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第 5 回

ドキュメント内 Il 博 牢 町 の 研 究 (ページ 107-124)

1 2 婚 王 BJイ 言者 , / 1伽布

b

期待比 もてなレも 又経営能率 を上げる方法 として俵糖化をあげているが ,これ も現状では畦畔 の狭少をい うことが大 きな欠陥 とTu:っているD曲家の人 もせめて リヤカーの滴 る位のRiJがついた らと貰っている。 この よ

7Tr,氏が今後に残 された開院 となろ うB

2.条里 地

にかける集落

以上のみてた ような仕業地帯 にかける典落は どんTr形をとっているであろ うかO足守 南部の広 い水田地帯 には新 しV>家 が二軒あるので集落は中を除 いて全て山猿に治って立地 しているO 凌ぜ このような集落分布 になったのであろ うか。 この点 忙ついて考えてゆきたいO地 図をみれば分 る ように大 きくみると

に足守の町 がろb山奴に沿って乗客 .冠 .南牧 ,七弟 ,新田上土 田 ,叉国

(A)よ

状地状デルタの上 に中村の八つの嫌落が あり ,V>わゆる塊 状村 (Hatl

fend . orf

)の ようを形 をとっているO これか らCz)如渚は大 き く分け ると二つ即 ち両氏湧水線 ,及び瓦封大地 デルタの上の 自然発生的な集落 に分 け られると思 うO先づ山

鹿

托沿 う軸繁忙つVlて考えてみ よ。一切如勺を嶺 渚立地

1 巧みみると自然発生 的仁集・GIi先づ洪杭丘隊や台地面さらに 山牡軌 河津段丘海神横顔 状地 の嫡流や頂端が まずひらけ ,稲作の督及 によ

b

雄藩 も押

低地(:Cも立地するようになって く るD足守 も集落 もの横frf∃然発生的な弟鞍 と同一発 列の もの とみそす ことが出来ると思 うO 足 守町の中心(,C当 る上足守o妹

渚は上 納

大地

1

)げ ル クのLJJ.llt,C立地 した谷 口軸港 をみることが出来 る しか し頼政仲代以揃にかいて(r土足守川は もつ と西の

7 J ‑ L D

出際(J'C沿って流れていた ようであ9従 っ て足守のdJ!・拓 も・山際に立地 していたと考え られ る.足守が現在の よう在位且 に うつ ったのは藩 政 時代以後でその後藩政の中心 として今 日‑のように大 き くなった もの と思われるL、従 って以前の共 済は他の典落 (前出6つの攻落 )と同 じ性格の裂溝 であるとみ TJ:す ことが 出来 る と思

う O

古い相での こと比 よく分 らないが苗応元年の備中は足守

即 こよると人家 L・ま平地の田の中(I,Cも数

(7)

軒み られるが家 は大体東部や北部のLL鵬 及び如庁削1I(EIJJ.7八浦 山 (宮山)の鎚に多 く殊 射 ヒ西 o大井Jl佑1‑3‑吉山山放付近

(

/C布袋 しているO との

ま 塙

紛 科 1今 日のそれ と湖似 してかi)本Fr(M Ci

, i

W 変化していT=い。雄藩立地 に政 も正要夜空窯 となるのは水で去るがこの よ うな地形の所は

I ・

L舵 の頓斜変換線 に

沿

う沸水線 に当b水が柑やす くしか も災脊 (特に水苔 )rまぬかれ ることが 出来 る 、水仕飲料水 と榔漉用水 とに分 け られるが両方 とも蛙留である。織成用水 もよほ どの早ば つで もない限

b 水(

,i:困ることはないといわれているO水の瓜は盤 富であるが一部ではいわゆるか か す水が出る所 もある ようであるo

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lさと

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に 上ると上土田の一 部 (こでは共同で水崩を ひい てV>る家 もあるO )又宮下 の付近父上足守の足守 川の左岸や下足守の田の中で も‑郡かなけ水が 出ると嘗 うことであるo Lか LEf衛生活にさ しフ かえるとい うほ どの ものでは淀h ようであるD 次に 日当りについてみるとこれ らの集落 を一

に・iとめて言 うことは出来 ないが全部の典港が南

に立地 していない し多 くは西 の

に沿ってあるので 日当 Dの師では必ず しも十分 ではない よ ) であるQ矧 ′こ冬rLかいて EIA雌 は著るし く少 くなるとい う与とである。 しか し風啓 (華に台風 ) をさけるには都合が よいが 凧は余

b

大 きな要素ではない。叉旧足守街道 と足守川 との間の水田地 神 には家 はほ とん どないO (現在2軒のみ )これは洪水の啓か らまぬがれ るとい うことが大 き改 原因とな ってい るように思 うo足守川の 旧河道 についてはよく分 らない。 (これについては自然 剤境の項金牌 )しか し相当な

"であった らし

旧河道 といわれ る所が広 く多 く存在 してい る。

しか しこの付近は水吐得 られやす く ,気峡 も温和 であ

b

その他 自然的条件 ,社会的条件に も恵ま れた所であると冒えると思 うQ次に闘状地状デルタ上の中村 について はとの集落の起源 ,性格は、

よく分 ら,lLや軸、つて の足守川の 自然塵取 ヒに出 した雄落である とい うことが言えるであろ うO 現在の中村 をみ ると気付 くように部落 の実 車か ら二つに分 かれ東 中村は下足守村 ,小字 中村 であ D西中村は東 阿曽相に馬している。そ して東中村の人 はほとん ど東の 「か き

に田を所有 してか bそ こへ耕作 に出かけている。ポー 1)ソグの払衆 も東 と西 とではやや異b文題田が中村の中心の 道路 に沿って多 く存在 しているo Lか も氏神 も光 中村の方は足守の八幡神社で あb ,西 中村 は阿 曽の典故神社である。 さらに前言己足守溢 魔の模写 したものがあり足守川の本流の他に もう1本小 さい流れがかいてある。

この小 さ'1流れは避田のある低湿地で旧河道に相 当す ると思わTLる。つ ま りかつ ては河 がそ

を流れていてそれが行政間の境界線とされたのではIlいかと思われる。 (古くは 山

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川のよ うな 自然的境界韻 が多 く使われている.:)ところが級に足守川の河道 に変動がありつま り当時より東 (こ寄り今 日のよう'1形に+i.1たものと思われる。

しか しポー ー)./グの結集か らも自然攻防と陵背湿地上の変化がか'j:りあ ったと考 えられる.中 村がかつて の足守川の自然粧防上に37̲地 した雄藩であ ったろ うことはは ゞ疑いが,iいと思 う。

以上主 として 自他的条件に重点をおいて旦良落立地 をみて きたが立地条件 としては歴史的社会的 を条件 も大 きを要因 となすが ここでは歴史的条件の‑ つ として条里制を取 り上げてみたい と思うQ 条里制については前に一 部ふれたが条里制の施行された ととは酪並の エ5枚 ととと共に次 の‑ラ

‑ 95‑

な理 由か らほほ確実であ ると思 うQつま

b

盤然たる拙 El状甲土地割や道路網の存在 ,坪地名の 残 ってV・ること ,さらに前途の細 石元年 (11 69年 )の足守荘古図 には四方 の砺毛があb‑大中 帯転

性 石抑圧堺坪田一条六 叩 F^永 宗 坪未申 壌

」 とあるO との粂Tb呼称は月姻 卿

に も み られる。 これ について石田先生は 「足守の荘別 図の出来たのは1169年で守鮮 血頭教徒ql以揃 に粂丁地割が足守川沈域の鵬中一群に存在 していた と考えねばな らないnこの ように考えると永 u床 の批判 (くわ しくQ:1青仰郡 史中巻1279項金牌 )は当 らないといって よかろう。 6町耽 方 すなわち1里内の呼称は どうあって も条里制施行 を証拠づける頚料 た

b

うる

。」(

9)といわれ て卦b条里制の施行 された ことは敷いな くO足守の条里舷月贈 S郷阿 曽郷の延長 とみをす ことが出 来るであろう。足守の南 VCある1の坪の地名が うまい具合に「致するa これは航空写其 か らもよ

く分 る。坪並みは右下端 を起点 とする柄行平 行式である。 (第5図金胸 ) との条里制は土地剖のみでを く宅地

割も行 われた とされてか

b

整然 たる 削噺村であったとされているu

(例えば幾内の条里集落の図を参加 ) 従 って足守 も粂塾側が施行された とす ると自然発生的な村落形態を示 すエDも計画的に設定 された村落の 形態を示す もの と考え られるO しか し実

には前にのべた ように自然苑 生的な集落形態をと‑ってVlる. が と

服部称Q基

Z致

第5図坪並み

一一の坪

l

! 3620 3529

34

28 .3327 3226 3135

6 ‑2‑ 23 22 21 20 19

18 17 16 15 14 13

の点 について比米食氏の前掲串に 「村落は山地や助 1'平地 Ee:臨む ようを所 で(rlそ の接線 に先史 時代以来の立地 を舶鋭 してその切所を改頗されたのであろうo平担地 で比原始村落は自然堤坊の

i :

うな僅かな福地 に立地 していた であ

うが ここに条里地割が施行 される と村落の故地 も例外75: く全て1町 区画がrl適する とととな

b

村落の形状が変化 をうけたであろう。」 (10)とある。

この ことを足守の場合vcあて比めて考える と今 日のような雑粉 布 とIなった ことが うそづけるの で技をいか と思われる。

以上 を要約すると足守の南部に当 る所に集塵制が施行された ことはほi'確 実でありそれが 1300年をへた今 日でも地割 ・曲集 ,集落にも深い的係‑Jd=:もち ,しらず しらずの うちに人 々の 生活の中に入りとんできている。そ の偉大な膨辞力.設速力にか どろ くほかは凌いQ

(終

り)

注(1) 第 1図比 この付近 (上足守 ,下足守 の⊥鄭 )の地 籍図 (切 絵 図)(緒 尺大体 600 分 のり 及び土地 台帳を利用 して 作っ た図 で ある。 (但 し実物はず れがあ

b

必ず しもびっ た

J

)と結び合

わす ことが 出来ないの で .私 自身 で手 を加 えたこと を ことわっ てか きます。

(2)石田先生 の辞 銭 エD ,但 し岡山県の場 合 (3) 「明 治以後 vcお ける盛 典技 術の発

速」

轟周

(4)当時か単位と しては段 の下VCは代が使 われ てい たO 代の下は歩 であa36歩が6代 .5 0代 が一反で あるO なか これ VCつい てはそ の 他の参考や彦屑

t5)米倉二郎 「巣箱の歴 史地理」

(6) 「僻中 国間夜 郡上土 田村 田畠改

岨J

(頼政示一 民税文

)は正錐 3年 から寛文12年 まで の もので ある。又上田 '中田 '下 田 '下 々田 ,上島 ,中畠 .下島 ,下 々島の区別 が して あった が これを一つVCまとめて的 した ものである。又町政 228S 畝27娘 であるが訣み違いか写 し

違いかVCよ99畝3歩の追 いが出 た。 .

又 これは6尺5寸竿 に て検地 したとあるO

従っ て数字 よb実収はや ゝ大 きい とVlうことになるo

「上土 田土地 台帳」 では 田 ,晶のみ を取b出 したD これは 前の田畠改蝦 と比峻 するためであ るo 従っ て田島 のない小字は除い てある。

高屋 の土地台帳は (先や安藤 さんのEF料 を利用させ ていただいた.

(7) 実物は神護 寺に国宝 と してnTT戒 され てい るo (8) 写荘第2賓 第1節 の写其

(9)石田寛論文 「備 中の条里」 ヽ

(70)米倉二郎 前

掲1 B

p20参府

‑ 97

牙 四 飾 市 場 集 落

足守川が平坦郡に出 ようとするところ .すなわち谷 口に大井 .足守の二つの集落があD ,かな

b

秘策的讃能を果 した町であるO大井 と足守は位匠か らいえば谷 口雄藩であ9 .谷 口bLi蕗の常 と してその債れた位促の故に市場雄藩として近姉に知 られていた ,しか もとe)二つの町 はなか攻か 完全に一 体にならず双子町

(twin

city)であ洗

足守韓か足守陳鹿町の瑞光‑,k保放 し .足守が商

杓に大井 を圧倒 していた炎を歴史的侵E;A,‑)のIfI で述べて きたところである。椿の妹誰を触れた足守の布鞄は哀

し ,中心は大井へ と移行 して1:J'. くのであるが ,上之町 .下部 q.の街路 沿いの家海の両難の移

b

没 りi:示せば牙 9嘉の とおi)で , うたた今昔の感あ

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とい うところであるO (石 田

寛)

明治八 , 白 木 嫌 Liltl 無 斬 髄 建 111

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第9真

上足守上 の町下の町

耐 昌の

文選

谷 口集落の商業 ,市場塊蕗は r= ・八 .五 ・十 の市

vc紫 中的 忙表現されているO

三八五十の市 t

l・三八五十 の市 の盛 兼

r三 八の市」及 びrr五十の市」の発 生鬼面仕 ,壮っき

b

とは知 られない し ,又 E ・八.玉.十 の市」 となったの も古い昔の ことら しく定かではないり江戸 噺 モ後机 市 は足守 で開かれてVlて 当時ナ で

忙r

三 八 五十の市」 と在って いたo これが明治の廃藩 置県 と同峰に現 上足守の腎井町

(iB称古着 酌 へ移 った この頃か ら加 糖Bg・細

に発展 し ,ね こ串が ら中串 ,大八串 の出現 と■をb ,市 吸が道路上 で開かれ る為 に人 と品物 とが ごった返す よう(,Cなって きたO 更tR:局中の出 現 によって危険性 を有秒 る ように夜 D .行政当局か ら前の閉鎖をせ ま られたD当 噂 すでに足守以 北の人 々が市場迄わ ざわざLLrを下 って来 るのを渋力辻'.Lた為

v c

l中lllh人が山を登 ってい く儒向 あった。 これ ら色々の理 由か ら ,市 に関係 ある問屋が組 合を作D新 しく大井に」二地 を只い ,そ こ に市 を開こととした。大 佐 これが 明治20‑ 1年頃迄の鮭且で あD以錐市 は放坂道拭 くこと

な る。

2・大 井P:おける市 の盛 衰

Tiず場所 壮 ・東は 現大井′J嘩 校 前の適路上か ら北 は 日近への分 れ道に至 る桶附近 ,さ らに南は 梅谷への登b口にTzる橋迄の道路上 と道 の南側の細長い空地 .(間鼠組合が叉った とい う土地 ) のか夜b広 い範 紬であった。 (オ占図金牌 )

‑ 99‑..

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