第 7 章 幸福とカタルシス
第 1 節 幸福は数えられない
プロティノスの究極目的は一者と「合一すること」であるというポルピュリオスの報告 に対して、プロティノス自身は幸福に関する主要な論文「幸福について」や「幸福は時間 によって増大するか」のなかで、一者との合一を示すような説明をしていない。
本稿第 1 章でみた「幸福について」の幸福に関する主要な言説は以下のようなものであ った。
①幸福であることと善く生きることは同じとみることができるが、その善く生きるとい う場合の生は、「理性的な生」である。②幸福は完全な生であり、知性的な本性のうちにあ る。③幸福な人は現実活動において完全な生であり、徳によって望ましくないものや劣悪 なものに対抗することができる。④思惟するものの現実活動は気付かれないが<われわれ
>であり、意識に先立つものである。⑤幸福は魂の現実活動だが、すべての魂のことでは ない。⑥魂の現実活動は観照と同一のものとみなされうる。⑦賢者は善を観照している⑧ 賢者の関心事は、知恵や徳、最善の観照や最善であることである。
ここには、なにか合一を示唆するような言及は特に認められない。幸福であることは、
知性的な本性のうちにある魂の現実活動ということが主に述べられている。
また「幸福は時間によって増大するか」では、幸福であることは「現にあることのうち にあり()、生命の現実活動()なのである」(Ⅰ5. 1. 1-4)、 そしてその生は「善き生に基づくものであるからには、……それは時間によって数えられ るべきではなく、永遠によるのでなければならない」(Ⅰ5. 7. 20-22 )とある。
ここでは、幸福であることは、時間によって測られるようなものではなく、実在のうち にあり、永遠に基づくものだとされる。幸福であることが永遠に基づくものならば、少な くとも回数が多いほうがいいとか、そのようなものではないはずである。
さらには「幸福であることは実践のうちにあることだとみなすことは、幸福であること を徳や魂の外に定める人のすることである。というのも、魂の現実活動は、思慮を働かせ ることの中にあり、魂自身のうちでこのように活動することなのだから。そしてそれが幸
第7章 幸福とカタルシス 120 福な活動なのである」(Ⅰ5. 10. 20-23)と言われ、幸福であることは徳や魂にかかわり思慮 を働かせることのうちにあって、魂の現実活動であると言われていることが確認される。
したがって、合一にかかわるようなことは特に言われていないといえよう。ただし「幸 福について」で、賢者は善を観照している(Ⅰ4. 13. 11-12)と述べられている箇所は、善 との合一という解釈も可能かもしれない。
そこで合一と言われる場合どのような特徴があるのか、別の論文のうち、合一を示唆す ると一般に言われる一節を取り上げてみよう5。それは「幸福は時間によって増大するか」
とほぼ同時期に書かれた「いかにしてイデアの群れが成立したか。および善者について」(Ⅵ
7[38])の善に関するものである。そこでは、まず知性へ至る学びの途が示され、魂は知性
に至ると、次のようになると述べられる。
観照するものであると同時に観照対象となり、自分自身と他のもろもろのものを観る 者は、実在であり、知性であり、完全無欠な生きもの()となっていて、
もはや外から自分をみるのではないので、このようになることによって近くなり、か のものは隣接し、すでにすぐ近くにあって全知性対象のうえに光輝いているのである。
(Ⅵ7. 36. 10-15)
知性の段階では、観照するものと観照対象とは同一のものとなり、実在であり知性であ り完全無欠な生きものとなっている。プラトンの『ティマイオス』のモデルが、まさに完 全無欠な生きものと言われていた6。モデルは、常に同一を保つ永遠に有るものである。プ ロティノスの場合は、完全無欠な生きものは知性である。ここまでくると、善はすぐ間近 にあって光り輝いているのである。
そしてこの一節の後に、知性に至った人は知性にとどまらないという言及がある。
教え導かれて美しいもののうちに座を占めて、まさに有るところのもののうちで思惟 するというところまでくると、そこで人はすべての学び事を放棄する。そしてほかな らぬ知性のいわば波にさらわれて、いわば膨れあがるその波によって高く揚げられて、
どうしてなのかわからぬままに突如として()観るのである。しかしその観照
()は、目を光で満たすのだが、光を通じて別のものを見させるのではなく、それ
5 Armstrong(1988, 79)は、Ⅵ7論文を評して、合一に関する「プロティノスの最も十全
強固な説明となっている」と考え「彼の神秘主義と形而上学の一致を、『エネアデス』の そのほかのいかなる論文よりも明確に示している」と述べている。なお合一に関しては 以下を参照。堀江、2007。岡野、2008、151-187。
6 プラトン『ティマイオス』31b1。
第7章 幸福とカタルシス 121 自体が観る対象なのである。(Ⅵ7. 36. 15-21)
「突如として()」は、プラトンの『饗宴』の美のイデアに遭遇したときの言葉 だが7、ここでは学ぶという段階を終え、一挙に上昇し、光そのものを観るような事態とし て述べられている。波にさらわれ高く揚げられるという表現が、その突然性をよく表して いる。明らかにこの内容は、知性を超えてその上位者へと上昇していくことを語っており、
プロティノスにとって最高の境地を説明するものだと考えられる。まさに神秘の合一とは、
かくばかりのものかと想像させるような描写であり、プロティノス自身の体験をも憶測さ せるものである。そしてこれを、一者あるいは善との合一といっても差し支えないかもし れない。
では「幸福は時間によって増大するか」でみたように、「魂の現実活動は、思慮を働かせ ることの中にあり、自身のうちでそのように活動することである。そしてそれが幸福なあ りかたなのである」(Ⅰ5.10. 22-23)と言われていたことと、上記の内容は一致すると言え るのだろうか。幸福であることは、知性そのものになることでも、一者に近づくことでも なく、魂の現実活動と言われているのである。もちろんその魂は知性的な本性のうちにあ る魂だから、魂も知性と同一レベルで考えることもできるだろう。だが幸福に関する2つ の論文においては、知性を超えるとか、存在(有るもの)を超えるといったことは何も述 べられていない。むしろわれわれは「幸福について」のうちの次のような一節に注目した い。
すると彼にとって善とは何なのか。彼が所有しているまさに彼自身が、彼にとって善 なのである。しかし、かなたの善()は、彼自身のうちにある善の原因な のであり、彼のところにある善とは別のありかたの善である。(Ⅰ4. 4. 18-20)
賢者の所有する善とかなたの善が別のものとして説明されている。賢者とかなたの善は 同一化されておらず、あくまでもかなたの善は彼にとっての善の原因としてある。もし合 一が幸福であることの要件ならば、賢者は常にかしこの善と一体化していなければならな いが、この一節からみても善と一体化しているわけではないことがわかる。このことから みても、合一に関して言われている記述と、幸福に関して言われている記述とは一致しな いと考えられる。そうすると、プロティノスは善を目標に置いていなかったという可能性 も考えられるが、6章では、目的はひとつでなければならず、それは善の所有であるという
7 プラトン『饗宴』210e4。
第7章 幸福とカタルシス 122 ことが述べられているし(Ⅰ4. 6. 4-13)、他の論文でもそのことは言われているのである。
たとえば「ディアレクティケーについて」(Ⅰ3[20])では、「われわれが向かうべきところ は善であり、第一の原理である」(Ⅰ3. 1. 2-3)と明記されている。
したがって、プロティノスにおいては、究極目的は善であり、あるいは善の所有である が、そのことと幸福であると言われることは別であり、幸福であると言われるときには、
善を所有している魂のありかたが問題になっていると考えた方が適切であろう。
賢者の魂は知性の段階にいたれば、知性の力に与り善の光に照らされて、知性の現実活 動によって善を観照することは必然である。ただ特に引用で挙げたような合一を示唆する 事態は、知性の観照の2つのありかたに関わってくるのではないかと推測される。
すなわち知性の観照の対象に2つのものがある。ひとつは自己自身でもある知性対象
()であり、いまひとつは善あるいは一者である。その区別は「知性は、思惟の能力 をもち、それによって自己のうちを眺めるのだが、他方で知性は自己を超えるものを、一 種の傾注()と受容()によって眺める能力をもつ」(Ⅵ7. 35. 20-22)と 言われる。前者が正気の知性の()観照であり、後者は恋する知性()
あるいは神酒に酔った()知性だとも言われる(Ⅵ7. 35. 23-25)。 知性の観照のこの 2 つのありかたは、いずれも善を観照しているのだが、正気といわれ る知性の観照は、善が多となっていわばイデアとして知性のうちに対象化され、それを冷 静に思惟する観照のありかただが、酔った知性の観照は直接的な善の観照ということがで きるかもしれない。
魂が知性のうちの生命となることができるのならば、結果として魂も知性のもつ2つの 観照のありかたに与るといえる。ただし魂が合一の体験をして下降し、我に返りその体験 を語るときには、「幸福である」とは言われず、「よい情念()」をもったと言われ
(Ⅵ7. 34. 38)、知性が恋する知性から正気の知性にもどったときも(Ⅵ7. 35. 26)同じ言
葉が用いられている。
この「よい情念()」という語は、一般にストア派が賢者のすぐれたありかたに 用いることが知られているが、プラトンが『パイドロス』で、魂が知性に導かれて、天の 回転に運ばれて一回りにする間に真実在を目にした後の体験として「よい体験をする
()」という動詞を用いていることから8、プロティノスはこの語を意識して「よい 情念」という語を用いたのかもしれない。しかしこの言葉に示されているように、合一は 一種の体験であって、状態ではないし生命とも言えない。一方幸福であることは、「ありか た()のうちに」あるとされ、「生命の現実活動()」と言わ
8 プラトン『パイドロス』247d4。