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ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報19 第1分冊 (ページ 134-140)

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畝状遺構

60.Om

1 10YR4/3にぶい黄褐色 シル ト を多 く含 む

粘性 弱 。しま り強 炭 化 物・ 礫 を まだ らに含 む 酸 化 鉄 白色 粒 子

5号土坑

B′

トー 60.5m

loYR4/2灰責褐色 粘土質シル 土粒 を多 く含む

 粘性やや強 。しまり中 炭化物 を多 く含む 自色 ,褐 色

■号溝

C′

トー603m

10Y盟/2黒褐色 シル ト 粘性中 。しま り中 小礫・炭化物 ,自 色粒子 をわずかに含 む 10YR3/3暗褐色 砂質 シル ト 粘性弱・ しま り中 多量の砂 をプロック状 に含む 10YR3/2黒褐色 シル ト 粘性中・ しま り中 炭化物 を多量 に含む 小礫 をわずか に含 む 10YR3/3暗褐色 砂質 シル ト 粘性強 しまり中 炭化物をわずかに含 む

A

C 引

1 2 3 4

1

2

3

4 5

10YR4/6褐 粘土質 シル ト 粘性 中 。しま り中 黒褐色土・黄褐色上 を互 層に含む 炭化物・円礫 を含む

25Y3/1黒掲色 シル ト 粘性中・ しま り中 褐色土 をまだ らに含 む 炭化 物 を少量含む 礫 を含む

76Yν2灰オ リープ色 シル ト質粘土 粘性強・ しま り弱 黒褐色土・ 責褐 色土 をまだ らに含む

25Y5/4黄褐色 粘土質 ンル ト 粘性強・ しま り中

7.5Y3/1オ リープ黒色 粘土質 ンル ト 粘性強 。しま り中 緑灰色粘上質土 ブロック・炭化物 をわずかに含む

E′

m

0       1m

10YR3/1黒褐色 シル ト 粘性弱 しま り強 黄褐色上 をまだ らに含む 小礫 炭化物 を少 量含む 新段階理土

10YR4/1褐灰色 シル ト 粘性 中 しまり強 小礫 をわずかに含む 新段階堀方埋土 10YR3/3暗褐色 粘土質 シル ト 粘性 中 。しま り中 白色粒子・黄褐色粘土粒 をわずに含む 新段階堀方埋土

10YR3/3暗褐色 粘土質 シル ト 粘性 中 。しま り中 白色粒子・費褐色粘土粒 をわずかに含  古段階埋土

1号 土坑

1号溝

122

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4ビ

飛 拙騒 ]普 引鰹籠島伊③

古段 階 とほぼ同 じである。

磁器、陶器、土師質・瓦質土器、瓦 など、各種 の遺物が出土 しているが、遺物の量 はさほ ど多 くない。

【11号 溝】(図63・ 64、 図版47)

B‑6・ 7区

で検 出 された溝である。

2層

上面で検 出 されたことか ら、Ⅳ期の遺構 であると判断 した。北側、

東側、西側の

3方

向が撹乱 によって破壊 されているため、全体の形状 ははっ きりしないが、東西方向に延 びる溝 と考 えられ、方向は

N‑63°

Eで

ある。検 出 した長 さは2.4mで、北側が破壊 されているため幅 は不 明である が、残存す る幅 は

110cmで

ある。深 さは

32cm前

後で、断面形状 は逆台形 に近い。検 出 した範囲が狭 いため、 ど ち らに流れていたかは明 らかでない。磁器、陶器、土師質・瓦質土器、瓦、硯 な ど、各種 の遺物が出土 している が、遺物の量 はさほ ど多 くない。

1号

土坑】(図63・ 64、 図版47)

B‑8〜

10区で検 出された土坑である。調査 区の西 よ りの区域では、

 2層

がほとん ど分布 しないので、掘 り込 み面 は明 らかでない。出上 した磁器や陶器の様相か ら、幕末か ら明治初頭 に下 る可能性が高い と考 えられるため、

Ⅳ期の遺構であると判断 した。西側 は調査 区外へ延 び、南東部分が2層の落ち込みに切 られているため大 きさは 不明であるが、本来 は長方形、あるいは隅丸方形 を呈 した もの と考 えられる。残存部分の大 きさは、南北方向で 410cm、 東西方向で280cm、 深 さは

75cmで

ある。埋上の堆積 はほぼ水平である。上部の埋土 には礫が大量 に含 ま れてお り、人為的 に埋 め戻 された ことが確実である。特 に埋±2層には、大 きい ものでは径

20cmほ

どの礫が多 数含 まれている。磁器、陶器、瓦、土師質土器、視 な どが出土 している。 また底面付近で、長 さ約150cmの角材 が出土 している。

5号

土坑】(図62・ 64、 図版47)

C・

D‑3区

で検 出 された。2層上面か ら掘 り込 まれてお り、掘 り込み面か らⅣ期 と判断 される。西側 は米軍 共同溝 による撹乱 により破壊 されてお り、北側の一部はピッ ト3に より切 られているため、全体形状 は不 明であ る。残存部分 の最大長50cm、 深 さ約

34cmで

ある。遺物 は出土せず、遺構の性格 も不明である。

【1号石列】(図63、 図版46)

1号

溝 の南側の

D‑9区

で検 出された もので、長軸 の大 きさ15〜

25cm程

度の川原石 を一列並べた ものである。

2層上面で造 られてお り、Ⅳ期 とした。北東 一南西方向に延びてお り、方向はN‑58°

Wで

ある。両側 とも撹 乱 によって破壊 されてお り、残存 していた長 さは1.15mで ある。石列 をはさんで両側の2層上面の標高 は、特 に 変わることもない。遺構 の性格 は判 らない。

(3)/1ヽ

検 出遺構 の報告の最後 に、各時期の遺構 の様相 について簡単 にまとめるとともに、い くつかの問題点 を指摘 し てお きたい。

江戸時代以前の遺構 は、縄文時代の陥 し穴 になる可能性のある土坑が挙 げ られるだけである。他 にも古代の遺 物が出上 しているが、遺構 は見つかっていない。いずれにせ よ、江戸時代以前 には、遺構 ・遺物 はわずかで、 こ の地点の利用 は、限定的であった と考 え られる。

江戸時代以降は、各時期 を通 じて、様 々な遺構が造 られる。整地層 との関係か ら、I期か らⅣ期 に区分で きた。

この内のⅣ期 は、明治時代 に入 って、武家屋敷が取 り払われた時期 と考 え られる。畑の畝状の遺構が検出されて お り、他の遺構 は少 ない。Ⅳ期 については、屋敷が取 り払われて以後の様子 を示すので、 これ以上の検討 は、特 に加 えない。以下では、江戸時代 の武家屋敷 として使 われていた と考 え られる、

 I期

か らⅢ期 について、若千の 検討 を加 えてみたい。

I期か らⅢ期の遺構 を比べ ると、各時期 によって、遺構の様相が異 なっている。その内容 を考 えるにあたって、

今 回の調査 区が、絵図に見 られる屋敷地の区画の中で、 どの ような位置にあたるのかを検討 してお きたい。

本章の

1.(2)に

おいて、調査 区の位置が、城下絵 図で示 された どの場所 にあたるか を検討 した (図15)。 東 を裏下馬通、西 を大堀通、北 を亀 岡通、南 を中ノ坂通 に囲 まれた、方形の区画の中に、今回の調査 区が入 ること は間違 いない。その中での詳細 な位置関係 については、道路 の位置が特定で きていない ことか ら、明確 でない。

南北方向の裏下馬通の位置 は、千貫橋 の位置か らほぼ確実であるが、それ以外の道路 については、詳細 な位置 を 推定す ることはで きない。特 に、東西方向の道路の位置は、推定する手掛か りが まった く無 く、おお よその位置 を示 したにす ぎない。そのため全体 の位置関係か ら推測す るに留 まるが、四方 を道路 に囲まれた区画の中で、東 西・南北 ともに、道路 に近い ところとは考 え難い。道路か ら内側 に入 った、奥 まった ところに位置す る可能性が 高い と考え られる。

今 回の調査 区では、 Ⅲ期の東側 を除 くと、建物跡が極めて少ない。特 にI期は、区画施設 と考 え られる溝以外 には、遺構が極めて少 ない。 Ⅱ期で も調査 区の各所で ゴミ穴が検 出されてお り、表の主要 な建物が造 られた場所 でないことは確実であろう。 この ことは、今 回の調査区が、屋敷地の裏手の、あま り建物が建 て られていない区 域であったことを示す可能性がある。絵図の検討結果 と、 この ような遺構 の様相 は、おお まかには対応す るもの と考 えて良いであろう。この ように考 えた場合、調査区の中に屋敷地の境界が入 って くる可能性が高い。しか し、

屋敷地 を区切 る区画施設 と考 え得 る遺構 は、I期か らⅢ期 を通 じて、あ ま り検 出されていないことは問題である。

I期

の12号溝、 Ⅱ期の22号溝、 Ⅲ期の

1号

柱列・

2号

柱列 などが屋敷 を区画する施設 になる可能性がある遺構 で ある。 これ らだけで、江戸時代の全 ての期間を通 じて区画 していた と考 えるには、その数が少 ない と言わざるを 得 ない。 この点に関 しては、屋敷の境 となる施設 を、道路 に近い表側 はともか く、裏手の部分で どれだけ整備 し ていたのかについて、改めて考 えてみる必要があるだろう。必ず、溝や塀 で区画 していたのか どうかは、再検討 の必要がある。簡素 な区画施設や、生 け垣 な どが使 われていた場合、発掘調査でその痕跡が検 出で きるか どうか 問題である。考古資料以外の様々な面か ら、今後検討 を加 えてい く必要があるだろう。

調査区が位置する と考 え られる四方 を道路 に囲 まれた区域 は、大 きくは

4つ

に区画 されている (図16。 17、

6)。 今 回の調査で検 出 された遺構 との関係で注 目されるのは、南東の区画である。 この区画 は、延宝

6〜 8年

(1681〜

83)の

絵 図では「月叫和 尚」 とされているが、その前後の絵 図では記載が無いか、「明屋敷」 とされてい る。すなわち、寛文

4年

(1664)か ら元禄4・

5年

(1691〜

92)の

絵図 まで、一時期 を除 くと、空 き屋敷であっ た と考 えられる。続 く、享保

9年

(1724)以後 とされる絵 図では、南東部の区画 は3つに区分 され、それぞれに 人名が書かれている。

H期

2号

遺構、

 1号

遺構、24号 土坑 は極めて大規模 なゴ ミ穴で、 ゴ ミ穴 に捨 て られた膨大 な廃棄物の内容や

木簡の記載内容か ら、二の九のゴ ミが運ばれて捨て られた可能性が考えられる。 ところが、家臣が使用 している 屋敷地に、二の九のゴミを運び込むことは考 え難い。空 き屋敷であった場合 には、その空 き地にゴミ穴を掘って 捨 てた と考 えることも可能であろう。 Ⅱ期 に大規模 なゴ ミ穴が造 られていた調査区の南東部が、絵図で空 き屋敷

とされている南東部の区画に入 るとすると、ゴミ穴が造 られた理由を説明 し易 くなる。

2号

遺構 などか ら出土 した木簡の記載 された年号 は、享保5年 (1720)を 中心 として、若千の幅がある。新 し い ところでは、確実なものとしては享保12年 (1727)ま であ り、確実ではないが可能性 のあるもの としては享探 18年 (1733)ま である。人名が記 されるようになる絵 図の年代 は、享保

9年

を上限 とす ると考 え られているもの で、実際には もう少 し下 る時期 に作成 された可能性 もある。微妙な部分が残 っているが、年代的には合致する可 能性 はある。

しか し、 この ように考えた場合 には、 Ⅱ期の22号溝や、先行するI期の12号溝 などが問題 となる。 これ らの津 が屋敷地 を区画す る施設であった場合、

 2号

遺構 な どは、区画の西側 となって しまう。溝 との位置関係が逆であ れば問題がないが、残 されている絵図では、南西の区画が空 き屋敷であったことは無い。あるいは、絵図が残 さ れていない、元禄4・

5年

(1691〜

92)か

ら享保

9年

(1724)ごろまでの間に、南西部の区画が一時的に空 き屋 敷であった可能性 を想定することもで きな くもないが、現状では根拠が薄いであろう。いずれにせ よ、これ以上 検討 を進めてい く材料 はな く、確実なことは言 えない。今後、周辺の調査が進んだ段階で、再度検討することが 必要である。

Ⅲ期 になると北東部に建物跡が集中す る他、それまで区画施設の見 られない場所 に、

 1号

柱列や

2号

柱列が造 られている。 これ らの ことは、屋敷の区画が変化 した可能性 を示す ものであろう。絵図では、享保

9年

(172つ 以後の絵図か ら、区画が細か く分害Jされるようになる。一つの区画が小 さ くなるため、それまで奥 まった場所 に

も、建物 を建てる必要が生 じたことが推測 される。区画が細か くなってい く時期は、Ⅲ期の年代 とは合わないが、

変化の方向 としては合致すると言 えるだろう。

このように、検出された遺構 を絵図と関連 させて解釈することは簡単ではない。明解 な結論を得ることが難 し いが、大 まかな様相では、一定の関連が見 られそ うである。周辺区域の調査の進展 に合わせて、更なる検討 を加 えてい くことによって、少 しずつであって も、解明 してい くことが必要であろう。

最後 に、調査 区域の様相 を検討す るにあたって も、様 々に関連すると思われる礎石建物の保存状況 について、

触 れてお きたい。江戸時代では、簡素 な構造の建物 には掘立柱建物が残ると考えられるが、主要な建物は礎石建 物 に変化 していった と思われる。建築史的検討が必要であるが、少なくとも18世紀後半以降は、民家建物 におい て も、母屋 は礎石建物 となっている可能性が高い。 ところが、川内北地区の調査 においては、礎石建物の検出事 例が少ない。掘立柱建物や掘立柱列は多数発見 されるのに、礎石建物はあまり見つか らない。 この問題 を考える 上で、 Ⅲ期の

2号

建物や3号建物の調査成果 は、重要であると思われる。

2号

建物や

3号

建物では、掘 り方が深 い礎石 もあるが、わずかに掘 り窪めた程度で石 を据 えている場合 も多い。地覆石の場合、その傾向が特 に強い。

この ような場合、石が取 り除かれると、掘 り方の検出は極めて難 しい。あるいは、後世の削平がわずかでも、痕 跡が残 らな くなって しまう。 この ような事例 を見 ると、礎石建物が検出されなかったとして も、 もともと存在 し なかったのか どうか、慎重に検討する必要がある。同時に、礎石建物のわずかな痕跡 を見落 とさないために、丁 寧 な調査の方法が求め られるであろう。

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報19 第1分冊 (ページ 134-140)

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