この よ67に ,大名 ・家老を中核 とす る耕壬親政体 制の もとに漸次封建的官僚制が形成 きれ た の であるが .その主導 権は大名 ・家老 博にあ り .その 下の封建官僚 層はそ の従属機関で あ 1て 潜政の推進力 とはなっていないので ある。
この封建的官僚制が藩政の担 当者 とな り ,大名 ・家老層がそれ lこ背負われ ,帝 政の オー線か ら後過 して くるのが ,帝政の升 2段階 .元敢期以降で ある。
L
' この時期の俄 制の特質 は ,職掌細分化がその1つで ある。個 々の俄掌の内容は某だ調査 して いない。格 と俄 と線 高 とな対応 させ ,その 対応槻 係を振ろうと試 みた。それ が 〔オ 6表 】であ
る。
声
‑ 31‑
オ 6 歳 足 守 滞 職 制 一 覧
!格 制 l 俄 ' 1.
刺
藤 高 !御 用 人 i御元pr役 (御勝手方 .勧元方 ) .御家老代 .御台所功主支配 50〜 450 足軽組預 .御 円証向御用 .御小成万引請 .制 札場元 〆役
軸 内 用 人 一触i鉄砲大狩 .足観 預 .細長槻套判役 .細台所御作岬方御功主支 配 .御内政方役人上 下支配〆役 .伽 勘定聞役 .札鮎 斬預 .舶(触在所札取立支配役 )行預 .細弓之者預 130‑230
御
内 用 人 格
IL
h 足
.,掛 且預 .御物頑 .御武器方 (御武月方 )E万立入 .公金准,.勘定方 .刑 &L.寺社町斬 ̲郡奉行 100‑200i給 人 j
壬 i
l
I胤元p[細徒士頑 .御 持箇組初頚 .御武見方預 .aJ頭 .細作中惣奉行 .御水手肝簾 ▲細小姓頭 .戯生改 .大納戸役r方吟味役 (立入 ).喚州B.足軽組預 .追野合出仕li奉行 .勘定奉行 .佃玄関御武頭 .御長柄組物L竺̲人 格 御近 習役 .細徒 士頑 .御取次 .fIJqJ納戸役 20人扶持‑50
俵】
!給 人 並
ト
御近習役 .勝手向吟味方加役 ←√小 姓 役 大納戸役 .御近習役 .御従士頭 .御刀券 .追‑fi舎出仕 人扶 持4人扶持〜 4俵4
】
!中 小 性 役
l l御瀕役 .御玄朗御本 .細次番 .細納渡役 .勧徒士頑
備 考 「木下家家臣 EB繕番」 より作製
E この表か らみ ると ,その3着の間に鷹野 な対応関係はみとめ られ ない ようであるto Lか しそ F れ は
.
「兼軌
「蘇役」
「暫時留任」などlこよ1てその対応 関係が外 見的に あい まいに な って い るの であ1て ,石高は ともか く ,格 と織 との間(こは一 応判然 とした対応 の原則は存在 したの である。その1例 をあげ よう。元文5年 (17 40 )牌 は絵人で ,恥 ま寺社町奉行 であ .,た岩 田平他種長が ・寛保3年(1743)卸内用 人の軌 こ昇jBした時の滞 か らの連 旨に次の如 く記 され てい る。
「寺社町奉行別人江披仰付候迄は托
健相 勅可申侯。追而 動方之鰍 ま可被仰付宮被仰付」れ るてあろ う。中実その後間 もな く鼻判勘定 聞役に転補 されたので ある。 これ lこよると寺社町 奉 行は給人の ,兵制勘定聞役は軸 内用人の相 当俄であることがわか る。 しか しその対応 鯛 係の 原則を再構成す ることは不可能なの で ,対応関係の原則の 存在 した こ とを括 摘す るに血 的る。
この 段階の特質のオ 2は .細分化 きれた藷離 別を就樽す る 「元 ′段」がpかれ .邸実上溝政 の指導者 となった こ とで あ る。 もともとこの職掌は .半財政 関係の絵元締ではあ るが ,藩政全 般 lむカニるもので はない。 しか し18世紀に入 【て潜財政が著 し く窮過 し ,藩政上の 基本問題 と な 【て くると ,財都官僚の地位がたか1 9 ,帝政全般の元締 を担 当す るのは 当然の な9ゆ きで あ【た。
卸用人共御勝手方知新中上 候 二付 .此節御危急之勧場合 ,膏尚又初元 ′万 引諸披仰付同 役頬母 (木 下 )共申談存 専一盃 二取斗可申 旨披仰付 (木下男 也 F由緒書
n D)
これ は文化8年(1811)木 下男也が ,蚕れてJC‑節役(こ任ぜ られた ときのい きさつ である。
御 用人膚は窮迫 した滞財政の なか(こあっては 「御 勝手方 」を 勇敢に引請け ようとす る者はい な か った。財政担 当がいかに至難 なことであ 1たかが親77れ るてあろ う。その代 9元〆役は .他 I
の一 切の 制肘 を受け ることな
く
「存啓 一盃」 に活構で き ,峨 軌の中 で も一番の要職 であ った。元 p(役tZ)簸大の任軌 ま京都 ・大阪の蔵元 ・商人と析砺 して借銀を調達 し ,藩財政の 破綻 を防 ぐことであった。それだけに適任 者の任 用は帝王の も1とも苦慮す るところで あ 1た。 杉原玄 書房 正は ,宝轡 12年(1762)か ら明和 5年 (1768),安永 4年(1775)か ら天 l 明5年( 1785 )と 2期にわた って元 p(彼 女勤め老令に よって元′役 を辞 したのであ 1た が ,天明8年 (1788 )3慶 び堪用されたのである。その理 由 として『由緒背 .Bは次の如 く 記 している。 「老年 二は相成候桜 共 .外江披仰付侯而.、親 王馴染 も無之 二付 ,元 F'方帰役披仰 付」 られ ,特に老休であ るか ら
,
「大老 俄 と心得候 両用 勅.為心安〆,宿元二而瀕物等光三 郎江 名代 為敦候様
」ほ と元′役への復帰 を命ぜ られ てい る。銀壬 との収 引 きの 口滑化に藩財政の安 危は懸 って& ク ,その鎖主 との取引契約 を担 当す るのが元 ′役である。そ うなると .元/役 を限 りある家老帝だけか ら任 用す るこ とは不可 能で あ り .広 く人材登用 の適を朋 く必要があった。岩田種長の 『由緒書
J
tこ 「和家老万人少二茂有之 ,膏御政邸向樹被 'l 仰付 ,御家老申淡相劫J
とあ り ,家老 を きし借 りて取 同人の格の岩田をこの 要職に任 用 した。『由緒脊 Jに よ1て元p'役に任 用 きれ た家 を調査す ると〔オ 7表 〕に示 され た13家である。
‑ 33‑
オ7義元p'役交代一覧 1740178(∫ 171017301750177017901810 1720 瀬
川
(杉原) 木下 遠藤(杉原) 木下 17601800l ̲ 重 し 塞
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1820
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十十∵∴墾 阜
冬草 喝且馬虹l 梼原(布施)黒 宮
井口 荒木 小川 岩田 石河 柿(松元) 垣「見盈
増量率
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修電卓 為 書 烏 光 孝 正 銘 碑 文 ∫ ̲琴 卑
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■lT551 番
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備考「木下家家臣由緒書」よ少作製その )も家老の家柄の者4家 ,徹用人 lこ昇進 して任 用された ものが9家であ る。 この こ とは .
#財政の窮迫が激化すればす るほ ど人 材の登 用が緊急の課題 とな D ,封建 的官僚肘k7)形成 が進 ん だことを示す ものlこ他な らない。元′役は この封柾 的官僚 制を代表 す る職 制である。 元 pr役の のなかで も名 臣幣相の誉れたかか ったのは黒宮光峯で ,ときの藩主木 下利彪はかれを厚 く信任 し .かれが#す ると 「鳴呼 輔弼之 臣」 よとその 死を悼ん だ'ので ある。
以上 に甘いて ,足守諸の知行 制 ・格別 ・職 制の 面か ら封建 家臣団の 構造を概擬 したの であ る。
そ こで確認で きた ことは .知行 制の 面では早 くか ら地方知行 の本質は存在せ ず ,封建的官僚休 制に移行 す る姦件 は藩 政成立の 当初か ら存在 していた こ と。格 希lJa)面では ,家臣団解成のはぼ 完 了す る延宝 期までlこ格 別 も整備 され る.その後 家老職は家格化す るが ,勧 用人以 下の層では 人材登用 とみ せ1て格の固定 化はみ られ fJI‑も耽 剛2. )面では,18世紗 こ入 ると帝王親政休紺 こ 代 って元 ′役 を頂点 とす る封建 的官僚休制が確 立 し ,藩政変甘期の亜 局を克服す る政治体 刑 と なった。大体以上の3点 であ る。
2
. 農 村 の 構 造滞 政が成 立 しそ して変貌 してい くとき .その 支配の対象で ある鹿村社会の構 造 も亦著 しい変化 をみせ てい る。藩政a)展 開が鹿村構造の発展 を促進す ると同様に,必打構 造の変化が藩 政に新 し い問題 をiE・起 してい く。 従 って藩政の動 向を理解す るためには ,塊村 構造の変化を適確 に理 解す ることが必要なのである。
【1】 藩 政 成 立 期 の 康 村 構 造
木下 家定が近 世大名 として足守背 を立酵す る以前の&.村 構造 をまづみ よう。 この 地域は毛利 氏版鼠の東端 lこあた D ,毛利氏 と王従 的係 を結ぶ戦国土蛮唇がそれ ぞ れ城を構えて割拠 してい た。すなわ ち永線 5年 ( 1 5 6 2 )の 頓 ,智陰部 田近村lこ簡 武新介 とい う土秦がいた。 r福武 r 家系 図
J
Iこよると ,もとは児玉党の 武士で .伊沸か新居劫 短武 村iこ臣ん でいたのて 福武 を称 し rた。のち毛利氏の被官 とな 9備中に移住 し .鍛松山城主 日近修理進 とい う土蓑を征服 して岡城 の城 主 となった と記 され てp D ,また 日近修理進秀 直が 福武新介 に対 し ,先代の対馬 守玄東 に 対す ると同様忠誠智尽す こと智約束 した r誓状 Jもある。絵反別は未詳なが ら 「福武新介儲 分」 として吉村 を始め数 力村を安堵 され ている。
また粟井打には ,同 じ く毛利の席 下に属 して倫中Iこ土背 した長門右 ヱ門尉があ り ,竹 庄4カ
村等を扶持せ しめ られ ている. これ 15た福武 氏 と性 格を同 じくす る戟国土兼であ ろ う。 (藤井 ・ 水野氏共 著 『岡 山県古文 音 難 ・オ三輯 」福武家文 書 )
F・ その頃冠山城壬に鳥羽太郎兵 ヱ尉久徳 とい う峨国土豪 がいた。その祖 先太郎左 ヱ門尉氏明以 後七代の間冠山城壬であ った.この ように槻国土表 層が 城塞 と領 民を甘 さえて割拠 していた。
しか し字音多氏 か ら木下氏‑ と近 Lq大 名領 が形成 きrLる(こ伴 1て .戦国土嚢 ‑侍の身分は剥奪
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され,百姓の身分に同定化されてい1た。とはいえ,かれらの刑畑所有面掛ま他の百姓を断然凌知するだけのものを持1ていたと思われる。先にのべた3家lこ関する帝政成立当初の抱地関係の史料がないので,難波宗一氏所蔵の正保3‑4年の﹃上土田村田畠改帳﹄によって村落構造をみよう。 上土田きっての大名請人(大地主)は長兵ヱで田島合せて5町8反7畝17歩を抱えている。残る42人の名請人の泊地は苦しく少く,川︼‑5反‑2町6反の名請人が3人.5反‑1町5反のもの12人.5反以下のものが33人となっている。この数字から考えて,長兵士の経済的な圧倒的倭位性を認めることができるであろう.この長兵ヱの由緒は不明であるが.恐らく煉波理石右ヱ門が病方村の本家から別家入村する慶安5年以前までの上土田村庄屋であって戟国土蒙の譲かと推察できるのである。 このような経済構造をふまえ,我国土豪の末商としての伝統的権威を併せもって,百姓に臨むことにより
,
「土嚢的地主」と呼ばれるにふさわしい戯村支配力を保ちつづけているのであった。土嚢的地主と平百姓との対立,こrLが藩政成立期の地相構造の1つの特質であろうと思う。この このような社会構造をもつ藩政成立期の脇村を,封建的官僚休御P)未成熟な封建鮫壬が支配する場合.直様に個々の平百姓を掌握することは困姓であり.いき甘い既存の村落支配者である土盛的地主僧を村役人に取り立て.この土蒙的地主‑村役人僻を通して,間横的(こ平百姓を支配する方法がとられざるを得なかったOすなゎち粟井村の長門熱ま同村庄犀に,日近村の福耗家は,庄屋とな1て百姓と同列になることを忌避したため郷士となり,大井村の鳥羽家も代官下代に任ぜられたOこれは決して足守維独特の動きではない。しかしここで特に注目に価するのは鳥羽家の果した役割である。 鳥羽家は,太郎左ヱ門尉久離‑とき大井村に土脅し,かれは天正15年(1587)穀するのであるが,その子太郎左ヱ門久fJがあとをつぎ,天領時代には小堀遠州のもとで「代官下代」
に任ぜられた家桝である.木下家の時代(こも既に代官下代的な地位lこあって,領内の年貢徴収権を認められていたことが次の史料によってあさらかである。 一審申遭侯初代官之偵当年者たれとも不能分別傾間,当納串‑其方肝府候て納所次牙早々急候而,船頭助左ヱ・門二相渡可蹄候,少しも油断申せしく候為其急度如斬候也 攻八月十日. 木下二位法印 鳥羽太郎左ヱ門尚書わた,かこ,あさDなど早々収あつめ凋上可申候ゆたん申まLく候。
この手紙は慶長9年関8月10日木下家定が鳥羽太郎左ヱ門に送ったものである。年貢収納期も近づいた閏8月に人1て,未だ(こ年式徴収にあたる代官が任命されない。代Dに年貢を倣収して船機みせよ,というのである。太郎左ヱ門は代官の代理として年貢徴収権を委譲さ礼