第 4 章 プラトンにおける永遠と観照
第 2 節 『饗宴』の観照
プラトンの観照に係わる重要な対話篇としては、『饗宴』のほかに『パイドロス』があり、
また『国家』にも観照を示唆する興味深い部分がある。本来はこれらも含めて考察してい くことが望ましいが、ここでは『饗宴』の観照に焦点を当てることにする。
1.エロスと美
『饗宴』のソクラテスは、異国の人で、恋の道の知者()と言われるディオティマ に次のような教えを受けたと述べている13。
エロス()14とは、美しいものにかかわり、それを所有する願望である。美しいもの
12 付け加えれば、『パイドン』より後だが『ティマイオス』より前の著作と考えられている
『パルメニデス』の140e1-142a8では、一なるもの、いわばイデアが時間のうちにある ことの不可能性が語られている。もっともいくつかの前提から導き出された議論のひと つとして言われているので、プラトンの主張だとただちには言えないのだが、「あった」
や「あることになる」といった『ティマイオス』の永遠―時間論との関係を思わせる記 述もみられる。なお、水地(1979, 7)は、『第7書簡』(434c)の「円そのもの」の言説 をとりあげて、直知される世界はいかなる意味でも持続するものではないことを指摘し ている。
13 ディオティマの教えにソクラテスは同意しているのか、あるいはプラトンの考えとみな すことができるのかという議論がある。しかしソクラテスはディオティマの教えを語っ た後で、「説得された()」と述べ、他の人にもそれを勧めようとしていることか らみても、またディオティマの奥義の内容はイデア論を示していることから考えても、
彼女の教えはソクラテスも同意し、プラトンの主張でもあるとみて差し支えないだろう。
この議論に関してはO’Brien(1984, 190)が詳しく分析しているが、彼はディオティマ の教えを「プラトン的ソクラテス(Platonic Socrates)」だと述べている。また文学的で 劇的な要素の強い『饗宴』や『パイドロス』のような対話篇で、それを文字どおりプラ トンの考えとみなしてよいのかという疑問も出されているが(Cobb, 1993, 3-9.)、文学的 で劇的であるということと、プラトンが同意していないということは別の問題であろう。
14 「エロス()」という語は、Dover(1980, 1)によれば当時一般的に、「性的パート ナーとしての特定の個人への強い欲求」に対して用いられ、親族、主従、支配者被支配 者などの関係には用いられなかったようだ。したがって日本語では「恋」という訳が適 当であろう。彼らが実際、この語にどのような概念を共有していたかは、むしろ『饗宴』
第4章 プラトンにおける永遠と観照 81 は善きものと言い換えられるので15、善きものを所有した人に生じるのは幸福である。幸福 はそれを所有した人に何が生じるのかということを問う必要のない究極の目的である。そ してすべての人は善きものを常に所有したいと望む(204d2-205a7)。
ところでエロスの活動は、身体の点でも魂の点でも美しいもののうちに出産することで
ある(206b7-8)。なぜならば、妊娠と出産は、死すべきものである生きもののうちに、不
死なるものとして内在している神的な行為であり、美しいものは神的なものと調和してい る。したがって妊娠と出産は醜いもののうちでは不可能であり、美しいもののうちで可能 である。このことからエロスは、単に美しいものを目指すのではなく、美しいものの中で の出産と分娩を目指すものである(206c2-e5)。
ここで語られる美しいものは、目的というよりも媒介者のように位置づけられている。
妊娠()とか出産()という語は、「魂の点でも」とあるとおり、女性に限 定した意味で用いられているのではなく、男女にかかわらず何らかの生み出す行為を含意 していると考えられる。それは人間がある一定の年齢に達したときに、身体的にも精神的 にも欲求として生じてくるようなものを指し示しているのであろう。
さてディオティマは続けて次のように述べる。出産は死すべきものにとって、永遠的な もの()、不死なるものである。そしてエロスは善きものが常に自分自身に属する ことを望むのだから、人は善きものとともに不死を目指すことは必然である。したがって、
エロスは不死の欲求である(206e7-207a4)16。こうしてディオティマは、エロスの欲求が
の、ソクラテスに先行する論者達の意見をみれば明らかである。
15美しいものを善きものとそのまま言い替えることができるのかどうかは、問題とすべきと ころかもしれないが、ディオティマとソクラテスはここでほとんど両者を同一のように 了解している。Ferrari(1992, 260)は、『饗宴』では善と美の関係が明らかでないこと から、『パイドロス』の250c-dに解釈の道を求めて、美は善がそれによって我々に照ら して示す本質と考える。あるいはDoverも指摘するように(“In later Greek
replaced and as the most general word for ‘good’.” 1980, 2, note 2)、善 と美を同一視する世間一般の見方が採用されていると理解することも不可能ではない。
そしてDover(144)は、この導入部の議論は、もろもろの美しいもの()ともろも
ろの善きもの()について語られていることを指摘する(ただしディオティマは、
「美」を「善」へ入れ替えるようにと促すときには単数を用いているが、これは形式的 な指示であろう)。その点から考えても、ここはまだ、美()と善()
といった議論の段階ではないと考えられる。
16 ここでは、善と不死の関係がはっきりしない。善きものとともに不死をめざすことは必 然だと言われ、善きものは不死と並べられているが、善きものがそのまま不死ではない。
善きものが自分自身に属することには、「常に」ということが必要条件として加えられて いるからなのか、それとも出産は永遠的で不死的だからなのか。だがそれでも、エロス が不死の欲求であるという結論を導き出すことはできないのではないか。エロスは善き ものが自分自身に属することであるとしても、それがどうして不死の欲求につながるの だろうか。Ferrari(1992, 255)は、善を所有する欲求は、本当は善と不死のふたつの欲
求(two desires)であると解釈する。しかし善と不死は異なる相のもとで言われている
第4章 プラトンにおける永遠と観照 82 善きものと不死にかかわるものであることを示すのである。
2.不死への願望―時間の持続としての不死
不死という言葉は、『パイドン』の魂の不死を思い出させる。ソクラテスは肉体を牢獄と 言い、哲学によってできるだけその牢獄から解放されることを勧め(82e-83a)、魂が清め られないまま世を去ると、またすぐ他の肉体に根をおろしてしまうと警告している(83d-e)。 いわば魂の転生と不死が結び付けられているのだが、『饗宴』ではそのような魂の不死は言 及されていない17。
ディオティマは、われわれが日常経験できる生きものの営みを例に挙げながら、これら がすべて不死への願望のために行われていると語る。その営みとは、およそ次のようなも のである。
1、あらゆる生きものが出産を求め、また子供を育てるために争い、子供のためには自らの 命を捨てることも厭わない。(207a7-b6)
2、髪、肉、骨、血など、身体全体が、たえず古いものから新しいものへ交替しながら同じ 人と呼ばれるような身体の同一性を維持している。(207d6-e1)
3、性格、人柄、意見、欲望、快楽、苦痛、恐怖といったものも、あるものは生じ、あるも のは滅びているが、同じ人として同一性を維持している。(207d3-207e5)
4、忘却は知識の消滅であり、復習は去り行くもののかわりに新しい記憶を生じせしめ、同 じものだと思われるように知識を保持する。(207e5-208a7)
5、自分の名誉が永久に不滅なものとして残るために、人はあらゆる危険を犯し、金銭を費 やし、どのような労苦も厭わない。(208c2-d2)
不死への欲求は、生命維持や出産によって達成しようとする身体的なもの(1-2)から、
ように考えられる。むしろO’Brien(1984, 193)の、エロスは二重の目的(a double object) をもつという解釈が適切であろう。
17『パイドン』の魂の不死説と、『饗宴』との不一致はしばしば議論に挙げられる。『饗宴』
を初期の作品に位置づける解釈(Morrison 1964, 42-55)や、プラトン自身が『パイドン』
の議論に疑いを持ちつつ、『国家』『パイドロス』『法律』の議論にまでまだ発展させてい なかった頃の著作とみる解釈(Hackforth 1950, 43-45)もあるが、O’Brien(1984, 192) はディオティマが魂の不死の話題を避けていたとみる。Dover(1980, 149-150)も、プ ラトンは読者の誤解をわざわざ招きたくなかったのではないかと考える。筆者も『饗宴』
の主題は、エロス、美、不死へ向けられており、魂の不死を語る議論の場ではなかった と考える。