1.仙
台 城 跡 二 の 丸 北 方 武 家 屋 敷 地 区 の 立 地 と歴 史(1)仙
台城 と城下の沿革東北大学の川内地区は、沢 とその脇 を東西 に走 る道路 によって、川内南地区 と北地区に分かれている。 この川 内南地区は仙台城二の丸が置かれた場所であ り、北地区は家臣の屋敷が存在 した区域 に相当す る。
仙台城 は、仙台藩初代藩主である伊達政宗 によって、慶長
5年
(1600年)12月
24日の縄張始めを晴矢 として、本丸の築造が始め られる。 この段階では、二の九は造 られてお らず、後 に二の丸が造 られる場所 には、政宗の四 男である伊達宗泰の屋敷があった とも伝 え られる。元和
6年
(1620年)に
は、伝伊達宗泰屋敷の北側 に、政宗の 長女五郎八姫の居館である「西屋敷」が造 られる。政宗 は寛永13年 (1636年
)に
死去 し、伊達忠宗が二代藩主 となる。忠宗 は、寛永15年 (1638年)に
、伝伊達宗 泰の屋敷跡 に二の九 を造営す る。二の九が造 られると、仙台藩の政治・諸儀式のほ とん どは二の丸へ移 され、藩 主の居所 も二の九へ移 る。 これ以降、二の九が仙台城の実質的な中枢 とな り、 この状態 は幕末 まで維持 されていくこととなる。
寛永15年に二の九が造営 された時点では、五郎八姫の「西屋敷」が、二の丸の北隣に存続 していた。五郎八姫 が寛文元年 (1661年
)に
死去す ると、 もとの「西屋敷」 は「天麟 院様元御屋敷」 と呼ばれ、蔵や作業所 な ど、二 の九 に附属す る実務的な施設が置かれるように変化する。そ して二の丸 は、四代藩主伊達綱村 によって、元禄年 間に大改造が施 される。その際、 もとの「西屋敷」の敷地は二の丸 に取 り込 まれ、中奥が もとの「西屋敷」 の範 囲に大 きく拡張 された。 この改造 によって、仙台城 は完成 した姿 を迎 えた。その中で二の丸 は、文化元年 (1704 年)の
火災でほぼ全焼す る被害 を受 けつつ も従来通 り再建 され、幕末 まで仙台城の中枢 として機能 してい く。仙台城下は、仙台城本丸の造営 に伴 って造 られてい く。慶長
6年
(1601年)の
正月11日 に、仙台城の普請始め が行われ、同 じ日に「御城下地形 ノ絵 図 ヲ以テ諸士等 ノ屋敷割仰付 ラル。」 との記録が残 されている (F貞山公治 家記録巻之二十一』)。 この時以降、城下の建設が進め られていった もの と考 え られる。正保
2年
(1645年)の
『奥州仙台城絵図」では、仙台城の周辺 に「侍屋敷」が広がっていたことが判 り、本丸の造営が開始 された頃か ら屋敷が造 られていった もの と思われる。正保絵図は幕府提 出用絵図のため、細かな屋 敷割 は記 されず、屋敷 を使 っていた人名は判 らない。それ以降の藩政用絵図には、屋敷害Jが記 され、人名が書 き 込 まれた ものが多 くある。川内地区においては、大手問の周囲な どに最 も上級の家臣の屋敷が置かれ、それ以外 の区域 にも上級家臣の屋敷が多い。東北大学の川内北地区 も、比較的上級の家臣の屋敷が置かれていた。
明治維新 による新政府の成立 と幕藩体制の崩壊 によ り、仙台城 とその周辺 も大 きく変化す る。明治
2年
(1869 年)の
版籍奉遠 によ り二の丸には勤政庁が置かれ、明治4年
(1871年)の
廃藩置県後 は、仙台城が明治政府の管 轄下 に移 り二の九 には東北鎮台 (後に仙台鎮台)が
置かれる。本丸の建物 は明治の早い時期 に取 り壊 され るが、二の丸の建物 は鎮台本営 として引 き続 き利用 された。 しか し、明治15年 (1882年
)の
火災で、ほ とん どが焼失 し て しまう。そ して明治19年 (1886年)に
は仙台鎮台か ら陸軍第二師団に改称 され、明治21年 (1888年)に
は正式 に師団常備軍制度が施行 され、敗戦 まで続 くこととなる。二の丸跡 には、第二師団の司令部が置かれた。川内地区の仙台城周辺の武家屋敷地 も、明治 に入 ると取 り壊 され、その多 くは後の第二師国の用地 となってい く。東北大学川内北地区には、第二師団の歩兵隊や鞘重隊な どが置かれていた。
戦後 は、川内地区のかつての軍用地一帯が、米軍の駐留地 となる。昭和32年 (1957年
)に
米軍か ら返還 された 後、川内北地区には東北大学教養部が、川内南地区には文系4学
部や図書館 などが置かれ、現在 に至 っている。(2)二
の丸北方の武家屋敷地区の変遷仙台城下の様相 を検討するに際 して、基本 となる史料が城下絵図である。表5に、 これ までに知 られている仙 台城下絵図の主要 なものを示 した。城下 を描いた絵図で も、簡略なものは除外 している。仙台城下絵図の研究は、
旧制第二高等学校長の阿刀田令造による『仙台城下絵図の研究』が晴矢であ り、今 日に至 る研究の基礎 となって いる。そのため表5には、F仙台城下絵図の研究』における番号 と、掲載 された付図の番号 を記 して対照 を行い 易 くした。 また近年、『絵図・地図で見 る仙台』お よび『絵 図・地図で見 る仙台第二輯』力乎J行され、主要な仙 台城下絵図や仙台市街地の地図が大判の印刷で刊行 され、利用の便が増 した。 これ らに収録 されている絵図につ いては、両書で付 された番号 を表5に示 しておいた。かつて伊達家が所蔵 していた ものな ど、江戸時代の絵図を 多数所蔵 している宮城県図書館 にあるものについては、同館 による F宮城県図書館所蔵絵 図・地図解説 目録』に 掲載 された番号 を、表5にあわせて記載 した。
これ らの仙台城下絵図には、年代が近接す るもの もあるため、時期による変遷が判 るように選択 して、川内北 地区周辺の部分 を示 したのが図16・ 17である。道路の変化 を見 るために、明治時代の地図について も、あわせて 不 しておいた。
現存す る仙台城下 を描いた最 も遡 る絵図は、正保
2年
(1645年)の
ものであるが、 これは幕府提 出用の絵図で あ り、個 々の屋敷の区画は描かれていない (図16‑1)。
道路 を見ると、正録絵図以降、明治15年 (1882年)の
地図 (図
17‑13)に
至 るまで、基本的に変化がない ことが判 る。二の九 と北方の武家屋敷 との境 には、千貫沢 と それを広げた堀がある。 この千貫沢や堀沿いに道路が東西 に走っているが、それ より北側 には東西方向の道路は2本
ある。 ところが現在 は、千貫沢沿いの道路 の北側 には、東西方向の道路 は1本
だけである。現在の ような道 路 は明治26年 (1893年)の
地図 (図17‑14)に
おいて、初めて見 られるようになる。 この東西方向の道路が改変 されるの と同時に、大手門前か ら北へ延 びる道路 も改変 されている。大手門前か ら北へ延 びる道路は、 もともと は、千貫沢 を渡る筋違橋の北側で鍵の手状 に屈 曲 していたが、 この時に屈曲せずにまっす ぐ北へ延びる道路へ変 わっている。おそ らく一連の道路整備 として、改変が行われたのであろう。図17には示 さなかったが、明治22年 (1889年
)製
作 の「改正仙台市明細全図」 とい う地図 も存在する。 しか し 明治22年の地図では、第二師団司令部に、明治15年 (1882年)に
焼失 した二の丸の旧状 を残す建物が描かれ、全 体の表現が明治13年 (1880年)の
地図 (図17‑12)に
類似 している。そのため、明治13年の地図をもとに作成さ れた可能性があ り、明治22年の地図に描かれた道路が、その時点の状態 を表 していたのか疑間である。 したがっ て、明治15年か ら明治26年の間に、川内北地 区周辺の道路 は、現在見 る形 に変わっていった もの と考 え られる。おそ らく、明治21年 (1888年
)の
陸軍第二師団の設置 に前後 して、 この区域の整備が進め られていった もの と考 え られる。明治時代の地図 も、その初期の ものは、全 てを正確 に測量 して作成 された ものではない。明治15年の地図に至 って も、現状か ら見て明 らかに方向や距離がずれている部分 も多い。ある程度信頼が置 ける ものは、明治26年の 地図以降であるが、 この段階では川内北地区周辺の道路 は、改変 された後である。改変以前の道路の位置 を、正 確 に測量 した地図は、今の ところ確認で きていないことになる。 したがって、絵図や明治時代初期の地図をもと に、江戸時代の道路 を正確 に復元することは難 しい。確実 に復元す るためには、発掘調査 で道路 を検 出 し、その 位置 を確定す る他 ないが、今 までの調査では発見 されていない。 このような限界 を踏 まえ、絵図・地図の記載 を 比較 しつつ、江戸時代の道路の位置 を、現在 の地図上 に推定復元 したのが図15である。
千貫沢の北脇 を東西 に走 るのが 「筋違橋 通」 である。その北側 に東西 に走 る
2本
の道路が、「中ノ坂通」 と「亀 岡通」である。二の丸裏門である台所 門を出て、千貫橋 を渡 って北 に延 びる道路が 「裏下馬通」で、それ と ほぼ併行 して西側 にあるのが「大堀通」である。今回の調査地点は、 この
4本
の道路 に囲 まれた、ほぼ方形の区 画 に相 当す るもの と考 え られる。細かな位置関係 は、道路の復元が推定に留 まるため、厳密 には確定で きない。│レク/
0 500m
図
15
二の丸北方武家屋敷地区における江戸時代の道路の復元 Fig.15 Reconstruction map ofthe rOad of Edo period at BK7しか し、細かな修正は今後必要 として も、 これが大 きく変わることは考 え難 く、今回の調査 区が、 このほぼ方形 の区画 に相当す ることは間違 いない と考え られる。
この区画内に屋敷 を構 えていた人名 を、城下絵図か ら拾い出 した ものが表
6で
ある。記載 されている人名 をも とに、 これ らの家臣の禄高や家格 などについて、次 に見てみたい。ただ、記載 された家臣の全てについて、詳細 が判明 している訳ではないが、おお よその傾向は判明す る。検索 にあたっては、F私本仙台藩士事典』 などを利 用 した。 なお仙台藩では、生産高や知行高 を、一般的な石高ではな く、戦国時代以来の貫高で表示 していた。貫 高 と石高の換算 は、寛永検地 を経て、1貫
(1000文)を
10石に換算す るように定め られた。寛永検地以前の換算 については、い くつかの説がある。ただ し、 ここで検討材料 とす る屋敷拝領者が記載 されている藩政用絵図が、寛文
4年
(1664年)以
降の もの しか存在せず、全て寛永検地 よ り新 しい時期の もの となるので、1貫
を10石と換 算すれば良いこととなる。仙台藩の家格 は、家格の高い順か ら、一門 。一家・準一家 。一族・宿老 。着座 。太刀上・召出 。平士・組士・
卒 とい うように分 け られていた (表7)。 平士 は、仙台藩家 臣回の主力 を構成 した家 臣で、多 くは大番組 に属す る大呑士であった。平士 (大番士
)は
、登城 した際 に控 える部屋の名前 をとって、上位か ら虎の間呑士・中の間 番士・次の間番士・広間番士 に分 け られた。組士 と卒が下級藩士 となる。調査地点が入 るほぼ四角の区画 は、元禄4・
5年 (1691'92)の
絵図 (図16‑6)ま
では、区画 をほぼ4つに 分けた大 きさか、あるいはそれ よ りやや小 さ く分 け られている。享保9年
以降は、 より細か く区分 される場合が 多 くな り、頻繁 に屋敷拝領者が入れ替わってい く傾向がある。幕末 になると (図17‑10)、 この区画の南東側 に、「小学校」が置かれる。仙台藩では、藩校 として養賢堂 を置いて、家 臣の教育 にあたっていた。嘉永
5年
(1852 年)に
、 門閥子弟 の講学所 として川内に置かれたのが「小学校」 であ った。鈴木省 三の『仙台風俗志』 には、「嘉永五年 に建 る所 に して川内中の坂通 りにあ り (中略
)養
賢堂の外 こ ゝに学校 を建 て られたるは川内一帯 は門 閥大家が住 し居れは其等子弟が通学の便 を謀 るがために して築山公の好学の思召 しよ り出たるもの といふ」 とさ れている。築 山公 とは、13代藩主伊達慶邦のことである。この区画 を
4分
す る大 きさ、あるいはそれ よ りやや小 さい程度の屋敷 を拝領 していた もの としては、青木掃部 (36貫 104文・召出)、 中村伊右衛 門 (48貫612文 ・格式不明)、 山崎平左衛 門 (102貫613文 。虎 の間)、 白石七十郎 (30貫文・虎 の間)、 宮内権六 (36貫文・召 出)、 大河内源太夫 (90貫文・召 出)、 濱田平十郎 (33貫313文 ・虎の 間)、 市川三右衛 門 (30貫文・虎 の間)、 久世平人郎 (64貫624文 ・虎 の間)な
ど、家格 は召 出か ら平士 の中で も 最 も上位の虎の間番士で、禄高は30貫文以上の もので占め られている。その中で も、屋敷地が広い者ほ ど、禄高 が高い傾向があるが、厳密 には対応 しないようである。この中で も山崎平左衛 門は、虎の間番士 であ りなが ら、禄高が102貫613文 あ り、石高 に直す と千石 を超 える。
大河内源太夫が90貫文で続 くが、召 出であ り家格 は上である。山崎平左衛 門は、この区画の他の家 臣 と比べ ると、
禄高が著 しく高い。 しか し、 これは例外的な事例 と思われる。山崎平左衛 門の父 は、 もとは近江の家で、織田信 長の家臣であった。本能寺の変での信長死後 は、豊臣秀頼 に仕 えている。大阪夏の陣で秀頼が死去す ると、元和
2年
(1616年)に
伊達政宗 に35貫 文で仕 えることとなった。 これ以降、知行地で野谷地開発 を活発 に行い、102 貫 を越 える禄高はそれによって増加 していった結果である。 なお、 山崎平左衛 門は、廷宝3年
(1675年)に
は 108貫 613文 とな り、禄高はこの時 に最 も高 くなる。その後、天和3年
(1683年)に
は、山崎平左衛 門景貞の弟の 六兵衛が、宮内家 に婿養子 とな り、それに伴 い6貫
文が宮内家 に分与 され102貫613文 となった。 この宮内家 に婿 養子 に入 ったのが宮内六兵衛重篠 (権六)で
、図16‑4・
5を見 る と、山崎平左衛門の屋敷の南西側 に屋敷 を構 えていることが判 り興味深い。山崎六兵衛が宮内家の婿養子 となった天和3年
は、図16‑5の
絵 図が描かれた頃 にあたる。一方、享保
9年
以降に現れる、小 さ く分割 された屋敷 を拝領 していた ものには、横沢軍蔵 (30貫文 。虎の間)の ような禄高の者 もいるが、渋谷権七郎 (15貫940文 。中の間)、 志茂偉之助
(7貫
200文・次の間)、 藤間仲左衛 門(7貫
47文 ・広 間)、 喜多 山大吉 (300俵・虎の間)と
いうように、先 に見た広い屋敷地 を使 っていた家 臣よ り は、禄高 も家格 も下が って くる。 なお松井玄亮 は、30貫文 とい う禄高の割 には屋敷 は小 さいが、医師 とい う立場 によるのであろうか。この ように、調査地点がある区画は、17世紀 には、30貫文以上の虎の間番士以上の家格 の家 臣が屋敷 を構 えて いた場所であった。18世紀以降に、屋敷地が小 さ く区分 されるようになってか らは、 よ り家格や禄高が下の家臣
も、 この場所 に屋敷 を拝領す るようになっていった。