後期ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定
についての試論
著者
近藤 和敬, 野元 達一
雑誌名
鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集
巻
86
ページ
57-97
発行年
2019-03-13
別言語のタイトル
De l’analyse sur le concept philosophique du
“ cerveau” dans Qu’est-ce que la
philosophie ? de G. Deleuze et F. Guattari
五七
後期ドゥルーズ哲学における
﹁脳﹂という問題設定についての試論
近
藤
和
敬
・
野
元
達
一
1 序文 フ ラ ン ス の 哲 学 者 ジ ル・ ド ゥ ル ー ズ︵ Gille s Deleuze, 1925-1994 ︶ は、 晩 年 の フ ェ リ ッ ク ス・ ガ タ リ と の 共 著 で あ る﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄︵ Les Éditio ns de Minuit 、 一 九 九 一 年 ︶ の 特 に そ の 最 終 部 と な る﹁ 結 論 ﹂ に お いて﹁脳﹂について主題的に論じはじめる。ドゥルーズが﹁脳﹂につい て言及するのはこれが初めてではないものの︵以前のものとして﹃経験 論 と 主 体 性 ﹄、 ﹃ ニ ー チ ェ と 哲 学 ﹄、 ﹃ プ ル ー ス ト と シ ー ニ ュ﹄ ﹃ ベ ル ク ソ ンの哲学﹄ 、﹃差異と反復﹄ 、﹃意味の論理学﹄ 、﹃千のプラトー﹄ 、﹃シネマ 運動イメージ﹄ 、﹃シネマ 時間イメージ﹄ 、﹃襞﹄またその他いくつか の 短 論 文 ︶ で の 議 論 が 挙 げ ら れ る ︶、 こ れ ほ ど ま と ま っ て 主 題 化 し て い るのはここにおいてであり︵例外的には、 ﹃シネマ 時間イメージ﹄ ﹁第 八章 映画、身体と脳、思考﹂および﹁脳、それはスクリーンだ﹂ ︵﹃カ イ エ・ ド ュ・ シ ネ マ ﹄ で の 対 談、 一 九 八 四 年、 ﹃ 狂 人 の 二 つ の 体 制 1 本 論 文 は、 序 文 と 第 二 部 を 近 藤 和 敬 が 単 独 で 執 筆 し、 第 一 部 を 野 元 達 一 が 単 独 で 執 筆 す る と い う 構 成 を と っ た 共 著 論 文 で あ る。 そ れ ぞ れ 相 互 に 関 連 付 け ら れ る が 独 立 し た 主 張 を 展 開 し て い る も の と 読 む こ と も で き る。 た だ し、 近 藤 が 執 筆 し た 序 文 と 第 二 部 は、 野 元 の 第 一 部 を 前 提 に 執 筆 さ れ て い ることも明記しておく。 1983︲1995﹄に所収︶ 、 またまとまった著作としては、 この﹃哲 学とは何か﹄が断筆であり、 かつその﹁結論﹂においてだということが、 そのことの重要性を示している。 しかしながら﹃哲学とは何か﹄固有の表現の困難とその凝縮された文 体に阻まれて、実際のところここでドゥルーズとガタリがなにをもって ﹁ 脳 ﹂ と 呼 び、 そ れ を ど の よ う に 考 え、 な に を 言 お う と し て い た の か、 ということを紐解くことはそれほど容易なことではない。本論文ではこ の 課 題 に 対 し て、 野 元 が﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ に お け る 脳 に 関 す る 記 述 を、 近年の脳科学の知見を援用しつつ読解を試み、また近藤が﹃哲学とは何 か﹄ における形而上学の問題という観点から、 ドゥルーズが何を ﹁脳﹂ ︵と いう概念︶ にたいしてみていたのかということを解明することを試みる。ドゥルーズと脳科学
︱︱ ドゥルーズの《切断の思考》と内在面として記述される脳 ︱︱野
元
達
一
【はじめに】 ドゥルーズの哲学は、 ﹃差異と反復﹄以来、 数学や科学的な概念のキー ワードを巧みに取り込み、独自の哲学を構築する傾向を有している。遺 伝学や数学の微分、多様体、デデキントの切断や熱力学といったものを 自身の哲学の中に組み込んできた。ドゥルーズが脳科学に特別の関心を
近 藤 和 敬 ・ 野 元 達 一 五八 持 ち 始 め た の は、 ﹃ 千 の プ ラ ト ー﹄ か ら で あ ろ う。 序 の リ ゾ ー ム に お い て、樹状突起、ニューロン、シナプスといった専門用語がリゾームの特 性 と 関 連 付 け ら れ て い た。 ﹃ シ ネ マ ﹄ に お い て は、 電 気 性 シ ナ プ ス︵ 合 理 的 ︶ と 化 学 性 シ ナ プ ス︵ 非 合 理 的 ︶ が 話 題 に な っ て い た。 脳 科 学 は、 一九八〇年代から急速に進展した。ルネ・トムのカタストロフィー理論 やプリゴジンの散逸構造の理論における定常開放系の生命現象などに多 大の関心を持っていたドゥルーズが一九八〇年前後に重要視したのは脳 科学だった。ドゥルーズはその重要性について次のように述べている。 ひとつ、特に重要な基準となるものがあると思います。それはミク ロの生物学としての脳生理学です。脳生理学は、いま、急激な変化 をとげながら、驚くべき発見を重ねているところです。判断の基準 を提供するのが、精神分析でも言語学でもなくて、脳生理学だとい うのは、既成の概念を当てはめるという、他のふたつの学問の欠点 が、脳生理学にはないからです。そこで脳生理学にならって、脳は 比較的未分化な物質だと考えてみてはどうか。 ︵運動イメージ﹀ や︵時 間イメージ︶は、それまで回路が存在しなかったところに、いった いどのような回路を描き、つくりだすのか、そしてそれはどのよう なタイプの回路になっているのか、考えてみればいいのではないで し ょ う か。 ︵ PP 85-86/126 文 庫 ︶ 「 シ ネ マ 」 第 三 三 四 号、 一 九 八 五 年十二月十八日︵以下、ドゥルーズ著作の引用は略号を使用。ペー ジの記載は原書 / 訳書の順。なお引用文の強調文字は筆者による︶ ドゥルーズは心身問題を直接的に主題として語ることはないが、おそ らくドゥルーズにとって心身問題は擬似問題であろうし、心身問題の重 要な領域は﹁世界・脳・身体﹂問題でなければならない︿脳一元論﹀の ではないか。意識主体ではなく、脳主体を基軸に据えるところに晩年の ド ゥ ル ー ズ の 核 心 が あ る と 思 わ れ る。 し た が っ て、 ﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ に おける哲学、科学、芸術は意識内在に属する問題ではなく、主体として の 脳 が 関 わ る 問 題 と な る。 ﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ の 結 論 部 分 は﹁ カ オ ス か ら 脳へ﹂であるが、 この議論は一見して難解な議論になっている。それは、 ある意味で我々が意識主体に慣れ親しんでおり、脳主体を基軸とした思 考に縁がなかったためであろう。ドゥルーズにとっての心身問題は﹁世 界・脳・身体﹂問題と名付けるべきである。脳は外部︵世界︶と身体と の︿間﹀に存在し、様々な心的現象を表出する。 本論では、最初にドゥルーズの各書物に現れた脳に関する記述の変遷 を概略し、 ドゥルーズの話題が極めて限定的であり、 それが︿間﹀や︿間 隙﹀ 、︿裂け目﹀としての脳であることを指摘する。そして、重点を﹃哲 学とは何か﹄に移し、このような脳の概念が、デデキントにおける︿切 断﹀と深く結びついており、しかも脳自体が主体であり、内在面そのも のであり、いかなる補足的次元をも必要としない自己俯瞰としての︿内 在面﹀を描く創造的主体であることを示す。ドゥルーズによって記述さ れる脳は︿非概念的概念﹀を創造し、 ︿非思考的思考﹀を実践する。 な お、 ﹃ ア ン チ・ オ イ デ ィ プ ス ﹄、 ﹃ 千 の プ ラ ト ー﹄ 、﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ 等はフェリックス・ガタリとの共著であり、多くの場合、作者を表記す るときはドゥルーズ=ガタリ、 あるいは D=G が使われるが、 この論文で は、特にこだわらない。共著であってもドゥルーズについての観点から 書く場合は﹁ドゥルーズ﹂と表記し、ガタリについての観点から書く場
後期ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定についての試論 五九 合は﹁ガタリ﹂と表記したい。
1『哲学とは何か』以前の脳に関連する話題
脳の記述に関して言えば、 ベルクソンの﹃物質と記憶﹄の影響もあり、 初 期 の ド ゥ ル ー ズ は ベ ル ク ソ ン に 寄 り 添 っ た 解 釈 を し て い た。 ﹃ 記 号 と 事件﹄に次のような記述がある。これは、ベルクソンの脳解釈︵脳=イ メージ︶そのものだ。 イ メ ー ジ は 人 間 の 頭 や 脳 の な か に あ る も の で は な い か ら で す。 逆 に、脳のほうが、あまたあるイメージのうちのひとつにすぎないの で す 2 。︵ PP 文 庫 62/90 文 庫 ︶ 「 カ イ エ ・ デ ュ ・ シ ネ マ 」 第 二 七 一 号 ' 一九七六年十一月︶ 一 九 九 一 年 の﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ の 最 後 の 章﹁ 結 論 カ オ ス か ら 脳 へ ﹂ に お い て、 ド ゥ ル ー ズ は、 突 然、 ︿ 主 体 ︱ 脳 ﹀︵ cerveau - sujet ︶ に つ い て 言 及 し て い る。 ︿ 私 ﹀ や︿ 人 間 ﹀ が 主 体 で あ る の で は な く、 脳 が 主 体 で あ り、 思 考 す る の は 脳 で あ り、 人 間 で は な い な ど と 言 明 し て お り 3 、 ベルクソン寄りの解釈を取っていた頃に比べて脳に関する記述は大きく 2 ﹁求心性神経はイマージュである。 脳はイマージュである。 感覚神経によっ て 送 ら れ、 脳 に 伝 わ る 興 奮 も や は り イ マ ー ジ ュ で あ る。 ﹂︵ ベ ル ク ソ ン﹃ 物 質 と 記 憶 ﹄ ベ ル ク ソ ン 全 集 p 21︶ と あ り、 初 期 の ド ゥ ル ー ズ は ベ ル ク ソ ン のこの考えを継承している。 3 QP 197-198/298 変わっている。ドゥルーズは、これまで、主体や意識の問題に関しては 取り立てて主題にしてこなかったし、どちらかというと二次的、補助的 な 扱 い を し て き た。 ﹃ 差 異 と 反 復 ﹄ に お い て は、 幼 生 の 主 体 に つ い て 軽 く 触 れ て い た も の の、 当 時 構 造 主 義 の 全 盛 の 時 期 と い う こ と も あ っ て、 その潮流に少なからず影響を受けていたドゥルーズは、意識や主体を前 面 に 出 し て 記 述 す る こ と は ほ と ん ど な か っ た 4 。 晩 年 に 打 ち 出 し た︿ 主 体 ︱ 脳﹀の概念は特筆に値する。 構 造 主 義 の 代 表 格 で も あ る レ ヴ ィ = ス ト ロ ー ス は、 自 覚 的 な 意 識 や 主 体に対して、構造的無意識の秩序が先行していることをその著作におい て 分 析 し て い る。 ま た﹃ 野 生 の 思 考 ﹄︵ 一 九 六 二 年 ︶ で は、 自 然 環 境 に おいて具体的な事物を一定の記号として扱う思考、すなわち野生の思考 が論理的な世界認識であることを示し、未開と思われていた文化のなか にも緻密で秩序のある思考が存在することを主張している。構造主義の 主張は、実存主義を標榜するサルトルやヨーロッパ近代哲学が根底にお 4 後 年、 ド ゥ ル ー ズ は、 ジ ャ ン = リ ュ ッ ク・ ナ ン シ ー 編 の﹃ 主 体 の 後 に 誰 が 来 る の か ﹄ に﹁ 主 体 に つ い て の 質 問 に へ の 答 え ﹂︵ 1988 年 ︶ と い う 短 い 文 章 を 寄 せ て い る。 次 の 引 用 は、 ﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ の︿ 主 体 ︱ 脳 ﹀ と い う 新 たな主体の概念を予言するような内容になっている。 偉 大 な 哲 学 者 た ち が、 主 体 に つ い て 書 い て き た こ と は 何 も 古 び は し な い。 し か し、 だ か ら こ そ わ れ わ れ は、 彼 ら の 後 を 追 う こ と が で き な い 自 分 自 身 の 不 十 分 さ を 見 せ つ け て い る だ け の﹁ 後 戻 り ﹂ を す る の で は な く、 彼 ら の 力 を 借 り て、 別 の 問 題 を 発 見 し な く て は な ら な い の だ。 哲 学 の 現 状 は、 こ の 点 で、 科 学 や 芸 術 の 現 状 と 基 本 的 に 違 う わ け で は ない。 ︵ DRF2 328/238 ︶近 藤 和 敬 ・ 野 元 達 一 六〇 いた主観や意識を批判する運動につながっていき、 当時、 フーコーやドゥ ルーズもその構造主義的な潮流の中にいた。フーコーは、構造主義に対 してある一定の枠組みを与え、自らはその枠組みの範疇にないことを主 張 し た が、 ド ゥ ル ー ズ は、 ﹁ 何 を 構 造 主 義 と 認 め る か ﹂ 5 を し た た め、 ア ル チ ュ セ ー ル に 送 っ て い る と こ ろ な ど を 見 る と、 ﹃ 差 異 と 反 復 ﹄ を 書 い ていた時期はむしろ逆に、積極的に関わっているようにも思える。 この頃、 ドゥルーズは、 差異の概念を前景化、 システム化することで、 同一性の原理、根源的主観性に根拠を置く超越論哲学、超越論的主観性 の 哲 学 に 対 し て 反 旗 を 翻 し、 全 面 的 な 対 決 を 挑 ん で い る よ う に 見 え る。 ドゥルーズの書物においては、自我の同一性に関する話題が積極的に記 述されることなど全くない。そこでは、自我の同一性、根源的自我、超 越論的主観などといった概念は全面的に否定されていると見做してもか ま わ な い と 思 わ れ る。 ﹃ 差 異 と 反 復 ﹄ で は、 特 異 点 と 諸 セ リ ー を 基 と し て構成されるシステム論的モデル、 あるいは理念における ﹁構造 ︱ 発 生 ﹂ モデルを採用しており、意識にまつわる話題や、根底としての自我や超 越論的主観などが出る幕はなく、 徹底して埒外に追いやられている。 ﹃差 異 と 反 復 ﹄ に お け る﹁ 構 造 ︱ 発 生 ﹂ モ デ ル は 、 ガ タ リ と の 出 逢 い が 大 きな屈折点になって﹃アンチ ・ オイディプス﹄において、 ﹁機械 ︱ 生 産 ﹂ 5 ID 所収 ド ゥ ル ー ズ は こ の 小 論 の 最 後 の と こ ろ で 構 造 主 義 を 全 面 的 に 擁 護 し つ つ 次 のように締めくくっている。 ﹁ 厳 密 に 言 っ て、 構 造 主 義 に 反 対 す る 書 物︵ あ る い は、 ヌ ー ヴ ォ ー・ ロ マ ン に 反 対 す る 書 物 ︶ に は 何 の 重 要 性 も な い。 そ ん な 書 物 が、 私 た ち の 時 代 に お け る 構 造 主 義 の 生 産 性 を 妨 げ る こ と な ど な い。 ﹂︵ ID2 269/98 ︶ モデルへと大幅なモデルチェンジが行われる。 数多いドゥルーズの書物や論文では、 数学や物理学 ・ 生物学のキーワー ドが頻繁に登場してくる。微積分、 特異点、 多様体、 エントロピー、 位相、 ファジィ、 晩年の脳科学など数えあげればきりがない。 これまでドゥルー ズはこれらの書物の中では、自らの哲学の内部に異種の学問が入り込む ことに対して取り立てて説明することはなかった。おそらくただ一度だ けこの件について詳しく触れている。それは﹃千のプラトー﹄の出版後 のインタヴューでのことだ。 ﹁科学者の目で見ると、 ﹃千のプラトー﹄で 使われた概念はメタファーになってしまう恐れがあるのではないでしょ う か。 ﹂ と い う 疑 念 に 対 し て、 ド ゥ ル ー ズ は 精 密 さ と 厳 密 性 を 区 別 し つ つ次のように回答している。 たしかに﹁干のプラトー ﹄で使った概念には、 科学と響きあうばかりか、 科 学 の 概 念 と 完 全 に 対 応 し あ う も の が い く つ か 含 ま れ て い ま す。 ブ ラ ッ ク ホ ー ル、 フ ァ ジ ィ 集 合、 近 傍 域、 リ ー マ ン 空 間・・・。 こ の 点 に か ん し て 言 っ て お き た い の は、 科 学 の 概 念 に は 二 つ の 種 類 が あ る と い う こ と で す。 現 実 に は 両 者 が 完 全 に 融 合 し て い た と し て も、 二 通 り の 概 念 が 存 在することに変わりはありません。一方には、その本性からして厳密で、 数 量 化 さ れ、 数 式 化 さ れ て い る た め、 精 密 さ に よ っ て し か 意 味 を も ち え な い 概 念 が あ り ま す、 そ う し た 概 念 だ と、 哲 学 者 や 作 家 は こ れ を メ タ フ ァ ー と し て 使 う し か な い わ け で す が、 概 念 自 体 が 完 全 に 精 密 科 学 に 所 属 し て い る 点 か ら し て も、 転 用 の 結 果 は 悲 惨 で し か あ り え な い。 し か し も う 一 方 で は、 基 本 的 に は 精 密 さ を 欠 き な が ら 絶 対 の 厳 密 性 を そ な えている、だから科学者としてもないがしろにはできないし、科学
後期ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定についての試論 六一 者にも芸術家にも同じように所属する概念がある。こうした概念に は科学的になるのではないにしても、それを科学者が使うと、その 科学者が哲学者にも芸術家にもなりうる、そんな厳密性を与えれば いいのです。 この種の概念が曖昧であるのは、概念自体が不十分だから で は な く、 そ の 性 質 と 内 容 の せ い な の で す。 今 日 的 な 例 を と り た い と 思 いますので、 たいへんな反響を呼んだプリゴジンとスタンジェールの﹃混 沌 か ら の 秩 序 ﹄ を 見 て お き ま し ょ う。 こ の 本 で つ く ら れ た 概 念 の ひ と つ に 分 岐 帯 bifurcation が あ り ま す ね。 プ リ ゴ ジ ン は 専 門 分 野 の 熱 力 学 を き わ め た と こ ろ か ら 分 岐 帯 の 概 念 を つ く っ た わ け で す が、 そ れ こ そ 哲 学 と 科 学 と 芸 術 が 分 か ち が た く 結 び つ い た 概 念 に な っ て い る。 逆 に 、 哲 学 者 が 科学でも通用する概念をつくりだすどいうことも、けっして不可能 ではありません。 ( ・ ・ ・ )哲学も科学も、そして芸術も文学もけっ して特権視されてはならないのです。 ︵ PP 45/64-65 ︶ 科学と哲学、芸術と哲学の共有領域を厳密に思考するドゥルーズのこ の 発 言 は、 ﹃ 千 の プ ラ ト ー﹄ 刊 行 直 後 の 一 九 八 〇 年 の こ と だ。 こ の 時 点 では、 ﹃千のプラトー﹄で触れられた脳に関する科学的記述︵樹状突起、 シナプス間隙など︶はあるものの、脳と哲学、脳と科学といった共有領 域 の 話 題 や、 ︿ 主 体 ー 脳 ﹀ の 概 念 が 直 接 的 に 語 ら れ る の は こ れ か ら 十 年 程度経過した後のことである。 ド ゥ ル ー ズ が 最 初 に 脳 に 関 し て 語 り 出 す の は、 ﹁ 口 と 脳 の 争 い ﹂ の 話 題のある﹃意味の論理学﹄からだろう。この時、ドゥルーズは、シモン ド ン を 参 照 し つ つ、 ﹁ 脳 の 表 面 と 形 而 上 学 的 な 表 面 を 同 一 視 ﹂ し、 脳 を 物 理 的 表 面 に よ る 形 而 上 学 的 表 面 へ の 誘 導 と し て 位 置 付 け て い る 6 。﹃ ア ンチ・オイディプス﹄には脳に関する記述はない。脳に関する科学的記 述が見られるのは ﹃千のプラトー﹄ からだ。この時期のドゥルーズにとっ て、脳の問題は哲学と科学が分かちがたく結びついた厳密さを要する格 好 の 概 念 に 思 え た の で あ ろ う。 ﹃ 千 の プ ラ ト ー﹄ の 序 章﹁ リ ゾ ー ム ﹂ に 神経細胞とシナプス間隙 7 に関する次のような記述がある。 思考は樹木状ではなく、脳は根づいた、あるいは枝分かれした物質 ではない。誤って﹁樹状突起﹂と呼ばれているものは、連続した組 織内でのニューロンの連結を保証するわけではない。 諸細胞の不連 続 性、 軸 索 突 起 の 役 割、 シ ナ プ ス の 働 き、 シ ナ プ ス に お け る 極 小 の亀裂の存在、それらの亀裂を超える各メッセージの跳躍、といっ たものが、脳を一つの多様体にし、この多様体は、その存立平面あ るいはグリアにひとつの不確定な蓋然性システムの全体をひたらせ る。 多 く の 人 の 頭 に は、 一 本 の 樹 木 が 植 わ っ て い る が、 脳 そ れ 自 体は樹木であるよりもはるかに草である。 ﹁軸索突起と樹状突起は、 ちょうど昼顔が茨のまわりに巻きつくようにして互いに巻きついて おり、棘の一つ一つにつきシナプスが一つある。 ︵ MP 25/28 ︶ 6 LS 259/86 ︵下︶ 7 脳 内 の 神 経 細 胞 は ニ ュ ー ロ ン と 呼 ば れ る が、 そ れ ぞ れ の ニ ュ ー ロ ン は シ ナ プ ス に お い て 複 雑 に 結 合 し て お り、 巨 大 な ネ ッ ト ワ ー ク を 形 成 し て い る。 シ ナ プ ス の 結 合 部 は 約 20nm の 隙 間 が あ り、 シ ナ プ ス 間 隙 と 呼 ば れ て い る。 ニ ュ ー ロ ン 同 士 は 正 確 に い え ば 切 断 さ れ て い る と 言 え る の だ が、 間 隙 に お い て 電 気 的、 化 学 的 な 伝 達 が 行 わ れ、 断 続 的 な 状 態 に あ る。 そ れ ぞ れ の 伝 達は電気的シナプス、化学的シナプスと名付けられている。
近 藤 和 敬 ・ 野 元 達 一 六二 このとき、ドゥルーズが関心を持ったのは、脳の領野の機能や役割と いった大域的なものではなく、極めて限定的な細胞レベルのミクロの領 域 だ っ た。 ﹁ 諸 細 胞 の 不 連 続 性、 シ ナ プ ス の 働 き、 シ ナ プ ス に お け る 極 小の亀裂の存在、それらの亀裂を超える各メッセージの跳躍﹂という記 述 は、 脳 科 学 で 言 う と こ ろ の シ ナ プ ス 間 隙︵ Synaptic cleft ︶ が﹁ 極 小 の 亀 裂 の 存 在 ﹂ に 相 当 し、 ﹁ 亀 裂 を 超 え る 各 メ ッ セ ー ジ の 跳 躍 ﹂ が シ ナ プ ス間隙における電気的、化学的伝達に当たる。 シナプス間隙に関するドゥルーズのこの記述は、 その不連続性︵間隙︶ と 連 続 性︵ メ ッ セ ー ジ の 跳 躍 ︶ が 一 体 に な っ て い る 点 で リ ゾ ー ム の 4 番 目 の 特 性︵ ﹁ Principe de rupture asignifiante ﹂︶ と 綺 麗 に 重 な っ て い る 8 。 後 ほ 8 シ ナ プ ス 間 隙 の 記 述 は リ ゾ ー ム の 第 4 番 目 の 特 性 と 重 な り 合 っ て い る の だ が、 ち ょ っ と わ か り に く い。 こ の 解 釈 は 次 の よ う に 理 解 し た い。 リ ゾ ー ム の第4番目の特性は次のようになっている。 4. 非 シ ニ フ ィ ア ン 的 断 続 の 原 理。 こ れ は 諸 構 造 を 分 か ち、 あ る い は 一 つ の 構 造 を 横 断 す る、 過 剰 な シ ニ フ ィ ア の 切 断 に 対 抗 す る も の だ。 リ ゾ ー ム は 任 意 の 一 点 で 切 れ た り 折 れ た り し て も か ま わ な い。 そ れ 自 身 の し か じ か の 線 や 別 の 線 に し た が っ て ま た 育 っ て く る の だ。 ﹃ MP ﹄ 16/21-22 4. P rin ci p e de r up tu re a si g ni fian te : c ont re l es c ou pu re s t rop signifiantes qui séparent les structures, ou en traversent une.Un rhizome peut être rompu, brisé en un endroit quelconque, il reprend suivant telle ou telle de
ses lignes et suivant d'autres lignes.
﹁ Principe de rupture asignifiante ﹂は﹁非意味的切断の原理﹂と訳されている ど触れるデデキントの︿切断﹀の概念に由来していることを特別に指摘 し て お き た い。 研 究 者 に よ る 指 摘 は ほ と ん ど 見 ら れ な い が、 ︿ 切 断 ﹀ は 連 続 に 対 立 す る ど こ ろ か、 む し ろ 連 続 の 条 件 を な す 概 念 だ。 デ デ キ ン ト の ︿ 切 断 ﹀ は﹃ 差 異 と 反 復 ﹄ の 初 出 以 来、 そ の 後 の ド ゥ ル ー ズ の す べ て の 書 物 を 読 み 解 く う え で 非 常 に 重 要 な 概 念 で あ る。 ま た、 上 記 の 引 用 の す ぐ 後 に 脳 の 記 憶 に つ い て ド ゥ ル ー ズ は 次 の よ う に 述 べ る。 こ こ で は、 短 期 記 憶 が そ の 断 続 性 に お い て リ ゾ ー ム の 概 念 と 重 な る。 こ の 時 点 で は、 脳 は 記 憶 の 場 所 で は な い 9 と い う ベ ル ク ソ ン 的 理 解 か ら は 逸 脱 し て が、 こ こ で は、 ﹁ 非 シ ニ フ ィ ア ン 的 断 続 の 原 理 ﹂ と 訳 し た 方 が い い と 思 わ れ る。 理 由 は 二 つ あ る。 ひ と つ は、 rupture と coupure を 訳 し 分 け る 必 要 が あ る と 思 わ れ る こ と。 も う ひ と つ は、 実 は こ れ が 非 常 に 重 要 な の だ が、 ﹃ ア ン チ・ オ イ デ ィ プ ス ﹄ に お け る 切 断 ﹂ の 概 念 と 同 様 に、 ﹁ 切 断 ﹂ は 連 続 の 条 件 で あ る こ と を 加 味 し た い た め だ。 こ の 切 断 の 概 念 に は﹁ デ デ キ ン ト の 切断﹂が背景にある。 rupture にはもともと、 ﹁断続﹂の意がある。実際に、 ドゥルーズは、 ﹁ Principe de rupture asignifiante ﹂ついて2ページ余りを割い て 説 明 し て い る が、 単 純 な﹁ 切 断 ﹂ の に 意 に と れ る よ う な 説 明 箇 所 は 見 当 たらない。 ﹁ Principe de rupture asignifiante ﹂の事例が3つほど挙げられてお り、 例 え ば、 雀 蜂 と 蘭 に つ い て 言 え ば、 雀 蜂 と 蘭 そ れ ぞ れ の 生 成 変 化 の 解 説 に な っ て い る。 す な わ ち、 こ れ は 雀 蜂 と 蘭 の ∧ 断 続 ∨︵ 切 断 即 連 続 ︶ の プロセスであって単純な切断の意ではない。また、 これにはラカン的な ﹁シ ニ フ ィ ア ン の 連 鎖 ﹂ に 対 す る 批 判 の 意 が 込 め ら れ て い る。 ﹁ Principe de rupture asignifiante ﹂ を あ え て 意 訳 す れ ば、 ﹁ 意 味 作 用 を 欠 い た 生 成 変 化 の 原理﹂ 。 9 ﹁ 脳 の 内 に は、 記 憶 が 定 着 し 蓄 積 さ れ る 領 域 は な い し、 ま た あ り う べ く も な い。 脳 の 損 傷 に よ っ て 記 憶 が 破 壊 さ れ た と い わ れ る の も、 記 憶 の 現 実 化 す る 連 続 的 進 行 が 中 断 さ れ た だ け の こ と で あ る。 ﹂︵ ベ ル ク ソ ン﹃ 物 質 と 記 憶﹄ 144 ベルクソン全集 白水社︶
後期ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定についての試論 六三 いる。 短 期 記 憶 は リ ゾ ー ム・ タ イ プ、 ダ イ ヤ グ ラ ム・ タ イ プ で あ る の に 対 し、 長 期 記 憶 は 樹 木 状 で あ り 中 心 化 さ れ て い る。 ︵ 中 略 ︶︿ 短 い 観 念 ﹀ の き ら め き ︱︱ た と え 長 い 概 念 の 長 期 記 憶 に よ っ て 読 み 、 か つ 読 み 返 す に し て も、 人 が も の を 書 く の は 短 期 記 憶 に よ っ て、 し た が っ て 短 い 観 念 に よ っ て な の だ。 短 期 記 憶 は 忘 却 を 過 程 と し て含んでいる。それは瞬間と一致するのではなく、 集団的、 時間的、 神 経 的 な リ ゾ ー ム と 一 致 す る。 長 期 記 憶︵ 家 族、 人 種、 社 会、 あ るいは文明︶は複写し翻訳する。 ︵ MP 24/28-29 ︶ 短期記憶をリゾーム・タイプ、ダイヤグラム・タイプに比し、長期記 憶は中心化されており、樹木状になっていると指摘する、ドゥルーズの 解 釈 は、 お そ ら く 脳 科 学 者 に は 思 い も よ ら な い 解 釈 で あ ろ う。 な ぜ 短 期記憶がリゾームで長期記憶が樹木状なのかは、説明がないので推測す るしかないが、 ﹁短期記憶は忘却を過程として含んでいる﹂とあるので、 忘却に断絶︵不連続性︶を重ね合わせているようだ。ドゥルーズは、短 期記憶に︿断続﹀を見ている。 ︿断続﹀はリゾームの特性である。 ﹁人が ものを書くのは短期記憶による﹂とあるが、この場合の短期記憶は、読 書や暗算などの場合に使用されるワーキングメモリー︵作業記憶︶であ ると考えられる。ドゥルーズが長期記憶に複写と翻訳を読み込んでいる のは理解しやすい。 心身問題は、 ﹃襞﹄ などドゥルーズの後期の著作に垣間見える。 とは言っ ても、心身問題と言うより、ライプニッツ論で論じられるのは新たな物 質 観、 新 た な 主 体 観 で あ っ た り、 フ ー コ ー 論 に お け る 言 葉 と 物︵ 言 表、 光 記 号 ︶、 あ る い は そ の 境 界 の 問 題 と し て あ ら わ れ る。 極 端 な 言 い 方 に なるが、この二冊の著作では︽襞一元論︾ともいうべき話題が論じられ ている。それぞれ異質である物質と魂の間に、それらの間を走る潜在性 としての無限の︽襞︾ 、︽折り目︾を導入することによって心身問題の解 決が図られる。 ﹁襞﹂といえば、われわれは、すぐ脳の襞を思い出すが、 このライプニッツ論においては、脳に関する話題はほんの数カ所で触れ られる程度である。 ドゥルーズの脳に関する話題は極めて限定的だ。それは︿間﹀として の脳である、境界面とか切断面における出来事が、あるいは脳における シナプスの ︿間隙﹀ が哲学と接合しつつ語られる。 ︿間﹀ と ︿間隙﹀ はドゥ ルーズの哲学において常に重要な位置を占めている。例えば、次の引用 で は、 ︿ 思 考 ﹀ は 見 る こ と︵ 光 ︶ と 話 す こ と︵ 言 表 ︶ と の 間 隙 に お い て 成立するとされた。 見 る こ と は 思 考 す る こ と で あ り、 話 す こ と は 思 考 す る こ と で あ る。 しかし思考することは、見ることと話すことの間隙において、分離 において成立する。 ︵ DRF 1983-1995 236-237/85 ﹁ミシェル ・ フー コーの基本的概念について﹂ 、フーコー死後の一九八五年ごろ︶ シ ナ プ ス 間 隙 に つ い て の 典 型 的 な 記 述 は、 ﹃ 時 間 イ メ ー ジ ﹄ に お い て 現れる。ドゥルーズは、電気性シナプスを 「 有理数的︹合理的︺ 」 、化学 性 シ ナ プ ス を 「 無 理 数 的︹ 非 合 理 的 ︺」 と 理 解 し よ う と す る。 こ の よ う な独自の解釈は脳科学者には想像しがたいだろう。さらに、 無理数的 ︹非
近 藤 和 敬 ・ 野 元 達 一 六四 合理的︺な点をマルコフの図式に対応させる。このような解釈の背後に デデキントの ︿切断﹀ を見ることは容易なことだろう。デデキントの ︿切 断﹀の概念は、ドゥルーズの頭の中から離れることはないようだ。以下 にその該当箇所を引用しておきたい。 シナプスの発見そのものがすでに、連続的な大脳網という観念を打 ち砕くのに十分であった。というのも、それによって還元不可能な 諸点または諸切断の存在を認めざるをえなくなったからである。し か し、 電 気 性 シ ナ プ ス の 場 合、 切 断 ま た は 点 は、 数 学 的 な ア ナ ロ ジ ー に し た が え ば、 い わ ば 「 有 理 数 的〔 合 理 的 〕」 で あ る よ う に わ れわれには思われる。逆に、化学性シナプスの場合、点は 「 無理数 的〔非合理的〕 」 であり、 また切断はそれ自体で意味をもつのであっ て、みずからが切り離す二つの集合のどちらにももはや属していな い ︵実際、ニューロンの間隙において、小胞は化学媒介物質の非連 続 な 性 質、 あ る い は 「 量 子 」 を 解 き 放 と う と す る ︶。 ニ ュ ー ロ ン 間 の伝達において、偶然的な、というより半偶然的な要素がますます 重要になってくるのはこのためである。 ︵ IT 第8章注 32 275/71 ︶ リ ュ イ エ は、 マ ル コ フ 連 鎖 が い か に し て 生 命、 言 語、 社 会、 歴 史、 文学に作用しているかを示している。このような観点からは、ベー ルイの事例は特権的な事例であろう。より一般的にいえば、われわ れが先に規定したような ニューロンの連鎖は、そのシナプスおよび 無理数的〔非合理的〕な点によって、マルコフの図式に対応してい る。それは 「 部分的に依存的な 」 継続的籤引きであり、半偶然的な 連鎖であり、すなわち再結合である。 脳はとりわけマルコフ的解釈 を適用すべきであるようにわれわれには思われる︵ニューロンの送 信者と受信者の間では継続的だが独立的ではない籤引きが行なわれ ている︶ 。︵ IT 第8章注 36 277 / 71 ︶ また、 ドゥルーズは、 デデキント的切断の概念︵ 有理数的︹合理的︺ 、 無 理 数 的︹ 非 合 理 的 ︺︶ を、 そ れ ぞ れ﹁ 古 典 的 ﹂ 映 画 と、 ﹁ 現 代 的 ﹂ 映 画に対応させている。 切断や断絶は映画においてつねに連続的なものの力能を形成してき た。しかし映画には数学に似たところがある。いわゆる 合理的切断 は、 それが分離する二つの集合のうちの一つに属することがあり (一 方 の 始 ま り、 他 方 の 終 わ り )、 そ れ は ま さ に 「 古 典 的 」 映 画 の 場 合 である。また現代の映画におけるように、切断は間隙となり、非合 理的であって、集合のどれにも属さず、一方に終わりがないのと同 様、他方にも始まりがない。誤ったつなぎとは、このような非合理 的切断なのだ。 ︵ IT 236/253 ︶ ﹃時間イメージ﹂の公刊後3年ほど経ってからドゥルーズは、 ﹁マガジ ン ・ リテレール 」 ︵一九八八年九月発行第二五七号︶の対談において、異 分野としての脳生理学の重要性を次のように語っている。 思考のイメージを問うことで得られるのは、モデルではないし、手 引きですらなく、むしろ参照すべき対象、あるいは絶えず異分野と
後期ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定についての試論 六五 の交配をおこなっていなければならないことへの自覚です。そして 現時点で参照すべき異分野が何かといえば、それは脳をめぐる専門 知識だ ということになるでしょう。哲学は神経学と特権的な関係を 結んでいますが、それは観念連合論の思想家を、あるいはショーペ ンハウアーやベルクソンを見ればすぐにわかることです。私たち現 代人にとって、新しい考えがひらめくきっかけは、コンピューター ではなく、ミクロの生物学ともいうべき脳生理学にあります。 脳と いうものは、いわば一個のリゾームであり、だから樹木よりは草本 に近く、 一種の 「 アンサートゥンシステム 」 を形成し、 確率論的で、 半分は偶然にゆだねられた量子論的メカニズムを持つ。これは私た ちが脳をめぐる知見に準拠して思考するという意味ではなく、思考 が新しい思考であるならば、その思考は見たこともないような溝を 脳に生々しく刻み、その形を歪め、襞をつけたり、亀裂を入れたり するはずだ。そう言いたいのです。 この点、ミショーの仕事はまさ に 奇 跡 で す。 新 し い 結 合、 新 し い 疎 通、 そ し て 新 し い シ ナ プ ス を、 哲学は概念の創造に際して総動員するわけですが、同時にそれはひ とつの豊かなイメージでもあって、独自の手段を用いつつ、そこに 客観的な物質との類似や力能の材料を見出すのが脳の生物学だとい うことになるのです。 ︵ PP 204/302 文庫︶ こ の 対 談 が 行 わ れ た の は、 ﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ が 執 筆 さ れ る 二 年 ほ ど 前 のことだ。これまで様々な異分野と接触してきたドゥルーズが脳科学に 対して大きな期待を抱いていることが理解できよう。ドゥルーズが関心 を抱く脳といえば、極めて限定的であることが見て取れる。溝である襞 で あ り、 亀 裂 や シ ナ プ ス の 存 在 だ。 新 し い 考 え が ひ ら め く き っ か け は、 ミクロの生物学ともいうべき脳生理学にあると考えるドゥルーズが脳に 本 格 的 に 言 及 す る の は、 ﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ に お い て で あ る。 以 下、 晩 年 の 著 作 で あ る﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ に 現 れ た 脳 と 世 界︵ 哲 学、 科 学、 芸 術 ︶ の関係について論じてみたい。この書において︿主体ー脳﹀の概念が前 面に出てくる。ドゥルーズが︿主体﹀について積極的に言及するのは最 初で最後のことだ。とは言っても︿主体﹀は意識主体を意味しない。
2『哲学とは何か』における脳
﹃哲学とは何か﹄の結論部のタイトルは、 ﹁カオスから脳へ﹂となって おり、ドゥルーズはカオスとの関連から話し始める。カオスという用語 はドゥルーズの著作の中に頻出するが、一九六〇年代に端を発するカオ ス 理 論 の カ オ ス 概 念 の こ と で は な く 10 、 一 部 の 記 述 を 除 い て コ ス モ ス の 対義語として使われる場合が多いようだ。一般的には、無秩序、混沌に 近い意味で使われるが、 ﹃哲学とは何か﹄ では次のように規定されている。 内在平面は、言わばカオスの断面であり、篩のように作用する。 カ オ ス を 特 徴 づ け る も の は、 実 際、 諸 規 定 の 不 在 と い う よ り も、 む し ろ 諸 規 定 が 粗 描 さ れ た り 消 失 し た り す る と き の 無 限 速 度 で あ る ︵ QP 44/63 ︶ 10 カ オ ス 理 論 に お け る カ オ ス の 性 質、 非 線 形 性、 初 期 鋭 敏 性、 有 界 性、 非 周 期 性 に ド ゥ ル ー ズ は 言 及 し て い な い。 た だ ス ト レ ン ジ・ ア ト ラ ク タ ー へ の 言及は数カ所︵ QP 194/292 など︶ある。近 藤 和 敬 ・ 野 元 達 一 六六 カオスは、その無秩序によって定義されるというよりも、むしろ無 限速度によって定義される のであって、そこ︹カオス︺においてお およその輪郭を現し始めるあらゆる形は、その無限速度とともに消 散 す る の で あ る。 そ れ〔 カ オ ス 〕 は、 或 る 空 虚 で あ る ︱ す な わ ち 、 無ではなく、或る潜在的なものであるところの空虚である。 この潜 在的なものは、すべての可能な粒子を含み、すべての可能な形を描 くものである。可能な形とは、共立性︹堅固さ︺も準拠︵指示︺も もたず、結果ももたずに、現れるやただちに消えるものである。そ れ 〔カオス〕は、誕生と消滅の無限速度である。 ︵ QP 11 1/168 ︶ ギリシャ神話を前提に置きつつも、カオスを無限速度で規定するとこ ろにドゥルーズのドゥルーズらしさがある。第三種の認識に属するとさ れ る 無 限 速 度 は ス ピ ノ ザ や ミ シ ョ ー を 脳 裏 に お い た 記 述 で あ る 11 。 因 み に哲学と科学はこの無限速度との関連で次のような限定を受ける。 カオスと交 截 する 内在平面としての哲学的な篩は、思考のいくつか の無限運動を選択するもので あり、思考と同じ速さで動く共立的な 諸粒子として形成されたいくつかの概念を装備するものである。科 11 ﹁エピクロスからスピノザにかけて ︵かの驚嘆すべき ︹﹃エティカ﹄ ︺第五部︶ 、 ス ピ ノ ザ か ら ミ シ ョ ー に か け て、 思 考 に 関 す る 問 題 は 無 限 速 度 に あ る。 だ が、 こ の 無 限 速 度 は、 そ れ 自 身 に お い て 無 限 に 運 動 す る ひ と つ の 中 間 = 環 境 を、 つ ま り 平 面、 真 空、 地 平 を、 必 要 と し て い る ﹂︵ QP 38/54 ︶。 第 三 種の認識に属する無限速度については、 QP 201-202/304 。 学は、或るまったく別の仕方でカオスに取り組むのであり、それは ほとんど逆のやり方をする。すなわち、科学は、潜在的なものを現 働化させることができる或る準拠を獲得するために、 無限なものを、 無限速度を放棄するのである。 哲学は、 無限なものを保持しながら、 概 念 に よ っ て 共 立 性 を 潜 在 的 な も の に 与 え る。 と こ ろ が、 科 学 は、 無限なものを放棄して、潜在的なものに、その潜在的なものを現働 化させるような、或る準拠を、ファンクションによって与える。 哲 学は、或る内在平面あるいは共立性平面をもってことに当たり、科 学 は、 或 る 準 拠 平 面 に よ っ て こ と に 当 た る の で あ る。 科 学 の 場 合、 それは︹映画の︺ストップモーションに似ているところがある。そ れは或る不思議な減速であり、減速によってこそ、物質は現働化し またそればかりでなく、命題によって物質を洞察しうる科学的思考 も ま た 現 働 化 す る の で あ る。 フ ァ ン ク シ ョ ン と い う も の は、 ︿ 減 速 された﹀ファンクションなのである。 ︵ QP 112/168-169 ︶ ﹁ 哲 学 は、 無 限 な も の を 保 持 し な が ら、 概 念 に よ っ て 共 立 性 を 潜 在 的 なものに与える。ところが、科学は逆に、無限なものを放棄する﹂とい うわけだ。 ところで、無限の概念はドゥルーズにとって重要であるが、無限速度 で規定されるカオスと脳の関連は明確に規定されてはいない。脳自体が カオスなのか、それとも脳の外部がカオスなのか、あるいはともにそう なのか。脳とカオスの関連が読み取れる記述は数少ない。 哲学、 芸術、 科学は、 対象化された脳の心的対象ではない。 哲学、 芸術、
後期ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定についての試論 六七 科 学 は、 三 つ の ア ス ペ ク ト ︱︱ そ れ ら の も と で 脳 が 主 体 へ と 、︿ 思 考 ﹀ ︱ 脳 へ と 生 成 す る ︱︱ で あ り、 三 つ の 平 面、 三 つ の 筏 ︱︱ そ れ ら の う え か ら 脳 が カ オ ス へ と 潜 り、 カ オ ス に 立 ち 向 か う ︱︱ で ある。 ︵ QP 198/298 ︶ ところで、それら三つの︽非︾は、脳平面から見ればまだ区別があ るのだが、 脳が潜んでいるカオス から見ればもはや区別はない。脳 がそのように潜んでいるということについて、こうも言えそうであ る ︱︱ 芸 術 が 名 づ け る よ う な 、 し か し ま た 哲 学 と 科 学 も そ う 名 づ け る よ う な、 ﹁ 来 た る べ き 民 衆 ﹂ の 影 が、 カ オ ス か ら 引 き 出 さ れ る のだ、と。 ︵ QP 206/310 ︶ この二つの記述から、ドゥルーズは脳を﹁カオスの中に潜む脳﹂とし て位置付けしていることが理解できる。そして、脳はカオスに立ち向か う。となると、推測するに、カオスが無秩序及び無限の側であるとすれ ば、脳は秩序及び有限の側ということになろう。上記のような基本的な 理解を踏まえて、以下に脳と哲学、脳と科学、脳と芸術の関連を読み解 いていきたい。その前に抑えておくべきは、脳とオピニオンの関係であ る。オピニオンは﹃差異と反復﹄における思考の公準に匹敵する用語で あり、良識や一般的見解、ステレオタイプの思考などと同水準の用語で ある。オピニオンは創造性の対極にある疲労した思考、紋切り型の堕落 した思考であり、ドゥルーズにとっては認め難い思考形態である。オピ ニ オ ン は 有 機 的 な 脳 の 老 化 で あ り、 疲 労 で あ る︵ QP 201/304 ︶。 習 慣 化された思考であり、因果性や観念連合、統合といった定型化した脳内 パターンから生じる思考のことだ ︵ QP 202/305 ︶。ドゥルーズによれば、 プラトンやアリストテレスのディアレクテイク的探求やカントにおける 反省的普遍概念、あるいはヘーゲル的な弁証法による高次の思考もオピ ニオンの範疇から逃れ得ず、ドクサの記録に留まるだけであると指摘さ れる︵ QP 77/1 16 ︶。 危 険 き わ ま る カ オ ス か ら 我 々 を 守 っ て く れ る︿ 傘 ﹀ と し て の オ ピ ニ オンに対して、カオスに潜り込み、切り裂いて交截平面を描き、カオス の征服を期待される脳主体の対象が、 創造的な領域における哲学、 科学、 芸術である。簡便な対比をとれば、オピニオンが日常的な習慣化された 思 考 で あ る の に 対 し て、 ド ゥ ル ー ズ が 考 察 す る 哲 学、 科 学、 芸 術 は 創 造 性 の 側 に あ る。 た だ し、 注 意 し な け れ ば な ら な い の は、 ﹁ 構 成 さ れ た 科学的対象として扱われる脳は、オピニオンの形成とそのコミュニケー ションの器官でしかありえない﹂ 。︵ QP 197/297 ︶。 創造的な芸術がオピニオンに対抗して、カオスを切り裂き、その裂け 目に一瞬照らし出される美的ビジョン︵感覚︶がドゥルーズによって描 かれる様子を引用しておきたい。 ひとびとは自分たちを守ってくれる傘を絶えずつくっており、その 裏側に、天空を描き、自分たちの慣例やらオピニオンやらを書きこ んでいるのだが、 詩人、芸術家は、傘に裂け目をつけ、天空を引き 裂 き さ え し、 こ う し て 風 の よ う な 自 由 な カ オ ス を 少 し ば か り 通 し、 そ の 裂 け 目 を 通 じ て 現 れ る〈 視 〉 ︱︱ ワ ー ズ ワ ー ス の サ ク ラ ソ ウ あ る い は セ ザ ン ヌ の リ ン ゴ、 マ ク ベ ス も し く は エ イ ハ プ の シ ル エ ッ ト ︱︱ を、 突 然 の 光 の な か で フ レ ー ミ ン グ す る の で あ る。 ︵ QP
近 藤 和 敬 ・ 野 元 達 一 六八 191/289 ︶ 画家は未使用のカンバスのうえに描くのではないし、作家もまっさ らの紙面に書くのではない。紙面あるいはカンバスは、あらかじめ 存在しあらかじめ打ち立てられた紋切り型の表現によってすでには な は だ し く 覆 わ れ て し ま っ て い る の で あ れ ば、 ま ず は じ め に 消 し、 拭い、凸凹をならし、ずたずたに切りさえしなければならないので あって、こうすることで、カオスから流れ出てわたしたちに視を運 んでくる一陣の風を通すことができるのである。 フォンタナが、彩 色されたカンバスを、かみそりを一閃させて切るとき、彼がそのよ うにして切り裂くのは色なのではない。反対に彼は、 わたしたちに、 裂け目を通じて純粋な色の平滑さを見せてくれているのだ。芸術が 実際に闘っている相手はカオスではあるが、しかしそれは、カオス を 一 瞬 照 ら し 出 す ひ と つ〈 視 〉、 つ ま り ひ と つ の〈 感 覚 〉 を、 カ オ スから出現させるためなのである。 ︵ QP 192/289-290 ︶ 一 見、 比 喩 的 で 曖 昧 と も 取 れ る こ の 記 述 は、 ﹃ 差 異 と 反 復 ﹄ 以 来、 終 始一貫している︿切断﹀のモチーフである。傘の裂け目、オピニオンに おける亀裂、鋭いカミソリで切り裂かれたフォンタナのカンバスにドゥ ルーズは、デデキントの︿切断﹀を重ね合わせ、その切断面に創造的な 無 限 の 美、 無 限 の 思 考 を 見 い だ す。 ︿ 切 断 ﹀ の 思 考 は、 曖 昧 で も な く 比 喩的でもない、一瞬のうちに無限の美を穿つきわめて明晰かつ鮮烈な思 考と言える。フォンタナのカンバスはもとより、ワーズワースのサクラ ソ ウ、 セ ザ ン ヌ の リ ン ゴ は︿ 切 断 ﹀ と い う 創 造 の 一 瞬 の 美、 す な わ ち、 ﹁カオスを一瞬照らし出すひとつ︿視﹀ ﹂であることを理解しなければな らない。 ここで留意しておくべき重要な点を指摘しておきたい。ドゥルーズが ︿ 接 合 ﹀ と︿ 統 合 ﹀ を 区 別 し て い る こ と だ。 こ の 区 別 は 中 心 の 問 題 に 関 わる。中心のない︿接合﹀と中心における︿統合﹀だ。おそらく、脳科 学者は、脳を中心的存在と考えるだろう。身体の中心としての脳、思考 の中心としての脳。周囲の要素を統合し、あたかも社長のように君臨す る 前 頭 葉 12 。 し か し な が ら、 ド ゥ ル ー ズ が 想 定 す る の は 統 合 と し て の 脳 ではない。カオスを切り裂く三つの平面︵哲学、科学、芸術︶は、中心 を 欠 い た、 接 合 と し て の 脳 だ。 構 成 さ れ た 科 学 的 対 象︵ 例 え ば 脳 科 学、 生物学︶としての脳は、すなわち漸進的な連結及び中心によって統合さ れた脳はオピニオンの形成とコミュニケーションの器官でしかありえな いとドゥルーズは考える。その理由はこうだ。 なぜなら、漸進的な連結、および中心における統合は、いぜんとし て 再 認 の 偏 狭 な モ デ ル の 支 配 下 に あ る か ら だ︵ 認 知 と 実 践、 ﹁ こ れ は立方体だ﹂ 、﹁それは鉛筆だ﹂ ・・・・︶ 。また、脳に関する生物学 は、以上の点で、このうえなく硬直した論理学と同じ諸公準に従っ ているからである。オピニオンというものは、環境や、利害や、信 念や、障害を考慮に入れた、あたかもゲシュタルトに即したシャボ ン玉のような、 プレグナンツの形態なのである。してみれば、 哲学、 芸術そして科学をも、対象化された脳のなかのニューロンによるた んなるアセンブラ ︹変換︺ としての ﹁心的対象﹂ のように扱うのは、 12 例えば、坂井克之﹃前頭葉は脳の社長さん?﹄ ブルーバックス 2007 年
後期ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定についての試論 六九 難 し い よ う に 思 え る。 な ぜ な ら、 く だ ら な い︿ 再 認 の モ デ ル ﹀ は、 そうした心的対象をドクサのなかに閉じ込めているからである。も しも哲学と芸術と科学という心的対象︵すなわち生命的観念︶が場 所をもつとするならば、その場所は、対象化されることができない 或る脳の裂孔、 間隙、 そして合 ︱ 間 の な か に 、 シ ナ プ ス の 裂 の も っ と も 深 い と こ ろ に あ る の だ ろ う ︱︱ そ れ ら を 探 す た め に 洞 察 す る ことが創造することであろう場合には ︱︱。 ︵ QP 197/297-298 ︶ 哲 学 と 芸 術 と 科 学 と い う 心 的 対 象 が 脳 の 裂 孔、 間 隙、 そ し て 合 ︱ 間 のなかに、シナプスの亀裂のもっとも深いところにあるのだろう、と考 えるドゥルーズの指摘にはなかなか共鳴しがたいところがあるが、先に 指摘したように、ドゥルーズにとって、亀裂、間隙、切断の概念はきわ めて重要であり。 ドゥルーズの真骨頂とも言えるものである。 そこにドゥ ルーズの全てがあるといっても過言ではない。ただし、ここで気をつな ければならないのは、亀裂、間隙、切断とは単なる亀裂、間隙、切断で はないということだ。 ドゥルーズの﹁切断﹂の概念は切り離すことや分 離を意味しない。 接続や連続の反意語でもない。 ドゥルーズの ﹁切断﹂ は、 む し ろ 接 続 や 連 続 と 切 り 離 せ な い。 ﹁ 切 断 ﹂ は 生 成 や 創 造 と 一 体 化 し て い る。 切 断 に よ る 無 理 数︵ 間 隙 ︶ の 生 成 で あ り、 ﹁ 切 断 ﹂ と い う 一 つ の 出来事に関わる事態である。このような﹁切断﹂という出来事、あるい は、間隙という出来事が重要であって、過剰になりすぎた接続を切り離 せといった安易な議論などではない事に留意すべきだ。 ﹁切断﹂ の概念は、 デデキントの切断を基礎においており、 有理数の切断が無理数を創造し、 実数の連続性を指し示すこと、すなわち切断と連続の一体化がドゥルー ズにとって重要な関心事である。脳で例証すれば、シナプス間隙におけ る微粒子︵イオンや化学物質︶たちの﹁切断即連続﹂に関わる壮大な物 語 な の だ。 例 え ば、 立 体 の 切 断 は 境 界 面 あ る い は 接 面︵ 表 面 ︶、 平 面 の 切断は境界線︵あるいは逃走線︶ 、線の切断は点︵あるいは特異点︶ 。﹁切 断﹂ とは、 平面や逃走線、 特異点の生成や創造に関わる出来事なのである。 換 言 す れ ば、 切 断 は n ︱ 1 次 元 と も 言 え る 。 ド ゥ ル ー ズ が と き お り 口 に す る︿ n ︱ 1 で 考 え る ﹀ と は こ の こ と を 指 し て い る 。 切 断 と し て の n ︱ 1 次 元 は 、構 造 ︵ 微 分 的 ︶、 理 念 、特 異 点 、逃 走 線 、出 来 事 、表 面 ︵ 境 界面︶ 、 器官なき身体、 欲望機械、 存立平面︵共立平面︶などと変奏され、 ドゥルーズの﹃差異と反復﹄以降のほぼ全著作を横断する。 心 的 対 象 と し て の 脳 が オ ピ ニ オ ン の 形 成 器 官 に 過 ぎ な い の で あ れ ば、 創造されるべき哲学と芸術と科学はどのように位置付けられるのであろ うか。ドゥルーズの回答はこうだ。 カオスは、それと交 截 する平面に応じて三人の娘たちをもっている ということだ。それは、 ︿カオイドたち﹀ 、すなわち芸術、科学、そ して哲学であり、それらは、思考あるいは創造の形なのである。わ たしたちは、カオスと交截する三つの平面のうえで産み出される実 在 を、 カ オ イ ド︹ カ オ ス に 由 来 す る も の、 カ オ ス の 娘 ︺ と 呼 ぶ の だ。 三 つ の 平 面 の︵ 統 一 で は な く ︶ 接 合 が、 脳 な の で あ る。 ︵ QP 196/296 ︶ 哲学と芸術および科学は、カオスと交截する三つの平面のうえで思考 され、創造されたカオイド︵カオスの娘︶として位置づけられる。その
近 藤 和 敬 ・ 野 元 達 一 七〇 あり方は統一や総合ではなく、横断的な接合であることをドゥルーズは 強調する。横断性は神経細胞の特性、ひいては脳全体の特性であろう。 ﹃哲学とは何か﹄の結論に当たる﹁カオスから脳へ﹂の後半において、 ドゥルーズは ︿主体 ︱ 脳 ﹀に 言 及 す る 。﹁ 人 間 は 考 え る 葦 で あ る ﹂と か﹁ 我 思うゆえに我あり﹂などと言われるが、ドゥルーズに言わせれば、考え るのは人間ではなく主体としての脳ということになる。 思考するのはまさに脳であり、人間ではない のであって、人間とは 脳における結晶にすぎないのである﹂ ︵ QP 197-198/298 ︶。 ﹁ 思 考 す る の は 脳 で あ り、 人 間 で は な い ﹂ と 言 明 す る の は、 醒 め た 目 で 言 え ば、 あ る 意 味、 当 た り 前 の こ と で、 ﹁ 脳 が 思 考 す る。 つ ま り、 そ れは私が思考するということに他ならない﹂という反論がありうる。し かしながら、ドゥルーズならそのような反論に対して次のように答える だ ろ う。 ︿ 脳 が 思 考 す る = 私 が 思 考 す る ﹀ と 考 え る べ き で は な い。 あ く ま で も 思 考 の 主 体 は 脳 で あ っ て、 ︿ 私 ﹀ と 言 う の は 脳 で あ り、 脳 が﹁ 私 は 概 念 的 に 理 解 す る ﹂ と 言 わ せ る の で あ り、 ま さ に︿ 主 体 ︱ 脳 ﹀ が 私 をして感覚させるのであると。 脳は、そうした絶対的な形という第一のアスペクトのもとでは、ま さ し く 諸 概 念 の 能 力、 す な わ ち 諸 概 念 の 創 造 の 能 力 と し て 現 れ る。 それと同時に、諸概念がそのうえに置かれ、置き換えられ、そのう えで秩序と関係を変え、更新され、そして絶えず創造される当の内 在平面を、まさに脳が描き出すのである。 脳は、精神そのものであ る。脳が主体〔下に投げられたもの〕へと生成する、 あるいはむし ろホワイトヘッドの言葉では﹁自己超越体︹上に投げられたもの︺ ﹂ へと生成するのと、 概念が、 創造されたものとしての対象、 出来事、 あるいは創造そのものへと生成し、哲学が、内在平面へと、すなわ ち諸概念を担いかつ脳が描く内在平面へと生成するのは、まさに同 時である。 ︵ QP 198-199/299-300 ︶ 哲 学 的 概 念 の 創 造 能 力 と し て の 第 一 の ア ス ペ ク ト で あ る︿ 概 念 ︱ 脳 ﹀ は、 あ る い は、 内 在 平 面 を 創 建 す る︿ 内 在 平 面 ︱ 脳 ﹀ と い う ︿ 主 体 ︱ 脳 ﹀ は 、そ の 意 味 で 精 神 そ の も の と い う こ と が で き る 。 さ ら に 、ド ゥ ルーズは芸術の合成 ︱ 創作平面としての第二のアスペクト ︿感覚 ︱ 脳 ﹀ について次のように続ける。 ︿ 私 ﹀ と 言 う の は 脳 で あ る が、 ︿ 私 ﹀ と は 一 個 の 他 な る も の で あ る。 それは、超越が存在しないにせよ、二次的な連結と統合からなる脳 と同じ脳ではない。そしてこの︿私﹀は、哲学としての、脳の﹁私 は概念的に理解する﹂であるばかりでなく、 芸術としての、 脳の﹁私 は感覚する﹂でもある。 ︵ QP 199/300 ︶ わかりやすく言えば、 ︿私﹀ という主体、 あるいは心とは、 派生的なもの、 二次的なものであり、逆に一次的なもの、本来の意味で主体的なものと は 脳 で あ っ て、 ︿ 私 ﹀ は、 本 来 の 主 体 た る 脳 に よ っ て 産 出 さ れ る、 い わ ば 脳 の 代 名 詞 に す ぎ な い。 以 下、 脳 ︱ 主 体 と し て の︿ 感 覚 ︱ 脳 ﹀ に つ いてもう少し詳しく見ていきたい。
後期ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定についての試論 七一 感 覚 は、 概 念 に お と ら ず 脳 で あ る。 ︵ 中 略 ︶ 感 覚、 そ れ は 刺 激 そ の ものである。ただし、感覚が反応へと漸進的に引き継がれ移行する かぎりにおいてではなく、感覚がおのれを保存し、おのれの振動を 保存するかぎりにおいて、 感覚は刺激そのものなのである。 感覚は、 神経の表面であるいは脳の容積のなかで、 刺激物の振動を縮約する。 すなわち、先行するものは、後続するものが現れるとき、まだ消え ないということだ。それが、カオスに応答する感覚なりの仕方であ る。感覚は、いくつもの振動を縮約するがゆえに、それ自身振動す る。感覚は、いくつもの振動を保存するがゆえに、それ自身を保存 する。要するに、 感覚は〈モニュメント〉である。感覚は、おのれ の倍音たちを共振させるがゆえにそれ自身共振する。感覚、 それは、 縮約され、 質、 変化性=多様体へと生成した振動である。その場合、 したがって、 〈主体 ︱ 脳 〉は 心 、 あるいは 力 、 と言われるのである。 ︵ QP 199/300-301 ︶ ここで重要な点は、感覚は脳であり、感覚が自身を保存し、おのれの 振 動 を 保 存 す る か ぎ り に お い て、 感 覚 は 刺 激 そ の も の、 と い う 部 分 だ。 確かに、感覚はある意味自立しており、例えば視覚に関して言えば、網 膜からの情報は外側膝状体を経由して一次視覚野に投射しており、視覚 的感覚は︿私﹀の意識︵意志︶にお構いなく脳の後頭部等において自律 的 に 活 動 し、 そ の 視 覚 的 な 流 れ を 保 存 し て い る と 考 え ら れ る。 こ れ は、 脳科学で言うところのエピソード記憶に当たる。ただしこの記憶の保存 期間は大部分は短期的であるようだ。実際、 人は、 今日の活動について、 朝起きてから、夕方までの活動の大部分を記憶しており、振り返ること が出来る。特に強い意志を持って記憶しようなどとは思わずにだ。しか し、一週間ぐらい経てば、ほとんどの場合、記憶は薄れており、思い出 すことは少ない。一年も経てば、その時のことを思い出すのは特別な出 来事でもない限り、不可能に近い。ただ既視感だけが残る。そのような 意 味 で、 ﹁ 感 覚 は 脳 で あ り、 感 覚 が 自 身 を 保 存 し、 お の れ の 振 動 を 保 存 するかぎりにおいて、感覚は刺激そのもの﹂であると言うドゥルーズの 主張は理解できる。感覚は意志や意識から独立して活動するということ だ。独立しているとは言っても、それはベルクソンの純粋知覚のような ものではない。権利上のものではなく、抽象的なものでもなく、現実そ のものだ。感覚はベルクソン的記憶の侵入がなくても、情動や言語の助 力がなくても自ら活動し、自らを保存する。感覚は脳における特定の場 ︵ 例 え ば 視 覚 野、 聴 覚 野 ︶ に お い て 活 動 し、 そ の 活 動 の 場 に お い て、 外 部からの刺激を自発的に保存する。つまり、感覚は脳そのものと言って 構わない。そして、ドゥルーズはそこに﹁享受﹂という概念を持ち込ん で記述する。 感覚は、合成=創作平面を満たし、自分が観照するもので自分を満 たしながら、 自分自身で自分を満たすのである。要するに、 感覚は、 ﹁享受﹂であり、 ﹁自己 ︱ 享受﹂である。感覚は、 ひとつの sujet ︹ 主 体、 下 に 投 げ ら れ た も の ︺ で あ り、 あ る い は む し ろ injet ︹ 中 に 投 げ られたもの︺である。 ︵ QP 200/301 ︶ ︿ 概 念 ︱ 自 己 超 越 体 ﹀ に 対 し て、 ︿ 感 覚 ︱ 自 己 享 受 ﹀ と い う わ け だ 。
近 藤 和 敬 ・ 野 元 達 一 七二 こ の 後、 ド ゥ ル ー ズ は 奇 妙 な こ と を 言 い 出 す。 人 間 や 動 物 ば か り で な く、すべての事物を植物や大地や岩をも、観照として定義したというプ ロティノスの例を引きつつ、感覚の能力を石や植物にまで拡張する。 植物がそこから生じてくる諸要素、 たとえば光、 炭素、 そして塩を、 当の植物は縮約しながら観照し、 そのつど自分の変化性=多様体の、 そして自分の合成の質を表す色や匂いでもって、自分自身を満たす のである。植物は、即自的感覚である。あたかも花は、神経と脳を もつ作用者によって知覚される前に、 あるいは感覚される前にさえ、 最初の視あるいは嗅覚の試みを感覚しながら、つまりその花を合成 す る も の を 感 覚 し な が ら、 自 分 自 身 を 感 覚 す る か の よ う に。 ︵ QP 200/302 ︶ もちろん、これはアニミズムではない。ドゥルーズは岩や植物が神経 系を持っていないことを断りつつ述べてはいるものの、植物に集合的脳 としての ︿種﹀ 、その中に現前する ︿感覚する能力﹀ を前提し、 また岩には、 科学的親和力や、物理的因果性としての原初的な力を見出している。お そらく、ドゥルーズは化学反応や原子核反応などの自発的な変化を想定 しているのだろう。そしてこれらに、ある種のミクロ脳を、あるいは事 物の ﹁非有機的な生﹂ を構成している力が存在することを主張する。 ﹁非 有機的な生﹂はドゥルーズ生命主義の特徴的概念である 13 。 13 ﹃ 哲 学 と は 何 か ﹄ で は、 ﹁ 非 有 機 的 生 ﹂ に つ い て 事 例 を 挙 げ る の み︵ 家 = 生 な ど ︶ で 詳 し く 述 べ ら れ て て い な い が、 た と え ば、 ﹃ 千 の プ ラ ト ー﹄ に は 強度的な生、非有機的生について次のような記述がある。 意 識 の 問 題 に つ い て 言 え ば、 ド ゥ ル ー ズ は 意 識 内 在 を 前 提 と し な い。 コギトが属する内在平面のうえで、しかもコギトを海の真ん中に連れ戻 す内在平面のうえでコギトそのものを定立する。 コギトに傘やらシェルターやらを見いだすのをあきらめること、コ ギト自身になじむようなひとつの内在︹意識内在︺を前提するのを やめ、反対に、コギトが属する内在平面のうえで、しかもコギトを 海の真ん中に連れ戻す内在平面のうえでコギトそのものを定立する こと、これが必要である。 ︵ QP 196/295 ︶
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哲学、科学、芸術の干渉について
ドゥルーズが最も重視するのは、 哲学、 科学、 芸術の相互干渉だ︵ QP 204/308 ︶。 先 の 引 用 で、 脳 と 哲 学、 科 学、 芸 術 と の 関 係 に つ い て、 ﹁ 三 つの平面の︵統一ではなく︶接合が脳なのである﹂と述べていた。わざ わざ﹁統一ではなく﹂と断った理由はなぜか。統一では相互干渉が起き ないからだ。哲学、科学、芸術の干渉の問題は﹃哲学とは何か﹄の最後 す べ て が 生 き 生 き し て い る の は、 す べ て が 有 機 的 で 組 織 さ れ て い る か ら で は な い。 そ れ ど こ ろ か 有 機 体 と は 生 を 横 領 す る も の な の だ。 要 す る に、 非 有 機 的 な、 強 度 の 芽 吹 く 生、 器 官 を 持 た な い 強 力 な 生、 器 官 を も た な い だ け に な お さ ら 生 き 生 き し た︿ 身 体 ﹀、 有 機 体 の あ い だ を 通 過 す る す べ て の も の︵ ﹁ 有 機 的 活 動 の 自 然 な 枠 組 み が 一 度 壊 さ れ る なら、もはや限界はなくなる・・・﹂ ︶︵ MP 623/555 ︶後期ドゥルーズ哲学における「脳」という問題設定についての試論 七三 部に置かれている。全体のまとめの部分なのでドゥルーズ自身にとって も強調したい箇所であろう。 ド ゥ ル ー ズ に と っ て は、 こ の﹁ 接 合 ﹂、 す な わ ち 接 合 部 に お け る 干 渉 が 重 要 だ っ た。 A と B の 接 合 部、 A と B の 間 隙 が 重 要。 脳 に お け る シ ナ プス間隙はひとつの事例だった。哲学と科学、哲学と芸術の接合部︵A とBの境界面、あるいはAとBの共通領域、干渉地帯︵過去の著作の例 で は、 ﹃ 意 味 の 論 理 学 ﹄ に お け る 物 理 的 表 面 と 形 而 上 学 的 表 面 に お け る 干 渉 地 帯、 物 と 言 葉 の 接 触 領 域、 直 近 の 著 作 で は、 ﹃ シ ネ マ ﹄ に お け る 動 く 切 断 面 と し て の 運 動 の 概 念 14 や 非 合 理 的 切 断 に お け る 連 結 ︶ を ド ゥ ルーズは思考する。哲学、科学、芸術の干渉の三つのタイプの具体例を 見てみよう。外因的干渉、内因的干渉、局在化されない干渉だ。次の引 用は外因的干渉の場合の事例。 第一のタイプの干渉が現れるのは、ひとりの哲学者が、ひとつの感 覚の概念、 あるいはひとつのファンクションの概念︵たとえば、 リー マ ン 空 間 に 固 有 な 概 念、 あ る い は 無 理 数 に 固 有 の 概 念 ︱︱ ︶ を 創 14 ド ゥ ル ー ズ の 運 動 の 概 念 は、 切 断 面 に お け る 連 続 性 で あ り、 持 続 で あ り、 変化性である。 ﹃シネマ﹄においては、運動は次のように説明されている。 ﹁ ひ と つ の 総 体 に 含 ま れ る 諸 事 物 あ る い は 諸 部 分 を、 わ た し た ち は、 動 か な い 切 断 面 と み な す こ と が で き る。 た だ し、 運 動 は、 そ れ ら の 切 断 面 の あ い だ で 成 立 し、 そ し て、 変 化 す る ひ と つ の 全 体 の 持 続 に、 諸 事 物 あ る い は 諸 部 分 を 連 関 さ せ る。 し た が っ て、 運 動 は、 諸 事 物 と 連 関 し て 全 体 の 変 化 を 表 現 す る。 運 動 は、 そ れ 自 体 が、 持 続 の 動 く 切 断 面なのである。 ﹂︵ IM 22/22 ︶ 造しようとするときである。あるいは、たとえばフェヒナーのよう に、あるいは色や音に関する諸理論におけるように、ひとりの科学 者が諸感覚のファンクションを創進しようとするときであり、そし てさらに、たとえば潜在的な概念を現働化するかぎりでの数学に関 してロトマンが指摘するように、ひとりの科学者が諸概念のファン クションを創造しようとするときである。あるいは、抽象芸術のも つ諸変化性=多様体において、またはクレーにおいて見て取れるよ うに、ひとりの芸術家が、概念についての、あるいはファンクショ ンについての純粋感覚を創造するときである。干渉する側の学問領 域はそれ自身の手段によってことに当たらなければならないという のが、それらすべてのケースにおける規則である。 ︵ QP 204/308 ︶ ドゥルーズは過去の著作を振り返りつつ、五つほどの具体的な干渉例 を挙げている。リーマン空間に固有な概念とは、多様体の概念や任意の 無 限 小 近 接 し た 二 点 に つ い て 成 立 す る よ う な 距 離 空 間︵ リ ー マ ン 空 間 ︶ の概念のことだろう。ドゥルーズ哲学における﹁多様体﹂概念の重要さ は指摘するまでもない。無理数に固有の概念とは、 デデキントの︿切断﹀ のことであり、 先述したように ︿切断﹀ の概念は、 ﹃差異と反復﹄ 以降のドゥ ルーズの著作においてきわめて重要だった。ライプニッツの弟子のフェ ヒナーについては、直近の著作である﹃襞﹄に事例がある。ロトマンに ついての初出は、 ﹃差異と反復﹄であるが、 ﹃哲学とは何か﹄でドゥルー ズは、 ﹁潜在的な概念を現働化するかぎりでの数学﹂ と記述している。 ﹁潜 在的な概念の現働化﹂に関して、それがロトマンと関連するものだとい う 指 摘 は、 こ れ ま で あ ま り な か っ た か も し れ な い。 ﹃ 差 異 と 反 復 ﹄ に は