• 検索結果がありません。

第四章 共同体と「神の国」

第三節 いのちの共同体

聖霊論において「共同性」の概念を強調するモルトマンにとって、「いのち(Leben)」

は重要な概念である71。彼によれば、聖霊は「いのちの霊(Geist des Lebens)」72である。

モルトマンは、聖霊といのちの相互関係を説明し、いのちの経験から成立する神学を念頭 に置く。本節ではモルトマンの聖霊論で強調される「いのち」と「共同体」、そしてさらに それらが合わさった「いのちの共同体」に焦点を当てて、その内容の核心に迫る。

1. 聖霊におけるいのち

モ ルトマン はいのち を生 み出す聖 霊論的創 造論 を展開し 、「神 の霊にお ける創造

(Schöpfung im Geist Gottes)」を強調する73。「創世記1章2節によると、言葉による創 造に先行して神の霊の動くエネルギーがある」74と述べて、聖霊と言葉が創造の交わりの 中で補い合うことをモルトマンは指摘する。そして「神はいのちを与える霊の息において いつも言葉を語る」75と述べて、聖霊といのちは創造において結びついていると主張する。

さらにモルトマンの「カバラ的概念」76を取り入れた空間理解によれば、創造の空間に おける譲歩によって、神は最初に被造物のために一つの「いのちの空間(Lebensraum)」 を 自 身 に お い て 明 け 渡 し た の で あ る77。 無 限 な る 神 は 有 限 性 に 対 し て 「 自 己 収 縮

(Zimzum)」78により、いのちの場を与えたのである。そしてそこは聖霊の場である。神 はいつも聖霊においていのちを与えるからである。神の住まいであるいのちの空間に全被 造物は置かれることになった。つまり神のいのちの中に被造物の共同体があり、共同体の 中に神のいのちがあることになる。

この関係は「相互内在(Perichoresis,

pericw,rhsij

79の関係である。神のいのちのあ る共同体が、いのちの共同体であり、いのちの共同体の中には神のいのちがあるのである。

さらに聖霊とこのいのちの共同体も相互内在の関係である。つまり聖霊の中にいのちの共

同体があり、いのちの共同体の中に聖霊があるのである。

ところでモルトマンは、旧約聖書の「ルアッハ(

x;Wr

)」という語を用いて、聖霊といの ちの関係を説明する。ルアッハは「神の声の息」であり、「いのちの息」である。ルアッハ はすべての生けるものの生命力として内在的に効力を生じる。「神の創造力はルアッハの超 越的創造力であり、生けるものの生命力はルアッハの内在的側面」なのである80。このル アッハは空間を創造するものでもあり、この空間の経験こそ「聖霊」の経験である。いの ちの共同体は、ルアッハによって創造された空間において、聖霊を経験することができる のである81

以上がモルトマンのルアッハに関する主張であるが、フェミニスト神学者のヘレン・シ ュンゲル=シュトラウマン(Helen Schüngel-Straumann, 1940-)によれば、ルアッハ は、将来への希望とすべてのものをひとつにする全的統一を与える82。彼女の説に従えば、

モルトマンの述べるルアッハによる「いのちの共同体」は将来への希望を持ち、ひとつに 結ばれるであろう。さらにシュトラウマンによれば、ルアッハは相違なるものを調停し、

天と地を親密に結びつけるのであるが83、この説に従えば、ルアッハによって「神の国」

とこの世の「いのちの共同体」はひとつになることが可能であろう。

2. いのちの経験

モルトマンによれば、あらゆる現実の自己経験は、人間における神のいのちの霊の経験 であり、あらゆる生かされた瞬間は、想像もできない霊における神の近さである84。つま りわたしたちの経験は聖霊の経験と重なり合うことをモルトマンは説く。日常的世界経験 は、神経験を含むのである。モルトマンはアウグスティヌスの「神はわたし自身よりもわ たしに近い」という言葉を引用し、さらにカルヴァンの、聖霊は「いのちの泉(fons vitae)」 であるという言葉を紹介して、わたしたちはあらゆる経験においてこのいのちの源泉に近 く在り、また出会うことができると主張する85。それ故にモルトマンは神を対象的に認識 し、その枠組みでは神を経験することもできない近代思想の不可知論的経験の構造を批判 する。モルトマンによれば、わたしたちのいのちに新たないのちを与えようとする聖霊の 経験はわたしたちに喜びをもたらし、体を生き生きとさせる。例えば彼によれば、いのち の体験である聖霊体験の喜びの表現の一つは「踊り」である。またわたしたちの日常的生 活経験の中で慰めと励ましを経験する時、それは聖霊の経験なのである86。聖霊はわたし

たちのいのちを「生ける神の現在ならびに永遠の愛の流れの中へおく」のである87。 ところで、モルトマンは「イエスの霊経験」と「教会の霊におけるイエスの経験」とは 区別されねばならないと述べて88、キリストが霊の担い手から霊の派遣者となる死と復活 において、転換点があることを語る。「イエスの霊経験」とは、イエスを十字架の死の経験 へと導き入れる「神の霊」の経験であり、その霊は共苦し、その死から導き出し、イエス にいのちを与える。一方、「教会の霊におけるイエスの経験」とは、教会においてわたした ちにいのちを与える「キリストの霊」の経験である。モルトマンは三一の相互内在によっ てキリストが「いのちを与える霊(lebendigmachender Geist)」となったと説明する89。 どちらの経験にも共通するのは「いのちを与える霊」である。この霊はイエスを復活させ、

イエスの弟子たちは復活のキリストを見ることにおいて「いのちを与える霊」を経験した。

この霊は教会において信仰を与える霊でもある。「いのちを与える霊」は父から出てイエス によって派遣されるのである。そしてキリストの霊はわたしたちのいのちを造り出す力に なるのである。キリスト教信仰はいのちを与える霊の経験であり、世界の新しい創造の始 まりの経験である。この場合のいのちは、死をも乗り越えるいのちである。新しい「死を 脱したいのち(Leben aus den Toten)」をキリストに与えるために霊はイエスに内住し、

その死にあずかる90。新しい「死を脱したいのち」は、霊のケノーシスによりわたしたち に与えられる。このような、現在の「いのちを与える霊」の経験以外のキリストと「神の 国」の媒介は決して存在しないとモルトマンは主張する91。すなわちモルトマンにおいて、

キリスト論と終末論を結びつけるのはいのちの経験に基づく聖霊論なのである92

3. ひとつの愛・エロース

いのちが生き生きとする人間の経験の次元を大切にするモルトマンは、バルトの次の意 見に異議を唱える93。バルトにとって明白なのは、神の霊は人間の霊ではないことである94。 この立場に対してモルトマンは「神の霊が人間の中にあるから、人間の霊は自己超越的に 神を目指」すことになると反論して95、啓示の次元と人間の経験の次元の二者択一を克服 しようとする。その際に注目に値するのは、「神の霊」をモルトマンは「エロース(Eros)」

96と呼ぶことである。そして愛においても、「アガペー(Agape)」とエロースを区別しな い。モルトマンによれば、人間の「身体性(Leiblichkeit)」は、「精神(Geist)」と「から だ(Körper)」の綜合である。身体性において「精神」と「からだ」には上下があるので

はなく、平等である97。そして「身体(Leib)」と「魂(Seele)」との「相互内在的関係

(perichoretisches Verhältnis)」によって、人間は全体的存在である。それゆえ愛におい てもアガペーとエロースとを上下の階層的秩序として区別しないのである。モルトマンに よれば、アガペーとエロースとが区別されるならば、そのことによってアガペー的神経験 と人間的愛の経験が分裂してしまうことになる98。モルトマンは「神と隣人について経験 されるのはひとつの愛、、、、、

であるように、神と隣人を包括するのはひとつの愛、、、、、

である」と述べ て99、ギリシャ教父が愛に対して選んだとモルトマンが考えるエロースという表現を「ひ とつの愛のための統一的用語として」用いる100

モルトマンはこの世界における人間同士の愛を高く評価する。そしてこの世界内におけ る愛の交わりの根拠を三位一体的聖霊の交わりに求め、啓示と経験を統一的に把握し、こ の視点から近代的な「個人主義」を乗り越えようとする。たとえばモルトマンは家庭と家 族共同体を尊重する。そしてこのような「素朴な共同体(naturwüchsige Gemeinschaft)」

101はそれと質的に異なる聖なる教会において解体してしまい、その結果個々の人間が孤立 することになったと述べて、アガペー的啓示の次元とエロース的経験の次元の分裂を問題 として指摘する。要するに、モルトマンはエロースという概念の観点から愛というものを 統一的に把握し、その結果、啓示と経験の区別を乗り越え、ひとつの総合を編み出すので ある。

しかし、神との縦の関係における愛と、隣人との横の関係における愛は連続的に捉える ことが可能なのであろうか102。人間同士の交わりは神と個なる人間との交わりと質的に相 違するのではないだろうか。モルトマンの試みでは、アガペーとしての神の愛の至高性は 滅却され、アガペーとエロースが元来持つところのこの質的差異が不分明となってしまう。

しかしモルトマンは相違に目を留めるのではなく、敢えて統合を目指す。それは天と地を 結びつける行為である。天の愛がアガペーで、地の愛がエロースであるならば、天と地は 平行線のままである。しかしモルトマンの初期の論文『神の国と大地への誠実』(1963年)

が意図する内容を参考にするなら、大地への誠実なしに「神の国」はありえない。それゆ え天の愛と地の愛をモルトマンはエロースという統一用語で結びつける。このことによっ て「神の国」は天にも地にも可能になるのである。

このモルトマンによる包括的な「ひとつの愛」という考え方に従えば、孤立した者が神 との関係の中に立つ時も「ひとつの愛」の中にいることになり、「神の国」を体験できる可 能性が生まれる。エキュメニカルな相互協力の関係もまず各教派が神との関係を深めるこ