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第二章 モルトマン神学についてのゲルハルト・ザウターの解釈

第三節 黙示思想と終末論

ザウターは1966年の『宣教と研究』誌に「希望の神学(Theologie der Hoffnung」と いう小論文を発表した115。その冒頭でケーゼマンの「なぜ教義学はもはや終末論的問題か ら始めず、伝統に従って黙示文学(Apokalyptik)で終わろうとするのか」116という問い を取り上げる117。そしてモルトマンの『希望の神学』が、この問いへの答えを含んでいる と述べる。ケーゼマンによって強調されたキーワードである「黙示思想(Apokalyptik)」 をモルトマンが自らに引き付けて解釈し、終末論的問題を解決しようとしているからであ る。

以下、ケーゼマンとザウターの黙示思想に対する考え方を考察して、それらとの関わり と比較を通じてモルトマンの終末論における黙示思想の受容と「神の国」を明らかにした い。

1. ケーゼマンの黙示思想

先ずケーゼマンにおける「黙示思想(Apokalyptik)」とは何を意味するのかを概観して おく。ケーゼマンは黙示思想という言葉が多義であることを認めた上で、原始キリスト教

の黙示思想について語るのは、終始切迫した「来臨の待望(Naherwartung der Parusie)」 ということを表示するためであると述べる118。切迫した待望という意味での黙示思想は、

復活後の聖霊体験から出発して、霊を受けた人によって生き生きと保持され、神学的には ユダヤ教黙示思想の伝統から吸収し、最後に熱狂主義的希望と宣言を伴っているのである

119。ケーゼマンにおける「黙示思想は復活後の聖霊体験によって引き起された熱狂主義と いう特定の状況における」120原始キリスト教の終末論的思想なのである。イエス自身はそ うでなかったとしても、原始キリスト教団はイエスの出来事を解釈する際に前面的に黙示 思想によって規定されていたので、ケーゼマンは黙示文学を「キリスト教神学の母」であ ると主張する121。ただしケーゼマンは、モルトマンのように完全に黙示思想に基づいて形 成された組織神学ために、黙示思想に注意を促すというようなことはせず、教会が到達し たものに満足したり、保守的な頑迷さの中に引きこもったりすることのないように警告を 発するために黙示思想という根底に注意を向けさせるのである122

モルトマンの「神の国」の神学は、ケーゼマンの黙示思想から聖書的基礎づけを獲得し たことはすでに述べたが123、モルトマンが特に取り入れているのはケーゼマンの「終末論 的留保(eschatologischer Vorbehalt)」という考え方である124。「終末論的留保」というの は、終末が来る前の未決性であり、「神の国」にはまだ至っていない状態である。この考え 方からモルトマンは、キリストがまだ「神の国」への途上にあることを強調する。「神の国」

はキリストの支配の目標であり、完成である125。その支配は、キリストがわたしたちの死 を滅ぼし、死人をよみがえらせ、最後に国を父なる神に渡す時に完成するのである。

2. 黙示思想という概念

ケーゼマンが前述において黙示思想という言葉が多義であることを認めているように、

「黙示思想(Apokalyptik)」という概念が幅広い内容をもつことは否定できない。最初に、

「黙示思想(Apokalyptik)」という語について触れておく。「黙示思想(Apokalyptik)」は 文脈に応じて「黙示文学」とも訳されるが、さらに「(集合的に)黙示録的預言書類」、「世 界終末論」とも訳すことができる。「黙示思想(Apokalyptik)」は、ギリシャ語の「アポ カリュプス(

ἀποκάλυψιζ )」

に由来するが、その意味は「覆いを取って真相(秘義であ った内容)を示すこと」であり、「啓示」、「黙示」と訳される126

黙示思想を神学に取り入れる際の「概念的不一致(Begriffliche Unstimmigkeiten)」を、

ザウターは『将来と約束』の中で取り上げる127。 黙示思想という単語は「疑わしい

(verdächtig)」128と考えるザウターは、「黙示思想は特別な課題であろう。問題史的にそ れを追うことは、あたかも黙示録的なこと(Apokalyptisch)の異端的局限へ向かってい るようである」129と述べる。そしてザウターは終末論において黙示思想を取り扱う際は、

十分に考慮しなければならないと説く。ザウターの述べるその三つの理由を次に略述する。

先ず、黙示思想はその戦闘的な待望や激しいメシアニズムによって教会の存続を脅かす 憂慮すべきものと見なされてきたからである。特にヨハネの黙示録の異質なものがアブノ ーマルと受けとられてきたことなどはまだ十分に吟味されていない。ヨハネの黙示録の異 質なものと人はたいていの場合、ただ疑い深く折り合ったのである。黙示思想の概念が終 末論に取り入れられる際に、憂慮すべきものとアブノーマルなものも同時に取り入れられ たのである。次に、ユダヤのアナキズムの力は、ひとつの理想像のみが重要であるという 誤解を与えたからである。すなわち、ひとつの理想像を求め、近づきつつある全面的な破 局への過大な期待から努力するという誤解を黙示思想が準備したからである。最後に、黙 示思想は病的であると言えるからである。黙示録の変種の印象は、黙示録の霊的世界を宗 教的病理学の中に閉じ込めてしまったのである130

以上のような理由から、黙示思想のテーマは自己批判的に教義学的課題として扱われな ければならないとザウターは主張する131。ザウターはモルトマンやパネンベルクと同じよ うに黙示思想によって終末論的問題を解決しようとしているが、その取り扱いは非常に慎 重であると言える。

3. 黙示思想と歴史化

一方モルトマンは、前述のように「黙示思想」を自らに引き付けて解釈しているので、

「黙示思想」と終末論的問題を一致させて論じる132。ザウターがその例として挙げるのは、

黙示思想的な終末論においてモルトマンが「宇宙(Kosmos)の歴史化」と「世界の歴史 化」について語っている箇所である(『希望の神学』2章7節)133。この箇所のモルトマン の所論を次に略述する。

黙示思想の特性および神学的意味は、宇宙の終末論的および歴史的解釈の中にある。終 末は決して始源の回帰でも、また疎外からの回復、および罪の世界からの純粋な源泉にい たる回復ではなく、終極において実に始源がそうであったよりもさらに先にあると考えら

れる。宇宙が歴史的に終末の過程の中に繰り入れられるのである。全世界が神の終末論的 歴史過程の中に入り込むのである。黙示思想はその終末論を宇宙論的に考える。しかしそ れは終末論の終わりではなく、終末論的宇宙論の始まりなのである。黙示思想がなければ、

神学的終末論は諸民族の歴史の中に、あるいは個人の実存史の中に固執し続ける。新約聖 書もまた、黙示思想が宇宙の広がりの中に、また所与の宇宙的現実を超えた広がりの中に 向かって開けた窓を閉じることはなかった134

上記のモルトマンの主張は「宇宙の歴史化」と「世界の歴史化」について語っているが、

「歴史化」ということに異議を唱える聖書学者がいる。ヴァルター・シュミットハルス

(Walter Schmithals, 1932-2009)は彼の『黙示文学入門(Die Apokalyptik. Einführung

und Deutung135という著書の中で、モルトマンが「世界の歴史化」を「普遍的終末論

的未来のカテゴリー」において語るのは正しくないと述べる136。なぜなら黙示思想の担い 手は、現在の歴史的世界に対して根本的に悲観主義の態度で対立するから、歴史的世界に 未来はないのである137。歴史の位相を全く含まないのが黙示思想の本質であると、シュミ ットハルスは述べる。

けれどもモルトマンは、黙示思想から示唆を受けたブロッホの歴史的思考を神学にも定 着させようとして「歴史化」について語る138。黙示思想のユートピアを歴史の中に引き入 れたブロッホの考えに従ったモルトマンは、黙示思想の担い手の悲観主義的態度とは全く 逆の、楽天主義的態度で歴史世界を変革して行こうとする。モルトマンにとってこの世界 は「無限の可能性の巨大な容器」139なのである。黙示思想が待望している「神の国」をこ の世にもたらすべく実践していくことをモルトマンは呼びかけるのである。