この実践について臼井寿光氏は、同校が他校と比べて「数段すぐれた 成果をあげることができた」のは、「(教師)数名でその時その時の全職 員の統一点が何かを徹底して事前討議し、それを職員会議に提起し、主
としてその方針で全職員が団結し、その結束が乱れなかったこと」(13)
が原因であると述べているが、この数名こそ、中山教師、橘教諭、八木 教諭らにほかならない。
一方、前節でもみたように、姫路商業高校では、「座っていた校長、
教頭をめがけて何十人もの生徒が殺到し、つきとばされてけがをする」
「若い男性教師のほぼ全員が暴行を受け、なかには肋骨を折られた教師 もいた」(14)のをはじめ、生徒がHRでの発言をとがめられて前歯を 折られる、すもうと称して教師が何人もの生徒になぶりものにされる、
といった暴力が横行して、学校は荒廃の極に達していた。しかし、糾弾 への怖れから、このような事実は隠され、暴力の背景が問題などと理屈 をつけて免罪されていた。同校に限らず、暴力の事実を公然と明らかに
し、問題にした取り組みは当時では絶無に近い状態であった。
ウ、 勇気
そのような状況下にあって、暴力を許さないという一点に全力を傾注 したS高校のような取り組みは、それこそ決死の勇気を要したことであ ろう。この 勇気 について臼井氏は、「不当な介入との闘いをはじめ るにあたって我々の側に必要とされることの第一は、 勇気 である。
(中略)たしかに糾弾されるということは恐ろしいことであり、気が弱 くなるものである。そのことはたしかにさけがたい。私はそれを闘いの はじめに克服しなければ闘えないなどということをいっているのではな
い。自分たちがその点で弱いものであるということを認めること、そし てその上でやはり闘わなければ、…という基本的な勇気が必要だ」(15)
と述べている。
では、その 勇気 を生み出すさらなる根源は何であろうか。それは、
自分の権利が侵されるのはどうしても我慢がならないという強い強い思 いではないだろうか。自己の尊厳が冒されてなるものかという凛とした 自尊感情ではないだろうか。同校の中山教師は、姫路同和教育研究サー クルに向けてのレポートのなかで、暴力と強制を阻止できた秘密を次の ように述懐している。「その時は、無我夢中であったが、いまふりかえ ってみると、『あんな無法ものに自由にされてたまるか』というそうい うとき、心の奥底に誰でもがいだくr自由への渇望』の組織化であった。
げにr自由と独立』ほど尊いものはなかった」(16>。
さらに 勇気 について考える。
S高校職員はまさに 勇気 を持って「毅然とした態度」をとったわ けであるが、それができた理由として、臼井氏は次の諸点を挙げている。
①部落研生徒が全校で孤立化している。
②生徒の自主的活動の高まり。
③中心メンバーが部落問題を本質的に理解していたこと。
④彼らと闘うということは、部落解放運動の利益を守ることであるとい う確信を全体がもっこと、等々(17)。
中心メンバーとは、中山教師、橘教諭らを指す。この指摘からも、中 山教師らが 勇気 を持ちえたのは、部落問題で暴力を振るい、教育現 場を破壊することは、差別拡大運動であり、部落解放運動にとって百害 あって一利もない、という強い確信があればこそであったことがうかが
われる。
また、①と②については、中山教師らは、この非常事態を乗り切るた めに、次のような考えのもとに、以下のような取り組みをしているので、
そのことも合わせて述べておきたい。すなわち、当時の状況で、まず大 事なことは、部落研生徒を孤立させることであった。そのためには、彼
らに他の生徒が付和雷同するのを防がなければならない。それには、ま ず、職員全体でこれはというしっかりした自覚的な生徒を選出し、その 生徒が生徒会役員になるようはたらきかける、そして、暴力や強制に反 対できるようなしっかりした人間になるよう指導する、ということが必 要であった。そのため、毎日曜日は、その生徒たちとの話し合いに当て
られたのであった。この取り組みの結果、S高校では、糾弾集会におい ても、その生徒たちが、「先生は差別者ではない」と発言してくれ、他 校にみられたような拡大は避けられたのである。これは、中山教師らが
よほどしっかりしていだからこそ、できたことであろう。
エ、「必要欠くべからざる妥協」(二)
さて、優先入学問題に話題を戻す。
経過②で、職員会議において「姫路部落研に対しては、暴力が予想さ れる、学校内部の問題である、差別ではない、などの理由で会わないこ とが決められた」にもかかわらず、「17日、姫路部落引書数名が来校、
予想に反し生徒といっしょに1人、2人とやって来たため、ふんぎりが っかず、ずるずると『話し合い』に引き入れられてしまう」という場面 があった。その際、橘教諭は、最初の決定通り話し合いを拒否する具体 的な行動を取るべきだと考えていたが、中山教師に部屋の外でたしなめ られている。中山教師は、「1人がそういう行動を取れば、追及がそこ に集中すると同時に、全体がそれに対する見解を問われ、意志統一が二
れてしまう」と考え、瞬時に現実的対応に切り換えたのである。「メモ」
は、「私たちは最初、実は力量以上の決定をしていたのである。無理に それを貫こうとしていたなら、危険:な状態になっていたかもしれなかっ た」と述懐している(18)。これも「必要欠くべからざる妥協」といえ
るであろう。
このように同校では刻々と変化する状況に対して、無理のない現実的 で柔軟な対応がとられている。しかし、ある者が「教頭の椅子を蹴り、
つかみかかろうとしたとき、期せずして全員が一斉に立ち上がり、阻止 した」り、平静な話し合いとなってからも、彼らが「竹刀やベルトを振 り回したのは強制だと思ったか」と教師1人ひとりに質問してきたのに 対し、 「教師たちは全員異口同音に『強制だ』と答えて職員会議決定を 譲らなかった」りと、暴力や強制という1点に対しては1歩も譲ってい ない。さらに、「地域の有力者に頼んで彼らを押さえてもらってはどう か」という提案がなされたにもかかわらず、「今度だけは自分たちでや ってみよう」と、あくまで自力で、事務職・校務員まで含めた職員集団 の力で対処しようとしたのである。先に 勇気 について述べたが、そ れがどれほど大変なことか想像に余りある。これらのことが功を奏し、
「これ以後、話し合いの強要は影をひそめ、Kらも公然とは来校しなく なった」という結果につながったのである。歴史的にみれば、それまで 破竹の勢いで「進撃」してきた「解放教育路線」と呼ばれる人たちの最 初のつまずきであったといえよう。
オ、 「校長を含む統一」(一)
もう1つ見落としてはならない重要な要素に、当時の県の同和教育行 政の状況がある。すでに第2章で述べたように、「優先入学」問題が起
こった昭和45年当時は、 「兵庫県における同和教育行政は、国の同対法 制定という法的根拠を背景として、県政の重要課題として強力に推進さ れたが、理論的には運動に学び、運動と連帯・連携して推進されたため、
行政の主体性としては確立していなかった」(1g)といわざるをえない 状況であった。しかも、経過①の時点では、「県教委は、後の入試要項 311項となる見解、すなわち優先入学を認めるという見解を、すでに秘 密裡にではあるが発表して」いたし、さらに、翌年の経過③の時点では、
先の東上論文にみられるように、「要求に屈した県教委は、同校が職業 訓練校と関係があるところがら、r優先入学』とは表現していませんが、
r正しい配慮を加える』ことを学校側に求め、本年3月13日の教育長通 達で、同校にかぎっては事実上のr優先入学』を認めることを表明」し ていたのである。
このような状況下にあって、「もし、ボーダーラインでの優先入学の 是非を問題にし、b項への反対に固執すれば、真っ先に管理職を、した
がって管理職に近い人たち一この場合は大多数の職員一を向こうに回す ことになり、(a)と(c)の決定も不可能になり、暴力と強制を全職 員でやめさせるという最も切実な、最大の課題は達成できなかったであ
ろう」ことは火を見るよりも明らかである。県教委の態度や、訓練校に おける「優先」の事実も、現実には無視できるものではない。
ここに我々はS高校の教育実践を貫く大きな原則をみてとることがで きる。それは、大事なときであればあるほど、「校長を含む統一」を常 に模索している、ということである。校長と一致できなければ、校長に 不利益をもたらすならば、やらない、という基本姿勢がそこでは徹底さ れている。そこが後に八鹿高校事件という大惨事を招いた八鹿高校と決 定的に異なる点である(このことについては、後に項を改め詳述する)。