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, 1号建物模式図

c   l号

建物柱33   c′ 引 \ 望鰻赤途髄粧縦強瞬晦中ジゆ分離塘が雄釣 1号建物

 

13・18・27・30 27 10YR4/3に      φ2〜5cm程 13 10YR4/2灰  

0       1m  

30〜

50cm程

度の大 きさの亜角礫 を据 えてお り、背後 には10〜

15cm程

度の川原石 を詰めて、裏込め としている。

西岸 は、東岸 ほ ど石組の残存状況が良 くな く、残 された石 は、東岸 よ り小振 りである。川原石で裏込めがなされ ているのは同 じである。底面 は南壁際の中央部で、一段深 くなっている。南壁際での深 さは

HOcmで

、 さらに深 くなってい くもの と考 え られる。北側 よ りの底面 には、細か な円礫が敷かれていたが、全体 には及んでいない。

調査 区南壁のセクシ ヨンにはかかっていないが、底面近 くには、細かな円礫か らなる砂礫層が北側 に堆積 してい た。最上部の埋±1層はブロック状の土が混 じり合 うもので、ある程度埋没 した後、人為的に埋 め戻 された と考 えられる。遺物 は、磁器、陶器がやや まとまって出上 している。土師質・瓦質土器、軟質施釉土器、瓦 はあま り 多 くない。他 に、木製品、金属製品、石製品 も出土 している。

【1号建物】(図59'60、 図版35)

E〜

‑4〜 9区

で検 出 した礎石建物である。2層下部上面か ら掘 り込 まれていると判断 し、 Ⅱ期 に含めた。

い くつかの ピッ トと切 り合 っているが、切 り合 い関係が判 る場合 は、いずれの ピッ トよ りも

1号

建物が新 しい。

2号

建物の柱12が、

 1号

建物の柱23と、わずかに重 なるが、前後関係 はあま り明確 にで きなかった。次 に述べ る ように、柱 間寸法か ら考 えて、

 1号

建物の方が

2号

建物 より新 しい と考 えられる。

1号

建物 の柱 間寸法 は、

 1間

6尺

と考 え られる。

6尺 3寸

の可能性 も想定 し、様 々な可能性 を検討 したが、

ズ レが生 じて しまう。一方、

 6尺

と考 える と、おおむね合致す ることか ら、

 1間

の寸法 は

6尺

であった と判断 し た。 これ までの二の九地区や武家屋敷地区の調査では、江戸時代 には

6尺

が使 われている例 は無い。江戸時代初 期 に

6尺 5寸

が使 われた以外 は、

 6尺 3寸

が使 われている。一方、武家屋敷地区第

4地

点で発見 された、明治時 代 の第二師国の建物では、

 1間

の寸法が

6尺

となっていることが確認 されている (年報13)。

6尺

が使 われ始め る時期 については、事例が少 な く確定で きないが、明治時代以降に変化 した と考 えた方が良いであろう。その場 合、

 1号

建物の時期が問題 となる。2層が薄い部分が多 いため、

 1号

建物が2層の下位か ら掘 り込 まれていると い う認識が誤 っている可能性 も完全 には排 除で きない。 しか し、

 2層

を除去 してか ら礎石の上面が露出 している もの も多 く、 ここでは2層 よ り下位か ら掘 り込 まれて Ⅲ期 に相当す るとしてお きたい。ただ し、柱 間寸法か ら見 て、

 1号

建物がⅣ期 に下 る可能性 は完全 に否定で きない。 またⅢ期の存続時期 は、明治初頭 まで含む可能性が高 いため、

 1号

建物が Ⅲ期 に属 し、その中で も最 も新 しい明治初頭 になる可能性 は高い。 しか し、明治初頭 は屋敷 が取 り払われてい く時期であ り、その中で、なにゆえ新 たに建物 を建てたのか疑間が残 る。

各所で撹乱 と重 なってお り、本来礎石が存在 したに もかかわ らず、撹乱 によって壊 されている場合 も多い と思 われる。柱12や17は柱筋か ら微妙 にずれるため、異 なる遺構 を構成す る可能性 もあるが、他の礎石 との関係 も 考慮 し、

 1号

建物 を構成するもの と考 えた。残 されていない礎石があった可能性 もあることか ら、建物の詳細 な 構成は明 らかではない。南北方向の柱 間は、

 1間

間隔で柱筋が通 ることが多い。一方東西方向は、

 1間

間隔 とな らず に、1間半間隔をとる部分 も多い。北半部では、半間間隔で礎石が設け られている部分が多い。南半部で も、

比較的柱筋が通 る場所の間に、半間間隔で礎石が認め られる場所 もある (柱20・ 21'33)。 柱15の北側 には、地 覆石状 に石が並 んでいる部分 もある (石ア1)。 全体 としては、南北方向では9間分、東西方向では6問半分 を確 認 したこととなる。方向はN‑24°

Wで

ある。

礎石 は、20〜

55cmの

大 きさの円礫 か ら亜角礫 を用 いてお り、南側 ほ ど大 きな石が使 われてい る傾 向がある。

掘 り方内に直接礎石 を据 えている場合が ほ とん どで、根 固め石 となる小礫が入 っているのは、柱21だ けである。

大 きな石が、二重 に重 なっている場合 もある。柱19や柱23など、複数の石 を組み合わせた ように積み重ねている 場合 もある。 この ような、大 きな石 を重ねた り、複数の石 を組み合わせ る礎石の据 え方は、江戸時代の建物 には ほとん ど見 られない方法である。遺物 は、磁器、陶器、土師質土器皿、瓦、木製品が出土 しているが、いずれ も 量はわずかである。

2号

建物】(図 52・ 53、 図版36)

F〜 I‑4〜 6区

で検出された礎石建物である。2層下部上面か ら掘 り込 まれてお り、 Ⅲ期の遺構 と判 断 され る。

3号

建物 とは直接の切 り合い関係 はつかめていないが、位置関係か ら見て、同時存在は難 しいと考えられる。

3号

建物 は礎石が全 て取 り払われているのに対 して、

 2号

建物 は礎石がほとんど残 されている。 この点か ら、

 3

号建物が古 く、その礎石が取 り払われた後 に、

 2号

建物が造 られた と考 えるのが 自然であろう。撹乱で各所が壊 されているもの と思われる①遺物は出土 していない。

礎石 と礎石 をつな ぐ石列状の地覆石か らなる。柱 間寸法は1間を

6尺 3寸

としてお り、場所 によって半 間間隔 で礎石が据 え られている。方向はN‑27.5° ―

Wで

ある。全体 として、東西4間半、南北2間半の範囲が検 出で きたが、 さらに広が っていた と思われる。礎石は25〜

35cmの

川原石 を用いてお り、幅35〜50cmの掘 り方 に据 え られている場合が多 い。掘 り方 は20〜

30cm程

度 と深 く、それ を埋 め戻 した上 に礎石 を置いている。根 固め石が 詰め られている例 はない。礎石の中には、掘 り方が明瞭にとらえ られなかった もの もある。掘 り方がはっきりし ない礎石 には、床束 を支える礎石であった可能性 も考えられるであろう。

礎石 をつ な ぐ地覆石 と考 え られ る石列部分 は、礎石 よ リー回 り小 さい15〜

20cm程

度の川原石 を用 いてい る。

石列の部分 は、石の周 囲を少 しづつ削 りなが ら、掘 り方の検 出に努めたが、明確 な掘 り方はほとんど確認で きな かつた。石の大 きさとほ とん ど同 じ程度の範囲を、わずかに窪めた程度の掘 り方であったと推定される。そのた め石が動かされて しまうと、掘 り方の検 出は極めて難 しくならて しまう可能性が高い。

地覆石 は、本来は礎石の間をつ なげていた と想定 されるが、わずか しか石が残 されていない場合 も多い。柱1

の南側 には石列

1が

あるが、他 と比べ ると石の並びがはっきりしない。石列2は、柱3と柱 4を つないでいるが、

柱 3よ り北側 にも延 びていた可能性がある。石列3は、柱

4か

ら柱8をつな ぐが、柱8の西側 にも1個だけ石が 残 されてお り、さらに西側へ石列が延 びていたことは間違いない。柱

8か

ら柱9を経て、石列

4が

南へ延 びるが、

11までつながっていた可能性がある。石列5は、柱

6か

ら西へ延 びるが、 これ とは別に、柱6の南 にも石 があ り、南へ も石列が延 びていた可能性がある。石列6は柱13から西へ延び、半間の ところで南に延びる石列

7に

つ ながる。 この石列

6は

、石列 3と 一直線 に並んでお り、本来は石列がつながっていた可能性が高い。地覆石があ る場所 は、建物の主要 な構造 を支える部分 と考えられるが、残 されていない礎石や地覆石が存在 した可能性 もあ ることか ら、建物全体 の詳糸日な構成 は明 らかではない。

3号

建物】(図52・ 53、 図版37)

H‑3・ 4区

で検 出 した礎石建物である。礎石 は残 されてお らず、掘 り方のみが検出されている。柱

1が 5号

柱列の柱3を切 り、東辺が

4号

建物の柱7と

6号

柱列の柱3を切 っている。直接の切 り合い関係 はないが、

 2号

建物 とは位置関係か ら見て、同時存在 は難 しい と考 えられる。上述 のように、礎石 を取 り除いた

3号

建物が古 く、

2号

建物が新 しい可能性が高い。この ように、

3号

建物 よ り新 しい遺構 も古い遺構 もⅢ期 と考えられることか ら、

3号

建物 もⅢ期 と判断 した。礎石 を取 り除いた後の、浅い掘 り方のみが残存 していると考えられる。遺存状態は 悪 く、東辺の一部 と、北辺の礎石掘 り方1基を検出 しただけである。方向はN‑24°

Wで

ある。

6尺 3寸

1

間としていると考 え られる。柱の礎石 は1間間隔で据 えられていた と推定 した。北辺の柱 1は 単独で存在 してい るが、東辺は浅いピッ トが列状 に連 なっている。礎石 をつな ぐ形で、地覆石が列状に据えられていた と考 え られ る。掘 り方の幅は、25〜

50cm程

度で、深 さは

6〜 8cm程

度 と浅い。東辺の断面 を見 ると、図で1・ 3・ 4と し て示 した層が、石の抜 き取 り跡の埋上で、

 2・ 5が

掘 り方の埋土である と考 えられる。遺物 は、磁器、陶器 、土 師質・瓦質土器、軟質施釉土器が出土 しているが、いずれ もわずかな量である。

4号

建物】(図52・ 53、 図版37)

F〜 H‑3・ 4区

で検 出 した、掘立柱建物である。北辺 と西辺のみが確認で きてお り、それ以外の延び方 は判 明 していない。1間を

6尺 3寸

とした柱 間寸法で造 られている。西辺 は、半間間隔で柱穴が配されている。北辺

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報19 第1分冊 (ページ 123-132)

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