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 一部落問題への取り組み一

 S高校で部落問題への取り組みが始まったのは、兵庫県において同和 教育行政が「転換」される以前であった。すなわち、同和教育行政自体 が理論的には解放運動に学び、解放運動と連帯・連携して推進された非 常に困難な時期であった。この行政の主体性や政治的中立性が確立され ていなかった時期において、同校ではどのような基本的考えのもとに、

どのような取り組みが行われたのであろうか。また、行政の「転換」後、

それはどのように変わっていったのであろうか。この間の経過について は、同校の橘 良子教諭が、「さしたることではなかった」(正編及び 続編)と題する詳細なメモ(以下、「メモ」)を残している。本章では、

この「メモ」を手がかりに、これらを検討していきたい。

第1節 校内における取り組み

(1)前史一「部落研」設立  ア、経過

 S高校の部落問題への取り組みは、昭和45年(1970)2月の中山逸文教 師(実習助手)による「部落研」設立をもって始まる。

 その頃、S高校では、教育と訓練の異質さから連携教育の矛盾が深ま っていた。訓練校では体罰を含む管理主義的な指導が行われ、S高校の 教師が知らぬ間に生徒が退学になるなどということも起こっていた。ワ

ンマンな管理職は若い教師をあごで使い、生徒の不満は鯵積するなど、

いわば八方塞がりの状況であった。

 この学校を日本一の学校にしたい、との重き過ぎる願いを持っていた 中山教師にとって、前述のような湊川高校等における当時の生徒の「立 ち上がり」は、すばらしい出来事に映ったにちがいない。中山教師は、

そういった動きがいち早く波及した姫路市内の飾磨高校において、暴力 的な状況や教師の指導性が失われている状況のあることを知り、教師の 指導によって部落出身生徒のエネルギーを正しく組織し、学校を民主化

しようと計画した。ちょうどその折り、別のある教師の授業をめぐって 生徒から強い不満が出されたのを機に、中山教師は動きの中心にいたあ

る部落出身生徒の「掘り起こし」に取り組むようになる(いっしょに寿 司を食べながら部落研の結成を勧めたりした)。それが功を奏し、その 生徒と、同じクラスのもう1人の出身生徒が核になって、たちまち数人 の生徒が組織され、部落研が誕生した。この間、中山教師は、学校をや めていった出身生徒を復学させるべく、家庭訪問をも重ねている。

 しかし、そうした活動はすべて、職員会議はおろか、他の同僚教師に も充分相談しようとしない、いわば個人プレーの活動であった。

 当初、部落研は、地道な学習やクラスをまとめる活動をしていた。交 通事故にあった級友の見舞を集める提案をし、それについてクラス全員 の賛同を得るために取り組むなど、生徒たちは生き生きとしていた。だ が、そういった状況はわずかの期間で終わりを告げる。そのきっかけは、

当時飾磨高校、姫路商業高校の「闘争」を指導していた部落の青年達

(「姫路部落研」)の中心人物Kと、S高校の部落研生徒が喫茶店で偶然 出会ったことにあった。それ以降、生育歴の「語り」をやれ、生徒総会 を開かせて「育友会闘争」をやれ、などといった姫路部落研の指導が始 まる。最初は受け入れようとしなかった2人の生徒が、「一般の者は敵 だ」「おまえらは教師に利用されている」などの言葉に影響されて彼ら

に従い、融師の指導を拒否し始めるまでにはそう時間はかからなかった。

生徒たちの目の色が変わった。

 それ以後の生徒との話し合いは、半ば糾弾のようであった。「おまえ らのような顧問はいらない、校長がなれ」、「おまえらは差別者だ、差 別者だと認めよ」……。部落研設立に奔走した中山教師は、思いもかけ ない事態の悪化と、それを引き起こした自分の責任の重さのために、苦 しみのどん底に突き落とされた。狂気の1歩手前であったという。しか し、何を言われても、答えられなくなると天井を睨み黙秘で頑張り続け た。そして、その苦しみの中から誤りを悟った。そこから死に物狂いで 失敗を挽回しようとすべく、獅子奮迅の活躍が始まる。これが後のS高 校の様々な取り組みの出発点になっていくのである。

 イ、 「転んでもただでは起きない」

 「メモ」は語る。

  学校の民主化は、本来、基本的には教師集団の力によって少しずつ   行われるものである。そのたあに全体を統一していく地道な努力を   放棄し、生徒の力を借りることによって、明日にでも飛躍が可能で   あるかのように夢見た。焦りから出た、思い上がったひとりよがり   であった。……失敗をエネルギーに、「転んでもただでは起きない」

  ことが大切であると思う。「掘り起こし」、排外主義の影響、指導   を貫徹しなかったこと等、後の教師糾弾につながる重大な失敗であ   つた。しかし、私たちは深刻な反省から、二度と繰り返さないため   の教訓を身にしみて学ぶことができたと思っている(1)。

 ここから導き出される教訓は、学校に生起する諸問題を解決しようと するとき、基本的には、それは「教師集団の力」によってなされるべき

であって、決して外部の力や「生徒の力を借りる」ことを解決の主眼に おいてはならない、ということであろう。これから述べるS高校の様々 な取り組みは、失敗をバネに、まさにこのことを実現していった取り組 みでもある。

(2)「育友会闘争」の始まりとA教師問題  ア、経過

 S高校で「育友会闘争」が始まったのは、昭和45年(1970)のことであ る。その経緯は次の通りであった。

 昭和45年8月下旬、外部の解放団体である姫路部落研及び同校部落研 と同校の全教師との話し合いが持たれたが、その席上で次のことが問題 となった。すなわち同校では、昭和43、44年度、全教師が育友会から10 00円と1500円ずつ研修費を受け取っていたが、それが他校で追及されて いるのを知るに及び、研修費は昭和45年4月に返済されていたのである。

当然ながら、そのことに対する説明が求められた。

 このことを皮切りに、2学期になった9月8日には部落研生徒のほと んどがいるクラスで、授業中の担任と職員室から呼び出された校長以下

3名の教師に対して、「教師は泥棒だ!」と生徒側が追及する事態とな った。校長は意識を失いかけるほどの衝撃を受け、一言も発することが できなかったという。

 翌9日、ある教師が部落研の生徒と話している際、「紛争」という言 葉を使ったことが「差別」であるとされ、姫路部落研のKらが来校、そ の教師らを追及するという事態に発展。

 10日、学校側は研修費の件を全生徒に説明するためHRを持つが、あ るクラスでは部落研の生徒が他のクラスにまで入って行って教師を追及

するというようなことも起こる。

 11日、部落研生徒を中心に教師追及のための生徒総会開催の動きがあ ることを知った同校教師たちは、学校側の主導で生徒集会を開催する。

冒頭での校長の説明は部落研生徒の激しい追及を浴び、集会はたちまち 教師糾弾の場と化した。「泥棒!」「辞めてまえ!」「土下座して謝れ

!」「死ね!」などという怒号のなか、教師は前に並んで座らされ、マ イクを手にした部落研生徒に1人ずつ詰問されていった。教師が何を答 えてもそれがまた新たな追及の材料となった。取り囲まれた教師たちに いまにも暴力が振るわれそうになる。

 12日、集会2日目、授業への生徒の不満が強かったA教師に厳しい追 及が集中する。 「お前はお母さんがいないのか、家庭環境がわるいんや なあ」という部落研生徒への発言が「差別」であるとして糾弾され、教 師の資格がないとして激しく辞職を迫られた。「辞あてもろた方がええ 者、手を挙げろ!」の声に、生徒は一斉に手を挙げる。返答に窮したA 教師が「校長に身柄を預ける」と答えると、壇上の校長は部落研生徒に 詰め寄られ、ついに「個人的には辞めてもらった方がよいと思う」と回 答してしまう。さらに追及に押された校長は、「明日、A先生を同行し て県教委に行き、処置について指示を受ける」という確認書まで書いて

しまう。

 この非常事態を受け、翌日休日にもかかわらず開かれた職員会議では、

「どんな場合にも一番追及を受けやすいと見られる教師はいる。A先生 がいなくなれば次の誰かが狙われる。r明日は我が身』かもしれない。

追及を受けた人1人の問題ではなく、全体にふりかかった問題である。

当面の保身のためにA先生を辞めさせることに同意すれば、かえって全 体が危険にさらされることになる。そうなれば自分の身は自分で守るし

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