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第五章 「神の国」の到来

第一節 此岸における「神の国」

モルトマンがキリスト教の「深い此岸性」をボンヘッファーから学んだことはすでに第 一章と第四章で述べたが5、此岸における「到来するキリスト」の光の中に「神の国」は存 在していると言える。この第一節ではモルトマンによる此岸における「神の国」の三つの 特徴的な事柄を紹介する。それは「神秘的経験」と「汎内神論」と「大地への畏敬」であ る。そしてそれらを考察することによって、モルトマンに固有の此岸における「神の国」

理解を明らかにする。

1. 神秘的経験

「神の国」は彼岸的なものだけではなく、此岸的なものでもあると考えるモルトマンは、

この世のまっただ中における生気にあふれた神秘的経験を重要視する。初期においては神 秘主義を心の内だけにとどまるものと考えて否定的に捉えていたモルトマンは、後期にお いてはその積極的側面を見出し、この世に「神の国」があることを神秘的経験から解き明 かしている。モルトマンの考える神秘的経験とはいかなるものか、順を追って考察してみ たい。先ずモルトマンは活動的生活と瞑想的生活の均衡が重要であると主張する。その主 張を次に略述する。

瞑想的生活においては、自己の心の中へ入って行き、自己の深遠を遍歴することが重要 である。そのことによって人は自己自身を見出して、自己を確立することができ、自身を 献身することができるからである。自己を確立できず、心の中が空虚のままで他の人たち への援助を行っても、ただ空虚を撒き散らすだけである。人間は行動によるよりも、存在 と本性とによって他の人たちに多くの影響を与える。自分自身を理解せずに活動的生活に 逃避しても他の人たちへ苦労をかけるだけである。人は瞑想によって自己理解を深め、自 己自身において自由になることにより、他の人たちを解放し、苦しみを分かち合うことが できる6

以上のモルトマンの主張は、キリスト者以外の現代人にも当てはまるが、現代人は瞑想 を精神的レクリエーションとして、実用的、功利主義的に商品化してしまったとモルトマ ンは付け加えて批判する。それでは瞑想の本質がだめになるとモルトマンは指摘し、真の

安らぎを得られる瞑想をキリスト教信仰において見つけ出そうとする。

それではキリスト教的瞑想とはどのようなものであろうか。モルトマンによれば、キリ スト教的瞑想は「超越的瞑想(transzendentale Meditation)」7では決してない。そうで はなくてそれは対象のある瞑想である。「それは最も深い中核において、キリストの受難と 死の瞑想(meditatio passionis et mortis Christi)、十字架の道の考察、受難に思いを凝ら すこと、聖金曜日の神秘」であり、瞑想する人はキリストの歴史の中に受け入れられ、和 解されて「神の国」に向けて解放された彼自身を発見するとモルトマンは述べる8。そして モルトマンによれば、瞑想という神秘的経験を通して解放された人は、この世において「神 の国」に居合わせているのである。この経験をモルトマンは「神秘的瞬間(mystischer

Augenblick)」と呼び、それは聖霊の働きによる「終末論的な、直接的な神を見ることの

先取りである」9として、神を求める人間の情熱は直接性へと突き進むことを指摘する10。 次にモルトマンの神秘的経験についての注目すべき別の主張に目を転じてみよう。モル トマンは神秘主義の道における現実的経験と「生活の座」を問うて、そこでは修道僧では なくて殉教者に出会うと述べる11。十字架の道への神秘主義は、現実世界では殉教者たち の苦難の道となる。そして特別な殉教者の道と同じように、日常生活も「人目につかない 神秘主義とひそかな殉教をもっている」12と指摘する。魂がキリストと共に死に「十字架 のかたち」となるのは、精神的修行や、公的殉教においてではなく、すでに日常的生活の 痛みと愛の苦しみにおいてであるとして「日常生活の神秘主義は、おそらく最も深い神秘 主義である」13と断言するのである。この視点は初期にモルトマンが「ハシディズム的な この世の敬虔を重んじること(chassidische Weltfrömmigkeit)」14を重要視して、日常生 活を聖なるものであるとみなしたことに連なる15。モルトマンによれば、日常生活におけ る神秘的瞬間は神の目立たない生の秘義であり、そのための鍵は、子供らしさ、驚き、そ して敬虔ということの中でかつて言われた天真爛漫である16。ハシディズムの特色は超越 的な明るさであると言われるが17、モルトマンは、子供らしさ等のたとえを用いて、永遠 性が時間に接触する神秘的瞬間を説明するのである。

神秘的経験としてさらにモルトマンが述べる特徴的なことは、簡素な生き方の敬虔の中 で、世界の将来像がひらめくということである18。「わたしたちは神の中に生き、動き、存 在し」(使徒言行録17章28節)、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神 に向かっている」(ローマの信徒への手紙11章36節)からである19。この将来像は汎神論 的ではなく、汎内神論的である。初期においては神秘主義に対して批判的であったモルト

マンは、神秘主義者が説いた汎内神論を取り入れることによって、神秘的経験に対して肯 定的となった。汎内神論ついては、次に概観を試みる。

2. 汎内神論

この世にも「神の国」があると考えるモルトマンが採用する汎内神論とはいかなるもの か。後期において「汎神論(Pantheismus)」20を採らず、「汎内神論(Panentheismus)」

21を展開するモルトマンの主張を吟味してみよう。先ず汎神論とは、万物に神性が宿ると いう考え方である。スピノザ(Baruch de Spinoza, 1632-1677)は「神即自然(deus sive natura)」を唱えて、神の世界内在を一方的に強調した。他方、汎内神論は、神が世界、も しくは宇宙に内在すると共に超越するという考え方である。モルトマンは「神の世界内在

(Weltimmanenz)なしに神の世界超越(Welttranszendenz)を考えることは決してでき ない。また逆に、神の世界超越なしに進化する神の世界内在を考えることは決してできな い」22と重なり合った両者について述べる。そして「世界の神的な彼岸について有意義に 語られるのは、世界の中の神的な此岸が認められる時だけである。そしてまたその逆でも ある」23と教会が彼岸のみへと退いて行ったことを非難する。そして特徴的なこととして

「単純な汎神論が永遠の神の現在だけを見る所で、汎内神論は将来の超越、進化と志向性 を認識することができる」24と主張する。モルトマンは終末論において現在的終末論とい う視点は採らず、将来的終末論を提唱するが、彼の主張する内在と超越は、静的な「永遠 の今」ではなく、「進化のプロセス(Evolutionsprozesse)」25の中に現れるのである。モ ルトマンによればその「進化のプロセス」を導くのは内在する聖霊である。人はこの世に 内在する聖霊を経験することにより希望を持ち、将来を汎内神論的理解によって捉えるか らである26

そしてキリストが進化と共に考えられるのなら、それは進化の推進力と言うよりも、進 化の犠牲者たちにとっての救済者であるとモルトマンは主張する27。進化を導く聖霊と犠 牲の愛を示すキリストが内在するということ、すなわち三位一体の神が内在するというこ とは神のケノーシスであり、ケノーシスは「神の自由な愛の行動」であり、それが神の属 性であるとモルトマンは述べる28。神がイエスという人間となったことは神のケノーシス であり、その目的は被造物の中に満ちることである29。この世に汎内神論的に神が満ちて いるから、「神の国」はこの世にもあると言えるのである。「三位一体の愛」が神の世界内

在と世界超越を可能にし30、「神の国」が此岸でも可能なことをモルトマンは主張するので ある。

汎内神論に関連する二つの概念について続いて考察する。

内在的超越

モルトマンは、日常的世界経験は神経験を含むことを主張し、神を対象的に認識しよう として、しかし経験することもできない近代の不可知論的経験の構造の図式を次のように 批判する31

カントの『純粋理性批判(Kritik der reinen Vernunft)』によれば、神は「物自体(Ding

an sich)」として隠されている。可能な経験の対象ではないから、神は認識できない。経

験の世界において現れることは、神には不可能である。神は人間の経験世界においては認 識されないのである。このようなカント的理性の構造によれば、神経験は人間の自己意識 の超越論的構造として存在するに過ぎない。決して日常的世界経験・人生経験においては 現れないのである32

しかしモルトマンは「超越を自己経験においてばかりでなく、あらゆる経験において発 見することを提案する。このためには、内在的超越(Immanente Transzendenz)の概念 は考慮に値するのである」33。わたしたちはあらゆる経験において神の霊に出会う。バル トにとって明白なのは、神の霊は人間の霊ではないことであるが、モルトマンは神の霊が 人間の中にあることを主張する34

しかしここで注意したいのは、モルトマンがすべてのものは同じ霊から造られて、偉大 で調和的な共同体の中で一緒にいると述べながら35、聖書的には神の霊とわたしたちの霊 は区別されていると述べる点である。世界におけるいのちの霊は、永遠なる神の霊に由来 するが、それと「同一(identisch)」ではない。永遠なる神の霊は「神的主体(göttliches

Subjekt)」であるが、世界のいのちの霊はすべてに浸透し、いのちあるすべてにおいて生

きている「人格的でない媒体(unpersönliches Medium)」であるとモルトマンはローマ の信徒への手紙8章16節における聖霊理解を説明する36。聖書においては、神の霊と人間 の霊は区別されるが、「内在的超越」の概念を用いて両者の結合性をモルトマンは主張して いる。

さらに「内在的超越」の概念を採用すると、全体的視野が導き出されるとモルトマンは 述べる。「全体的(ganzheitlich)」37とは人間と大地の自然を分離させないということと、