神の 干渉は働くのか。

 「神は鎖を手にしても、鎖にはつながれていない(M. p. 306.)」とヴォ ルテールは言う。「鎖」が「鎖」として存在しているならば、個々の「輪」

がきちんとつながっていようが壊れていようが、作り手である「神」は関 心を示さない。「全体の仕組み」に貢献しようとしていまいが、あらゆる「部 分」に神は干渉しない。

 「希望」はない。それが修正の理由である。ヴォルテールの悲観主義は「存 在の連鎖」に対する批判によっても確認される。

「検討」の結果 ― rightとbien

 «Whatever is, is right.»という句において« right»(正しい)という言 葉は、存在するものが最適な場所に配置されていることを意味していた。

あくまで「適切な」という意味である。しかし、フランス人の読者 は «bien»(よい)という仏語訳を「完璧な」という意味で捉えてしまった。

«Tout est bien.»という句を文脈から切り離してしまった。ポウプ流オプ ティミズムの「悪用」つまり宿命論と放任主義というヴォルテールの拒絶 した論点は、«Tout est bien.»という標語の独走から生まれている。他方、

悪の必然性と説明不可能性および神の不介入というヴォルテールの容認し た論点は、«Whatever is, is right.»というポウプの句とは包含関係にある。

 本来のポウプ流オプティミズムが含む論点のなかでヴォルテールが拒絶 したものは一つしかない。「存在の連鎖」という観念である。関連性のな い事象の間にもっともらしい因果関係を読み込んでしまうからである。 「鼻 は眼鏡をかけるために作られている

34

」と力説するパングロスのように。

34  ヴォルテール(植田祐次訳):『カンディード:他五編』岩波書店 2005年 p. 265.

参照

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