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第二章 モルトマン神学についてのゲルハルト・ザウターの解釈

第二節 モルトマンのブロッホ哲学の受容と「神の国」

1966年の『牧会神学』誌に「終末論の適用――ユルゲン・モルトマンの『希望の神学』

をめぐる諸考察」56を発表したザウターは、その中でモルトマンのブロッホ哲学の受容に ついて考察している57。ザウターによれば「モルトマンはブロッホが対話へ持ち込んでく れた多数の概念と形式を取り上げる」58のであるが、「ブロッホ自身は副次的にのみ挙げら れ、比較的まれに(さらにたいてい決定的箇所においてではなく)彼の引用がなされてい る」59のである。確かにモルトマンは重要な箇所においては、ブロッホの名前は出さずに、

ブロッホの概念を下敷きにした独自の説を展開していると言える。要するに『希望の神学』

の第一章から第三章までにブロッホの名前は出てこないのである60。しかしブロッホ哲学 の多数の概念と形式は『希望の神学』の中に取り入れられていて、モルトマンはブロッホ との対話を『希望の神学』の最後に付論として収録している。

ブロッホ哲学の受容において、「神の国」はどのような位置を占めるのであろうか。以下、

ザウターの主張に依拠しつつ、モルトマンのブロッホ哲学の受容と「神の国」の占める位 置について考察する。

1. 「潜在」・「傾向」・「意図・志向」

ザウターは、ブロッホの哲学的概念を活用するモルトマンの神学的立場を明確にしよう と試みる。そのためにザウターはブロッホが使用する彼特有の三つの概念を挙げる。それ は「潜在(Latenz)」、「傾向(Tendenz)」、「意図・志向(Intention)」である61。これら の三つの概念をモルトマンはキリスト論に組み入れている。モルトマンは、「十字架の下に 隠されたもの(absconditum sub cruce)」を「潜在」と呼び、「復活において啓示された もの(revelatum in resurrectione)」を「傾向」と呼び、イエスの派遣における神の「意 図・志向」を問うのである62。これらの概念使用に対してザウターは、概念の明確化を要 求する。そして概念の明確化のためにはティリッヒの言うところの「意味論的合理性

(semantische Rationalität)」63の適用が必要であると説く64。「意味論的合理性」の適用 というのは、神学者が精神的実在を指し示そうとして、哲学的、科学的、あるいは日常一 般用語を神学の用語として用いる時に、その語の含蓄を排除せずに、その含蓄に関係づけ て主要な重点を抜き出すことである65

ザウターによれば「潜在」は、通例はある出来事の内に置かれている「潜在能力(ein Potential)」を意味しているが、それだけでなく出来事の効果を現わす「意味傾向性

(Sinnhaftigkeit)」をも指し示している66。もちろん「潜在」するものは「背景あるいは 地下にとどまり、まだ周知のものではない」67。モルトマンは、「十字架の下に隠されたも の」を「潜在」と呼ぶが、ザウターはこのことに疑問をもつ。「隠されたもの(das

absconditum)、それは神が神御自身の仕方においてのみ現臨している表現である」68とザ

ウターは述べて、モルトマンの「潜在」という表現に違和感をもつのである。そしてザウ ターは「このような概念の方程式(Begriffsgleichung)を通じて中心的な箇所において全 く同一の尺度では測れないところのものが――とりわけ神の隠れと十字架におけるイエ ス・キリストの神性の隠れが、覆い隠されないのである」69とモルトマンのブロッホ哲学 の概念使用を批判する。敷衍すれば、「潜在」という言葉では、ルターの主張するところの

「隠されたる神(Deus absconditus)」が正確に表現され得ないのではないかとザウター は問いかけるのである。ここで「隠されたる神」について確認しておきたい。ルター神学 の重要な概念である「隠されたる神」は、理性には隠されていて信仰にのみ現れ出る神で ある。隠されたる神は啓示の神であり、人間の義を破壊してそれとの対立の相の下に、す

なわち苦しみや死において自己の義を啓示する70。ルターの「隠されたる神」は、ザウタ ーの言うように、隠されてはいるが現臨しているのである。「地下にとどまりまだ周知のも のではない」ところの「潜在」という概念ではルターの「隠されたる神」を十分に表現し ているとは言えない。しかしここで注意しなければならないのは、モルトマンが「十字架 の下に隠されたもの」という時、ルターの「隠されたる神」とは違う「隠されたもの」を 主張しているのではないかということである。モルトマンのキリスト論において、「十字架 の下に隠されたもの」として考えられるのは、「神の国の約束」である。モルトマンは『希 望の神学』の中で次のように述べる。

宗教改革においては、神の国は「十字架および矛盾の下にある住い(tectum sub cruce

et contrario)」であると言われた。その意味は、神の国が、ここにおいては、その対

立物の下に隠されているということである。すなわち、その自由は試練の下に、その 浄福は苦難の下に、その義は義の喪失の下に、その全能は弱さの下に、その栄光は無 分別の下に、隠されているのである。それがゆえに、神の国は、十字架につけられた 者の主権という形において認識されたのである。これは正しい、そして破棄できない 認識である。ただ神の国は、その現在性のこの逆説的形態において終わるのではない。

「対立物の下での」その逆説的隠蔽性は、その永遠の形態ではない71

ここで注目したいのは、十字架の下にある住いと言われた「神の国」は、「その永遠の形態 ではない」ということである。十字架と共に「神の国の真の不在が認識可能」72となり、

それゆえ「神の国は、復活および新しい創造以外の何物をも意味しえない」73とモルトマ ンは考える。「十字架の下に隠されたもの(absconditum sub cruce)」をモルトマンはブ ロッホ哲学の概念を用いて「潜在」と表現したが、そこには万物がそこにおいて義・いの ち・平和を獲得する「神の国の約束」がある。ザウターは「十字架の下に隠されたもの」

を「神」あるいは「神性」とだけ考えて「神の国」には言及しなかったのである。

ここで、ブロッホ哲学の概念である「潜在」という言葉について検証しておく必要があ る。ブロッホの使用する「潜在」という概念は、発展する物質の過程の中での存在論的概 念である。「潜在」は、発展する物質の過程の中に目的である「世界の内容的可能性」が隠 されていることを意味する74。ブロッホの「いまだ・ない(Noch-Nicht)」という存在論 においては、目的はまだ成就していないために「世界の内容的可能性」は「潜在」してい

75。さらにブロッホは「全の潜在(Latenz des Alles)」と「無の潜在(Latenz des Nichts)」 があることを述べる76。目的が歴史の中で成就すれば「全の潜在」であり、挫折すれば「無 の潜在」ということになる。モルトマンの場合は、神の約束に基づいていて目的が必ず成 就するので「全の潜在」しかないことになる。「モルトマンにとっては、物質が完成すると 考えるブロッホと異なり、将来の神の国はただ単にひとつの可能性にすぎないというので はないからである。それどころか、神の国はまさしく神の約束によって保障されており、

その実現は確実なのである」77。モルトマンはブロッホ哲学の「潜在」という概念を使い、

「神の国の約束」が十字架の下に隠されていることを示唆するが、それは「神の国への希 望」が十字架に下に隠されていると言い換えることもできるであろう。「神の国への希望」

は、神の約束に基づく必ず成就する「神の国」という成熟へ向かってゆく萌芽のようなも のである。

次にザウターの挙げた二つ目の「傾向」というブロッホの概念使用について考えてみた い。「傾向」とは発展する物質の過程の中で、「いまだ・ない(Noch-Nicht)」によって示 される方向である78。「傾向」の概念はレオポルト・フォン・ランケ(Leopold von Ranke, 1795-1886)以来ドイツの歴史記述において親しまれてきたものであるが、ゲオルク・ル カーチ(Georg Lukács, 1885-1971)やブロッホの史的・弁証法的唯物論においても用い られた79。ルカーチやブロッホにとって「傾向」とは、現実的・客観的可能性と主観的決 断とを媒介し、歴史過程の流れの中に置かれるものであり、そこにおいては歴史の全目的 論的方向傾斜が意図されている80。先に述べたようにモルトマンはキリスト論にこの「傾 向」という概念を取り入れて、「復活において啓示されたもの」を「傾向」と呼ぶ。このこ とをキリストに基づいて理解するモルトマンは、前もって約束された神の意図に出会う。

それは「神の義の約束」であり「死人からの復活によるいのちの約束」であり「存在の新 しい全体性における神の国の約束」である81。「復活において啓示されたもの」である「傾 向」はこれらの約束を明らかに指し示す。ザウターは、「傾向」の概念が歴史の現実を理解 するために重要な役割を果たしていると述べ82、モルトマンによるその概念使用に対して は、基本的には反対しないのである。

ザウターの挙げた三つ目のブロッホ哲学の概念は「意図・志向」であるが、この使用に 対するザウターの反論は特に見られない。モルトマンは、イエスの派遣における神の「意 図・志向」を問うのであるが、それは先に挙げた三つの約束を告げ知らせることである。

三つの約束とは「神の義の約束」であり「死人からの復活によるいのちの約束」であり「存