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第二章 モルトマン神学についてのゲルハルト・ザウターの解釈

第一節 モルトマンとザウターにおける終末理解

1. ザウター『将来と約束』に対するモルトマンの評価

モルトマンは1966年の『宣教と研究(Verkündigung und Forschung)』誌に「終末論 の諸方向(Richtungen der Eschatologie)」10という論文を発表し、1965年に出版された ザウターの終末論『将来と約束』についてかなり詳しく述べている。モルトマンはザウタ ーの独自性を評価して、「どの章と節も、予備的反省と検討、輪郭づけと分析に満ちていて、

読者が熟考価値のある展望に出会う」と述べる11。ザウターの格言風に文書化された認識 は、より大きな構想へと読者を導くのである。特にイスラエルの言語と思考世界に関係す る箇所、たとえば預言的思考については、とても成功しているとモルトマンは評価する12。 預言的思考の特色は「約束の状態」において真理を証言するところにあるが、ザウターは

「約束としての終末論」を説明することをモルトマンと同じく試みた。そしてその際にザ ウターは、フォン・ラート、ヴァルター・ツィメルリ(Walter Zimmerli, 1907-1983)、 そしてハンス・ヴォルフ(Hans Walter Wolff, 1911-1993)等による約束理解に関する旧 約聖書的研究をモルトマンと同じく参照している13。さらにイーヴァントのロゴスと創造 的約束の識別に従うのであるが14、その場合のザウターの創造と約束の関係についての洞 察をモルトマンは高く評価する。ザウターは「創造は原初の起源神話ではなく、終末論的 構想である」15として、「約束は世界を約束の状態(statu promissionis)に置く」16こと であると述べる。そして啓示も約束として表現されるのである。

さらにモルトマンが高く評価するのは、ザウターの歴史哲学的作業との取り組みである

17。ザウターは将来を志向するという論題に哲学的に取り組んで、神の約束の特殊性と独

自性を浮き彫りにしようとする。モルトマンは「将来と真理をめぐる衝突は、哲学と神学 による意思表示のイデオロギーの分離を通して決着がつけられるものではなく、将来と真 理についての諸現象を超えて届く共通性の基盤においてのみ決着がつけられる」18と考え ており、ザウターの哲学的洞察は共通性の基盤を望み見るという点で、その助けになると 評価するのである。

しかしモルトマンは、この哲学的作業の中で現れる将来の問題の処理にザウターが苦労 していると指摘する。ザウターによれば、神学は「神の約束を繰り返さなければならない」

19のだが、約束は「神の言葉がまだ終わりに来ていないので、定義できない」20のである。

その結果、「将来の問題」における神学的そして哲学的討論の、両者の間で、「諸々の接触 と差異(Kontakte und Differenzen)」21が生じてしまうことになる。すなわち「哲学」と

「神学」は、両者が互いに異なるという視点の中で、触れ合うことになってしまうのであ る。ザウターによれば「哲学」は、存在するものが生成したことについて根拠と起源を問 い、その反復を問うのであるが、「神学」は、予想できない終末の始まりや将来について問 う22。このように「哲学」と「神学」は将来の問題において、区別されるとザウターは考 える。ザウターは、「哲学」と「神学」の肯定的な相互関係を決定づけようと、カントとマ ルチン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889-1976)、そして希望に対しての責任を 問うブロッホを詳述するが、その関係は「差異における諸々の接触(Kontakte in der

Differenz)」にとどまり、約束の神学の希望の原理(ブロッホ)からの輪郭づけがもたら

されるのみであるとモルトマンは判断する23。モルトマンはザウターに対して、「差異にお ける接触」にのみとどまることなく、自分の殻を共通性の基盤を望み見るという点でこじ 開けることを喚起するのである24

2. モルトマン『希望の神学』に対するザウターの評価

ザウターは1966年に『牧会神学(Pastoraltheologie)』誌に「終末論の適用――ユルゲ ン・モルトマンの『希望の神学』をめぐる諸考察(Angewandte Eschatologie. Überlegungen zu Jürgen Moltmanns <Theologie der Hoffnung>25を発表した。その中でザウターは

「キリスト教の希望がいかにキリストの復活と結びつけられ生き生きとした歴史的現実に 関係しているか」がモルトマンによる『希望の神学』の主題の中心点であると述べる26。 そして「どの程度までモルトマンは現実の特徴である不安定性をイエスの復活から説明し

ているのか、またそこからどのような結論を引き出しているのか」と問いかける27。ザウ ターは、歴史に現れた諸々の営みが神の可能性と言えるならば、この行為における神の可 能性が認知される場所は「イエスの復活においてである」というモルトマンの主張に注目 する28。なぜならイエスの復活の認識と共に復活の宣教が存在し、約束の神への信仰と希 望が生まれたからである。復活の出来事を想起する復活祭において、神はいつもその神性 たることを明示する。そしてモルトマンによれば、神の可能性は歴史的可能性として捉え られねばならない。「すべての人間の生に現れた諸関係と諸状態の絶えることのない運動に おいてのみ、神の神性は実際に認識されねばならないのである」29。このような「イエス の復活」と結びついたキリスト教の希望は動的な希望として世界の変革を目指しているが、

ザウターはどのようにしてモルトマンが神学的にこの判断を得るのかと問いかける。ザウ ターは「歴史化(Vergeschichtlichung)」30によって、モルトマンが論証を行っていると 分析する。「歴史化」とは、すべての硬直したものを運動へと導き変革しようとすることで ある31。ザウターはこのことが「ユートピア的意識の思考方法である」と述べる32。「この ユートピア的意識」にとっては、将来は現在に対して無条件的に優先されるものである。

将来の諸可能性が現在という変更不可能性を越えているからである。「死者の中からのイ エス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与える」(ペトロの手紙一 1 章 3 節)という聖書の言葉のように、復活の出来事によってキリスト者は主をあがめ、生き生 きと実践的な変革への希望に責任を荷っていくことができる33。ザウターはこのモルトマ ンの展開する希望の実践的根拠は、すぐれて有力であると評価する。将来に根拠を置くこ とが、少なからず印象深く示されているからである34

しかし「そのことと結びついた論証の中核そして責任の形式は、なじみの無い諸要素を 関与させている」とザウターは批判する35。「復活祭の出来事への立ち戻りは、特定の世界 観の枠組みの中で認知された思考の発端になっている。この視界は今や、新約聖書が提供 しない諸々の支点(Anhaltspunkte)をも要求するのである」36。「なじみのない諸要素」

や「聖書が提供しない諸々の支点」というのは、モルトマンの述べる「世界の変革」や「歴 史化」のことと思われる。この「世界の変革」や「歴史化」という表象に基づく将来の諸 構想はどこに見出されるのであろうかとザウターは疑問を投げかける。モルトマンにおけ る「世界の変革」や「歴史化」は、実践理性の神には至るが、真の神の立証にはならない のではないかとザウターは疑義を抱くのである37。「モルトマンは――論証しながら!――

もはや抜け出すことのできない理解の手がかりの循環の状態に入ったのではなかろうか」

とザウター推察する38

さらに、神の業として留めおかれる「可能なるもの」への思想が、あまりにも突然にユ ートピア的存在の「可能性」に移ることをザウターは批判する。それはザウターによれば ブロッホ哲学の受容に原因を求めることができる39。ザウター自身は「哲学との接触を全 面的に是認したい」40と考えるのであるが、「諸概念の一致が、異質なものとして分離され るべきものを、あまりにも円滑につなぎ合わせる」41モルトマンの手法は短絡的であると 批判するのである。

続けてザウターが指摘するのは、神的に可能なものと諸可能性を備えた歴史との「合致・

適合(Kongruenz)」である。モルトマンにとって「希望の思考が問題となる時には、合 致・適合の印象が生じる。そのことによって、まさにモルトマンの構想において明白な『進 歩なるもの(Fortschrittliche)』は反論の余地なく怪しくなる」42とザウターは批判する。

神と世界を両立させようとして、首尾一貫性のないことについて語ってよいのであろうか とザウターは問いかけるのである43

以上のような批判の由来として考えられるのは、ザウターがモルトマン的な「歴史化」

という事象に特に疑問を抱いているからであろう。1967 年にヴェルナー・コーラー

(Werner Kohler, 1920-1984)が出したザウターの『将来と約束』に対する書評には、

「ザウターは歴史理解を断念するのではなく、体系的な歴史の神学を放棄するのである。

それ故彼はモルトマンのように『希望の神学』を書くことはできない」44と書かれている が、ザウターはモルトマンのように歴史をキリスト論的に体系的に構想することはしない のである。『将来と約束』においてザウターは、「約束の歴史」45という表現を用いて、約 束の歴史における神の到来をひとつの転回と表現するが、「歴史をキリスト論的に構想す る凡ての試みを否定する」のである46

さらにザウターは、モルトマンが「哲学者たち(ヘーゲルとマルクス)」の弁証法をため らいなく受容したことに対して、「神学における弁証法の問題は、より深い根底をもってい る」47と批判する。モルトマンによる神と世界の弁証法は、ヘーゲルとカール・マルクス

(Karl Heinrich Marx, 1818-1883)の弁証法におけるように包括的であり、キルケゴー ルが示すような逆説的理解には向かわない48。ザウターによれば「弁証法」は魔法の言葉 ではない49。モルトマンは「弁証法」を魔法の言葉のように使用するので、「希望と世界と の関連への問いを幻想に(illusorisch)してしまうであろう」とザウター語る50

また、ルターにおける「最も純粋な神への最も純粋な希望」という言葉の解釈をモルト