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年 17 年

ドキュメント内 Il 博 牢 町 の 研 究 (ページ 31-45)

大永年 問 草線 3年

〝 4年 天文12年

天文18年

156 1i永蔵 4年

15 66 1507

永敢 9年

〝 10年

・松田元成が金 川城 に移 1た 。政則は三 石戒主浦上 鵬 Iこ之 を う たせ た。衛上 氏は福岡川EFl島に乗 をかまえ:毛2年余で之を守 1た

O

・山名俊豊は 松 田元成 と共 Iこ凍上 助国 を福岡城 に囲ん だo 字書多能家が兵 300を畢いて松 田の兵 を失辞で破 った。

赤松義村が輔上村 宗を三 石城(こ攻やて破 った。

赤松 発村の兵 が柵上村 宗の兵lこ飯岡原に破 られた。

金光備前 ・岡山iこ居城 して金 目L城 主の杉 田氏(こ属す。

備 前赤坂 ・上道2郡 で柵上氏 と松田氏が交峨 した。

天王寺の合轍で浦上村 寮が 戦死 した.

字存多八郎が元服 して在家 と称 し ,邑久郡 乙子城で300貫 を受 け たO

字音多 画家砥 石城 を夜打 してか と し入れ ,この功 lこより奈良部の 地 を受け居城 として 弟患家 が乙子城 を守 った。

三村家親が備前に入 D ,金 光宗 高を岡 山 こ頭 書木行運 を舟山Iこ攻 Eめて之を降 した。

字音多直家が 明青寺を私 ,て三村氏に備 えた。

三村氏が明善寺を脆 し入れた。直家備中三村 軍 を全波させた。

‑ 171‑

永碑 11年 157 0 11元屯 元年 1 57 3Ii天正 元年 1 5 7 5

1 58 1

15 8 2 1584 15 86 1590

天正 8年 天正 9

大正1 0年 大正12年 天正15年 天正19年 1 5 t18■慶長 3年

年5

061 1061

5

浦上氏の家 臣直家は浦上 氏を亡 して備前を# 1たO 字 を多直架は備 前金 川城で松 田氏をほろぽ した。

直家は金光素高 を殺 して 岡山城 を取 った。

画家は岡平 内を奉行 として 岡山 城 を改奏 した。

小早川隆泉が 児島 ・岡山を攻略

秀吉は 字音多直に児島を尚め守 り備に進 隼す ることを命令 した。

苫 IhlLL」城 に入 り高松 城水攻めを始めた。

字音多 秀家備 前 ・発作 ・播磨 を鎖 した。

秀家岡山を尭 し九州こ初 陣 したD

秀吉が 秀家を元 帥として朝 鮮征伐(こ行かせた。

秀家が大老(こな り権中納 言とな ったO 関ケ原の 合繊で字 音多氏がはらん だ。

6年

i

池 田輝政は柿州 52万石に封ぜ られ姫路城 lこ移 る。

小 早川 秀秋与‑1鵬約 ・美作の 2国 '%うけ綱山に入る。

池田忠 雄が岡山 を領 したO 足守薄の朱印が行 われたO

足 守 陣 屋 町 の 成 立

賀 康 史

足守町が挿鹿町 と して いか にして 形成 され ,それ が どの ような形態 と機 能 と'Ja;:有 していたか を 考 察す るのが当面の課題 であ るが ,残存す る保かの史料 で ,それ を充分 あ さらかにす ることは不 叶碓であ るが ,杉原政 夫氏所管の 「足 守陣掛け絵図」

,

「田諸皆」を基本史料と し ,これに数人 か らの 聞き触りA:もって如上の問題点の検討 を武人てみ よ う.

I. 陣屋町の成立過 程

藤祖木下家定入封以前の 足守の実状につい ては ,史料的 に明 らかにす ることが 出来ないが , 閲.きtkりに よると ,足守町 に隣棲す る大井村が鍛 沿山 (古代名 を二面山 )城の F根小屋」 と し て ,また谷 口集落 として栄えていた といわれ る。

職国土#・で冠山城壬であ .1た鳥羽 氏が土市帰農す るにあた 9 ,大井村 を選んだの も ,この地 方が地域の経済的1中心地 であ ったか らであろ う。

新 たに大 井村の南 に隣 接 して 陣屋町 と しての足守が蛾 課 され るのけ,十 下 氏の̲V.滞以 後 であ るo 家定は 足守薄 をた てた とは いえ .殆ん ど京掛 こいた らし く,陣屋町の 形成はみ られ ない。

その 子利房が 足守薄 を再 鞄 して 入封す ると きの申 冊lこふれ た 「難破家 記録」 に

芦 森村へ御 入府 之 時雨坂難波庄左 工門宅細 入御滞在 ,膏川村八幡 宮 ,次 に大井村 鳥羽 氏へ 卸 掲之内卸屋敷地収洞云

」 とあ .,,て ,

街 内の土養百姓 ・村役 人 .神社 を居所 としてい る中 葉は ,当時 なか陣屋町が全 く出来 てい なか った邸 を暗示す る もの であ ろ う。

しか し家 臣輔の編成が進 むほ伴 って ,家臣剛の 店鮭地 であ りかつ帝政の 首府 としての陣尿町 の形成は必 要とな 1て来 る。 この陣 屋町 形脚 こあた .,て ,なぜ 商業 の中世 的 伝統 を もつ大井村 をさけて ,新 たに 足守の地 を選ん だのか 史料的(こげ かさえ得 ないが ,酢等町 の計 画的町 作 i)の 便宜 と ,中世的勢 力か らの 自由の ため では なかろ うかO

陣屋町の 形成過程 を知 る史料什 ないが

,

「陣 馴 T絵凶」 (別図 )に よるとほ ほ完成 され た陣 屋町の体 制を梅え てい る。 この 「陣 屋町 絵 図」の作成年 代は 記され て いないが ,屋 敷(こ記 入さ れ た家臣の名約を 「由緒

f

J

lこよって照合考 察 して推定す ると .大休廷宝7年( 167 9 )か ら貞草 3年( 168 6)の間 に作成 され た もの と考 え られ るoこの 時期は足守藩 の家 臣印編成 のほほ完成 した時期に あた って,7>ク ,従 って この 時卿こ陣星町 の形成 がほほ完 了したとみ な し うろわけであ る。

完 全 な消故生活者 であ る武 士の 典(こ伴 い ,その生 活物資 を供 給す る商人の移 臣が必要であ るが ,そ の商 人のあ るもの(・1 ,木 下氏 入封 に従 【て鹿部か ら移 住 し衣,'rTlr商 【た といわれ る伏 見巌 ,赤穂城棲 収の とき赤穂城下町 か ら辿れ 来 た った とい う赤初産 の如 く ,領 主 との縁故で移 旺 し来た 【た もの もあ 1たが ,領 主の 保 護の あつい降 尉町へ ,中 世的市場 町で ある大井村か ら 移 り住ん だ もの もあ ると思 われ る。その ため大井村の rh'喝南 新 衰え無 頼は 足守に移 った。

帝は 足守商業 の発展 と営弟 税 を収収す る臼的 で ・現在の上之町 ・中オ町・問 町辺に三・八・五 ・ 十 の市を許 し ,玉 の 日 十 ・の Elを本 市 ,三 の 日.八 の 日射 問市 と したO そ して,10‑ 2 0 石 収 りの下 級家 臣が FB'の役 人 と して営業税の弓削又とそ の帝理 に あた ったといわれ る (林 芳五郎 氏談 ). こう した帝 の保頚の もとに計両 的 につ くられ た陣屋 町の構造 を次 に考 廉 してみ よ う。

2.陣屋町の構 造

「書傭郡史

(巻の 中 )に よると

‑ ,領 内南北 7里 2 0町52間 東 西 1里 ‑ 1里半

‑ ,足 守町 南北 323間 1尺 東 西 174間4尺5寸

‑ ,屋敷構南北 56間 1尺 東 西 4 7間

‑ ,藤里敷南北 4 0間 東 西 2 8間 1.12 0

‑ 19‑

‑ ,下屋敢南北 8 5間 東 西 8 5間 7.225坪

‑ ,侍 屋 敷 59間 32・9 91坪

117'

とあり ・蘭壬の屋敷 ・.涼鼠崖敢 ・下監敷と耕土の侍屋敷 とが登希され てい るが ・別に一 般商人 の町犀 があ

【た

。 これ を 「陣犀町絵図」に よって入 ると次の如 くで あるQ町 屋 と侍屋敷を比 較 す ると ,侍屋敷の方が圧 倒的に両横が大で ある.現在 侍屋敷 として残 ってい る地域は狭少であ るが ,今は 耕地 化 した掃赦 .山下 ,中屋敷 ,下盛敷 ,古屋敷等の地域 も

,

「陣尾町 絵図」の上 では明 らかに倖 堅赦 とな ってい る。それでは これ らの侍屋敷 と町屋は どの掛 こ区 画され てい る で あろ うか。領主の伽鼠 蜘 ユ今の中学校の あた りiこ,庶屋敷は今 日の近水公園の吟風聞 を中心 と して ,又 ,下 院赦',1楓屋敷の

方 大光 寺南の下屋 赦あた Dに存在 したこれ らの屋敷は背後 の山のふ もとに南北に並/UでいるO な&願 主の賭数と して御蔵堤 敷 ・会所が .狙屋敷の南面 と 正面とに設け られ ていたC これ らの恩赦 を と9まいて侍屋敷 ・町犀が並び ,その外郭 を足守 川 が外資の機能 を帯びて流れ てい る。

侍屋敷 も格 ・緑樹 こよ って聞 rjも輿な 9 ,例えば家老の杉 際玄者の屋敷の間 口は2 5間で盛 大で4)る。そ して応栴 ・高根 の者は伽屋敷に近 く ,低 いものほ ど速(こ甘かれ ,特に徒士 ・小 人等の感資格の ものは町k1‑%へ だてた川添いの嵐敷地に旺‑iDい .これ を外家中 といい ,士分 以上の 内家甲 と区別 され ていた,この ことllZ 「陣屋町絵怯jJlこ何 I組小人 と記され てい る現在 の川原 町の 一帯が .町屋構えて&̲u なが ら小 さな門が残 ってい ることか らわか るQ机政lこ参 与 す る代 官会所は ,中央官庁地域か らIrlなれ てqFilJ.と組長Ii (軽輩追 敷 )との問に獄舎等 と一所

(こ設け られ ていた。

こ うした陣屋 町の構造は ,小規模 なが ら封建都市の性 格を具備ITる ものであ って ,家 臣出内 部の階層性 を表現す ると共 に ,町人の性格 を暗示す る もの であって ,あ く‑2で街 王族執 こ奉仕 す る ,そ して保頑され る階概的性格 を如実(こ示す ものであろ う。̀

足守町に於け る侍屋敷及古代建 築の過 横 として現存 してい るもの は ,杉

P , 郡

に 氏の居宅 で長 屋 ,門 と共に旧時 を偲ぶ る避桟が ある。

又その 艇陶の如 きは小堀過 州の範道といわれ ,その 構造 は珍 重すべ き ものであ ると .射 り家 は 推甘 してい る.そ して邸宅 は ,元疎年次 以前の建額 と推測す る。 ま た脊年学校の玄槻柄 も,そ の構造Iこ鞠 し往 時を他ぶに十分な ものがあ る。 なおIrF街地と して 「上之 町 ・中之町」辺に ,な 浴,2‑ 3の建 策物が携 っている。

また,川原町附近 には侍士長屋 跡が ,町屋柿であ りなが ら小 さ(,L・Flの,7,る屋 敷が認め られ る.

3. 陣 唇 町 の 機 能

陣屋町足守O商業的 康能はついてみ ると ,近 世城 下町的商業の側 面と中 世市場 商業の 側面を もつ といい得 る。

的述 した如 く ,蘭 主は問屋 商人 を招致 して商業を富 ませ ,店舗商人 と して家 臣の 消費生活

奉 仕どしめた。 この定 期市の立つ 時は ,近郷か ら多 くの 人 々が集ま った。その 形態は あさらか では ない が ,明治以後足守に代 わ って栄えた大井村の 市の 形態か ら察す ると ,真倉 ゴボ ウ ・イ モ ・カキ ・柴などの虎作 物や ,薪炭木材 など林産物が馬の背 に よっては こばれ ,盛大 な売 買の 行 なわれた ことが伺われ るの であ る。 この特 権的店舗 南東と 民衆的 な‑1打壊商業 との 従属朗係は , 少 な くと もBflき取 りによ っては 聞 き出 し得 なか った。 この二 葉構 造の うえlこ陣屋町商業は 展開 され ていたと思 われ るの であ る

陣屋町と戯村 とは分かれ てか 9 ,村方 での 繭.#は 原則 と して禁止 され ていたが ,近細の百姓 の次三男で村方 より町方‑行 商に出る ものが あ ったことは ,次の 史料か ら知 られ る。

御 用 留 帳 文化十五年

一 ・在方之 者共町方江 出店いた し繭ひ軟便11[無用之 市冊余儀筋 二両願出候‑‑村役 人共幾重 ニ茂念入相札尤之助二茂相 聞候′、JI代官蓬 可申出其士こ而役 所 ヨ リモ相札否之差固 二可 為侯琳

右之適村 キ端 寸進不残 様心得可申候

以 上

寅 八 月 (福武氏所蔵文鞍 )

これ らの なかには ,足守(こu)1屡が出来 ると買得 して店舗繭糞を営 む もの もあ り ,また家 中武 士の次 三男で ,問屋の番 頭とな D ,商人化す るもの もあ 1た といわれ るC

これ以 上陣旋町 商業の 鎖能については 不明 なの であ るが ,維新 後の陣 屋町の変貌につ いて論 及 して王卜こうO

維新は藩主の東京移住 ,家 臣組の 離 散を もた らす と共に ,藩権力の足守商美への栃力的保護 の 簾抱 を意味 した。店舗商集 もこれ によ って .新 しい乗車に応 じて自 らを変貌 し .適合 しつつ も漸次かとろえてい ったが ,特に変化の 著 しいの仕市場商弟 である. (別表1 ) 陣鼠町に於 て報えた市は急 速に衰え ,谷口集落の立地条件 を具沸 した大井村fこ再 び もどってい った。 明治 期では大 井の市は著 し く凍 え ,席芳五郎翁の談 lこよると .両 日には小学生が通行 出来 ない程の 人出であ ったとい う。 交通 枚関の発達に 上って大井の市 も漸次p とろえてい ったが ,その 名残 Dとして12月 2 5日に綻 「歳の市」がた ち ,ま た毎 年 「魚市 」が盛大に行なわれ るとい う。

この様に封建権力の保 誰を うけた陣 屋町の商業が ‑iづ変質 し ,ついで谷 口集落 としての大井 の市が交通 親閲の発達 に よってさひれて仲 き ,その反 面に於 て ,新 しい タイ プの商人東本の形

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