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第五章 「神の国」の到来

第二節 新しい天と新しい地

1. パネンベルクとモルトマンの「神の国」

パネンベルクもモルトマンもイエスの使信の根本テーマである「神の国の到来」を再獲 得しなければならないと考えている。両者共、フォン・ラートの旧約聖書神学から「神の 国神学」の基礎づけを得ている。パネンベルクは、啓示というバルトの神学的命題を、フ ォン・ラートによるイスラエルにおける神の歴史行為と結合させる62。モルトマンは、フ ォン・ラートの「約束の神学(Verheißungstheologie)」を取り入れている。

パネンベルクは 1969 年出版した『神学と神の国』において「神の国の到来」を強調す る。パネンベルクによれば、イエスの使信は切迫した「神の国」の宣教であったのに、現 代神学の中で「神の国」の占める位置はイエスの宣教の時代とは違っている63。パネンベ ルクの主張の要旨は次の通りである。

「神の国」は、カントやシュライアマハー以来、ローテやリッチュルを通じて倫理的理 解がなされてきたが、ヴァイスによって、人間の力ではなく、ただ神によって確立される ものと理解し直された。それゆえ「神の国の到来」は人間の努力の帰結ではなく、それを はるかに凌駕する宇宙的転回と変革を含むという理解がなされた。イエスは現在的状況を 切迫した未来の光のもとにさらしつつ「神の国」をひたすらに告知したのである。しかし 20世紀に入りブルトマンや初期バルトは、イエスの「神の国」の使信を無視して、イエス の終末論を転釈し、時間的意味を剥奪してしまった。イエスの言葉に集中し、キリスト論 的あるいは人間学的―実存的解釈により、終末論的リアリティを未来の中に求めなくなっ たのである。けれども切迫した「神の国」の使信こそがキリスト論的あるいは人間学的―

実存的解釈に先行する。イエスは「神の国」の現在を語ったけれども、それを常に「到来 しつつある神の国」の現在として語ったのである64

確かにパネンベルクの指摘するように、ブルトマンと初期バルトは「未来の光」をなく してしまったと言えるであろう。この点に関する問題意識は、モルトマンと共通する。

さらにパネンベルクは、イエスの使信において明らかな「神の将来の優位性(Priorität

der Zukunft Gottes)」65を説き、将来の「存在論的優位性」66を主張する。現在と将来は

密接に結合していて、将来に優位性があるのである67。そして将来が過去と現在を創造す るとパネンベルクは次のように述べる。

イエスは「将来に属する現実としての神の支配」を宣教したが、それは「到来しつつあ る神の国」の宣教である。神は存在において世界の将来であり、将来が過去と現在を創造 する。換言すれば現在は将来の光のもとに規定されるのである68

以上のパネンベルクの主張、すなわち将来から出発して、将来が現在と過去に働きかけ るという方向性はモルトマンと類似している69。しかし、リチャード・ジョン・ニュウハ ウス(Richard John Neuhaus, 1936-2009)が指摘するように、モルトマンの終末論の 場合は、将来は過去と現在からある点において断絶しているのであり70、歴史理解が両者 は異なっている。パネンベルクの場合は上述のように、歴史は分裂と矛盾を和解させる和 解のプロセスであり、永遠のコスモスに突然転じるというよりも現在の延長線上に将来が ある。パネンベルクは1993年に出版した 『組織神学』(第3巻)において自身の終末論 を詳細に論じているが71、終末を確実な歴史内的現実であると述べるのである。パネンベ ルクによれば歴史は神の啓示なのである72

しかしモルトマンの場合は、歴史は変革しなければならないものであり73、終末論的将 来は、黙示文学が述べるような全く「新しい天と新しい地」なのである。すなわち終末論 的「神の国」は、パネンベルクの場合は歴史の延長上にあり、モルトマンの場合は、歴史 の先の全く新しいところにある。

ところでパネンベルクはモルトマンの終末論を超自然的であると次のように批判してい る。

神支配の将来を現象しているすべての現実に対する単なるアンチテーゼに押し込むこと は正しくない。そうすることによっては、もうひとつの新しい神学的「超自然主義

(Supranaturalismus)」が基礎づけられるだけである。それは弁証法神学の改訂版にす ぎない。それが「上から垂直的に」の代わりに今や「前方から垂直的に」やってくるとし

ても、その定式は全く変わらないままである。イエスの終末論をそのように超自然主義的 に利用することは、まさにイエス独特のニュアンス、つまり到来しつつある神支配の現在 に対する強調を喪失させてしまうであろう。現在との関係を考察することを通してはじめ て、到来する神支配についての言説が、その時々の人間の現在的経験の地平において理解 可能になる74

確かにパネンベルクが述べるように、超自然主義が到来しつつある神支配の現在に対す る強調を喪失させてしまうということは、モルトマン神学の批判される点である。しかし 弁証法神学もモルトマン神学も「イエス独特のニュアンスを喪失させている」とは言うわ けにはいかない。パネンベルクは、イエスの終末論における超自然主義を排除しようとす るが、それこそが「イエス独特のニュアンスを喪失させている」と考える人たちもいる。

例えばファンダメンタリストたちの多くは、「神の国」に黙示文学的な意味での超越的要素 を認めており、その超越的要素によって現実世界との境目を鮮明にする75。弁証法神学者 たちもモルトマンも聖書の中のイエスの終末論に超越的要素を見つけ、「永遠」もしくは

「新しい天と新しい地」という現在を超越する超自然的なものに力点を置く。モルトマン はヨハネの黙示録21章と22章を典拠として天のエルサレムである「新しい天と新しい地」

を描き出す。時間もそこでは変容している。モルトマンはヨハネの黙示録の10章6節の 天使の「もはや時がない」という言葉をクロノスの終わりの時であると解釈するのである76

またモルトマンはパネンベルクとは異なり、グノーシス的救済神話を経ることなく、終 末論を宇宙論的に語らなければならないと考えている77。人間は天に故郷を持ち、地上で は異質の思いを持つ天使の候補ではなく、むしろ血と肉を持つ存在であることをモルトマ ンは強調する78。宇宙の自然を離れた人類はいないと主張するモルトマンにとって、宇宙 的生の条件の変化なしに人間にとっての永遠の生はありえない。終末論的将来は、人間的・

地上的将来でありながらも、「死人の復活と来るべき世界の生」である79。つまり超自然的 な宇宙論でもって語る「新しい天と新しい地」なしには宇宙に住む人間の救いは考えられ ないというのがモルトマンの主張である。けれどもパネンベルクは、あくまでも現在との 関係で将来を捉えて、将来を超自然的に断絶させることはしないのである。

モルトマンはファンタジーによって終末論的「神の国」を全く「新しい天と新しい地」

として超自然的に描くが、パネンベルクの理性は、終末論的「神の国」を人間の現在的地 平につながる究極的なものとして客観的に普遍的に描くのである。

2. テイヤール・ド・シャルダンとモルトマンの「神の国」

パネンベルクの上述のような未来に視点を置いた見解と、テイヤールの見解とには多く の類似点がみられる。例を挙げるならば、「実存の徹底的に暫定的な性格に関する認識」や

「キリストが予兆した現実の中での人間的運命の成就の予見」などである80。しかしパネ ンベルクによる、未来そのものが総体的な力を有するという考えは、テイヤールの発展的・

目的論的理解とは違っている81。それではテイヤールとモルトマンの理解には具体的にど のような類似点と相違点があるのであろうか。テイヤールの思想について案内し、モルト マンとの比較を試みる。

テイヤールは、宇宙全体をある一点に向かって発展している進化の過程として捉える。

これがテイヤールの根本思想である。その進化はダーウィンのように単なる生物進化だけ を意味せず、「精神的進化(évolution spirituelle)」をも必然のものとする。そして世界の 終末を「複雑化と内面化との極限において達成される、精神圏全体の自己回帰である」82と 定義する。テイヤールは宇宙を「物質から生命へ、生命から思考(精神圏Noosphère)へ

(物質→生命→思考)」と高まりゆく進化の過程としてとらえ、その「人格化する宇宙」の 極点に「神秘的な中心」である「オメガ点」があると想定する。オメガ点において世界の 構成要素は自分自身を自覚しひとつになる。オメガ点は世界の終末に全体でもって到達す るただひとつの点なのである。キリストを中心とした宇宙はこのオメガ点に収斂される。

このような過程的・進化的思想のテイヤールをプロセス神学であると位置づける学者もい る83

このような仕方でイエズス会司祭のテイヤールはカトリシズムと進化論を融合させよう と努力した。キリスト教神学は現代の宇宙論と両立し得ないという批判があるが84、テイ ヤールはキリスト教と自然科学を結びつけようとした85。テイヤールの著作はすべて信仰 を前提としている。科学の方法と神学の方法は異なった次元にあるが、イエズス会司祭と してのテイヤールにとって目的は同一である。神という一点の高みを目指しているのであ る。このテイヤールの立場についてモルトマンは『神の到来』の中で次のように述べる。

「私たちは、終末論と宇宙論をいっしょにして考えるいくつかの包括的試みをもっている。

テイヤール・ド・シャルダンは、進化の概念の助けをかりて、この二つの領域をいっしょ にし、『オメガ点』という終局の形而上学を企画した」86。モルトマンはテイヤールと同じ く終末論と宇宙論を包括的に考え、「新しい天と新しい地」を強調する。先に述べたように、