地 域 研 兜 第 5 報
I l
博 牢 町 の 研 究
‑ 僻 中 足 ̀ : i :の 場 合 ‑‑ ‑ ,
岡山大学教 育学部社会科研究室 ′
1・ 足守川の谷鑑平野 (弔 1藍 ) 侵蝕の ス ラー))はあ る復 旋すす ん でい る (石田 )
5・ 足守牡 鹿の 古絵園 (第 2を ・第 1節 ) 灸里の
遭
tか iみ られ る (西尾 )2・ 野 呂の隻 語 (第1章 )
有印 の上に はか な り広い平坦 軒が残 ってい る (石田 )
4・ 足守港家老 の門長量 (第2専 ・第5か )
7.洪 庵 ,緒方 先生 碑
(L第2啓 .第5師 )
9・ 足守庄園の 古絵図 (第
5
書 ・第1軒 )堤田一兵六T作人永末
坪
未 申 示 とあり 粂丁の呼恥 )あ った 知 られる (石田)
8・ 洪 庵 生家記 念 碑
(窮 2を ・第 5師 )
10・ 書簡市原上の小谷闇とその土地利用 (弔5昏 ・第 2節 ) 布
原
ヒの旧輪廻の谷 (井野 )11・ 市 原の蒙 と畑 と水田 (仝上 ) 家の̲f巨括空間が 見11抑こあ らわれ てい る (井 野 )
15.畝に立地 した家 (仝上
)
見晴の よい研 こあ る
( .
文節 )15 中 村の蓮 田 (市 5薙 ・耶ち節 ) 蓮 田は足守Jlfの 旧村771'で あ り ,村
12 トマ ト械 皆 (仝上 )
日船作物Tt次 号即こ減′lvhL典薬の親 撃か さかんlこな りつ ゝあ る
(FT野 )
1J 牛 の可動場 (第5
茸 ・
第 2肝 ) 用 鞄化のすゝむ に つか このよ うな 地 軸塀や′1111食鞍E,が 作 らtl,炎伺体
的経 絡が うすれ てPl,
く(
浅野 )ld. 大 井の 町 (弔
5昏・第
4節 う バ スは大井 o:)町に韓 気を 与 え17. 足守の町 (第5軒 ・第 4節 ) 181L十二本木 の触 現宮 (第 5蓉弔 4節 ) 娘 残 されてゆ く町は さび しい
(石田 )
叔近 まで牛市の ひ らかれてい た 替なつか しい ト二木 (石田 )
19・ は るかのぞむ温 泰 (窮 5帝 ・第5軒 ) 20. メ Pソ栽培 (仝上 )
211 枚 もたわ ゝ1.i‑マス カッ ト(仝上 ) (鳥耕 )
(.h潜 )
♯ l四 P JI q k 句
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(言 審 慧 還 お他 TE) 国 禁 47繋 T 警 味
目
写 真 地 図
第1章 地形的頚頓 (虫明幸保 ) 東 2頚: 歴 史的展開
第1節 古代 ・中世の足守 (西尾満雄 ) 弟 2節 放生時代の東西攻防線 (松尾圭 子 ) 第3節 足守陣巌町の成立 と展開 (石類庚 史) 第4帝 足守藩政 (柴田‑ ,藤井 正信 )
吹
第5肺 木 下利文 と緒方洪庵 (岡田正子 .前田哲 ) 第6節 傭前転華 とその展開 (赤村宏 )
弟
3章 集 落第1蹄 足守川流域の地形 と集落の概況 (石 田 'jL) 第2筋 谷 と高原の集落 (菟野義一 )
務
S節 条里集落 (横山彰人 )1 9 9 12 1 8
2 2 5 4 6 7 7 7
7 7 79 8 5 第4卸 市場典落 (石田 寛 .安藤弘志 ,加川元子 ) 9 tI
第4牽 交通 と商兼
東 1凍 交感手段LD発達 と通勤者の析出 (井野川徳 代 ) ・. 第2筋 物柵 行な らび に商圏推進 (田中智 子 ,市森 昌子 ) 第6専 雌羊の生産構造
第1肺 寄生地主の成立 と展開 (高田正虚 .太田鮎‑ ) 弟 2肺 停滞的米麦作 (坪井 収 )
弟3筋 虚業の新 しい芽
(1) 果樹栽培 (鳥越耕雄 )
(2)農業撫線化 (岡田悦 子) (31伸びゆ く酪農 (畠山泰子 )
弟 6茸 家 と出穂 第 1軒 民家 と家
(= 民 家 (角藤鹿渡 )
( 2
1 家 族 (浅野敬治 ) (31 前 略 圏 (難夜 征進 ) 第2肝 人 口流 出日) アメ リカ移民 (西本達二 ) (21 位近lこおけ る人 口流.lil (河合明 菜 ) 第75: マ スコ ミと教育
2 5 1
2 5 1 2 5 1 2 5 9
2 5 1 2 5 7 2 5 7 2 7 I 2 8U 弟 1師 マ スメデ ィ7の流入 と受容 (中川 範 ) ・・‑‑・‑‑・・・‑・・'‑‑・・‑・‑ 2 8D
第2師 地域人の描 く次代倣 (永谷治江 )
第 3師 事例分析 を頑 してみた公 教育の問題点 (′J、畑 俊介 ) ・・・‑‑・・‑・・・‑・‑・ 5 12
?,'8章 地域権力の構造
弟 1町 権 力の発生基盤 (妹尾幹夫 )
東 2肝 権 力の地方政静へ の反映 (秋葉 将 )
...5 1 7
は し が き
「陣 屋町の研究 」をわれわれの地域研究 シ1)‑ ズの妨五 として ,喜び と危快が交錯す る。
研究 対 象地 域の選定に辞 して今蓬 は不和 不儀d)間 に地 形学的項域的 IC選ん だ様にな,,てい る。 こ の齢 3ここに問題的探求 し備中足守町を選ん だ。
足守川が吉備高原か ら岡山平野 に出 ようとす るところに足守の町並があ る。そ の地 形学 的位蛭 とhL^ .最近まで行われ てき た三 ,八 .丘 .十 の市立 としぺへ .まさ に典型 的 な谷 口集落 (集 口娘 落 )である。 交通的 ,商業的にめ ぐまれ た谷 口輿藩 は ,そa)飯れた地理的位軒の故は .近世にお いて は木 下侯2万石の陣屋町 として重 きをな した。 嫌下町 の研 究はか なり進 んでい るが .陣屋町 の研究 例はあま り多 くない。 一 口に陣屋町 といっ て もし,ろい ろな形態 があろ う。 足守 は小大 名の 陣恩町で あ る. 昨年渦査 した備中町魚 島の近 世にお け る婆 .明治以後の変掛 こ較べて足守 の場合 は どうであろ うか。 また備前(こは13の在 町があ り ,そ こ には池 田侯 家老在所 の陣鮎町 もあった。
虫明 ,周臨 .佐伯 .建部 ,天城 な どは ,家老在所J.)陣監町 であった. 才つれわれ が ここで と りあげ ようとす るの は2万石 の小 大 名の陣,rB町 は備前のそ れ らとも違っ たニ ュ71/スを もっ ていたで あ る う。 足守#武士 団 の構成 ,足守陣屋 町 の形怨 と構造は ど・D ような ものであったカb これ らは藩 政 史研究の上に食重なデー ター とな るであろう.
政治の中心 はおのずか ら商‑2の中心地 とな り .谷 口集落はその機能 を発印 した ようであ る。 こ のような足 守によく似 た陣屋町 ・谷 口集落は備中井 原であろ う。井 原 と比較すれ ば足守の特 色は 一層浮形にされ るであろ う。
「足守」とい うとき .その前に備中な るに守 をつけて 「備中足守 」と呼ぶ のが語 品がよ
く
聞 き qlれてq:ざわ わがよい。 足守は小藩なが らその 名が全軌 こ聞えてい たの であ る。 それはなぜだろ うか。 これ もわれわれ の追求 したか った ところであ る。格 式を重んす る封建都市の1町人が ,高利球を しなが ら.一大寄生地主に成 長 し .鉄道を敷設 し.地域 経陸を中耳 るにいたった. 藤を離れた士族 .新興在人 ,寄娃地主 ,窮乏す る戯民 ,ア メ I)カへの大 Jt移民 ,小作争濃,これ らは明治大 正月秒・ら昭和期かけ てみ られ た社会蕪辞現 象で あ り ,日本 の何処 におLへて もみ られた ごくあ りふれ たことlこす ぎない が .それ がもっ と も華か こ, シ,‑ プfE,典型的に見 られ たの がこの足守川流域 である.
この よう な出来軌 ま,階級 ・階層 とどの よ うICt'ナ ぴつ き ,生活の 基礎単位 た る家族 構成 に ど の .tうに影響を与えてい るか。
,ミス交頑の発達 は,1年1年 と足守を岡山‑近 づけてい る。静 かに進行 してい る技術革命 は , 吉備高原上の山村に も強 い影響を与え つつ ある。 これに対す る男老 .若 ,罪 ,女の反 応 は どうで あ るか。
はげ しくゆ bうと く社 会に生 き抜 くため .次 の世代 をいか に教育 しようとしてLへるか。 未熟で
はあ るが若 い学生が じか に渦査見附 し分析 した ものである。 某執 な学生 の研究物 この程度 の もの しか出 しえ ないのは ,調査期 日の虚 日時であ・,た ことのみではない。 指導の話に当った我 々 のい た らなさでも ろ。 お詫す る外はない。
本野糞の葵 城をつ くって 下さったのは足守 町職長中 田末一氏であ D .黒瀬町 長 .難改教育 長を 始 め町 当局 .轟会か ら物 心両面lこわた る御援助 を得た .これ な くして木研卿 まなしえ なかっ たで あろ う。 町内語学校 を始 め各種団性の御協力 ,卑料3(輿 lこ際 して御 仏示を贈 わ・,た多 くの方々に 対 し .一 同有難 く御礼 を申上げ る次第であ る。
町をあげての御協力 に応え るにはあIi わにも年弱 であ るが.これを契頬 として学生 が研究 方法 を身 につけ将来の充実 した研究‑ と発展 し .あるいは これを涌 じて町の人 が足守川 町lこ対 して認 譜 を新 たに して 下さ る点 が一つで もあれば̲鶉外の謀で あ る。 (石 田 )
調 査 期 日
8月22日‑ 26日 参 加 者
教 官 谷 口澄夫 古屋野 正圧 石田 寛 学 生
33年入 学 秋葉 将 . 岡田正子 坪井 収 城野敬治 鳥越靖 #.
西尾 満雄 虫明事昧
32年入学 安東弘志
卒 叢 生 有 元ft:柿 柴田 一 中田智子 松尾圭 子
市森 昌子 井 野川徳代 /m川元子 河 合明 吏 永谷治江 島山春 子 石賀康 史 妹尾幹夫 中川 範 難改征 進 藤井 正信 11‑.野 蕪一 掃 山形人
赤和 宏 小畑 陵介 宇野 .太 田 ,河合 長一郎 布田正規
鶴
藤凍忠西本漣 二 楠本
発
第 Ⅰ 茸 自 然 的 環 境
約 7節 地 形
.
虫 明 辛 保
1. 概 観
足 守町は備 前平野 LrJ北;rTf.化榔 招.し .ここで平野 は カ 7.プ塾 にはL^ りこん で L^ る。 東は ‑'F,i町及 び御 津町 ,西は総 社市 .北
は
217馴 J及 び加茂 川 町 に恥 賭 し .東西11.38Km.南北
1 3.26Kn.新税 6 9.34K.n2を占め る.
町をY字状 に足利Ilが流 れ ,町の 中央 部 を大 き く三 分 して繭流 してLJlるo 水凹 や集落 は こLD川
に沿 い帝 都 に次 第 に開 けてい るが ,南部 の平野 を 除 き ,I王とん ど山地 に よっ て 占め られ てLへろ。
(第1表
,
第 2衷 ). 埋 B LB I . ⊥m J
皮
≡面佑A
Km2
6139●922
3
74
0●1
9nJ 山 林E 原 野l
牧馴
宅地 塩田 そLD伯 小 計 i水 面 . 計 : 備 考 40B53‑0.271 1l
1.O39 14B69168.911.1.007I69.918 国定資q I
l I 移己概 要騎 ・
40.51 0.27・ ‑ 1.03 14.55 6N.34 1.00 6934丑参照 構成比 5 13・1, 4・2 58・4 0・4 1・5 21・0 98・6 1・4 1000
弟1
歳 地 目別 所も'f (足守町姓駄i l
・歯 群基政卵 )転 轡
50空 前」ぷ 還 i B o競 500mblt̲ 三 二 !"俳 考面伽 m2 r 6・15 ! 29・49 3 tl・7 0 ‑ f 6 9.,14 +iiiiiiii
柵成比% 8.9 1 42.5 46,6 ‑ I 10 0.0 1 足守 町
1
25()nn に 上る
地 図 .
第2衰 標訪別面il'1‑ (足捌 け相 投珊 TL=J 基礎触 )
そ こで本 町 を便宜 上次 LDようlこri:分 して柏原 (野 呂 )・ lilj.平野 に分け てそ の地形的qlJf色 を 記 してh く. 即 ちrE‑,U'原 として は大 体 取谷舶肘近 の迎 移,・斬 J.柿の所 ,谷はiFは して は そ こか ら大 井 的 近 の定 移点 までの所 と し ,平j・lfLi足守 の町
山
繭 とす る。 (升目東lJ‑ 1‑・
gLgJr̲JJlIfZ';+
2. 野 呂 の 地 形
青備帯原上 部の平坦面 を一般 に野呂 とい う。この よ う!場 所 と して は岩田 ・日近 ・福谷及 び大 井 西部に広 く見 られ 、これ は中国地方 に広 く耕 なる音仙膚取の 南操と考え られ る。
この辺 少は壮 年晩期の山地 でかな りr3月折が進んでい ろ。 しか しよ く見 ると西の 福 谷 ,大 井 と東 の岩田 '日近で は開折の 稽腔に穀分着発が 孟細 られ る。即 ちこ:叫 ま西紬 ,'古生 代の地 JFtか ら成 っ ていて ・硬 く放 血が進 まないので あ って ,壬 として花樹岩 ,水成粘 板岩よ り成 ってい る。 土 齢 ま 抄土 '壌土 ,粘土 などで,T'るが畢雅して 塾 ヒが多 く,山林 は抄質の所 を除 き樹木の生 育 は佳 良であ る。粘板岩の風化土矧 ま枯 く3'ボー等の根菜類 や果菜期によ く古来 足守 3'ボー と して名声が 吊いO 花伽常賢の土鳩には乏水蛙の タバ コ等が 栽培 されてい るO
‑方束虎の岩田 ,E]近 は
r L
lH折が よ く進み ,道 鍬 まジグザ グ し,超伏に富ん でい る。 谷 に沿い水 田は .か なbv)高度の所 まで聞け ,旧輪廻即 ち吉備両船 面とそ・(1,を偵
蝕 す る現輪廻 の谷が 錯綜 し て′、る様子が願 著l7h見受け ら二' rl‑る。 (写苑 1)まな はし
火山内か ら東屋に至る谷 ,下 目近か ら上 布田,LLlノ上に要 る谷 .下高 田か ら石凄,山 ノ上 に至 る 谷等 はそれであ る。 この よ うfi'現 象 は嘩平J熟知の 周辺上由域 によ く見 られ ,ここ も吉僻高原の南棟 でその性 格が よくあ らわれ てい る。 これ らの谷
は
水皿 として利用 され てい る。高
原
上の平
坦面 はこの1Mj3‑で は一般に ウネ ・ソネ ・‑ラ等 とよはれ ,ほ ゞ同 寺であ る。 高原失 活はこの よ うな平坦面に立 地 し.周辺 に畑地 を耕 し ,官 の周臣糾.: 「サ エソ
」 「ノ、タ」があ り .水 田は一般に家か ら碓れ た切所にあ る。riiは ・戊星 ・山ノ上
fiどは野 呂にjl地 した高原 難藩 と して の性格をよ く示 してい る。 (写束 2)足守川の縦 断面 図 (オ 1図 )を見 ると分か るよ うEr̲鼎谷弛Dあたbに河 底勾 配の不連 続点即 ち 避移 点が あ り,高原と谷の境 をな してい る。一方 常軌 っ臼近 川で も鮎返 ・元信附近Iこ滋移点 は認 め ることが出兵 ,高原 (野 呂 )と谷 との境 を T,i.してい るといえ る.
3.谷 間 eJ地 形
谷間とLて西部では黒谷他附近 .東 部で は鮎返 ・元ILl附近 か ら大井附近の遷移点 までの地域に つ いて見 よう。これ らの河 川の 周囲 には不明舵ではあ るが ,戊山 内のLあた りと ,下 高田か ら下 目 近 にいた る地域 に河梓段丘が認め られ る。 こ ゝにはか Ii'r)広い水は]がけ即すていて隆起 準平 原と し ての 古幡高原 をよく代表 してい る川 上郡や阿葡郡 に昆Jれ るよ うな高取 を刻む幼年谷 とそ の支流 の 目を見脹 るような急 斜面は認 め られず .谷 蛙中野か よ(開け ていて ,わずか に粟井附近 に急 斜 lruをみ る/だけ であ る。
一一3‑
集落はこの よ うな谷 では道 路 に桁 い ,街 村 状 を阜 して い る。 そ の 代表 的 filもの が東 山内 と田近 の 集落 で あ る。
東山 内附近 で は一 方の 山が 急で .他方 が ゆ るや か で足守川 は一 方 に押 しつけ られ た状態 を示 し てい る。 (写爽 1 )
さて これ らの 川 はか Iより土 砂運 搬 力 を もってい るが .大 井 では 川の何 例 に山地 が 迫 ってい るの で土砂
は一
時そこでせ きとめ られ稚 拙 され る.こ う してこの他 に‑枚 の埋 FLiIl農地が 形成 され る。これが大 井
の先
地で あ る。な お斜 面に見 られ る果樹 観 は洪前世 の山砂 利屑の 上 に作 られ てい る。 これ は多 くの 軌を含 むの で一 般の作 物 は栽培 出火ず ,果 樹 園lこされ た もので
,
排 水 はよ い04.平 針oU地形 一扇状地 状デル ター
まず 足 守平野 の成 因 を見 よ う。この地方 は もと扱い海 で あ ̲,た と推定 され る。 即 ち ,後氷 期の 海岸 線 (NOlithic beach)紘 ,馳 」膿 の 場合 瀬戸 一山似一 店 井‑一 宮一足 守‑総社 を 結ぶ 線で あ 1た と考 え られ る。
さて'この 淡い海 は足守 川が 上流 か ら土砂 をfLi搬 して来て三 角州 (デル タ )を作 り ,更 に洪水 毎 に三 郎 11は堆jtiLで 高ま る。 こrJよ うに して緩 い{d状地 にな 1た もの と思 わ れ る。 中村JP.'*阿 骨の 袋 渚 は こく/)よ う 1i'良5‑状地 状デル タの上 に立 地 LJ.・̲もの と思 われ る。足 守平 矧 まこの よ うに し て出来上 った もの と考え られ るが ,足 守川 もそ の 後幾度 とな く流路 を変 更 した 形跡が み られ る。
そ こで足 守 川の 旧派 路 を航 空空 中 等夷 ・JL.‑図 ・条里 の乱 れ等 を参 考 に して 復原 して見 ると第2図 の よ うにlilる。
この よ うな流 路の 変 更が 又 足守平 野の その 後の城 因に鮭 轡 を及ぼ してい る.
足守川 は この平野 に出て天井川を示 して 商流 してい るが (次萌参照 ).現在 の捷防に近い附近 の 田はやや 高 くて .砂が多 く .これをj:地の人 々は r畑 田 」と呼ん でい る。次 に砂を少 し含む田 を「中晩 田
J
とht^最 も低湿 な泥の多い山地帯bの田を 「晩田
」とい ってい る。こゝでは水をめ ぐって絶えず争 ってい る。即 ち前者は水が不足 し .後者は水が過剰 で排水に努め .両者の利春が 相反 してい るか らで あ る。●●●
この平野部で は飲 料水Iこ患 まれ ず .ひ どいか なけ水をろ過 して飲用 してい る。 中村のあ たbで はフッ素 を含有 してh る所 もあ る。
以上野 呂 ・谷 間 ・平野 の地 形について述べたが地表水 及び地 下水の水兼イ オ ン濃 度を粗べた結 果 Iこ上 ると .山 地 では酸性 であ るが .平野部 では中性 に うつ b,一 般的な現 象が この地 に もあて はjtる。
5.足 守川の河床変化
足守川の特色あ る現象と して河 床の変化をあげ るこ とが出来 る。即 ち河 床上昇及 び河 床低 下の 現 象が共 に見 られたのであ る
。r
河 床 は水勢の侵蝕力 と運搬堆嶺 力 との平衡 した状 態 に近づ こ う と して極 めて倍 掛 こ上界又は低 下してい る。 しか しこの平衡を破 るような 自然的 ,人 為的 条件 の 変化が あれば急速 な上昇又は低 下に移 るo 洪水 .地熊 .地と .倒壊 ,土 石流 な どlこよる土 砂 .岩 周 の供 給皿の増大 .及び 下流側のそれ らに よる河 谷噸止 め などの自然的原因 と ,鉱害 ,伐採 ,開 敬 ,管理 不十分に よる地被 の破壊 ,及 び貯 水池 .取 入堀 .遊水池の出現 lこよる下流 の頓止め ,そ の他水勢 の妬少 などの人為的 原因に よっ て河 取 J上昇す るO 洪水 の減少 .荒原山地 の固腹 .下流 塀止 め .土 砂の侵蝕流速 ,地被保誠の進 展にともな う河 水の括 劉 ヒと供給土砂教の減少 .上流側・
'Cおけ る貯 水池 .砂防
相
勘 坂入漣 .遊 水池の出現 ,及び 下附 則に おけ 引引
iL改倦 ,分 水路の斬 殺 .砂利採収 は河床 を近 下 させ る。河 床低下 は用 水の月又入れ ,沿岸の 排
水に'̲qf大 な影響を及ぼす」
仙 ものである。
これ を足守川につLlて見 ると ,ます河床 上昇 の現 象として天井 州 ヒの過 程lこつい て見 よう。 こ か九な れ は二期に分けて考 え ることがLh鳴 る。即 ち競一 肌 3日木古来 U)製鉄技術即 ち
た
た らに よる鉄穴●● ■
流 しlこその原因を求め ることが地盤 も。 たた らは 「砂鉄 を原 料 とす る製鉄族で准 尉岩地域の風化 土層を励 し ,水 泡 で砂鉄を 採uRl..それを粘土魁 の炉の 中で灼熱 さh た木炭の上雌 入 して益 や瓶塊 (̀鉛 とした」L21もので ,古 くか ら中国山地 に広 く行T,iLていた。
さてこの製鉄鋲lこよると黄大 な紗を流すので あ,,て .土 砂は軌へ所か ら低い所‑ .更EこIJJ腹か ら谷JIh と流 し出され る。 もちろん これ を防止 す る方法 も耕 じられは した が .その一部は水 と共 に川‑\流LtIす る。そ の秒は上流 部では急流のため川 下へ 運び出され ,平野 に出 ると流 れが急 に緩 やか こな り土 砂運搬力 が弱ま るので .そこに堆横 され る。 この ように してそ こに扇状地を形成 し た り ,天利flが形成 盲れた りす るの である。 天井川 は洪水 の卿 こ氾濫 し高さ を増すQ もち ろん 天 井川 が形成され るためには塊坊を集 かねば な らない。
r中国地方 の藷河 川は水源 地方Iこおけ る鉄穴流 しの盛行は下流部への土 砂流 出且を人=的に増
大せ しめ製炭lこよ る水源林 の荒廃 と相ま って 下流部の Jl快 を高め洪 水の危険を増大 させ 滞鶴水利 の面に も大 きな影響 を与 えた。 この 上 )に江戸時付 こ盛ん lこ行われた砂鉄製錬 も明治維 新以後 洋 式魁鉄 の興 るの lこ伴 ・}て急速 lこ表敬 して行 きJ(3)E 守川 も鉄穴流 しfCよる河 床上那 けち天井 川化 の現 kIま一応軒消された。
ところが次に人 口の増加 に伴
)
農地 不足 が原因で山地の細豊 が実施 され ,掛 こ甜 われ ていた山 は畑地へ と転化され降水卓 に土 砂は谷 川‑流ttIL,llF
先 の場合 と同掛 こ下味に運搬 され ,そこ (こ堆 鎖 し天井川を形成 する。ここに再び河 床 lこ変化 を きた したのであ る。 これが第2期 の河 床上 井d)現 穀であって .これ は戦 中軌後 を通 じて全国的 に見 られ た現 象であ る。この ような河 托 上昇 即 ち天井 川化は 下流 部におけ る洪水時LD排 水を困鮎 に し ,水 田の冠水時 間を長 くし被 害を増大 さ せ る。しか し最近 この天井川化の問題 も解消 され つつ あるo 即 ち下流 におけ る児島帝 の淡水湖化 と上 流 におけ るダムの建 設に 上る河床低 下の現 象で あ る。前 者Iこつい ては児島湾の水 面が低 下したた め ,下流 の堆 積地 に侵蝕の復活 (回春 )が見 られ るようにな った し ,後者につい てはダ ムに一度 溜め られ た水はそ こで清澄化 され る。 清澄化 された水は流速 が早 く運搬 力が強 くな b河床を便 蝕 し低 下させ る。 又ダ ムの建設 は流 嵐を一定lこし .広い捷防 内の一部だけを凍れ るようにな る。 こ )して最近では河床面a)方が局疎tD水田面 上b幾 分低 くな り .凍丑 も安定 してい る。
注 目) 多 田文男鵜 El本地理薪大系 (自然 ) P88
( 2
1 森 鹿三 散 田武柾編 歴 史地理 講座 (日本)1959 P 356 (3)森 銘三 飯田武q q 前掲沓 1959 P868第
2
肺 敏光
地.i
足守町は古来 吉備‑E化の発祥地 として名所旧跡にLrgtTが .施 設 は故だ珠弱で既存のそ1Lを利用 してい るにす ぎない。その主 1.亡ものを挙げ ると ,
1. 名 所
(JJ 近 水公岡 上足守 にあ る公滴で ,足守 目地Z)桜 '旧 若主の別邸吟風 軸が あ る。この公 は削ま旧 足守滞壬木下家の庭園 であ る。 桜 は百数十本 あ り枯鯉湖 にけ静かな行楽地 と して近時名 声をあ げ ている。吟 風胤=よ京都仙洞石加新改奥の残 材を もって唾敏 された もの と言われ る。 公胤勺には 池があ り ,小 堀遠 州作 と伝え られ ている。他 に才Si旅Gつ碑 もあ り,桜祭 .夜 桜見物 等 を行 う。
(21電 泉寺 下 足守葛王にあ り,山上の埴跡として ,又山紫水明の別天地で笈季林間学 校を胴隷 してい る。高松稲荷よ り徒歩 で30分 ,絶好のキ ャー/プ地 であ る。 お電 祭 りが行われ る。
(3)浮田温 泉 粟井にあ り脱衣 ラジウム含有 量避雷で古 くより姫 神方面 に名声が高 い。 温 泉法に
規定 され た鉱泉 には認 め られ(.Iいが■7月 .8上目こけ多 くの併給客があ り ,次 いで・1 08, I 日 .28.4月とな 1ていて ,岡山市 '児鹿市 ,倉掛 h‑,捨祉 軒 ,高松町方 面の人 々が 多 く 一 京阪神か らも若干集ま る。これ らの 人々は神様痛 ・良Jr肩 ・外傷等の胎齢 こぞって くる。
‑ 7‑
ー■■■l■■T」
(4)無谷弛 河掛 こあ D ,山狭の絶 払 施設 としては桜 と紅葉 .ポー ト遊び .魚釣 りな どであ る0
2, 旧 跡
tl)葉 田茸森宵跡 下足守 lこあ り県指定文化財 ,応神天皇行在所跡 と伝え られてい る。 参道入 口の石鳥唇iこは 「康安元年 十月二 日郎 妾賀陽番人大 =沙禰妙 阿祝師僧疎
密
」の銘があ り . 鳥 腎在銘 としては全国で も磁石L7)もの と言T)れてい ろ(室 町時代 )。背 が低 く見え地上包腹(沓石 と もレ、う)を見せ ない ところ却 って韻 を見せ ろ。笠木等 u)手法 はそ の時代 の特徴 であ る。 国指定文化財。
(2)冠山城
虻
下足守 にあb避臣秀吉中国征伐 (高松城 水攻 )の際 の要衝 で加藤 衝 正が これを 陥れた とh う。(31 武家屋男繊 構 上足 守Iこあ わ県指誼文化財。旧足守藩家老杉 原氏の 腎宅で江 戸中期の建物 恕併
進D
でほ ほ原態 を残 してLへろD(4) 木 下利玄誕/=臼也及び生 家 近 水公開附 近 にあ り.明 治 ・大 正時代LD歌人 木下利玄 の生 乳 なお近 水公園内に碑 があ る。
(5)珊方 洪掩護生地 上足守 に あ b県指定文化財o 蘭学の泰斗我 が国種痘 の祖 と言われ た猪方 敵機の誕生地。 文化 七年 この他にLiれ ろO なお猪 方洪庵 の碑 も上足守 IこあるO
(6)安准 寺 日近 にあ 少栄西禅師得度 の寺。卑 見の井 戸 ・桜 ・紅葉等 あ る。 栄西麟b・献茶 式 桜踊 り等が行われ ろO
(7) 線 P社宝塔 上高 田にあ り国指定文化財。 全長一丈八尺三寸 で ,花 樹岩鮎 「貞 和二年十 月二 日大工 妙bri,JJa)銘があ るtJI,.大=は足 守八幡 の石鳥陪V)もの と一致す るO 相輪は後柿で あ るが梅園LEI!こ孔雀/=r和 し全休 Lt)婆 が非常 に よく整 ってい ろ。
制 上印等の兜錘 日近にあ り県指定 文化 財 ,安土桃山時代 のもLDQ
(9)守 福寺 の石造宝殿 下足科 こあ り坦封旨定文 化肘O 南北朝時代の石造 LD家IBの形態 を した遭 樋であ ると言われてい る。
名所・旧跡 としては大体以 上の ような もLf)であ るが ,次FC果観の慣れてLJlる所 と して次の よう
こ所
が
半 け られ る。・十二本木山 の擬現得 昔の
午
前を偲 びなが ら肺前肺中の国昭 を東 に傭前の国を眺めなが ら赤 く の もエho 父権現宵 まで行 (と遠かIこ連な る書簡高原 のなだ らか な平坦面を望む こ とが出光 ろ Ll薙星の星神社 ここでの‑1771軌 は実 に乗柵 らしく北
には 書傭柘原 と中国山地 を ,又繭には淋戸 内海の島々を見下す ことが出来 る。
o懸幡神社の 随身門
このよ うli:金高な観 光脊源 も現在 のま ゝの施設 では年 々宋亡 す るは必定で ,整備拡 張が強 く望 まれ る。
往 この節 は主 と して 「足守町建設計画」鵜本計 画鰍 こよる。
第 皿 章 歴 史 的 展 開
第
1
節 原 始 ・ 古 代 ・ 中 世西 尾 満 稚
1 原 始か ら古代 (= 縄文時代
足守周辺vcpい ては縄文時代vc局す る遺跡 ・遺物は発見 されてVlない。 しか し .億近忙 な って栢谷の西周倉で縄文土器の破片が発見 さTLたO 西周 倉の 資料か らは ,は っきりした こと 比V'えないけれ ど も .数 千年 前vcナでVCこの地)}‑に人跡が きざまれたの である。 辞 しvlととは は 今紋 この種の土器の 発見に期待 したい。
L21 弥生 時代
足守の地域VCも服部や阿呆 などと共vcかな り早 く稲作技 術が 伝73った と思われ るが .今の 所 .弥J1時代印朋の遺 跡 ・過物の発 見v= Cは 至 1でい ない。 しか し .弥生 時代 も建 朋vcな って
くると足守町の 各所 で土器 ・石器な どの適物が 発見 され てい る。
上足守か ら銅鐸が掘 り出 されたと伝え られ てい るO との 邑守 出土の銅釦 高 さ2 0数cdZ) 小 型の もので あるが ,どの ような場所に どの 上うに埋 め られ ていたかは73か 1ていをい。
(3) 古J*時代
足守vEかける古墳と して .旧 El近 付大字 舌の羅山古墳 .下足守字見坂の向山古墳な ど数 基 の古
t
nは
指摘することが で きる。龍 山古墳 では .2つの 絹式 石棺が並んで& 少 .その 一方の 石棺か らは鋸 歯文銘 1両 .他方の 石棺か らは ・四郎鍵 1面 .直刀1口 ・玉類4 6個が出土 し てか 9 .向山古墳か らは人骨と共vc 形文銀 (伐弛 )1面 .直刀 1口 .玉類6 3個が出土 し ている。
これ らの古項の 披葬者は .小 さな熊組の 支配者18であ 1た。 これ ら小 熊F.j]は 更に大 き75:力 vC上って支配 され てい た。 足守の場合は
盲
価国がそれであ る。 前記 の飽 ま舌佑国か ら分け与 え られた もの であろ う。支配 者が大 きを古巧 むつ くること自体が ,惰力の1つの象徴 であ 1た。 し.J、●ノ社会 ,文化 の進展と共vc.禎支配者 層のrPVCも階轍分化が 行73TLだ した ころ ,新 しい 形式 ‑ごある横穴 式 石垂が古fnVC導 入され てくると .古項 とい うものが 「権力の 集散」の牌か ら引 きず りpろ さ れ .い7)ゆる 「
去
」 と しての性格 牡鹿 く持つ ようVCを1たの である。 つま り古唄は 支配 者だ けの ものでな く .もっと広い 層の中に藩透 してい った。 丘陵や谷 あいVE数基か ら10数基が 群 集 して現われ .非常vc多 くの 古墳が 各所 vc存在す る結果 とな ‑た。 足守町 だけ で も2'30 0の古項の存在が認め られ るが .その大 部分が この古墳時代 後期の群 災項 で ある0
‑ 9‑
下,qv守の三.tr山都 Iiは仏穴式 石姿廿 もつ古項で ,現 在はその大部分は 披旅されて跡形i・以ナ の/jiで 去るが ,刀2口
,・
=;珠2伯 ・tdl個 .玉頬 14 6個 ・碑 石2個 ・杯や榔 瓦などの士 と芳 類301舶 拙 土 してい るとい う。侶 石にしろ土 器類 (こしろ これ らは 日常生活.'zl結びつ くもの であ り ,娼珠 ・轡は馬貝類の1部を示 してい るもので ある。2 古 代
(1J灸 里 制
条里 肘比 大化の改新の 際の土地行政の1つ として行われた もので あ 1て ,水 田を主に,6 町4方 を一つの 単位 として土地を熊然 と方 形に区画 しその1つ を1里 と呼ん だo縦の基線を 灸 ,俵の鹿線を里 と名付けた ことか らこれ を条里制とい 1たの であ る。
この 6町4万の各辺 を六等分 して,3 6の坪 を虚け ,それぞれIi:l秤l2坪 ・‑‑ 3 6坪 と名付けた。何坪とい う地名があれ ば条里 軌の 施行された ことを うかがい知 ることがで きるB
鼻里 制は平地部にかいてはか な Dの範淵に 施行されてい るO北は 軌 ・ftか ら南は九 州てtでそ の逮椀 を見 ることがで きる。 又足 守周辺 にかいて も ,総社 ・服部 ・足 守 ・生 百 ・.島松 ‑一 宮 の附近の 水田はほぼ全面にわた ってその追捕 を見 ることがで きる.
足 守町について見 ると ,大井以北 には条里過 納を指 柵す ることは で きないが ,旧足 守町の 水田面にかいて比ほほ 全域Iこ認め ることが で きるD この他城は恭里地 割だけでな く,1坪 と い う地 名 も残 ってい る。
12)外 果 捌
大化の改新の際,50戸 を以て1輿 とす ると定め られ たb この̲ERの下に村 な るものがい く つか含 ‑1れていたO令娼解に よると'&屯元年 (7 15)に控 を攻めて壬占となし ,村を改めて 里 とした と見え る。いわ ゆ る郷̲‑qi;h・;)が 施行され たわけ であるo これに よって地方行政の区軒 が国 ・郡 ・都 ・里 となったが .天平1 1年 (7 3 9年 )ごろ になって輿が 剛 、られ な くなり , 村が郷の下
に
位す るようになったO殻ちには 里と村が矧 司されて使われ ることさえ生 じた。足守町の触里につ いて見 ると .次の ようであ るo 足守 (滞森 )郷 三井里 ・楢 昆里
1 tI 大井脇 田後哩 ・粟井鼻
などを知 ることが で きる。
茸森と足守‑/同 じように使 われ てい るが ,これは かな り汝7Eで併用 された ようである。
天平1 1年の正倉院文話で比庭 瀬 ・板 倉 ・瀕森 ・大井 ・lq舵 ・八部 ・日羽 ・多気 ・●有漢の 九郷が 袈夜郡(こ属 してい る。瀬森郷の 内三井 里lこつ いては ,現在 下足 守八幡 宮の南東方 に三 井谷 と称する地名があ り ,又冠山の繭腹に三 井山三 仙寺とい う寺があ る (この寺比以前仕三 井 谷にあ り ,冠 山に移 したが戦国時代lこ焼かれたの でその 放現在の地に移 した といわれ る。 ) 三井谷か ら冠山の‑
; t ,
'f;ほかけての地が三井里であろ うと思われ る。 父 ,倫見過 については , 正倉院文書の記軒では生 石部が欠け てお 9 ,三 井典が足守にあた るとすれば構見 里は 生石のlLh.にな るの で純 なかろ うか。
大井 一触 大井 ・日近 ・岩 肌 ・桶谷を含んでいたQ 田縫卦 こつ いては 明 らか にしえ ないが , ヌ井
埋
け ,明治22年 より前の粟井村 を巾心 と した地区 で+,→た と思 われ る.「里即諾郡足守 ,JLj料lt・・'手布百端 ,勝足守。大井郷 ,交易 絹百疋 ,'王 ノ利守」 (蛤博文処 ) これ に よると ,足守の特産物は布 .す なわち席放物で .大井の特 産物は絹柑物 で あったこ とを知 ることが できる0
3.中 世
(日 雀 圃
荘園の 始ま
D
をは っきbつかむ ことは閑難であ るD大化の 改新の 際の班田収授けやがて 土 地不 足となってい ったoこの土地不足解決の瀬 として ,三 世一身法や熊 田永世私有法 な どが 出され たが ,効 果仕上 らなか ‑たO しか し一方 ,これ らの法 は荘 固発生の一つの原田 にな ‑,た といえ る。a
生 石 荘御厨 目録や足守荘絵図に よってその存在 を知 るととがで きるが ,その他の ことは一 切 不明である。
b * # #
大井茸につ いては2 ・3の記操が残 ってい る。す なわ ち o光寺文番目 ,守詔代相国寺領僻中国大井准
オ 石壁 郷a)'酸位段銭之可暇 6月9日御
車
出 旨可故軌 上国催促 由仮也依執廼姐件 寛正5年6月10日 基数( 1 4 6 4年 )
石 河 左 近 将 監 搬
o祐水寺敬壬院鐘紡 日 ,備中国大井御荘節水寺敬主院主幸円 It 正中2乙丑天正月廿 日 大 公舌村弘美
(1325年 )
満水寺敬主院については 「伯中 志」 蟹姫郡上l嶋EEl村の集に 「清水山清水敬呈院 ,本堺 千 手初 音立像 (保探連作 と云 う不評 )阿弥陀 堂血債堂古来は 堂塔 12寺有 と云平相同桁 感道立の旧弛也云云」 とあ る。上 高田は 旧岩 田村の大字 で ,旧 El近村 の大字 に下 高田が あ D ,大井在が旧大井 ・臼近 ・岩 田3村 にわた っていた ことが知 られる。又 ,東寺文番 か ら相国寺の#闇であ 1た ことがわか る。
生石 ・大井両雀 と も
弟
応元年 (1 169年 )の 監守准'絵図に よってその存在を知 ること がで きるの であるか ら弟応元申 亡はす でに成立 してい たことF'JEるoc 足 守 荘
足守荘に関す る缶料はさ いわい なことに康髄の神護寺 (こい くつか保管されてい る。
o轟応元年 (1 I 6 9年 )足守荘絵図 4隅の堵 示
‑ ll‑
辰巳勝示備中円墳石畳山 未申牌示生 石御荘堺 堺田‑姦六丁作人永 写坪 成 亥傍示 阿宗 伽堺大横 山 丑刀牌示大井御荘堺藤木LLl大井軌 荘堺長坂山脇
この絵図に より#園の範間を知 ることがで きる.又図中iこは 田福寺 ・吉田山 ・柄 川寺 ・ 八幡LLJ・半万弛 ・福岡山 ・延 寿寺 ・稚本山 ・満 水寺 ・木福寺 ・書 籍寺 ・王子堂 ・三井寺 水田山 ・次山の名称が記され てい るo 絵図上 で もP,ともは っ きb位 置し ,大 きさの わか る寺院は延 蒋寺であ る。 この 寺だけは 水 田のせん なか にあ9 ,方3町げか bにその境内 があ らわされてい る。現在で も延 寿寺の範脚は 指 摘できるが ,瓦 .礎石は未 発見で ある。
,なお ,神隷寺の文省によって神護寺衝足 守姓の成 立の仕方 菅 うかがい知 ることが できる。いっ L‑ろどの よ うに して後白河 院の領 地 となn たかけ全 く不明である。 しか し12世紀の中 ごろ僧文 /i.・:‑,̲WL法恥陣の大願 にことよせ て後白河院に寄進 を強 要 した ことがわか る. さすがの綾白河 院 も
ljLt:1二には勝 てなか ったのであ る。
い Tれの荘蘭 も存 在 を知 る ことがで きるが ,成 立過程 その他 につ いてほ とん ど知 bえ ないのは V.'4念 である。
参 照
「 吉 備 都 史 上
」
「 岡 山 県 戯 地 史 」
窮
2
節 傭 中国 に か け る 東 西 勢 力 の興T:・ ; 松 尾 圭 子
一 現 在 の 足 守 町 を 中 心 と し て 一 畑 西勢力交錯地の背旗
I
:lJ 足守巷 ,吉備一族の分封地 ‑C,鮫 ,)E7枚南進の統 治に屈 し(17,大化の改新で行 政化された 術中臥 賀夜郡 足朝 d2厄 .天平期か ら土地の鼓族賀陽氏(37.tよって荘園化され ,農応元年 ( 1 16 9年 ),終白河法皇に寄進 8‑れたO更に法皇打 ,元噂 2年( 1 18 4年 )高尾 の文 'ほ房か ら散位安倍資長が私得 分を神識寺
・
寄席登に寄進 され た とい う耶 情を附 き ,その勧進 に応 じて ,年寄 1円を神稽寺嶋 削 れた(4J。 この 時足守脚 )宗氏は 守諏佐 々射 場 をJ盛じ て ,宗氏相伝の地‑Ltを るか らとい う理 由で退避 を要諦 したが受け入れ られ す ,結局 ,足守荘!rfl也 7ケ在と共 lこ神韻寺荘園 8ケ扉 5)の寄進 地系在闇の1つ となったo国宝備中国足守荘図脚 に よると3万 を山に囲まれ ,大井川の束帥 こ開けた荘 園で ,生石荘 ・服部荘 ・大井荘な どと 擬 し ,荘観の発達 した地域の1部(こ当 っている。条里制を残 留 した粂 ・丁 ・坪の地割には 作 人名が記載され ,案主 ・在官 ・下 司 ・国使 EEI所 ・盲 人 ・触俵の花押が 捺印され てい るO この 印か ら足守輩では ,平rR末期以来 ,神経寺 を本所と仰 ぎ ,祭主 ・庄官等が道様 支配の実権 を
'7半梶 していた掛 葡体 制が圧に立 し ,周辺は律令体 制下の国 司 ・盲人の統治す る国衝領 とな P,て
いた と考え られ る。要す るlこ昔僻の沃野 であ 9 ,両僻の国境 (こ当た る足 守地idは往古 より , 重要 な意味を有 してい た ことは 明 らかである。
(2)三村 ・字音多氏の勃 鞄
足利尊氏が四職の1人赤松別村 を朋 触!5ヶ国 ,山名時氏は美作他5ヶ国(7)の守執 こ任命 した結果,2氏は領土 所有 をめ ぐ.1て対立.し ,その 職乱 を経過 して ,各地 に触回大 名が割拠 す る。その際 ,西国の堆 毛利元 就は ,大 内 (確良 )氏 ・陶 (相野 )氏 を滅亡させ て防長2 州を平定後【8),長男毛利隆元を安芸(こ,2邦 引目元春釧 自青 ,3勢J、早川陣巌を備中(こそれ ぞれ 配旅 して ,その地を聞め
,
「幾度 申候而毛利 と申名字之 載 ,涯分末代まで も ,すた b涙 ゎぬ ように御 心がけ御心 斬 F心意てにて候」 tp)と和熟 慮同乗の下に陰 陽10ヶ国 を拠有 し , 勢力は1 4ケ掛 こ及ん でいた. uO。これ に対 し ,削 1ほFE子 (冊久 )氏 ,近掛 こは織 田 (伝 長 )氏が勢力を伸ば してい た。その 配下で .傭前には ,守謝代の浦上 ・松 田 ・字音多 ,美作 には ,後藤 ・楢崎 ,備中では ,高 ・軟度 ・上野 ・三村 の試氏が 興隆 し ,相 互に下 軌上 が くり 返 された。年表 に基づいてその様相 を眺めて見 よう(ll)。併約で(I:I,金 川i・松田元成が闇め , 赤松 勢の部将浦上 別宗に加 勢 して山名 勢の 居城 であ る仰耐福岡城 (城 主は小鴨大和 )‑k攻略 し ,松 出氏は ,その 戦功 で宮山 .金川lこ居城 して赤坂 ・上題 ・津高 ・御 野4部 の蘭有を認め られたCその時 ,三石城を給与され た浦上氏は ,京都所 司代 までに昇進 しなが ら .主家赤松 に反 逆 して一時三 石城 で敗北 したが ,翌年 ,飯岡衛で赤松勢を大 敗 させ .更(こ金光 ・松 田と も交戦 してその 勢力を弱化 し ,相葉Iこ到 って柵上 車力を一段 と伸張 した。 この 鰍 こ乗 じて . 家 臣字 喜多氏は ,鹿家か ら頭角を現 わ し,伯 附に古吋丁る実質的 な勢力の基 鮭 ・i:催 立 し ,主 家 赫上氏 と も 帽 家試2浦上 l丑2
備前l
」 (2)TLる‑ に船人 1た。備中の三村 氏は土地の1名族 であ ったが ,家親の 世代 より成 羽城主 とな り ,その1族は備 中の諸城を固め ,賀川尼子氏に属 して勢力 を拡大 し ,毛利氏 と結んで備中 ・美作 に渡 って 「 章勇有2智略
1
」 tl劫と威 勢を振 ったOか くて ・天正初期(こは 「家‑ 2鞘 多 l不 レ和連年」()心と備前の字喜多と備中の三村氏の 動力抗争 とな...た。
2.備 中 兵 乱
三村家規は作 111経略の遠 ,字音各面家の 刺客に儀容された。 子元籍は 松山城に存9 ,その1 族仕 系図の 通 り備中6城
,
他 1城 を固めていた。三村 氏系図 (19 0時親 一票親 一家親
ゝ」
」 ‑
二元 砺 (媒 憶山城 )
EiiZl‑城‑‑‑‑城城城城城山見身山山田松新鬼宰常月(′しー′‑ヽ′■ヽ(親範
租
元元美女女女
親 成
‑ 1
霊 宝̲実 親 工 芸 澄‑
1 3‑
元親は ・元他 2年4月 (15 72年 )安芸 (こ使者 を送 り
・
「家親為2直家1被(/殺願仮2援 兵1欲 レ復 レ削
U砂と毛利氏lこ虚栄追討の 旨を述べ救酌 依頼 したが E!.A‑a‑・得ず ・独力で明蕃寺 合 繊(こか 、て兵2万 を拳いて備 前沼域の店家討亡 を決志 したO字音多盾家は ,三村氏の仇討 を 恐れ ,小早川陣軌 こ過 して 「三村 ・浦上 を討 b ,僻中一円 を輝元に献ずOno」 と述べ た.そ こ で毛利氏は三村の 依頼 をしりそけ て字 音多 と結び .天正 2年1 1月備中矧 朴 こ熊合 し,8万勝 を 沸 して三 村氏攻 蝶出陣の4・・.借を終えたtJ由一方三村氏は ,横 田氏の下に三好 ・尼 子人 と共 lこ四民連合
休
制を組み ,備中14の渚城に命 じ. 1万齢で守備 を厳選 ほ した.そ うして大正2年 】1月 1 0日を期 して備中兵 乱へ と突入 し たの である.(19r
討収首数 々桝」 と倣中郷 続 き ,備【哨 城は次々(.C陥落 ,翌3年5月 の 戦乱で , 小 早川隆巌trl大兵 を・持 って路家 を応援 し ,松山城 主元 親を何部山lこ包幽 して 自刃させ ,6月lこ 三村氏の一塊児鵜常山城 を も陥れたの で三村一 触 全 滅 し ,術中の渚城は ,備 中 凍懸城 ′J、田郡土 ケ村2簡案分1荘 毛 利 元 締 亭 山城 都宇部紡音 ・山手 2相 ̲ 毛 利 元 清
手荘城 川上郡 手准村 鬼身城 吉備郡山田村
松山城 上房郡 高梁相
■ヽ
場 前 児 島 児島郡 7ケ相 伴山城
小早川雌見三郎 ヱ門 六戸 安芸守降 家 佐 々却美作守 夫野中 凍少 鵬元明 天野五郎右 ヱ門元信 社民部少 補元延 山本 四郎左ヱ門 渡辺伊豆守
の剛 ,毛榊一族に帰属した。(21)か くて毛利加 瀬鰍 こ成功 し ,字音多氏 も勢 力をよ 9強化 した. 従 って 高梁川を中心 とす る凍 酉軸 力の交界線は ,掛 こ栄進 して足 守‑'川流域 とな り .細田 氏と
手
利氏がl百棲対立す る(こ到 1たD3.菰 田と毛利勢力の対立
(=二勢力対立の激化 イ・'r.t1‑ltl丘孔で字耳多氏と通じていた毛利け,僻中を攻略後,将軍轟け柁救援したD,兵船600伽榊.
・
摘んで石山寺一向一瞬に加勢し7t(022)手鼻多も7Iた天神山の浦上素泉を淑亡させて縮腹.̲.佳!入,手根,上月2城を焔れて尼手氏を披亡させた禦)このように毛利.辛音多氏(・i共にことごとく反信長峨鰍こ出た為.二勢力間の対立はいよいよ軟化し,信尾の毛利攻略は必然の策とな‑.た。天正7年,辛‑G多氏は,毛利と絶1て織田Iこ味方し,美作諸城を攻解したため毛利の怨F.i'Lとなり,足守川以東に仕手蕗多と織田,以西に毛利と,東西二大勢力qTt徴しく対立した。当時,枇LfH言長は近故を平定して軸力を固め.近江83万石.美拓158万石,伊勢57万石,志摩2万石,尾張52万石,山城22万石,大和44万石,河内‑1
4‑31万石 ,和泉11万石 ,若狭 9万石 ,趨約 68万 石 ,門 後l2万 石 ,飛弾雨2万石 ,加 賀 南部9万石 ..紀伊北 1万 石 ,満席頗 33万 石 ,
鉄幹
北 25万 石 計 53 5万 石を両有 してか少
,1万石約250人 として】3万4.500人の兵 力を所有 していたと考え られ る。 これ lこ対 し .毛利 氏は,(安芸26万石 ),周防 (16万 石 ) ,長 門 (13万 石 ),但馬 (12 万石 ),山東 (22万 石 ),石見 (ll万石 ),旭肢 (1万石 ),因幡 (13万石 ),傭 徒(21万石 ).備中 (23万 石 )・美作(5万石 ) ,伯 者 (17万 百 ),12州 187万石 , 約4.67 5人の兵 力を債有 してい7t(.24)
(2) 高松射 )水攻b(25)
天正10年3月1 5日 ,信長 の命令 を雪げた 秀書け ,兵2万 を率 いて姫路 を出発 し ,三 石 に一泊 .翌16日福岡 に到 希 し, 19日に 招城 へ,1月4日岡山城 lこ入9 ,字 音多 秀家の兵
1万余 と合せ ,毛利攻 撃の準鳩 を した。
毛利方では .織 田 ・‑亜臣民の再挙 を聞 き ,小早川降舟が備中城主を備 後の三 原lこ脹合させ て軍韻 を練 り,腐松城以下7城 (官地 山 ・記 山 ・'g松 ・加茂 ・日幡 ・成瀬 ・松 島 )の' 8.500 厨 で守衛 を厳重に したO
秀青は ,高松城が 聖書に して攻 鞍が難行す ると推 力 ,誓書を示 したが鹿松波主満水宗治は 与れ を峻拒 した。 そ こで秀吉は ,字 音多勢 を合せ 35・000弟を率いて竜王山に降 し ・備 中防備の王城高松城を完全 に包囲 し ,雨期の足守 =増 水を利用 して水攻 めを決行 したO毛利 方の 卦
目
元春 ,毛利輝元 も来援 したが及ば ず ,僧.tE壕 をして交渉させ た蘇果 ,毛利氏は,「
糾 ・傭 後 ・共作 ・因幡 ・伯 者5ヶ国 細 臥 ‑ 串の助 レi#(
0
26)J
と講和を電話 した0時に 6ノ」28秀吉打 ,突如本能寺の変 を聞 き ,再 び思塊を丑 して,
「宋治之首 を致せ ,五国 割顔 を軽減 して泊Jllの矢走川 ,備中の河321)日を以 って境 とせん是非今 日中lこ和 をkhLo27)と早急 に吉柵 し .超a ・
d 28)(こよって ,一 般 レ対2公儀 卸身上之頚我等詞糾 繰粂 ・酌以 テ不 レ可 レ有 2疎略 lW 一 輿 不 レ及 レ鵬 1輝元 ・元
葎
・rS戊深丑 2如存1我等懸 。身体 I見放中間敷・'jlと毛利氏を服させた上 ,守術 を宇宙多氏 に依扱 し ,家 治の 自 刃を見届けて ,明智光 秀仇討の ため急拠煎上 した。
4.足守津の成 立
(lJ 木下家定の転封 秀吉に よる統一Ig喋 の進 行Cl̲伴 って ,中国は軒 で平定され ,秀吉家 臣 の 配下 とな った。秀部
,
「具陳 ・嘩
元帥 細 身ち さに候よ29) J
と五ノこ老化加 え .野元lこ広 島1.205.00 0●石を与え ,字 を多 秀家を も 「諸牡 かとな し'く瓜展偏頗 なしに
o
」 と信 租 して 「御奉行5人に も御成 候へ (中略 )細肝 戯鯨‑披成触 患侯堺
」と岡山約 5 0万 石を与ぇ ,同 じく従駄五大老 を仰付け 7t(030)この時芳書の幼少 よb仕え 重畠の 1人 であ った家定は 木下姓 を給わ り姫路25.00 0万 を給与され .次 いで府中 国足守に転封 され 足守渚 岨 とな ‑I fL(.31)か くて関ケ原戦役前にか 、ては ,鵬 中兵乱で発進 した毛利分力打西Iこ経過 し ・r・t・S.i・TW
‑ 15‑
fL・填朝練 として鹿 出(こ2分 し ,束け 手 薄多 秀家 .西.'・1毛ilJ」 掛 が付77;・した。 その間 にあ 【て .
E ' . : T F F
11諸 城主の解地 には‑木 下氏25.0 0 0石 ,山崎氏23.0 0 0石 ,碍 Rl・伊藤氏 各1万 石 , L乃諸 氏が極少の 封地 を給与されて
いたoLA bUケ原料級の状況
徳目懐 肘 .TL・,大 名統Grlfこ当た り ,字 轄多 秀家の封土 を没収 し‑t備前 ・美 作 を木下家定の第 五子 秀秋 を/J、早川に准 嗣 して5 7万 石 'Jd'̲・王寸じ ,備 中 には ,蒔 田氏を夜尾 】万石 ,木下氏 を足 守2万5千石にいづれ も外様 と して居留 させ ,庭掛
こ
旗本戸 川連 安2万9千 石 を分封 した。とは言 え ,大名 ・直参の 所軌憎 的 すか6.7万 石にすけ ノ畑 分は
柵
iとな ったので あi32)里守溝 壬木下家敵舶 鍬 こよると(ヲ3)鯛 即 5ケ村21.6 0 0石 ,上席都 内5ケ村3.399 百 .合 計40ケ柑∠5・O OO石が
「
中位 ̲ 7t和 元年7月 2 7Ell
司 3‑年8)]2 8El朱印之 旨̲・虹 行Zr透 全可 ̲街知̲名 b(.34)
J
と′議 ,絆 より粟 肘 れ,
諦主木下棚 簡 とな 。 ,こ こ に足守新が成 立 し/t・7)であ るO この 足守油・のLlllで ,現在の 足守町は .上足 守村1.07 1右 lI・4合 ,下足守村1.0 29石5斗 ,火井村7 3 2石1斗6合の渚村(35
ネ
こ分 かれて近 世 村落・
k形成 していた(.
戸一 日) 畑 山,娘適 史 上 鮎 16 1講
はJ 仝 2 2 3頁
は) 全 1 6 2‑5'i及 ひ縦 紀 「天平神経J己年六上川l'仲 封%l郡 人外 従五 !.;t下hn腸 臣小王 女等1 1人脂姓的
臣
」 とめる.ト= lJtdlllu,旨]JIB地 史 4 6 8頁
・神護寺定 肘4 5ケ粂 起 請 文 (Jt:
幡
2咋 )・.,丈
児
巾苫・‑‑御領 倣Irl国他 守荘放 散位 安倍行良以私枯 分依 令市進 当寺之詔姫 里 ,法皇鵬召此 旨副加年 加
隼L l n i J
1円令讃‡進 御 。」 など参府・'5) 楓1偵1.L瓜地 歩ミ 4 68頁
神緒寺衝 8ヶ所
㊤
若狭同 所 肝雀 ,②舛舵関 吉7 , ' . :
莱 ,③ 播磨 幽福井准
,④備 Ll]同 足 守濯@ 紀伊国笠 田准 ,⑥ 川上 蛙林 田.a ,⑧神式国 並。
tFlJ 京 継神 酒寺所J‑# 縦五 尺二 寸二 分長座 成二 尺八寸二 分五 厘絵
凶.
17)赤松 則杓 播磨 ・併 rLl11・美作 ・因幡 ・但 馬 5ヶ国 山名時氏 因幡 ・伯 者 ・丹波 ・丹 後 ・美作5ヶ国 はト リQ) l凋山県通史 下綱 1 4頁 毛利氏関係文護Jl:
柑) 仝 弘治3年1 1月
毛利元就自恥.ll状 tll) 岡山の あゆみ 58‑ 59頁
H2)〜
u t ひ
岡山県 通史 下緬 19頁松 山城 正 村家 親 ・元親父 子略 伝tJ7)〜佃 岡山県通史
餌
備 中兵乱 記 (21) 岡山県通史 (22ト(23) 岡山のあゆみ(24) 岡山県 通史 (25ト(27) 仝
(28) 仝
(29ナく30) 仝 (31ト(32) 仝 (SSト(35) 仝
参
考 年 表下編 15‑ 22頁字音多tこ対す る三村 氏の怨 毛利に対す る織 田氏
下端 37頁仲中兵 乱後lこかけ る諸城の守将 59頁全国歳 ‑1こおけ る岡山平野 下 緬 68貫横 田氏と毛利氏の的保
69頁〜 80頁 7 2頁
羽紫筑前守 秀膏 より毛利才潤 頑殿 ,書川放河守.
小
早 川左 ヱ門佐に出 した もの 90頁 太 髄様 御覚書 103貢 〜 122頁
123頁及 び (寛文印知 集巷 19)
文明15
年1503 15I9 1520
1530 1531 1543
1519
文鳥 2年
永正
16年 17年 大永年 問 草線 3年〝 4年 天文12年
天文18年
156 1i永蔵 4年
15 66 1507
永敢 9年
〝 10年
・松田元成が金 川城 に移 1た 。政則は三 石戒主浦上 鵬 Iこ之 を う たせ た。衛上 氏は福岡川EFl島に乗 をかまえ:毛2年余で之を守 1た
O
・山名俊豊は 松 田元成 と共 Iこ凍上 助国 を福岡城 に囲ん だo 字書多能家が兵 300を畢いて松 田の兵 を失辞で破 った。
赤松義村が輔上村 宗を三 石城(こ攻やて破 った。
赤松 発村の兵 が柵上村 宗の兵lこ飯岡原に破 られた。
金光備前 ・岡山iこ居城 して金 目L城 主の杉 田氏(こ属す。
備 前赤坂 ・上道2郡 で柵上氏 と松田氏が交峨 した。
天王寺の合轍で浦上村 寮が 戦死 した.
字存多八郎が元服 して在家 と称 し ,邑久郡 乙子城で300貫 を受 け たO
字音多 画家砥 石城 を夜打 してか と し入れ ,この功 lこより奈良部の 地 を受け居城 として 弟患家 が乙子城 を守 った。
三村家親が備前に入 D ,金 光宗 高を岡 山 こ頭 書木行運 を舟山Iこ攻 Eめて之を降 した。
字音多直家が 明青寺を私 ,て三村氏に備 えた。
三村氏が明善寺を脆 し入れた。直家備中三村 軍 を全波させた。
‑ 171‑
永碑 11年 157 0 11元屯 元年 1 57 3Ii天正 元年 1 5 7 5
1 58 1
15 8 2 1584 15 86 1590
天正 8年 天正 9年
大正1 0年 大正12年 天正15年 天正19年 1 5 t18■慶長 3年
年5
〟日ソ061 1061
薦
5
節浦上氏の家 臣直家は浦上 氏を亡 して備前を# 1たO 字 を多直架は備 前金 川城で松 田氏をほろぽ した。
直家は金光素高 を殺 して 岡山城 を取 った。
画家は岡平 内を奉行 として 岡山 城 を改奏 した。
小早川隆泉が 児島 ・岡山を攻略
秀吉は 字音多直家に児島を尚め守 り備中に進 隼す ることを命令 した。
秀苫 IhlLL」城 に入 り高松 城水攻めを始めた。
字音多 秀家備 前 ・発作 ・播磨 を鎖 した。
秀家岡山を尭 し九州こ初 陣 したD
秀吉が 秀家を元 帥として朝 鮮征伐(こ行かせた。
秀家が大老(こな り権中納 言とな ったO 関ケ原の 合繊で字 音多氏がはらん だ。
6年
i
池 田輝政は柿州 52万石に封ぜ られ姫路城 lこ移 る。小 早川 秀秋与‑1鵬約 ・美作の 2国 '%うけ綱山城に入る。
池田忠 雄が岡山 を領 したO 足守薄の朱印が行 われたO
足 守 陣 屋 町 の 成 立
石
賀 康 史足守町が挿鹿町 と して いか にして 形成 され ,それ が どの ような形態 と機 能 と'Ja;:有 していたか を 考 察す るのが当面の課題 であ るが ,残存す る保かの史料 で ,それ を充分 あ さらかにす ることは不 叶碓であ るが ,杉原政 夫氏所管の 「足 守陣掛け絵図」
,
「田諸皆」を基本史料と し ,これに数人 か らの 聞き触りA:もって如上の問題点の検討 を武人てみ よ う.I. 陣屋町の成立過 程
藤祖木下家定入封以前の 足守の実状につい ては ,史料的 に明 らかにす ることが 出来ないが , 閲.きtkりに よると ,足守町 に隣棲す る大井村が鍛 沿山 (古代名 を二面山 )城の F根小屋」 と し て ,また谷 口集落 として栄えていた といわれ る。
職国土#・で冠山城壬であ .1た鳥羽 氏が土市帰農す るにあた 9 ,大井村 を選んだの も ,この地 方が地域の経済的1中心地 であ ったか らであろ う。
新 たに大 井村の南 に隣 接 して 陣屋町 と しての足守が蛾 課 され るのけ,十 下 氏の̲V.滞以 後 であ るo 家定は 足守薄 をた てた とは いえ .殆ん ど京掛 こいた らし く,陣屋町の 形成はみ られ ない。
その 子利房が 足守薄 を再 鞄 して 入封す ると きの申 冊lこふれ た 「難破家 記録」 に
芦 森村へ御 入府 之 時雨坂難波庄左 工門宅細 入御滞在 ,膏川村八幡 宮 ,次 に大井村 鳥羽 氏へ 卸 掲之内卸屋敷地収洞云
々
」 とあ .,,て ,街 内の土養百姓 ・村役 人 .神社 を居所 としてい る中 葉は ,当時 なか陣屋町が全 く出来 てい なか った邸 を暗示す る もの であ ろ う。
しか し家 臣輔の編成が進 むほ伴 って ,家臣剛の 店鮭地 であ りかつ帝政の 首府 としての陣尿町 の形成は必 要とな 1て来 る。 この陣 屋町 形脚 こあた .,て ,なぜ 商業 の中世 的 伝統 を もつ大井村 をさけて ,新 たに 足守の地 を選ん だのか 史料的(こげ かさえ得 ないが ,酢等町 の計 画的町 作 i)の 便宜 と ,中世的勢 力か らの 自由の ため では なかろ うかO
陣屋町の 形成過程 を知 る史料什 ないが
,
「陣 馴 T絵凶」 (別図 )に よるとほ ほ完成 され た陣 屋町の体 制を梅え てい る。 この 「陣 屋町 絵 図」の作成年 代は 記され て いないが ,屋 敷(こ記 入さ れ た家臣の名約を 「由緒謹
fJ
lこよって照合考 察 して推定す ると .大休廷宝7年( 167 9 )か ら貞草 3年( 168 6)の間 に作成 され た もの と考 え られ るoこの 時期は足守藩 の家 臣印編成 のほほ完成 した時期に あた って,7>ク ,従 って この 時卿こ陣星町 の形成 がほほ完 了したとみ な し うろわけであ る。完 全 な消故生活者 であ る武 士の 典注(こ伴 い ,その生 活物資 を供 給す る商人の移 臣が必要であ るが ,そ の商 人のあ るもの(・1 ,木 下氏 入封 に従 【て鹿部か ら移 住 し衣,'rTlr商 【た といわれ る伏 見巌 ,赤穂城棲 収の とき赤穂城下町 か ら辿れ 来 た った とい う赤初産 の如 く ,領 主 との縁故で移 旺 し来た 【た もの もあ 1たが ,領 主の 保 護の あつい降 尉町へ ,中 世的市場 町で ある大井村か ら 移 り住ん だ もの もあ ると思 われ る。その ため大井村の rh'喝南 新 衰え無 頼は 足守に移 った。
帝は 足守商業 の発展 と営弟 税 を収収す る臼的 で ・現在の上之町 ・中オ町・問 町辺に三・八・五 ・ 十 の市を許 し ,玉 の 日 十 ・の Elを本 市 ,三 の 日.八 の 日射 問市 と したO そ して,10‑ 2 0 石 収 りの下 級家 臣が FB'の役 人 と して営業税の弓削又とそ の帝理 に あた ったといわれ る (林 芳五郎 氏談 ). こう した帝 の保頚の もとに計両 的 につ くられ た陣屋 町の構造 を次 に考 廉 してみ よ う。
2.陣屋町の構 造
「書傭郡史
」
(巻の 中 )に よると‑ ,領 内南北 7里 2 0町52間 東 西 1里 ‑ 1里半
‑ ,足 守町 南北 323間 1尺 東 西 174間4尺5寸
‑ ,屋敷構南北 56間 1尺 東 西 4 7間
‑ ,藤里敷南北 4 0間 東 西 2 8間 1.12 0坪
‑ 19‑
‑ ,下屋敢南北 8 5間 東 西 8 5間 7.225坪
‑ ,侍 屋 敷 59間 32・9 91坪
117'
とあり ・蘭壬の屋敷 ・.涼鼠崖敢 ・下監敷と耕土の侍屋敷 とが登希され てい るが ・別に一 般商人 の町犀 があ
【た
。 これ を 「陣犀町絵図」に よって入 ると次の如 くで あるQ町 屋 と侍屋敷を比 較 す ると ,侍屋敷の方が圧 倒的に両横が大で ある.現在 侍屋敷 として残 ってい る地域は狭少であ るが ,今は 耕地 化 した掃赦 .山下 ,中屋敷 ,下盛敷 ,古屋敷等の地域 も,
「陣尾町 絵図」の上 では明 らかに倖 堅赦 とな ってい る。それでは これ らの侍屋敷 と町屋は どの掛 こ区 画され てい る で あろ うか。領主の伽鼠 蜘 ユ今の中学校の あた りiこ,庶屋敷は今 日の近水公園の吟風聞 を中心 と して ,又 ,下 院赦',1楓屋敷の南
方 大光 寺南の下屋 赦あた Dに存在 した。これ らの屋敷は背後 の山のふ もとに南北に並/UでいるO な&願 主の賭数と して御蔵堤 敷 ・会所が .狙屋敷の南面 と 正面とに設け られ ていたC これ らの恩赦 を と9まいて侍屋敷 ・町犀が並び ,その外郭 を足守 川 が外資の機能 を帯びて流れ てい る。侍屋敷 も格 ・緑樹 こよ って聞 rjも輿な 9 ,例えば家老の杉 際玄者の屋敷の間 口は2 5間で盛 大で4)る。そ して応栴 ・高根 の者は伽屋敷に近 く ,低 いものほ ど速く(こ甘かれ ,特に徒士 ・小 人等の感資格の ものは町k1‑%へ だてた川添いの嵐敷地に旺‑iDい .これ を外家中 といい ,士分 以上の 内家甲 と区別 され ていた,この ことllZ 「陣屋町絵怯jJlこ何 I組小人 と記され てい る現在 の川原 町の 一帯が .町屋構えて&̲u なが ら小 さな門が残 ってい ることか らわか るQ机政lこ参 与 す る代 官会所は ,中央官庁地域か らIrlなれ てqFilJ.と組長Ii (軽輩追 敷 )との問に獄舎等 と一所
(こ設け られ ていた。
こ うした陣屋 町の構造は ,小規模 なが ら封建都市の性 格を具備ITる ものであ って ,家 臣出内 部の階層性 を表現す ると共 に ,町人の性格 を暗示す る もの であって ,あ く‑2で街 王族執 こ奉仕 す る ,そ して保頑され る階概的性格 を如実(こ示す ものであろ う。̀
足守町に於け る侍屋敷及古代建 築の過 横 として現存 してい るもの は ,杉
P , 郡
に 氏の居宅 で長 屋 ,門 と共に旧時 を偲ぶ る避桟が ある。又その 艇陶の如 きは小堀過 州の範道といわれ ,その 構造 は珍 重すべ き ものであ ると .射 り家 は 推甘 してい る.そ して邸宅 は ,元疎年次 以前の建額 と推測す る。 ま た脊年学校の玄槻柄 も,そ の構造Iこ鞠 し往 時を他ぶに十分な ものがあ る。 なおIrF街地と して 「上之 町 ・中之町」辺に ,な 浴,2‑ 3の建 策物が携 っている。
また,川原町附近 には侍士長屋 跡が ,町屋柿であ りなが ら小 さ(,L・Flの,7,る屋 敷が認め られ る.