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浦添間切伊祖村・田ノはあらの女性たち -伊祖の入め御拝領墓の調査から-: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

安里, 進

Citation

沖縄県女性史研究 = BULLETIN OF WOMEN'S HISTORY

IN OKINAWA(2): 13-27

Issue Date

1998-09-16

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/8450

(2)

沖 縄 県 女 性 史 研 究 第 2 号 (1998)

浦 添 間 切 伊 祖 村 ・ 田 ノ は あ ら の 女 性 た ち

一 伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 調 査 か ら 一

1 は じ め に う ら そ え し い そ 数 年 前 、 浦 添 市 伊 祖 で マ ン シ ョ ン 建 設 に 伴 い 近 世 墓 の 考 古 学 的 調 査 を 実 施 す る 機 会 が あ た。 そ の 中 の 1 基 の 厨 子 甕 に 墨 書 さ れ た 銘 書 か ら、 こ の 墓 は 、 1822年 に 伊 祖 村 の 百 姓 ・ 屋 め か る い り 号 田 ノ は あ ら の 銘 苅 が、 浦 添 家 か ら 入 め (費 用 ) を 拝 領 し て 造 営 し た 御 拝 領 墓 で あ る こ と が 明 ら か に な っ た。 ふ つ う な ら 歴 史 に 名 を 残 す こ と も な い 百 姓 が、 名 門 浦 添 家 と 関 わ る こ と で 歴 史 の 表 舞 台 に 顔 を の ぞ か せ て い た の で あ る し か し、 そ れ だ け で は こ の 百 姓 家 族 を 歴 史 の 暗 闇 か ら 引 き 出 す こ と は で き な い。 私 た ち は 墓 や 厨 子 甕 の 考 古 学 的 調 査 と と も に 、 厨 子 甕 に 記 さ れ た 銘 書 の 解 読、 被 葬 者 の 人 骨 調 査、 浦 添 家 の 系 譜 調 査 、 民 俗 学 的 分 析 な ど も お こ な っ た。 特 に、 人 骨 調 査 の 結 果 は、 銘 書 の 内 容 を 吟 味 し 、 ま た 銘 書 で は 知 る こ と が で き な い 被 葬 者 の 個 人 情 報 を 明 ら か に し て 被 葬 者 の 生 前 の 姿 を 蘇 ら す う え で 大 き な 成 果 を も た ら し た 本 稿 は、 こ う し た 近 世 墓 の 調 査 成 果 を 分 析 し て、 18 世 紀 後 半 ∼19 世 紀 の 農 村 が 疲 弊 し て い た 時 代 に 生 き て い た 百 姓 家 族 の 姿 に つ い て、 特 に 浦 添掻 笥 乳 母 を つ と め た 真 勢 と い う 女 性 に ス ポ ッ ト を あ て て 浮 か び 上 が ら せ よ う と す る も の で あ る

伊 祖 の 御 拝 領 墓 の 落 成 式

浦 添 按 司 乳 母 呉 勢 の 洗 骨 と 墓 の 落 成 1822 (道 光 2 ) 年 の 9 月14日 、 浦 添 間 切 伊 祖 村 で 一 人 の 女 性 の 死 を 契 機 に 、 百 姓 の 墓 に

し て は 盛 大 な 落 成 式 が 執 り 行 わ れ て い た。 参列 者 は、 名 門 浦 添 問 切 総 地 頭 の 蒲 然 姦 尚 鞘 慧

と 村 の 役 人 た ち、 そ し て 墓 の 主 で あ る 伊 祖 村 の 屋 号 ・ 田 ノ は あ ら の 銘 苅 と 窺 奮 誼 の 家 族 た ち だ 新 築 さ れ た 墓 は 正 面 に 3 .5 ト ン も あ る 大 き な 一 枚 石 を 使 っ た 堂 々 た る 破 風 墓 で あ る 。 墓 庭 は 、 岩 盤 を 掘 り 窪 め て 約 8 坪 ほ ど に 造 成 し、 墓 室 も 岩 盤 を 刹 り 抜 い た 横 穴 式 で 3 坪 弱 の 広 さ が あ る 。 相 当 に 経 費 が か か っ た 墓 で、 並 の 百 姓 が と て も 造 営 で き る よ う な も の で は 一 13 一

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な い 。 墓 口 が 西 方 の 火 山(ヒ ー ザ ン) に 向 い て い る の で、 こ れ を 避 け て 墓 庭 の 外 門 を ほ ぼ 磁 北 に 開 け る な ど、 風 水 師 に も ち ゃ ん と 見 て も ら っ て い る。 墓 庭 に は、 新 し い 墓 に 納 め る た め の 厨 子 甕 が 所 狭 し と 並 べ ら れ て い た。 田 ノ は あ ら の 古 い 墓 か ら 運 ん で き た 11基 の 厨 子 甕 の う ち 、 1 基 は 割 れ て 破 片 が 庭 に 散 ら ば っ て い る 。 那 覇 の 壺 屋 か ら 買 い 求 め て き た 2 基 の 真 新 し い 厨 子 甕 に は 、 先 ほ ど 洗 骨 を 終 え た ば か り の 呉 勢 め か る と そ の 兄 弟 の 三 良 銘 苅 の 遺 骨 が 納 め ら れ て い る 。 呉 勢 の 厨 子 甕 は 、 蓋 や 身 に 瓦 屋 根 の 装 飾 が つ い た 上 等 品 で、 蓋 に は 今 日 の 日 付 で 「道 光 弐 年 壬 午 九 月 十 四 日 洗 骨 仕 置 候 」 と 墨 書 さ れ、 続 い て 「浦 添 按 司 御 乳 母 呉 勢、 嘉 慶 弐 拾 五 年 辰 十 一 月 九 日 死 、 寿 七 拾 壱、 但 か ま 戸 銘 苅 女 子、 墓 之 儀 者 浦 添 御 殿 従 入 め 御 拝 領」 と 書 ち ょ う お う か れ て い る 。 つ ま り こ の 墓 は、 浦 添 朝 悪 の 亡 父 ・ 朝 央 の 乳 母 と し て 長 年 に わ た り 浦 添 家 に 奉 公 し て き た 呉 勢 の 死 去 に 際 し て、 浦 添 家 が 高 額 の 入 め (費 用) を 出 し て 造 営 した も の だ。 そ し て 今 日 の 墓 の 落 成 に あ わ せ て 呉 勢 の 洗 骨 と 、 元 の 墓 に あ っ た 厨 子 甕 の 移 転 が お こ な わ れ た 写 真 1 伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 全 景 厨 子 甕 を 配 置 す る ま ず 墓 室 最 上 段 の 一 番 棚 中 央 に こ の 墓 の 主 人 公 で あ る 浦 添 按 司 御 乳 母 呉 勢 の 厨 子 甕 を 安 置 し、 そ の ま わ り に 呉 勢 の 近 親 者 の 厨 子 甕iが 順 次 配 列 さ れ た。 呉 勢 の 厨 子 甕 の側 に は 3 歳 で 天 逝 し た 娘 か め の 厨 子 甕 が 母 呉 勢 に 寄 り 添 う よ う に 置 か れ 、 左 側 に は 両 親 を 合 葬 し た 厨 子 甕、 そ の 外 側 に は 弟 三 良 銘 苅 夫 婦 の 厨 子 甕 と 呉 勢 の 親 戚 に あ た る 親 富 祖 系 の 人 た ち の 厨 子 甕 が 配 置 さ れ た。 最 後 に 下 段 の 二 番 棚 や 三 番 棚 に 、 呉 勢 の 兄 弟 夫 婦 の 子 供 た ち の 厨 子 甕 な ど が 配 置 さ れ た。 一 14 一

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沖 縄 県 女 性 史 研 究 第 2 号 (1998) 厨 子 甕 の 安 置 が 無 事 終 わ り 墓 口 が 閉 じ ら れ る と、 重 箱 に 盛 り つ け た 料 理 と 小 さ な 杯 に 盛 ら れ た 泡 盛 を 供 え 、 線 香 を 焚 い て 祈 り が 捧 げ ら れ た。 墓 前 祭 祀 が 終 え る と、 墓 庭 で は 宴 会 が は じ ま っ た。 今 朝 洗 骨 さ れ た 三 良 銘 苅 の60歳 近 い 妻 と、 そ の 男 子 の か め 夫 婦 そ し て 前 親 ち くど う ん 富 祖 筑 登 之 夫 婦 が、 浦 添 按 司 朝 悪 に、 こ の よ う な 立 派 な 墓 を 造 営 し て い た だ い た お 礼 を 繰 り 返 し 述 べ た 。 浦 添 家 は 、 尚 穆 王 第 二 子 尚 図 (浦 添 按 司 朝 央 ) を 祖 と す る 家 柄 で 、 浦 添 総 地 頭 と し て 知 行 高 300 石 を 拝 領 し て い た 。 朝 央 は 摂 政 を 勤 め 王 子 位 に ま で 昇 っ た が、 そ の 孫 の 朝 憲 も 、 後 に 摂 政 と な っ て 王 子 位 に 昇 っ た 。 朝 悪 は、 江 戸 上 り の 正 使 を 勤 め る な ど 政 治 的 に も 活 躍 す る と と も に 、 近 世 琉 球 を 代 表 す る 歌 人 と し て 歴 史 に 名 を 残 す こ と に な る 人 物 だ。 朝 悪 は ま だ 18歳 で あ っ た が、 亡 き 父 ・ 朝 英 の 乳 母 と し て 浦 添 家 に 長 年 に わ た っ て 奉 公 し て き た 呉 勢 を 偲 ん で 琉 歌 を 即 興 で 一 首 読 み 上 げ て み せ た 以 上 は、 伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 調 査 成 果 を も と に、 い く ら か 想 像 を 加 え て 描 い た 、 伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 落 成 式 の 風 景 で あ る 写 真 2 墓 室 内 の 厨 子 甕 (奥 右 か ら 2 番 目 が 呉 勢 の 厨 子 甕 )

伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 調 査 の 概 要

入 め 御 拝 領 墓 の 調 査 伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 発 掘 調 査 は、 浦 添 市 字 伊 祖 614 −1 番 地 に お け る マ ン シ ョ ン 建 設 に と も な う 緊 急 調 査 と し て、 1994年 6 月 か ら 8 月 に か け て 、 浦 添 市 教 育 委 員 会 が 実 施 し た 。 調 査 結 果 は 『伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓』 (n と し て 報 告 さ れ て い る 。 こ の 墓 は 無 縁 墓 で あ る が、 一 15 一

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厨 子 甕 に 墨 書 さ れ た 銘 書 か ら、 浦 添 按 司 家 か ら 入 め ( 経 費 ) を 拝 領 し て 造 営 し た い わ ゆ る 「御 拝 領 墓」 で あ る こ と が 判 明 し た た め 、 「伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓」 と 名 付 け ら れ た 。 調 査 は 、 筆 者 の 指 揮 の も と に 宮 里 信 勇 氏 ・ 當 銘 由 嗣 氏 を 担 当と す る 考 古 学 的 発 掘 を 行 い、 骨 の 調 査 を 琉 球 大 学 医 学 部 解 剖 学 教 室 の 土 肥 直 美 氏 に 依 頼 し、 厨 子 甕 の 銘 書 の 解 読 を 浦 添 市 教 育 委 員 会 沖 縄 学 研 究 室 の 長 間 安 彦 氏 ・ 徳 元 剛 氏 ・ 小 野 ま さ 子 氏 ら に お 願 い し た 。 調 査 報 告 書 ・ 『伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 』 に は 、 上 記 の 調 査 成 果 と と も に 、 玉 城 順 彦 氏 ( 北 谷 町 公 文 書 館 ) に よ る 伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 民 俗 学 的 分 析 報 告 と 、 田 名 真 之 氏 (那 覇 市 史 編 纂 室) に よ る 浦 添 家 の 系 譜 の 報 告 を 掲 載 し た 。 ま た、 こ れ ら の 調 査 報 告 を ふ ま え、 入 め 御 拝 領 墓 の 厨 子 甕 編 年 と 被 葬 者 の 親 族 関 係 の 詳 細 な 分 析 を お こ な っ た 報 告 書 ・ 『伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 厨 子 甕 と 被 葬 者』 (2) も 作 成 し た 。 本 稿 は 、 こ う し た 調 査 成 果 を ふ ま え た も の で あ る。 さ て 、 伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 は、 浦 添 市 字 伊 祖 の 古 島 ( 旧 集 落 地) か ら 100〃z ほ ど 東 方 の 牧 港 川 沿 い に 南 北 に 走 る 石 灰 岩 丘 陵 の 西 斜 面 に 造 営 さ れ て い る 。 こ の一 帯 に は 近 世 墓 が 群 ま く ば る 在 し、 小 字 名 を と っ て 真 久 原 古 墓 群 と 呼 ば れ て い る。 墓 は、 破 風 墓 で、 石 灰 岩 の 岩 盤 を 掘 り く ぼ め て 墓 庭 を 造 成 し、 墓 庭 の 東 側 の 岩 盤 を 剖 り 抜 い て 墓 室 を 設 け て い る。 墓 口 は 西 に 向 い て い る が 、 墓 庭 へ の 出 入 口 は 磁 北 に 向 け て 開 けら れ て い る 。 墓 室 は、 階 段 状 に 3 段 に 造 成 さ れ て い る 図 1 入 め 御 拝 領 墓 の 厨 子 窺 配 置 模 式 図 か ま ど 銘 苅 女 子 呉 勢 あ む し ら れ 女 子 か め か ま ど 銘 苅 / 妻

讐 艦

墓 ロ

ボ ー ジ ャ ー マンが ン掛 け 庇 付 甕 形 マンが ン掛 け 甕 形

無 紬i甕 形 壷 ・ 甕 転 用 マンが ン掛 け 御 殿 形 一 16 一

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沖 縄 県 女 性 史 研 究 第 2 号 (1998) 厨 子 甕 と 銘 書 墓 室 内 に は21基 の 厨 子 甕 が 納 め ら れ て い た。 調 査 中 に 私 た ち が 付 け た 厨 子 甕 の 番 号 は 1 ∼ 22号 ま で あ っ た が、 そ の 後12号 (蓋 の み) と14号 (身 の み) は セ ッ ト で あ る こ と が 判 明 し た の で 、 結 局 厨 子 甕 は21基 で あ る。 厨 子 甕 は、 蔵 骨 専 用 の 厨 子 甕 が19基、 水 甕 転 用 が 1 基、 荒 焼 壺 の 転 用 が 1 基 で あ る。 墓 室 内 に お け る 厨 子 甕 の 配 置 の 模 式 図 を、 図 1 に 示 し た。 厨 子 甕 は、 墓 室 最 上 段 中 央 の か ま ど 銘 苅 女 子 呉 勢 = 浦 添 按 司 乳 母 の17号 厨 子 甕 を 中 心 に そ の ま わ り に 呉 勢 を 中 心 に し た 親 族 関 係 に し た が っ て 呉 勢 の 近 親 者 の 厨 子 甕 が 配 置 さ れ て い た 。 22号 厨 子 甕 は、 旧 墓 か ら 墓 庭 に 運 び 込 ん だ 際 に 割 れ た ら し く、 数 個 の 破 片 が 墓 庭 か ら 出 土 し た ミガ チ 15基 の 厨 子 甕 に は 銘 書 が 墨 書 さ れ て い た。 10号 厨 子 甕 を 例 に と る と 、 「 嘉 慶 一 九 年 甲 戌 五 月 廿 八 日 洗 骨 浦 添 問 伊 祖 村 田 の 原 三 ら 銘 苅 女 子 呉 勢」 と い う よ う に 、 被 葬 者 の 屋 号 、 親 子 関 係 、 名 前、 洗 骨 年 月 日 な ど が 書 か れ て い る が、 屋 号 と 名 前 だ け の も の も 多 い。 特 に 呉 勢 の 厨 子 甕 に は 、 本 稿 の 「伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 落 成 式」 で 紹 介 し た よ う に、 浦 添 按 司 乳 母 で あ っ た こ と、 こ の 墓 は 浦 添 按 司 家 か ら 入 め (経 費 ) を 拝 領 し て 造 営 し た こ と な ど が 墨 書 さ れ て お り 、 彼 女 が こ の 墓 の 造 営 に 関 わ る 中 心 人 物 で あ っ た こ と が わ か る 。 銘 書 が 書 か れ た 厨 子 甕 の う ち、 洗 骨 年 が 記 さ れ て 厨 子 甕 の 使 用 年 代 が う か が え る も の が 10基 で、 古 い も の は1761 (乾 隆26) 年、 最 も 新 し い も の は1912 (大 正 元 ) 年 で あ っ た。 こ う し た 洗 骨 年 代 が 記 さ れ た 入 め 御 拝 領 墓 の 厨 子 甕 と 他 の 墓 出 土 の 洗 骨 年 代 の 銘 書 が あ る 厨 子 甕 を 参 考 に し て 、 本 墓 の 主 体 を 占 め る マ ン ガ ン 掛 け 甕 形 厨 子 甕 を 中 心 に 編 年 を お こ な っ た。 甕 形 厨 子 甕 編 年 の 詳 細 に つ い て は 『伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 厨 子 甕 と 被 葬 者』 を 見 て い た だ き た い 表 1 入 め 御 拝 領 墓 の 被 葬 者 骨 の 性 別 ・ 年 齢 性 別 計 新 生 児 / 胎 児 幼 児 若 年 成 年 20∼30代 40歳前後 熟 年 40∼50代 老 年 60歳以上 成 人 20歳以上 女 性 15 1 1 4 1 2 3 3 男 性 10 1 4 1 1 1 2 不 明 5 2 計 30 2 1 2 8 2 3 5 7 被 葬 者 の 性 別 ・ 年 齢 ・ 生 存 期 間 こ れ ら の 厨 子 甕 に は、 1 基 (8 号 ) を の ぞ い て 全 て の 厨 子 甕 に 計 30体 の 人 骨 が 納 め ら れ て い た 。 大 半 は 1 基 に 1 体 で あ っ た が、 2 体 あ る い は 3 体 が 合 葬 さ れ た も の も あ っ た 。 30 一 17 一

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体 の 人 骨 を 性 別 で み る と 、 男 性 11 体 、 女 性 16体、 不 明 3 体 (う ち 新 生 児 2 体 ) で 女 性 が多 い 。 年 齢 別 の 性 別 構 成 は 表 1 の と お り で あ る 。 人 骨 調 査 で は、 被 葬 者 の 性 別 ・年 齢 ・ 出 産 経 験 な ど が 明 ら か に な り、 銘 書 内 容 と あ わ せ て 、 被 葬 者 の 系 譜 的 位 置 づ け 解 明 に 大 き く 貢 献 し た 。 以 上 の 情 報 を 厨 子 甕 ご と に 整 理 し た の が 表 2 の 厨 子 甕 一 覧 表 で あ る 。 図 2 は、 被 葬 者 の 推 定 生 存 期 間 を 図 示 し た も の で あ る。 被 葬 者 の 生 存 期 間 に つ い て は 、 銘 書 に 洗 骨 年 代 が 記 さ れ て い る も の は、 洗 骨 年 代 を 起 点 に 、 死 亡 年 を 洗 骨 の2 ∼ 6 年 前 と 設 定 し、 こ れ か ら さ ら に 人 骨 年 齢 を さ か の ぼ っ て 出 生 年 代 幅 の上 限 を 算 出 し た 。 ま た、 洗 骨 年 代 が 不 明 な も の は、 厨 子 甕 型 式 年 代 を 基 準 に、 死 亡 年 代 を 厨 子 甕 型 式 年 代 の 2 ∼ 6 年 前 と 設 定 し、 さ ら に こ れ か ら 人 骨 年 齢 を さ か の ぼ っ て 出 生 年 代を 算 出 し た 。 そ し て、 銘 書 か ら 生 没 年 代 が 明 確 な 三 良 銘 苅 女 子 呉 勢 と か め の 妻 呉 勢 を 定 点 に 、 被 葬 者 相 互 の 親 族 関 係 か ら さ ら に 生 存 期 間 を 絞 り 込 ん だ も の で あ る 。 し た が っ て、 実 際 の 生 存 期 間 は 、 こ れ ら の 推 定 生 存 期 間 の 中 の あ る 限 ら れ た 期 間 と い う こ と に な る 。 一 18 一

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1 δ 1 表 2 入 め 御 拝 領 墓 の 被 葬 者 と 厨 子 甕 一 覧 厨 子 鹿Nα 被 葬 者 (銘 書 に よ る) 厨 子 甕 骨 の 性 別 ・ 年 齢 ・ 身 長 等 銘 書 朱 円 印 配 置 (棚) 被 葬 者 名 親 族 関 係 屋 号 洗 骨 年 死 亡 年 型 式 1 号 カ ミ 田 バ ラ 大 正 1 1912 ♀ 老 年(60才 以 上) 骨 盤 に 前 耳 状 溝 145.2㎝ 蓋 汁ヒラシ マ ン ガ ン 掛 け 甕 形 D V 2 号 ウ シ ♀ 熟 年(40−50代) 骨 盤 に 前 耳 状 溝 145.3㎝ 蓋 汁ヒラシ マ ン ガ ン 掛 け 甕 形 D V 3 号 ♀ 成 年(20−30代) 頸 骨 に 髄 膜 炎 3番 棚 右 マ ン ガ ン掛 け 甕 形 D】V a 松 川 ノ か ま 戸 ? 成 年 (20−30代 ) 4 号 b ♀ 成 年(20−30代) 蓋 3番 棚 右 マ ン ガ ン 掛 け 甕 形 D 皿 a か め 三 良 銘 苅 女 子 田 ノ は あ ら ? .若 年 (14−15 才 ) 5 号 b ? 新 生 児一胎 児 蓋 ○ 3番 棚 右 ボ ー ジ ャ ー 厨 子 (蓋 はマソガン掛 甕 形) ● 新 6 号 ♂(40才 前 後) 15乳 3㎝ 3 番 棚 水 鹿 転 用 7 号 ♀ 成 年(20−30代) 骨 盤 に 前 耳 状 構i 右 椀 骨 と 頸 骨 に 骨 折 痕 143.5㎝ 3 番 棚 マ ン ガ ン 掛 け 鹿 形 DIV 8 号 骨 な し 3 番 棚 マ ン ガ ン 掛 け 甕 形 DIV 9 号 ♀(40才 前 後) 2 番 棚 荒 焼 壼 転 用 10 号 呉 勢 三 ら 銘 苅 女 子 田 ノ は ら ん 嘉 慶19 1814 ♀ 成 年 後 半(30代) 蓋・身 2 番 棚 マ ン ガ ン 掛 け 甕 形 B 皿 11 号 か ま 戸 三 良 銘 苅 男 子 田 ノ は ら ん ? 若 年(15−20才) 蓋 ○ 2 番 棚 マ ン ガ ン 掛 け 甕 形 A H a 前 門 親 富 祖 親 雲 上 嘉 慶24 1819 ♂ 成 人 13 号 b ♀ 成 人 い ず れ も 比 較 的 若 い 蓋・身 2 番 棚 マ ン ガ ン 掛 け 甕 形 B 皿 C ? 成 人 14 号 a 松 親 富 祖 田 ノ は あ ら ♂ ? 成 年 後 半(30代) b ? 新 生 児一胎 児 身 ○ 1 番 棚 ボ ー ジ ャ ー 厨 子(蓋 は12号) 新 a 三 良 銘 苅 道 光 2 1822 ♂ 成 人 15 号 1 人 は 老 年 b 同 妻 ♀ 成 人 蓋 1 番 棚 マ ン ガ ン 掛 け 甕 形 A 皿 16 号 か め あ む し ら れ 女 子 田 ノ は あ ら ? 幼 児(3才 前 後) 蓋・身 ○ 1 番 棚 ボ ー ジ ャ ー 厨 子 新 17 号 呉 勢 か ま ど 銘 苅 女 子 道 光 2 1822 嘉 慶25(1820)年 11月9日 死/寿71 ♀ 老 年(60才 以 上) 蓋。身 1 番 棚 マンガン掛 け 甕 形 庇 付 A 皿 a か ま ど 銘 苅 田 ノ は あ ら 嘉 慶10 1805℃ ♂ 成 人(か な り 高 齢) 18 号 b 同 人 妻 ♀ 成 人 右 椀 骨 に 骨 折 痕 蓋 0 1 番 棚 マンガン掛 け 甕 形 庇 付 A 皿 19 号 a 親 富 祖 筑 登 之 威 豊12 1862 ♂ 老 年(60才 以 上) 15aOcm b 親 富 祖 筑 登 之 妻 域 豊 1 1851 ♀ 熟 年(40−50代) 146.2㎝ 蓋 1番 棚 左 マンガン掛 け 甕 形 庇 付 B 皿 20 号 う し親 富 祖 乾 隆26 1761 ♂ 成 人 当 該 骨 に 病 変 蓋・身 1番 棚 左 無 粕 甕 形 A I a か め 田 之 は ら ♂ 成 年(20−30 代 ) 138.7 ㎝ 21 号 b 呉 勢 か め 妻 田 ノ は ら 光 緒 1 1875 同 治18(1869)年 4月20日 死/寿80 ♀ 老 年(60才 以 上) 蓋 1番 棚 左 マソガ ン掛 け 御 殿 形 C 皿 22 号 a ♂ 成 年(20−30 代) b ♀ 成 人 1番 棚 左 ボ ー ジ ャ ー 厨 子6 新 *12号(蓋 の み)は14号 の 蓋 に つ き 欠 番 号。 19号 の 骨 の 性 別 は r伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓』 (1996)を 訂 正 尊 識 麺 溢 醇 海 奪 器 醤 卜。 中 ( 一 ㊤ O c。 )

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図 2 入 め 御 拝 領 墓 被 葬 者 の 生 存 期 間 ↑ 親 富 祖 系 1700 1720 1740 1760 ≡←1709年 の 大 飢 饅 1780 1800 1820 1840 1860

羅蕪藝

叢欝叢慧蓑蓑 難 灘藁難i

難難

13 号 b 女 性

、墾 璽 鑑錘糠 鑛

三蘂

蓑 難 藻 蕪 灘 鍵難篶1

9≡

1 ≡

1761≡←1772 年 の 疾 病 大 流 行 14号a 松 親 富 祖 1862 22 号 a 男 性 1880 1900 22号b 女 性 銘 苅 系 ↓ 一セ百 一ゴ晶応 コ 805

藷馨藝嚢藻嚢嚢譲難薪翻

←1822年 入 め 御 拝 領 墓 の 造 営

1壷2

1{

難難i華蓬藝蕪難1嚢 羅難

螺難

講 驚

≡ ←1825・27 年 の 大 飢 饅

l l I l

10 号 呉 勢 一1814≡ ←1832 年 の 疫 病 大 流 行・ 飢 餓 一11難 暮 簾 i萎i 璽 .、一蕎i

鍛Q議_ 嚢 壌1璽纏舞量蟄嚢一当8ま

4 号a 松 川 ノ か ま 戸 4 号b 女 性 1875 1920 ← 1979年 廃 藩 置 県 推 定 生 存 期 間 の 最 大 値 厨 子 壷 年 代 と 人 骨 年 齢 至 算 出

’蕪 犠

纏 182

推 定生 存 期 間 洗 骨 年 1700 1720 1740 1760 6 号 男 性 7 号 女 性 3 号 女 性 1780 1800

1難懸講

蕪叢 難 i

難灘蕪

蕪蕪灘

1912 2 号 ウ シ 1820 1840 1860 1880 1900 1920 一 20 一

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沖 縄 県 女 性 史 研 究 第 2 号 (1998)

被 葬 者 の 親 族 関 係

田 ノ は あ ら の 銘 苅 系 と 親 富 祖 系 入 め 御 拝 領 墓 の 被 葬 者 の 屋 号 の 表 記 は、 田 ノ は あ ら → 田 ノ は ら ん → 田 ノ は ら ・ 田 之 は ら → 田 バ ラ と 変 遷 し て い る が、 こ こ で は 、 最 初 の 屋 号 を と っ て 「田 ノ は あ ら 」 と 呼 ぶ こ と に す る 。 田 ノ は あ ら は、 銘 苅 系 と 親 富 祖 系 の 二 系 統 に 分 か れ て い る。 被 葬 者 は 名 前 の 後 に 屋 号 を 書 く ス タ イ ル で、 銘 苅 系 は 「か ま ど 銘 苅」、 親 富 祖 系 は 「松 親 富 祖」 「親 富 祖 筑 登 之 」 な ど と 記 さ れ て い た 。 い ず れ も 浦 添 に 多 く み ら れ る 名 前 で あ る 。 銘 苅 系 の 7 基 10人 に つ い て は、 銘 書 か ら 系 譜 関 係 が 明 確 で あ る。 か ま ど 銘 苅 と そ の 妻 (18 号 )、 か ま ど 銘 苅 の 女 子 呉 勢 (17号)、 か ま ど 銘 苅 の 長 子 の 三 良 銘 苅 と そ の 妻 (15号) そ し て 呉 勢 の 子 に あ た る あ む し ら れ 女 子 か め (16 号 ) 三 良 銘 苅 の 子 供 た ち で 女 子 呉 勢 (10号 )、 男 子 か ま 戸 (11号)、 女 子 か め (5 号) で あ る。 こ の ほ か、 5 号 厨 子 甕 に 三 良 銘 苅 女 子 か め と 合 葬 さ れ た 新 生 児 (な い し は 胎 児 ) も 三 良 銘 苅 の 子 と み ら れ る。 ま た 、 か め (21 号 ) や 9 号 の 女 性 も、 墓 室 内 に お け る 厨 子 甕 の 位 置 関 係 や 厨 子 甕 年 代 と 人 骨 年 齢 な ど か ら 算 出 し た 生 存 期 間 か ら み て 三 良 銘 苅 の 女 子 と 考 え ら れ る 親 族 関 係 を 反 映 し た 厨 子 窺 の 配 置 墓 室 内 に お け る 厨 子 甕 の 配 置 は、 か ま ど 銘 苅 女 子 呉 勢 = 浦 添 按 司 乳 母 を 中 心 に し た 親 族 関 係 を 反 映 し て い る 。 一 番 棚 の 中 央 に ま ず か ま ど 銘 苅 女 子 呉 勢 を 置 き、 そ の 両 側 に 呉 勢 の 一 親 等 に あ た る 呉 勢 の 子 あ む し ら れ 女 子 か め (16 号) と 呉 勢 の 両 親 で あ る か ま ど 銘 苅(18号) を 配 置 し て い る。 次 に か め の 外 側 に 呉 勢 の 二 親 等 に あ た る か ま ど 銘 苅 の 兄 弟 夫 婦 (15 号 ) が 置 か れ、 そ の 外 側 に は 親 富 祖 系 の 厨 子 甕 4 基 が 配 置 さ れ て い る 親 富 祖 系 の さ ら に 外 側 の 一 番 棚 の 下 位 に は、 呉 勢 の 三 親 等 に あ た る か ま ど 銘 苅 の 男 子 と み ら れ る か め と そ の 妻 (21号 ) と、 呉 勢 の 祖 父 夫 婦 と み ら れ る 22号 が あ る 。 ま た 二 番 棚 と 三 番 棚 の 一 部 に も 呉 勢 の 三 親 等 に あ た る 三 良 銘 苅 の 子 供 た ち の 厨 子 甕 (11号、 10号、 9 号、 5 号) が 配 置 さ れ て い る 。 三 番 棚 ∼ 汁 ヒ ラ シ に 配 置 さ れ た 厨 子 甕 被 葬 者 の 親 族 関 係 は 不 明 だ が 、 厨 子 甕 型 式 の 年 代 と 人 骨 年 齢 か ら 推 計 し た 生 存 期 間 か ら 推 測 す る と 、 1 号、 3 号、 4 号 6 号 7 号 8 号 は 松 川 ノ か ま 戸 ( 4 号 ) の 子 供 た ち 、 ウ シ ( 2 号 ) は カ ミ ( 1 号 ) の 女 子 だ と 考 え ら れ る 夫 婦 は 一 つ の 厨 子 甕 に 合 葬 さ れ て い る 。 合 葬 さ れ た 成 人 男 女 は 7 例 あ る が 、 そ の う ち 4 例 は 銘 書 か ら 夫 婦 で あ る こ と が 明 ら か で あ り 他 の 3 例 も 夫 婦 と み ら れ る 。 一 21 一

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図 3 は、 銘 書 に よ る 親 族 関 係 と、 厨 子 甕 配 置 に 反 映 さ れ た 親 族 関 係、 およ び 被 葬 者 の 推 定 生 存 期 間 か ら 復 元 し た 田 ノ は あ ら の 銘 苅 系 の 親 族 関 係 を 示 し た も の で あ る 。 銘 書 か ら 明 確 な 関 係 は 実 線 で、 推 定 に よ る も の は 破 線 で 示 し た 。 こ の 系 図 に 示 し て い な い 銘 苅 系 の 後 半 期 の 被 葬 者 た ち や 親 富 祖 系 に つ い て も 推 定 復 元 は 可 能 で あ る が、 こ こ で は ほ ぼ 確 実 に 復 元 で き た か ま ど 銘 苅 夫 婦 (18号 ) か ら 三 良 銘 苅 夫 婦 (15 号 ) を へ て か め 夫 婦 (21号 ) に い た る 三 世 代 13人 の 家 族 の プ ロ フ ィ ー ル を 、 銘 書 と 人 骨 情 報 を も と に 描 き 出 し て み よ う 。 図 3 呉 勢 と 三 良 銘 苅 の 系 図 i 18号 か ま ど 銘 苅 か ま ど 銘 苅 妻 17号 か ま ど 銘 苅 女 子 呉 勢 15 号 か ま ど 銘 苅 嫡 子 三 良 銘 苅 16号

5 号 9 号 10号

妻 良 銘 苅 女 子 か め 11号 良 銘 苅 女 子 呉 勢 良 銘 苅 男 か ま 戸 i 21号 1 三 良 銘 苅 男 子 か め … … … … 呉 か め 勢 妻 4号 i … 女 性 i … … 松 与1 か ま 戸

か ま ど 銘 苅 の 家 族 の プ ロ フ ィ ー ル

近 世 末 期 の 浦 添 問 切 の 農 民 呉 勢 や 三 良 銘 苅 の 家 族 が 生 き て い た18世 紀 後 半 ∼ 19世 紀 前 半 は 、 相 次 ぐ 疫 病 や 飢 饒 で 命 を 失 う 者 が 多 く 、 農 村 は 疲 弊 し て 税 を 納 め る こと が で き な く な り 、 農 民 自 身 も 負 債 を 抱 え 一 22 一

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沖 縄 県 女 性 史 研 究 第 2 号 (1998) て 身 売 り す る 厳 し い 時 代 で あ っ た 。 浦 添 間 切 は 農 村 疲 弊 が 特 に ひ ど く、 彼 ら が 住 む 伊 祖 村 も 例 外 で は な か っ た 。 伊 祖 村 は 、 1740 ( 乾 隆 5 ) 年 に 王 府 に 申 請 し て、 集 落 を 移 動 し た が、 47 年 後 の 1787 (乾 隆 52) 年 に は、 再 び 旧 集 落 地 に 戻 る こ と に な っ た。 『球 陽』 に よ る と、 伊 祖 村 は、 村 落 が 非 常 に 狭 く か つ 傾 斜 地 に 位 置 し、 し か も 宅 地 が 散 在 し て い る の で 風 の 日 や 雨 降 り の 日 に は 行 き 来 が 不 便 だ と い う 理 由 で 、 現 在 地 に 移 動 し て き た。 と こ ろ が、 移 動 の 後 は 病 気 が 多 く な り、 人 口 は 増 え ず、 不 幸 が 相 次 ぎ、 ま た 土 地 も や せ て 収 穫 も 少 な く な っ て し ま っ た。 そ れ で、 村 の 全 住 民 に よ る 申 請 と 問 切 ・ 村 の 役 人 た ち が 連 名 し て 再 び 旧 集 落 地 に 戻 る こ と を 王 府 に 願 い 出 て 許 可 さ れ て い る ㈲ 。 こ の 集 落 移 動 の 理 由 に あ げ ら れ て い る、 1740 年 の 移 動 後 に 生 じ た 病 気 の 多 発 と 人 口 不 増 加 は 、 1772 ( 乾 隆37) 年 に 沖 縄 各 地 で 発 生 し た 疾 病 の 大 流 行 (4) を さ し て い る と 考 え ら れ る 。 こ の 疾 病 で 死 ん だ 者 の 数 は、 4560人 余 に も 及 ん で い る が、 伊 祖 村 も こ の 災 禍 に 見 舞 わ れ た こ と を、 集 落 移 動 申 請 は 物 語 っ て い る 。 実 は 、 1740年 の 集 落 移 動 の 31年 前 に も 大 飢 饒 で 3199 人 が 亡 く な っ て お り (5)、 こ れ が 最 初 の 集 落 移 動 の 動 機 の 一 つ に な っ た と 思 わ れ る 。 伊 祖 村 が 集 落 移 動 を 繰 り 返 し て い る こ ろ、 浦 添 間 切 の 他 の 村 々 も 疲 弊 し て い た 。 18 世 紀 末 頃、 浦 添 間 切 は 全 て の 税 収 や 役 人 の 俸 禄、 領 地 か ら の 米 穀 の 収 穫 が い ち じ る し く 不 足 し て い た。 し か も 農 民 自 身 の 負 債 も 多 く 、 身 売 り す る 者 が 続 出 す る あ り さ ま で あ っ た。 そ れ で 間 切 や 村 を 立 て 直 す た め に 王 府 に 下 知 役 を 派 遣 す る よ う 申 請 し て い る(6)。 そ し て こ の 効 果 が あ っ て1794 ( 乾 隆59) 年 に は 下 知 役 の 廃 止 に い た っ て い る (7)。 身 売 り す る 農 民 し か し、 こ れ は 一 時 的 な 回 復 で、 1863 (同 治 2) 年 に は 百 姓 の 困 窮 が き わ ま っ た た め 再 び 指 揮 司 ( 下 知 役 ) の 派 遣 と な っ た {8)。 こ う し た 背 景 に は、 1825 (道 光 15) 年 の 台 風 と 干 ば つ に よ る 大 飢 饒 で 沖 縄 で 3 ,358 人 が 死 亡 し た こ と (g) か ら 始 ま り、 翌 年 の 台 風 の 多 発、 そ し て そ の 次 の1827 ( 道 光17) 年 に も 疾 病 大 流 行 と 飢 餓 で 2 万 455人 が 命 を 失 う) と い う 相 次 ぐ 災 厄 が あ っ た。 浦 添 問 切 は そ の 影 響 が 特 に 深 刻 だ っ た。 浦 添 問 切 の 農 民 は、 疲 弊 し た ま ま 廃 藩 置 県 を 迎 え た 。 1863年 に 下 知 役 が 派 遣 さ れ て か ら 20年 後 の 1883 (明 治 14) 年 に、 浦 添 問 切 の 視 察 に 訪 れ た 岩 村 会 計 検 査 院 と 間 切 役 人 と の 問 答 か ら、 王 国 末 期 の 浦 添 間 切 農 民 の 悲 惨 な 実 状 を 知 る こ と が で き る 旧 藩 時 代 に は 農 民 は 借 金 に 追 わ れ、 上 納 も で き な い 貧 乏 人 は つ い に は 身 売 り す る こ と に な っ た 。 浦 添 問 切 に は 身 売 り で 雇 奉 公 を な す 者 約500人 も い て、 妻 を め と る こ と さ え で き な い 者 が 多 か っ た と い う 。 今 は、 追 々 減 少 し て い る と い う が、 そ れ で も、 遊 郭 に 身 を 売 づ 一 23 一

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て 尾 類 ( ジ ュ リ = 遊 女 ) に な る 女 性 は 190 人 、 雇 奉 公 に 出 る 者 は 約 300 人 も い た と い う (、、)。 明 治 14 年 の 浦 添 間 切 の 人 口 は 女 性 4347 人 、 男 性 4,361人 (12) で あ る か ら 、 全 女 性 の 約 4.4 % が 遊 郭 に 売 ら れ、 全 男 性 の 約 7 % が 雇 奉 公 に 出 て い た こ と に な る。 明 治33年 の 『琉 球 新 報 』 は 「娼 妓 の 出 産 地 」 と 題 し て 各 間 切 の 娼 妓 の 数 を 列 挙 し て い る ㈹ 。 こ れ に よ る と、 浦 添 問 切 は 西 原 間 切 の 127 人 に 次 い で 第 2 位 の123 人 と な っ て い る 。 旧 藩 時 代 の 身 売 り 人 数 は 明 治 期 よ り さ ら に 多 か っ た と い う か ら、 そ の 悲 惨 さ は 目 を 覆 う ば か り で あ る。 入 め 御 拝 領 墓 の 被 葬 者 た ち で は、 こ の よ う な 時 代 に 入 め 御 拝 領 墓 に 葬 ら れ た 田 ノ は あ ら の 人 た ち は ど の よ う な 状 況 に あ っ た の だ ろ う か 。 入 め 御 拝 領 墓 の 被 葬 者30人 の 年 齢 か ら 考 え て み よ う 。 被 葬 者 の 年 齢 構 成 は 表 1 に 示 し て あ る。 こ の 表 に よ る と、 30人 の う ち 5 人 が 成 人 に 達 し な い 前 に 死 亡 し て い る。 新 生 児 と 幼 児 の 死 亡 数 が 以 外 と 少 な い が 、 こ れ は 幼 い 子 供 が 墓 室 内 に 厨 子 甕 に 入 れ て 葬 ら れ る こ と が 少 な い か ら で あ ろ う 。 成 人 の う ち、 年 齢 が お お む ね 判 明 し て い る18人 の う ち、 10人 が40歳 前 後 ま で に 死 去 し て い る 。 40歳 を 越 え て 生 き る こ と が 難 し か っ た こ と を う か が わ せ る。 ま た 、 か ま ど 銘 苅 女 子 呉 勢 = 浦 添 按 司 乳 母 と か め の 妻 呉 勢 の 死 亡 年 (数 え71歳 と80歳) が 厨 子 甕 に 記 さ れ る こ と 自 体 が、 70歳 を 越 え て 生 き る こ と が 希 で あ っ た こ と を 示 し て い る。 入 め 御 拝 領 墓 の 被 葬 者 に は 、 成 人 し な が ら も 実 家 の 墓 に 葬 ら れ た 男 女 が 多 い 。 彼 ら は、 一 つ の 厨 子 甕 に 合 葬 さ れ た 夫 婦 と ち が い 一 人 だ け で 厨 子 甕 に 葬 ら れ て い る。 9 号 の 女 性 は40歳 前 後 で 死 去 し て こ の 墓 に 葬 ら れ て い る 。 三 良 銘 苅 女 子 呉 勢 も 30代 後 半 で あ る 。 3 号 の 女 性 も20∼30代 だ。 ま た、 子 供 を 出 産 し た と 考 え ら れ る 女 性 も い る。 あ む し ら れ 女 子 か め を 生 ん だ 浦 添 按 司 乳 母 呉 勢 の ほ か 、 7 号 の 女 性 (20∼30代)、 ウ シ ( 2 号 、 40∼ 50代 )、 カ ミ (1 号、 60歳 以 上) の 骨 盤 に 前 耳 状 溝i (い わ ゆ る 妊 娠 痕) が あ り 、 経 産 婦 と 考 え ら れ る 。 彼 女 た ち の 多 く は、 子 供 ま で 生 み な が ら 離 婚 に よ っ て 実 家 に 戻 っ て き た 可 能 性 が 高 い。 特 に 9 号 の 女 性 は、 洗 骨 に 際 し 専 用 の 厨 子 甕 が 調 達 さ れ ず に 間 に 合 わ せ の 荒 焼 壼 に 納 骨 さ れ、 銘 書 も な さ れ た な か っ た こ と に、 田 ノ は あ ら の 銘 苅 に お け る 彼 女 の 地 位 の 低 さ を 暗 示 し て い る 。 成 人 し た も の の 妻 を 嬰 る こ と が で き な か っ た と 考 え ら れ る 男 性 も い る 。 6 号 の 男 性 は 40 歳 前 後 で 死 亡 し た が、 水 甕 を 転 用 し た 厨 子 甕 に 一 人 だ け 納 骨 さ れ、 銘 書 も な い。 身 売 り に よ る 雇 奉 公 で 妻 を 嬰 る こ と が な く、 実 家 に と ど ま っ た 可 能 性 が 高 い。 こ の ほ か、 骨 折 や、 骨 に 影 響 を き た す ほ ど の 病 気 を 患 っ た 者 が 4 人 い た。 か ま ど 銘 苅 の 妻 は 右 腕 の 擁 骨 に 骨 折 痕 が あ り、 7 号 の 女 性 は 右 擁 骨 と 右 脛 骨 に 骨 折 痕 が あ っ た。 彼 女 の 一 24 一

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沖 縄 県 女 性 史 研 究 第 2 号 (1998) 右 足 す ね の 骨 折 は 重 傷 で、 そ の 後 も 右 足 に 傷 害 を 負 っ て 生 き て い た と 考 え ら れ る 。 成 人 女 性 の 二 人 の 骨 折 痕 は 、 彼 女 た ち の 労 働 あ る い は 日 常 生 活 が 危 険 で 厳 し か っ た こ と を う か が わ せ る。 3 号 の 女 性 は20 ∼30代 の 若 さ で 死 亡 し て い る が、 そ の 頸 骨 に は 髄 膜 炎 の 跡 が あ り、 こ の 病 気 が 死 因 で あ っ た と 思 わ れ る 。 う し 親 富 祖 (男 性) も 頭 蓋 骨 に 病 変 が 認 め ら れ て い る か め の 妻 呉 勢 は 、 身 長138cmと 大 変 小 柄 な 女 性 で あ っ た こ と が 骨 か ら 推 定 さ れ て い る。 入 め 御 拝 領 墓 の 被 葬 者 女 性 は、 か な り 小 柄 で あ る が 、 か め の 妻 呉 勢 は そ の 中 で も ひ と き わ 小 さ い。 こ の 墓 の 被 葬 者 の 女 性 (5 例) の 平 均 身 長 は143.8cm で、 か め の 妻 呉 勢 を の ぞ く 女 性 は 143 ∼ 146cm で あ る 男 子 ( 2 例 ) の 平 均 身 長 も 1552cm で あ る 。 か ま ど 銘 苅 の 家 族 入 め 御 拝 領 墓 の 被 葬 者 の 系 譜 の 中 で、 家 族 構 成 が ほ ぼ 復 元 で き る の が、 か ま ど 銘 苅 の 家 族 で あ る 。 図 3 に は、 銘 書 の 親 族 関 係 と 洗 骨 年 代、 そ し て 厨 子 甕 型 式 年 代 と 人 骨 年 代 か ら 復 元 し た か ま ど 銘 苅 の 親 族 関 係 を 示 し て あ る 復 元 し た 親 族 関 係 か ら 、 各 世 代 の 親 子 構 成 を み る と、 次 の よ う に な る。 か ま ど 銘 苅 夫 婦 の 子 供 は か ま ど 銘 苅 女 子 呉 勢 と 三 良 銘 苅 の 一 男 一 女、 三 良 銘 苅 夫 婦 の 子 供 は 5 号 ・ 9 号 ・ 10 号 ・11号 ・ 21 号 の 三 男 二 女、 あ る い は、 5 号 厨 子 甕 に 三 良 銘 苅 女 子 か め と 一 緒 に 合 葬 さ れ た 新 生 児 (な い し は 胎 児 ) を 加 え る と、 三 良 銘 苅 夫 婦 の 子 供 は 6 人 と な る。 こ の ほ か に、 他 家 へ 嫁 い で そ の 家 の 墓 に 葬 ら れ た 者 が い る 可 能 性 も あ る の で、 か ま ど 銘 苅 夫 婦 の 子 供 は 2 人 + α 、 三 良 銘 苅 夫 婦 の 子 供 も 5 人 + α で あ る 。 し か し、 入 め 御 拝 領 墓 が 造 営 さ れ た1822 (道 光 2) 年 ま で に は、 三 良 銘 苅 は 死 亡 し、 そ の 子 供 た ち も 次 々 と 死 亡 し た 。 三 良 銘 苅 男 子 の か め は14∼15歳、 か ま 戸 が15∼20代 で 死 亡 し 9 号 の 女 性 ・ 10 号 呉 勢 も 30 代 あ る い は 40 歳 前 後 で す で に 死 亡 し て い る 。 そ し て、 入 め 御 拝 領 墓 の 落 成 式 の 時 に は か め だ け が 生 き 残 り 呉 勢 を 妻 に 迎 え て い る 。 か め の 妻 呉 勢 は 当 時32 歳 に な っ て お り、 そ の 子 と 推 定 さ れ る 松 川 ノ か ま 戸 は ま だ10代 で あ っ た。 こ の ほ か、 親 富 祖 系 で は 親 富 祖 筑 登 之 夫 婦 が 健 在 で あ っ た 。 呉 勢 と 浦 添 家 最 後 に 、 か ま ど 銘 苅 女 子 呉 勢 = 浦 添 按 司 乳 母 の プ ロ フ ィ ー ル と、 彼 女 と 浦 添 家 の 関 係 を 紹 介 し た い 、 呉 勢 は 、 1750 (乾 隆15) 年 に か ま ど 銘 苅 の 女 子 と し て 生 ま れ、 満70歳 の 長 寿 で1820 (嘉 慶 25) 年 に 死 去 し て い る。 小 柄 で 華 奢 な 体 つ き で あ っ た こ と が 骨 か ら 指 摘 さ れ て い る 。 一 25 一

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呉 勢 は 浦 添 按 司 の 乳 母 を つ と め た 。 呉 勢 が 乳 母 を し た 浦 添 按 司 は、 浦 添 朝 英 だ と 考 え ら れ る 。 朝 英 は、 浦 添 家 一 世 朝 央 の 子 と し て1781 (乾 隆47) 年 に 生 ま れ た。 朝 英 が 生 ま れ た 時、 呉 勢 は 満32歳 と な っ て お り、 そ の こ ろ に 朝 英 の 乳 母 と な っ た と 考 え ら れ る。 と こ ろ で 呉 勢 に は 幼 く し て 天 逝 し た 娘 が い た 。 浦 添 按 司 朝 央 の 乳 母 が 「新 里 あ む し ら れ」 と 呼 ば れ て い た 事 例 か ら す る と、 16号 厨 子 甕 の あ む し ら れ 女 子 か め の 「あ む し ら れ」 と は 浦 添 按 司 乳 母 を つ と め た 呉 勢 の こ と だ と 考 え ら れ る 。 か め が 呉 勢 の 子 で あ る こ と は、 か め の 厨 子 甕 が 呉 勢 の 側 に 寄 り 添 う よ う に 配 置 さ れ て い る こ と か ら も 裏 付 け る こ と が で き る 。 呉 勢 は 結 婚 し 女 子 を も う け た も の の、 離 婚 に よ り 実 家 に 戻 っ た 可 能 性 が あ る 。 呉 勢 の 娘 か め は、 骨 か ら 3 歳 前 後 で 死 亡 し た こ と が 判 明 し て い る。 か め の 出 生 年 は、 呉 勢 の 10代 後 半 以 後、 つ ま り、 1760年 代 後 半 以 後 で あ る。 ま た、 厨 子 甕 型 式 の 年 代 か ら1787 年 以 前 に 死 亡 し た と 算 出 で き る 。 つ ま り、 か め は、 呉 勢 が16∼38歳 ま で の 間 に 生 ま れ た 子 と い う こ と に な る 。 お そ ら く、 呉 勢 は32歳 頃 に か め を 出 産 し た が、 か め が ま も な く 死 亡 し た と い う 事 情 が あ っ て、 浦 添 按 司 朝 英 の 乳 母 に 選 ば れ た の で あ ろ う。 浦 添 家 が 伊 祖 村 の 女 性 を 乳 母 に し た の は、 浦 添 問 切 が 浦 添 家 の 所 領 だ っ た か ら だ ろ う が、 呉 勢 と 浦 添 按 司 家 と の 問 に は 、 田 ノ は あ ら の 親 富 祖 系 で 社 会 的 地 位 も 高 か っ た 前 親 富 祖 親 雲 上 が 仲 立 ち を し た の で あ ろ う 浦 添 家 は、 尚 穆 王 の 第 二 子 尚 図 (浦 添 王 子 朝 央) を 祖 と す る 家 系 で あ る。 朝 央 は 浦 添 間 切 総 地 頭 か ら 摂 政 に ま で 昇 り 、 王 子 ク ラ ス と な っ た。 朝 央20歳 時 の 第 二 子 が 朝 英 で、 そ の 乳 母 が 呉 勢 で あ っ た 。 朝 英 は1781(乾 隆46) 年 に 生 ま れ た が、 按 司 身 分 の ま ま で わ ず か28 歳 で 1808 ( 嘉 慶13) 年 に 死 亡 し た 。 朝 英 25歳 の 時 に 朝 悪 が 生 ま れ て い る 。 呉 勢 の 死 去 に と も な い 、 田 ノ は あ ら が 浦 添 家 か ら 入 め を 拝 領 し て 墓 を 造 営 し た の が1822 (道 光 2 ) 年 と 考 え ら れ る か ら 、 入 め を 支 給 し た の は 朝 憲 で あ る。 そ の 時 朝 憲 は ま だ18歳 で 、 父 朝 英 が 亡 く な っ て か ら も う14年 も 過 ぎ て い た。 こ う し た 経 過 か ら、 呉 勢 は 朝 英 の 死 去 後 も 長 く 浦 添 家 に 奉 公 を 続 け 、 浦 添 家 の 人 々 と 厚 い 信 頼 関 係 で 結 ば れ て い た と 考 え ら れ る 。 , 6 入 め 御 拝 領 墓 の 最 後 田 ノ は あ ら の 銘 苅 の そ の 後 の 系 譜 関 係 は 明 瞭 で は な い が、 か め 夫 婦 の 子 と み ら れ る 松 川 ノ か ま 戸 夫 婦 を へ て 、 ウ シ で 終 わ っ て い る。 ウ シ の 洗 骨 は、 厨 子 甕 型 式 年 代 か ら み て、 1912 ( 大 正 元 ) 年 に 洗 骨 さ れ た カ ミ よ り も 後 の こ と で あ る。 松 川 ノ か ま 戸 夫 婦 以 後 は く 夫 婦 と み ら れ る 男 女 の 合 葬 も 行 わ れ て い な い 。 一 26 一

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沖 縄 県 女 性 史 研 究 第 2 号 (1998) 浦 添 家 か ら 入 め (経 費 ) を 拝 領 し て、 盛 大 な 落 成 式 を お こ な っ た こ の 入 め 御 拝 領 墓 も 、 ウ シ の 洗 骨 を 最 後 に 二 度 と 使 わ れ る こ と は な か っ た。 戦 後 は 墓 へ 参 る 者 も な く 、 墓 庭 も 荒 れ る に ま か さ れ、 雑 木 林 に 埋 も れ て、 1993年 に こ の 地 に マ ン シ ョ ン 建 設 計 画 が 立 て ら れ た 時 に は 無 縁 墓 と な っ て い た 。 こ の 墓 地 は 造 成 工 事 で 削 ら れ、 跡 地 に は マ ン シ ョ ン が 建 っ て い る

(1)浦 添 市 教 育 委 員 会 1996 『伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 』 (2)浦 添 市 教 育 委 員 会 1997 (3)浦 添 市 教 育 委 員 会 1981 『浦 添 市 史』 第 2 巻 資 料 編 1 (4)球 陽 研 究 會 編 1974 『球 陽 』 原 文 編 357 頁 (5)球 陽 研 究 會 編 1974 『球 陽 』 原 文 編 257頁 (6)浦 添 市 教 育 委 員 会 1981 『浦 添 市 史』 第 2 巻 資 料 編 1 (7)浦 添 市 教 育 委 員 会 1981 『浦 添 市 史』 第 2 巻 資 料 編 1 (8)浦 添 市 教 育 委 員 会 1981 『浦 添 市 史 』 第 2 巻 資 料 編 1 (9)球 陽 研 究 會 編 1974 『球 陽 』 原 文 編 437 ∼ 438 頁 O(》球 陽 研 究 會 編 1974 『球 陽 』 原 文 編 440 頁 ⑳ 浦 添 市 教 育 委 員 会 1981 『浦 添 市 史』 第 2 巻 資 料 編 1 ㈱ 『明 治 13年 沖 縄 県 統 計 概 表』 ⑬ 浦 添 市 教 育 委 員 会 1981 『浦 添 市 史』 第 2 巻 資 料 編 1 r伊 祖 の 入 め 御 拝 領 墓 の 厨 子 甕 と 被 葬 者』 183 頁 184頁 184∼ 185頁 187頁 268頁 286頁 (浦 添 市 教 育 委 員 会 安 里 進 : あ さ と す す む) 一 27 一

図 2 入 め 御 拝 領 墓 被 葬 者 の 生 存 期 間 ↑ 親 富 祖 系 1700 1720 1740 1760≡←1709年 の 大 飢 饅 1780 1800 1820 1840 1860羅蕪藝難185 、叢欝叢慧蓑蓑 難 灘藁難i難難i霧13 号 b女 性 藝 i 、墾 璽 鑑錘糠 鑛 … 霧 三蘂 、 蓑 難 藻 蕪 灘 鍵難篶1 8 1 9≡1 ≡1761≡←1772 年 の 疾 病 大 流 行 14号a 松 親 富 祖 1862 22 号 a 男 性 1880 1900 22号b 女
図 3 は、 銘 書 に よ る 親 族 関 係 と、 厨 子 甕 配 置 に 反 映 さ れ た 親 族 関 係、 お よ び 被 葬 者 の 推 定 生 存 期 間 か ら 復 元 し た 田 ノ は あ ら の 銘 苅 系 の 親 族 関 係 を 示 し た も の で あ る 。 銘 書 か ら 明 確 な 関 係 は 実 線 で、 推 定 に よ る も の は 破 線 で 示 し た 。 こ の 系 図 に 示 し て い な い 銘 苅 系 の 後 半 期 の 被 葬 者 た ち や 親 富

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