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18):倉橋惣三9会名変更と改題を中心にして」『幼児の教育』(第30巻第5号)、H本幼稚園   協会、昭和5年、P.13

19)倉橋惣旧著ギ子供讃歌」『倉橋惣三選縞織1巻』、フレv一一一ベル館、昭和56年、p.178 20)同上書、p.179

21)属本幼稚園協会『幼児の教育』(第65巻第8号)、日本幼稚園協会、昭漁駁年、p.!5 22)日本幼稚園協会『幼児の教育』(第30巻第12号)、H本幼稚園協会、昭和δ年、 p.64 23)堀七蔵ヂ昭和はじめの附属幼稚園と幼児教育界」『幼児の教育』(第65巻第8号)、R本

幼稚園協会、昭和41年、pp. 8−15

第3章 東基吉における幼児造形のかたち・遊戯を利用した手技

 この章では「幼児の教翻誌の歴代編集者の視点から提唱された保育論を抽出し、掲載 された造形に関連すると考えられる記事を通して、当時どのような理念の下で造形が捉え られていたかという造形の教育的概念の形成を明らかにすることを目的とする。

 本章の項露立てで「かたち」としたのは、次のような造形に対する観点を指すものであ る。それは造形の背景となる幼児教育の思想、理念との関係、教材内容や指導のあり方、

造形的な幼児の活動や表現等の相互作用的な関係を捉えた概念である。

 以上の観点から、この章を眺めるとき、まず、歴代編集者が企図した記事によって保育 法の構造に注目し保育構造がどのように構築されてきたかを追う必要がある。

第1節 東基吉の幼児教育観と造形のかたち

 既にみてきたように、東が編集の主幹に関わった時期の本誌の誌名は、婦人と子ども」

であり、東が編集主幹として編集に携わったのは、明治34年の第1巻第1号から明治40年 忌7巻第12号までの7年間である。しかし、この僅かな気密に恩物改良の提言から今碍の 幼児造形の理論的根拠ともいうべき幼児造形の形成に関して、注渥すべき批判や見解を伺 うことができる。中でも、東の執筆記事逆児保育法にっきて」から始まる露玉の幼稚 園保育法につきて」「幼稚園案内」がそれに該当し、策の幼児教育思想とそこから派生す る幼児造形(手技即恩物)のかたちを見定めることができる。

 以下、東の幼児教育観とそこから派生する幼児造形のかたちを捉えてみよう。

1、東基吉の幼稚園観一保育の要旨一

 東の幼児教育に関する考え方が最も容易に読みとれる記事は「幼稚園案内」である。中 でも、鴫人と子ども3誌(第3巻第10号)に掲載されている拗稚園案内(承前)」であ る。この記事はページ数にして、4ページ余りであるが、幼稚園に焦点を当て、東の幼児 教育観を明瞭に読むことができる。その内容(項鼠立て)は「幼稚園の種類」「幼稚園の 本旨」腺育の要旨」で構成され、保育に対する誤った捉え方(保育上誤謬の見解)を批 判する形で論述されている。以下、その要旨に添って考察してみよう。

(1)幼稚園の種類と本旨

 東は幼稚園をどのようにみていたか、「幼稚園の種類」と「本旨」を述べた記事からみ てみよう。

 まず、当時のR本の幼稚鑛と外国の幼稚園を比べ、「現在R本幼稚園の種類と申しても、

一通りのものしかないが、外霞では幼稚園に類したものが種々ある」 )。クリッペンと呼 ばれる幼児施設、そして幼稚学校、幼児預かり所を揚げ、「此三種類は、現今頗る其必要 を認められる様になって、殊に繁華な商工業地に繁畠する様になった我国に於ても、今少 し社会の事情が整頓せられる様になって、労働者の時間等も、ハッキリ制限がつく様にな ると、是非、此種類のものが必要になるだらう」2)と、今Hの保育所へ波及する幼児の教 育機関を紹介している。この種の教育機関とは性質の違う所謂「幼稚園」をキンデルガル テンとルビを付して取り上げるのである。この所謂「幼稚園」が東にとっての「幼稚園」

であることが「幼稚園の本旨」の項で取り上げられ、その見解は次のような論述によって 示されている。

 ト体普通教育といふものは、ある専門の職業教育を受ける為めの土台の教育で、現今 の所では小学を卒へると、夫で宜いのだが、まだ其上の普通教育を受け様とすると、中学 校か高等女学校を卒へねばならぬ、所が其普通教育の最初の小学校に入る、其も一つ前の 教育はといふと、言ふまでもない、家庭教育である、此通り教育といふものはず一つと鎖 の様に繋って居る。

 だからして、其前の教育が甘く行きさえずれば其つS きの後の教育の結果が、自ら甘く 行かねばならぬ。従って家庭の教育が甘く施されると、其後々の教育が自らよくなる。家 庭の教育は即ち一切教育の基礎であって、家庭教育を完全にしなければならぬといふのは、

つゴまる所、一切教育の結果を完全にしょうと云ふが為である」3)

 と家庭教育を「一切の教育」の基礎であるとし、一切の教育を完全にする源流源泉が家 庭教育であると説いている。その上に立って、基礎的教育を施す家庭が不十分であると指 摘し、幼稚園は、家庭に代って教育する所ではないとする。

 このような前提に立って、東は幼稚園における「保育の要勧を次のように説き、次の ように批益する。

(2)保育の要旨と知識教授の批判

保育の要旨として東は二つの観点を重視している。一は訴訟な家庭の薫陶感化といふ

ものは、教育上極めて大切な要素」4)とし、二は9身体を発達させること」(体育)、「道徳 に慣れさせること」(道徳的訓練)、「知識を授けるところ」(知識教授)の方便だとする。

      マ    マ

そして、「之等は侮れも必要な方便で、どッちを重んじどっちを軽んずるといふ訳に行か ない然し時の点から考へると、どうしても、最初の教育には体育が主となり、夫から訓練 が之に加はり次に教授が又加はってくるといふ風になる」5)と論じるのである。この「薫 陶感化」とF体育・道徳・知識」が、東の幼児教育に対する重要な訳解であり、東の教育 思想と捉えることができよう。「薫陶」という言葉に込められる徳を以て、幼児を感化し、

優れた人間の基礎を作ることができるのである。そして、9体・徳・知」がその感化の内 容で、東の教育理念のカリキュラムであったといえよう。ただ、東の理念には、フレーベ ルを始め、外国の自然主義的な教育思想から学び、吸収した教育理念が、国粋的、伝統的

(儒教、仏教的な教え)な教育思想と岡化し、当時の進歩的な教育論の日本的な展開を感 じさせる。しかし、それだからこそ、この東の教育理念が当時の幼児教育に対する見直し と再編をもたらしたと考えられるのである。

 では、東はこのような理念(保育の要旨)の基で当時の幼児教育の何を批覇の対象とし、

見直しを行ったのであろうか。

 東はこの記事の最後に「保育上誤謬の見解」(ほいくじょうまちがったかんがえ)と見 出しを大きくして示し、次のような批判を行っている。

 「知識啓発智力開誘といふことに重きを置いてか》る。夫だから、僅か三つや四つの子 供を捕へて、やれ正方形の辺だの、そらこれはこう云ふ規則にどうするのと、丸で幾何学 の初歩の様な事をやらせたがる」6)

 と、知識の教育に重点を置きすぎることが、果たして適切かと疑問を呈し、知識を重視 することの欠点を指摘するのである。

  「一、大きくなったら、苦もなく分ることを、小さな時に教へようとするから、余計に     骨が折れておまけに無理が勝つ

  二、見た事も、聞いた事もない新しいものを真実理解しようといふには、出血な想像     力が要る。子供には、夫がまだ発達して居ない。夫に絵や侮かでやると、粗漏な、

    問違の多い観念(知識)を構成させることになる

  三、小さな心力を過労させる結果、此時期の教育に必要な身体の発達に悪影響を与へ     る37)

 幼児教育にあっては知識の啓発、知力開誘を:重視することは望ましい保育要旨ではない

と痛烈に批判するのである。

 そのことによって、自然な、自発的な子どもの学びを阻害し、薫陶感化とは程遠い教育 方法であることを指摘したのである。この指摘は当時にすれば、年期的なことで賛否両論 の的となったことであろう。

 それでは、この東の理念からどのような幼児造形形成への派生的な考えが導かれるので あろうか。このことについては「婦人と子ども」誌掲載の「幼児保育法につきて1等の諸 記事で明らかにされている。

2、「手技素論物とする幼児造形に対する見解  「婦人と子ども」比容1巻第1号「幼

々として快活の情に充ちて従事せざるべ

からず」8)とするものであり、「遊戯」と保育項目の関係は表裏一体であり、「遊戯」を離 れて保育活動は成立しないということであり、楽しく快活に活動できる環境を備えていな

ければならないとするものであった。

 このような見解に立つ東が現場で行われている「遊戯」畷話」「唱歌」「手技」をみる と、そこには聞題とすべき点が数多く見られた。東が問題とし、批判したこれらの点は「現

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