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第二章 モルトマン神学についてのゲルハルト・ザウターの解釈

第四節 エキュメニズムと「神の国」

れる。宇宙が歴史的に終末の過程の中に繰り入れられるのである。全世界が神の終末論的 歴史過程の中に入り込むのである。黙示思想はその終末論を宇宙論的に考える。しかしそ れは終末論の終わりではなく、終末論的宇宙論の始まりなのである。黙示思想がなければ、

神学的終末論は諸民族の歴史の中に、あるいは個人の実存史の中に固執し続ける。新約聖 書もまた、黙示思想が宇宙の広がりの中に、また所与の宇宙的現実を超えた広がりの中に 向かって開けた窓を閉じることはなかった134

上記のモルトマンの主張は「宇宙の歴史化」と「世界の歴史化」について語っているが、

「歴史化」ということに異議を唱える聖書学者がいる。ヴァルター・シュミットハルス

(Walter Schmithals, 1932-2009)は彼の『黙示文学入門(Die Apokalyptik. Einführung

und Deutung135という著書の中で、モルトマンが「世界の歴史化」を「普遍的終末論

的未来のカテゴリー」において語るのは正しくないと述べる136。なぜなら黙示思想の担い 手は、現在の歴史的世界に対して根本的に悲観主義の態度で対立するから、歴史的世界に 未来はないのである137。歴史の位相を全く含まないのが黙示思想の本質であると、シュミ ットハルスは述べる。

けれどもモルトマンは、黙示思想から示唆を受けたブロッホの歴史的思考を神学にも定 着させようとして「歴史化」について語る138。黙示思想のユートピアを歴史の中に引き入 れたブロッホの考えに従ったモルトマンは、黙示思想の担い手の悲観主義的態度とは全く 逆の、楽天主義的態度で歴史世界を変革して行こうとする。モルトマンにとってこの世界 は「無限の可能性の巨大な容器」139なのである。黙示思想が待望している「神の国」をこ の世にもたらすべく実践していくことをモルトマンは呼びかけるのである。

イスラエルに与えられた神の約束はイエスの死と復活において異邦人であるわたしたちに も接近したのである143。神の約束において救われるのは、全ての人々である。エキュメニ カルという言葉は、ギリシャ語の「全ての人々の住んでいる世界(

οικουμένη

」に由来

する144。ザウターは『終末論入門』において、第二バチカン公会議における「エキュメニ ズムに関する教令」の文書中の「希望」という言葉に着目し、わたしたち人間が「希望」

にあって一体となることができるかを問う145。そしてモルトマンの述べる「希望」に言及 して、エキュメニズムについて語るのである。

1. ユートピア的行動主義と義認の教理

ザウターは上掲の『終末論入門』の中で、ベネディクト 16 世=ヨーゼフ・ラッツィン ガー(Joseph Ratzinger, 1927-)146の著作『終末論――死と永遠の命(Eschatologie. Tod und ewiges Leben)』147を紹介する。そしてラッツィンガーの「信仰における希望」の理 解が、現代プロテスタンティズムの代表者たちとの対話を可能にすることを示唆する148

「信仰における希望」という点ではモルトマンとラッツィンガーは軌を同じくし、両者共 エキュメニカルな視点を有している。さらに信仰と希望の対象である「神の約束」の理解 においても両者には一致が見られる149

しかしラッツィンガーの終末論は「信仰の増強」に主眼を置いていて、ユートピア的行 動主義と混同されることに対して警戒をしている150。従ってラッツィンガーの主張とモル トマンの終末論におけるユートピア的行動主義とは相容れないものがある。ラッツィンガ ーは上記の『終末論』という彼の著作の中でモルトマンに触れているが、モルトマンの終 末論を「政治神学としての終末論」151というカテゴリーに括っている。さらにラッツィン ガーは、将来の現在に対する優位性にも異議を唱えているのでモルトマンの将来志向とも 一致しないのである152

ザウターは宗教改革者たちの「義認の教理」を引き合いに出して153、このラッツィンガ ーの主張を是認しようとする。なぜなら「義認の教理は、人間存在の為してきたこと、も しくは可能なことや為そうと欲することによって、彼ら自身を知り判決を下すことができ る、という主張を攻撃目標にしている」154からである。敷衍して言えば、人は信仰によっ てのみ義とされ、ユートピア的行動主義によって義とされるのではないのである。神の審 判が人をユートピア的行動主義に駆り立てるということは言えないのである。「義認の教

理は神の裁きと救いの行為に焦点を当てている。神は不敬なものを義と認めるが、それは 人をして、彼自身が神と希望を持たないものであったことを認めさせるものであり(エペ ソ人への手紙2章12節)、神の言葉と霊における教会の起源に付随する希望の確かさを与 えるものである」155とザウターは述べる。義認の教理が希望を与えるのはわたしたちの行 動によってではない。それどころかわたしたちの行動、すなわち人間的試みはすべて失敗 に終わり、そのために「希望の余地もしくは必要性が存在する」156とザウターは主張する。

「希望」の地平の中で、ザウターは行動に駆り立てられるというよりは信仰を強めようと する。「希望のロゴスとしての神の約束」にとどまり続けて、義認の教理が与える希望の深 い内容に迫ろうとするのである。

ザウターのユートピア的行動主義への慎重な対応は、そのままモルトマンへの批判とも 受け取れる。しかしザウターはモルトマンの「希望の神学」の方向性については肯定的に 受け止め、そこにおけるエキュメニカルな視点を評価している157。モルトマンの「希望」

への新しい方向性は、それまでの教条的な世界の「希望」を打ち破ったのである。モルト マンの「希望」は、世界が「神の国」に向かって前進していることを確信させ、歴史を造 ることが可能であると呼びかけて苦難の中にいる人々を連帯させることをザウターも認め ているのである158。モルトマンの主張するエキュメニズムとは苦難の中にいる全ての人々 が「神の国」のために共に働くことであり、その行動主義は全ての人々を救うという神の 約束への応答なのである。

2. 万人救済説

「希望」における一致を目指すザウターは、さらに信仰をもつ人たちと信仰をもたない 人たちとの一致の可能性を探す。そして「万人救済説(Allversöhnung, Apokatastasis)」

159がその答えになると述べる。「神がすべてにおいてすべてとなられる」(コリントの信 徒への手紙一15章28節)終末においては、信者も未信者も救済されるとザウターは結論 づける。さらに終末においてだけではなく、現在においても信者と未信者との関係の裂け 目に「橋渡しをする概念(Brückenbegriff)」160となるのが「万人救済説」であるとザウ ターは述べる。「このような和解は、例えば、市民としての普通の生活における、社会活動 における、そして全ての差異が忘却される非常事態を乗り越えるための団結行動における、

いわゆるキリスト者と非キリスト者の共存において経験される」161とザウターはエキュメ

ニカルな一致を主張する。そしてすべての人が救われるという「希望」が愛の奉仕のため のエネルギーになるとザウターは述べる。現在においても、そしてそれに続く将来におい てもエキュメニカルな一致はザウターの主張する「希望」の与えるエネルギーによって可 能となるに違いない。

一方モルトマンも『希望の神学』から 30 年後に出版された『神の到来』の中で、万人 救済説を是認している162。「万人救済説」の教えは、悪魔すらも救われることを望んだオ リゲネス以来の論議であり、大教会神学によって断罪されてきた問題である。しかしなが ら初期敬虔派のベンゲルは、「万人救済説(Apokatastasis)」の教えを述べ伝えた163。最 後の審判、天国、地獄はあるが、すべてはただ、普遍的な「神の国」の完成に仕えるため であるというのがベンゲルの教えである164。さらにモルトマンはザウターと同じくブルー ムハルト父子の影響を受けているが、ブルームハルト父子は信仰復興運動において、「万人 救済説」を「希望の告白」として取り扱っているのである165

ザウターもモルトマンも共に、普遍的な「神の国」の完成に仕える「万人救済説」を全 世界のための「希望」であると考えている。そして両者はエキュメニズムの試みにおいて、

愛における一致が現実となることを願っている。そこにおいては「希望はわたしたちを欺 くことがありません」(ローマの信徒への手紙 5章5 節)という聖句のより深い意味を理 解することができ、「神は愛」(ヨハネの手紙一4章8節)であることを確信するであろう。

エキュメニズムは普遍的な「神の国」の完成に仕えるのである。