• 検索結果がありません。

10‐2‐3 リスク回避行動の帰結と貧困か らの脱却

ドキュメント内 kihon-j (ページ 79-83)

10−2−2での計測例では、消費の低さと変動と を区別してリスクの影響を評価してきた。しかし実 際にリスクを回避する行動は、将来のリスク回避の 手段や将来の所得の見込みに大いに影響を与えるこ とになる。つまり先にも述べたように、一時的なシ ョックから貧困層を保護する政策と長期的に貧困層 の投資を促し、貧困から抜け出させる政策とは、相

互に密接に関連しているのである。本項ではこうし た相互の因果関係について検討を加える。とりわけ リスク回避行動が貧困の罠の一因となるという議論 とともに、リスクからの保護が貧困脱却へのインセ ンティブを低める効果についても検討を加えたい。

(1)ポートフォリオと技術選択

最初に、貧困層の人々に借り入れや保険の手段が ない場合、リスク回避的な家計はどのような投資行 動をとり、またどのような技術選択をするのかにつ いて考えてみたい。リスク回避的な家計の経済行動 は通常、凹関数で表される効用関数U(.),  U >0, U <0を想定することで分析される。ここで2つ の投資先を想定する。例えば、収量は低いが安定し ている伝統的作物(A)と高い収益をもたらすが収 量の安定していない新品種(B)の選択の問題だと する。この場合、貧困層の人々はどちらの作物に投 資するだろうか。作物Bの純収益を とすると、作 物Bから得られる期待効用はEU( )である。しか し収量が変動することによって、期待収益から確実 に得られる効用U[E( )]よりもEU( )は低くな ってしまう。その程度は、例えば下の式を満たすよ うなリスク・プレミアムRで表すことができる。

EU( )= U [E( )−R]

つまりRは、変動によって効用が低下する程度を期 待収益E( )の損失として表したものであり、リス クを引き受けることのシャドープライスである。別 の見方をすれば、作物Aに投資した場合の純収益よ りも作物Bに投資した場合の期待収益がR以上大き ければ、作物Bへの投資を選ぶことを示している。

上の式をE( )の近傍でテーラー展開をして変形す ると、次のようなリスク・プレミアムの近似が得ら れる。

ここでrは絶対的リスク回避度の指標である。通常、

ほかの所得源が確保されていたり、多くの資産を持 っている場合、自らリスクに対処できるため、保険 をかけるインセンティブは低下すると考えられてい る。そのため絶対的リスク回避度rが、所得水準や 資産と共に低下する状況が、ほとんどの人々に当て 図10−9 消費の変動と平均消費水準

0 0.2 0.4 0.6 0.8

e(rmse)

0 500 1000 1500

r(mean)

第Ⅲ部 貧困削減と人間の安全保障に関する論点整理 第10章 リスクに対する脆弱性と貧困:経済学のアプローチ

はまる。つまりリスク・プレミアムRは、所得や資 産が多いほど小さくなり、貧困層ほど大きくなると 考えられる。この分析を作物の投資選択に当てはめ れば、作物Bの期待収益が相当高くない限り、貧困 層は安全だが収益の低い作物Bに投資すると結論す ることができる。つまりリスクは、安全だが将来の所 得を高めないような選択を貧困層にさせるのである。

では実際に、ハイリスク・ハイリターンの投資と ローリスク・ローリターンの投資の間の選択を、途 上 国 の 貧 困 層 は 迫 ら れ て い る の だ ろ う か 。 Rosenzweig and Binswanger(1993)は、天候の変 動によるリスクと資産選択、収益率の関係を実証し ている。具体的には平均・分散モデルを用いて、イ ンドICRISATのデータからモンスーンの開始日の 変動が資産の構成と収益率に与える影響を推計して いる。彼らの推計結果によれば、貧しい農民は資産 構成を変えることで天候のショックに対処し、収益 率を大いに犠牲にしていることが確認された。一方、

豊かな農民はよりリスクのある資産選択をすること で、高い収益率を得ていた。彼らのシミュレーショ ン結果によれば、モンスーン開始日の変動係数が標 準偏差と同じだけ上がることは、平均の資産水準で は収益を4.5%引き下げるに過ぎないが、下位25%

の農民の平均収益を35%も引き下げることになると いう。明らかに貧しい農民ほど、変動のリスクに対 処することが、将来貧困から抜け出す可能性を低め ているのである。別の見方をすれば、変動を和らげ る、もしくは難しいことだが貧困層に保険を提供す ることができれば、彼らが貧困から脱却できる可能 性も同時に高めることができるのである。

(2)予備的貯蓄動機とインセンティブ効果 人々がリスク回避的であるばかりでなく、将来の 不確実性に対して慎重に備える行動をとる場合、消 費や貯蓄行動が将来の不確実性によって影響を受け ることになる。例として2時点間の消費の選択行動 を考えてみたい。効用は毎期の効用の合計で表され、

各期の効用はリスク回避的な効用関数によって表さ れるとする。簡略化のために利子率も主観的割引率 もゼロであると仮定すると、効用の合計を最大にす るような2時点の消費の選択は、消費から得られる 限界効用を等しくするように決まる。つまり、

u(ct=Et[u(ct+1)]

が成り立つ。この時、もし u >0が成り立つなら ば、つまり限界効用関数が凸関数であるならば、将 来の消費の変動の増加は右辺の値を引き上げること になる。そのため最適な消費の選択をするためには、

現在の消費をより引き下げ、将来の消費を増やす、

つまり貯蓄を増加して対応するようになる。こうし たメカニズムを通じてなされる貯蓄を予備的動機に よる貯蓄(precautionary saving)と呼ぶ。

ここで予備的動機による貯蓄に特に焦点を当てる のは、例えば貧困層の消費の変動を緩和させるよう な安定化政策や保険、融資の提供などの政策によっ て将来の不確実性が減少し、その結果として貯蓄が 減少する可能性があるからである。つまり、脆弱性 の緩和と投資・所得増加へのインセンティブとのト レード・オフが生じるのである。こうしたトレー ド・オフが現実に存在するかについては、実証デー タから検証するしかない。

Carroll  and  Samwick(1998)は、7年間にわた る米国の家計調査のパネルデータ(PSID)を用い て予備的動機による資産の大きさを推計している。

彼らは実証的に求めた消費の不確実性や相対的慎重 度プレミアム(relative  precautionary  premium)

の指標と資産水準との間に正の関係が見られること を示した。推計結果によれば、すべての個人の不確 実性を実証的に求めた値の最低水準に低めること は、総資産を約45%も引き下げるという。ただし極 めて流動的な資産だけを見ると、引き下げる割合は 約32%であり、予備的動機によるバッファー・スト ックとしての資産には比較的流動性の低い資産が重 要であることが示唆されている。つまり、稀である が大きなショックに備えるべく、収益性の高く流動 性の低い資産に投資する行動が見られると理解でき る。

一方、開発途上国のデータを用いた研究として Jalan  and  Ravallion(2001)が挙げられる。彼らは 中国南部における7年間の家計調査のパネルデータ を用いてCarroll  and  Samwickと同様な推計を行っ た。彼らは資産を流動的・非生産的資産とそのほか の資産(土地を除く)に分類し、穀物と現金を流動 的・非生産的資産とした。流動的・非生産的資産は

「貧困削減と人間の安全保障」調査研究報告書

188

全資産の26.5%を占めていた。所得ショックと1人 当たり総資産水準および流動的・非生産的資産の総 資産に占める割合との関連を検証した結果、所得シ ョックに対する予備的動機による資産の割合は総資 産の3.7%、流動的・非生産的資産の6.8%であると 推計された。ただし、こうした所得ショックに対す る資産水準と資産構成の変化は中間層のみに見ら れ、上位20%と下位20%の階層では確認できなかっ た。この結果から、富裕層はほかの保険手段にアク セスできるため予備的動機で資産を保有する必要が なく、貧困層は逆に予備的動機の資産を保有する余 裕がないのだと推測できる。

(3)貧困からの脱却

以上の検討から言えることは、途上国の人々、と りわけ貧困層にとって脆弱性の緩和と投資・所得増 加とのトレード・オフは重要ではなく、消費の変動 を和らげ、保険を提供することによって、彼らの所 得増加が見込まれることである。しかし、実際に保 険や信用の提供と貧困緩和の関係を検証した研究は 稀である。例えばマイクロファイナンスの事例研究 では、女性のエンパワメントによる子どもの健康状 態の改善など望ましい結果が確認できるものの、消 費や所得面での貧困改善に関しては望ましい結果が 確認できていない。東北タイの事例研究では、受益 者に資産や貯蓄の増加が見られず、逆にマイクロフ ァイナンスの融資がマネー・レンダーへの返済や他 者への貸し付けに使われている傾向が確認された9。 地域の状況やほかの借り入れ機会などの環境次第 で、制度設計自体が望ましいものであっても、機能 の仕方が大きく異なるのである。具体的な政策アド バイスをするためには、それぞれの地域の実態と制 度的環境に照らしてマイクロファイナンス、公的雇 用制度、小作権保護などさまざまな脆弱性からの保 護の手段の実証研究を積み重ねる必要があるだろ う。

一方、さまざまな貧困削減の実証研究を見ても、

一定の政策的合意は得られていない。Ravallion and Dutt(1996)、Dutt and Ravallion(1998)によるイ ンドのパネルデータを用いた一連の実証研究は、農 業部門の成長が都市部、農村部とも貧困を削減する 要因であることを強調している。しかし、東アジア の事例は労働集約的工業化によって平等と成長、貧 困削減が同時に進展したことを示している10。一方、

よりミクロな人類学的実証研究では、村外での雇用 や出稼ぎ、都市への商品の供給などによる所得源の 分散化が貧困脱却の大きな鍵になることを指摘して いる11。貧困脱却の経路はさまざまだが、これらの 研究から一貫して言えるのは、何らかの成長する部 門が貧困削減を牽引していることである。経済成長 を促す要因がなければ、再配分政策しか実行し得な い。例えば失業率が変わらない状況で、労働者の職 を確保する権利を保障すれば、失業者が職を得る確 率を低めるだけになる。そうした状況で労働者の権 利の脆弱性は、失業者にとっては職を得られる確率 が高い望ましいことなのである。10−2−2での議論 と併せて考えても、何らかの成長戦略が貧困削減に 不可欠だと言える。

(4)経済成長の根源的要因

この数十年の間、経済成長に関する考え方は大き な変貌を遂げてきた。第2次世界大戦後のしばらく の間、開発途上国の開発に欠けている最も重要な要 因が資本不足であり、援助による資本の供与と資本 蓄積が経済発展を促すと考えられてきた12。しかし、

そうした資本原理主義(capital  fundamentalism)

は進まぬ経済発展と対外債務問題の顕在化で影を潜 めていった。次いで注目されたのが技術の重要性で ある。技術進歩とアイデアの蓄積、その波及効果が 経済発展の原動力であり、技術進歩による収益性の 向上が資本蓄積を促すものであると理解された13。 技術や知識を習得するのは人そのものであるため、

教育や訓練など人的資本への投資が開発戦略の最優 先事項として挙げられるようになった14。しかし開

Coleman(1999)

10  Hasan and Quibria(2004)

11 Krishna(2002)

12 Easterly(1999)

13 Romer(1986)

14 Lucas(1988)

ドキュメント内 kihon-j (ページ 79-83)