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太平洋戦争の時代、日本人はタンゴどころではなかった。それは以下に引用し た加年松 城至氏の文章によく表れている。1971 年、ロシータ・キロガが観光で 日本を訪れた時、加年松氏は人を介して一面識もなかったキロガに 1 通の手紙を 送った。そこには以下のような文章がある:

「…私は戦争の末期の頃、米軍機が来襲するたびにレコードを抱えて防空壕に逃 げ込みました。それらのレコードは貴女がビクトル社に録音したビエハ・ギタラ、

センチミエント・マレーボ、ビエホ・コーチェ、ネグロでそれらは何時も私と共 にありました。

夜毎、敵機が音楽の音を聞きつけるのではないかという無知な人々の苦情にもかかわらず、私は蓄 音器を布団でくるんでタンゴを聴いて居りました。しかし不幸にも1945529日、我が家は爆撃 を受け、愛聴していたレコードも含めてすべてが灰になってしまいました。…」(Luis Alposta, http://

www.todotango /com/english/biblioteca/cronicas/ carta_de_yoyi.asp

エドゥアルド・ビアンコ楽団の出迎えを 受けるアルフォンソ13世。ギターを持 っている人物はオラシオ・ペトロッシ。

加年松 城至氏 マレク・ウェバー

キロガがこれをどう受け止めたかはわからないが、現代の日本の若者でもこの記述をどの程度実感 を持って理解できるかは疑問である。しかしこれは紛れもない事実である。

日本でも桜井潔楽団に代表されるようなタンゴ楽団(タンゴばかり演奏したわけではないが)は 1942 年頃までは存在したが、戦況が厳しくなって消滅していった。楽団員の中には召集・戦没された 方も多いと思うが、それに関する資料は無い。そして日本は加年松氏の手紙にあるような状況に追い 込まれていったのである。

1920 ~ 1930 年代のドイツではベルリンを中心に多くのダンス・オーケストラ(タンゴ以外のダン ス音楽も多数手がけた)が腕を競い合ったが、戦況が厳しくなるにつれて楽団の維持が困難になり、

また戦争に駆り出される楽員も少なくなかった。

バルナバス・フォン・ゲッツイは戦時中も演奏活動を続けたが、

1942 年には召集された楽団員の補充が困難になった。彼は戦後、

オーケストラを再編成し 50 年代半ばまで活動を続けたが、すで に彼の音楽は時代遅れになったことを悟って活動を停止し、ミ ュンヘンに引退生活を送り、1971 年に亡くなった。フォン・ゲ ッツイはナチスに近かったという話を筆者は耳にしたことはあ るが、諸資料にはそのような記述は見いだせなかった。

バイオリン奏者で 1920 年代半ばからオーケストラを率いて演 奏・録音活動をしていたオスカル・ヨースト(Oskar Joost)

(1898 年生まれ)は 1933 年にナチスに入党した。そして 1940 年 1 月に 召集を受けて入隊し、中尉にまで昇進した。彼は 1941 年に東部戦線で重 傷を負い、ベルリンに戻ったもののその年の5月にインフルエンザで亡く なった。

1930 年代にエレクトロラ・レーベルに精力的に録音していたウィル・

グラエー(Will Glahé)も召集を受け、恐らく連合軍と戦い、やはり重傷 を負い、スコットランドの戦争捕虜収容所に送られた。彼はそこに終戦ま で留められたが、そこで戦争捕虜収容所オーケストラを結成し、指揮を取 ったという。戦後、彼は録音活動に戻り、1989 年にボンで亡くなった。

ドイツの多くのタンゴ楽団の中でフアン・ジョサス(Juan Llossas)の楽団は戦前、戦中、戦後を 通して活躍を続けた。1900 年にバルセロナに生まれた彼は 1920 年代半ばに楽団を持ち、初めはいろ

バルナバス・フォン・ゲッツイ

オスカル・ヨースト

飛行機に乗り込むフアン・ジョサス楽団 フアン・ジョサス

いろと苦労もあったようだが、遂にはドイツ以外の国々への演奏旅行には飛行機をチャーターするま での成功者になった。彼は召集は受けなかったようだが(恐らくスペイン国籍であったためだろう)、

1942 年から 1944 年まで、恐らく軍隊の慰問活動のためにロシアに派遣された。そのままロシアに留 まっていたら悲惨な目に合うところだったが、彼は幸運であった。戦後、彼はハンブルグのダンス・

クラブに出演していたが、戦後のこととてそこの観客の中には英国の進駐軍兵士たちが多数おり、ま たその中に進駐軍放送局(BFN)の関係者が居た。彼らはジョサス楽団の演奏を高く評価し、ジョサ ス楽団を徴用の形で BFN に出演させたが、その結果、彼の名前は英国でも知られることとなった。

それで BFN はジョサスと徴用演奏を含む正規の演奏契約を結んだが、それには BBC ロンドンの放送 番組「タンゴ・タイム」のために毎週タンゴの新曲を1曲作るというとんでもない条項があった。そ れで彼は4年間に 200 曲のタンゴを作曲したが、4年目には精根尽き果て何も曲想が浮かばなくなっ てしまったという。そこで彼は契約を延長せず、1951 年以降は以前のような演奏旅行に戻った。そし て 1957 年、ザルツブルグでの演奏中に脳卒中で急逝した。

前述のように、ファシスト支持者であったエドアルド・ビアンコは大戦 勃発後もドイツに留まり、活動を続けた。1940 年に彼はドイツ放送局のラ テン・アメリカ向け宣伝短波放送のために多数の録音をした。また 1942 年にナチ・ドイツ占領下のオランダを演奏旅行し、また短編映画を製作し た。彼は 1943 年にアルゼンチンに戻り、テアトロ・ナシオナールに雇われ た。しかし戦争の真っ最中の 1943 年にどうやって大西洋を渡ったのだろう。

1949 年―1950 年にはフリアン・プラサ、アティリオ・スタンポーネ、アル フレド・マルクッチらからなる楽団を編成してヨーロッパ・中近東を巡演し、

録音もしているが、経営的には大赤字であったという。

これ以後、彼の楽団活動は無く、1959 年にアルゼンチンで亡くなった。

ベルナルド・アレマニー楽団のバンドネオン奏者であったエクトル・ヘンティーレ(Héctor Gentile)も大戦中ドイツに留まり、クアルテート・アルヘンティーノを組織して、1943 年1月から 7月にかけて前述の宣伝短波放送のために多数の録音をした。但しその多くはタンゴではないようだ。

彼がその後どのような運命を辿ったかは不明である。

1920 年代にパリに渡ったアルゼンチン・タンゴ人の中で、ターノ・ヘナロ(Tano Genaro)、マリオ・

ターノ・ヘナロ エドアルド・ビアンコ

左から、カルロス・アクニャ、フアン・デア ンブロッジオ、アルヘンティーノ・レデスマ

マリオ・メルフィ

メルフィ(Mario Melfi)、フアン・デアンブロッジオ(バチチャ)(Juan Deambroggio“Bachicha”)

は戦争中もフランスに留まった。ドイツ占領下であってもパリは戦火にさらされなかったので、少な くとも戦争の前半までは、演奏・録音活動を続けることは可能であったのではなかろうか。但しメル フィは戦時中、スイスに逃れていたという話もある。ターノ・ヘナロは 1944 年初頭にパリで亡くな っているが、メルフィとデアンブロッジオは戦後も、おそらく 1960 年代まで、演奏・録音活動を続 けた。デアンブロッジオは 1963 年 11 月に、メルフィは 1970 年9月に亡くなった。

パリで大成功を収めたマヌエル・ピサロ(Manuel Pizarro)は自分のキャバレー「シェ・ピサロ」も、

ブールヴァール・ド・クリシーの豪華アパートも放棄して、1940 年にフランスを出た。出国の際に外 国人が持ち出せたのは5万フランまでであった。彼

は始めバルセロナに行き、次いでエジプトのアレキ サンドリアとカイロに行き、オンボロ貨物船に乗っ てアフリカ大陸を東から西に回り、ブラジルのペル ナンブク(Pernanbouc)を経て、1942 年4月 11 日 にブエノス・アイレスを出てから 20 年ぶりに故国に 戻った。彼は 8 年間ブエノス・アイレスに留まった が、すでに「今浦島」の状態で、彼の演奏スタイル はもはやブエノス・アイレスでは受け入れらなかっ た。そこで彼は再びパリに戻る決心をし、1950 年に エクトル・グラネ(Héctor Grane)らを連れて再び パリに戻り、演奏活動を再開し、それは 1970 年代ま で続いた。アルゼンチン人であるよりフランス人で あった彼はニースに引退し、1982 年に亡くなった。

ピサロ、メルフィ、バチチャ、の戦後録音を聴くとどれも同じようであって、互いに区別がつかない。

また演奏曲目にもフランス語のタイトル(=フランス製タンゴ)が多い。

第2次世界大戦に参戦しなかったアルゼンチンは食料輸出国として大いに富を蓄えた。1945 年当 時、アルゼンチンの外貨保有高は 5000 億ドルを越え、アルゼンチンは世界で最も豊かな国であった。

そのことが 1950 年代の第 2 期タンゴ黄金時代をもたらしたというのは間違いのないところであろう。

しかしペロン政権がその富を使い果たすと共に第 2 期黄金時代も終わった。

第2次世界大戦終結から 11 年後の 1956 年にオスバルド・プグリエセは自作曲、戦争を遊ぶな(No juegues a la Guerra(作詞はモデスト・モラレス・ミラモンティ(Modesto Morales Miramonti))、

をホルヘ・マシエルの歌入りで録音した。この年はペロン政権が倒れ、軍が権力を握っていた時代で あり、プグリエセは恐らくそのことを背景にこの曲を作ったのであろう。この曲は聴いてみると名曲 とは言い難く、曲想も何となくシレンシオに似ている。歌詞内容もシレンシオに比べれば理屈っぽく、

詩情に乏しい。それ故、この曲の真価は曲想や歌詞ではなく、プグリエセが我々に対して発したメッ セージとしてのタイトルそのものにあると考えたい。

マヌエル・ピサロの戦後録音のLPの一例