• 検索結果がありません。

観照優位の幸福論

ドキュメント内 プロティノスの幸福論における観照と永遠 (ページ 97-101)

第 5 章 アリストテレスの観照―観照と実践の問題―

第 1 節 観照優位の幸福論

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の第1巻で、あらゆるものは何らかの目的をも っており、目的のうちでも、別のことのためではなく、それ自体が目的であるようなもの こそが最高の善であると述べている。この最も善きものを目指す学が、政治学や倫理学で あり、善きものとは「善く生きること()」、「善くなすこと()」、あるい は「幸福であること()」と呼ばれるが、その内容は人々によって様々だとされ る(1094a-1095a)。

アリストテレスはこのような善の概略を述べた後で、幸福な生活について考えられる3つ のものを提案する。すなわち「享楽的生活」「政治的生活」「観照的生活」である。享楽的 生活は大衆的で、政治的生活は名誉にかかわるが、名誉は自分の優秀さ(徳)を認めても らうのが目的なのだから徳のほうが政治的生活の目的かもしれない。だが徳をもっていて も眠っていたり不運に遭うこともあるのだから、まだ(幸福としての)究極的な目的とは いえないと述べる。アリストテレスが幸福な生活にふさわしいものとして念頭においてい るのは、第三の「観照的生活」であろうが、ここでは考察はされていない(1095b-1096a)。 次に幸福であることが、人間の働き()という観点から探求される。「善く生きる」

というのは、人間のなんらかの働きが「善さ」をもつことだと考えられるからである。人 間の生命にもなんらかの特有の働きがあるならば、それはロゴスをもつ部分の、その部分 によるある種の実践的生であろうと言われる。つまり、栄養摂取する部分や感覚する部分 は他の生きものとも共通する働きだが、ロゴスに従い、またロゴスを所有して思考する部 分が人間に特有の働きだとみるのである。

また実践的生といっても二種類あり、「現実活動()」に基づく生がより正しい生 と言われるべきであると述べられる(1097b22-1098a6)。このことから、アリストテレス は人間に固有の生のありかたは、ロゴスをもつ部分の実践的生なのだが、実践的といって も本当の生は現実活動なのだとみなしているのである。

人間の働きがある種の生で、その生がロゴスをともなった魂の現実活動と実践であると するならば、それをより優れてなすこと、すなわち優秀さ(徳 )に基づく魂の現実活 動が人間にとっての善であるとみなされる。徳は複数あるので4、そのうちでも最も優れた、

4 徳が複数あるということは、魂の分類に関係する。魂には非ロゴス的部分とロゴス的部分 があり、非ロゴス的部分は第1巻でロゴスに従わない部分(いわゆる植物的な部分)と、

ロゴスに従う部分(いわゆる欲望的な部分)からなる(1102b)とされ、第6巻でロゴス 的部分は知識的部分()と推論的部分()に分けられる。知識的 部分は他の仕方でありえない諸原理を所有する部分で、推論的部分は他の仕方でありう るものを考察する部分である(1139a)。つまり知識的部分とは必然的な原理をもつ部分

5 アリストテレスの観照 93 最も完全な徳に基づく活動が幸福であって、ただ全人生においてという条件がつけられ、

短い時間では達成しえないと考えられている(1098a12-19)。

一方同巻10章では、死んでしまってから幸福を測るのはおかしなことで、幸福は現実活 動であって、同じ人を幸福だと言ったり悲惨だと言ったりするのは、幸福な人を「カメレ オン()」にしてしまうことだといったことも述べて、幸福が人生の長さにかか わるようなものではないことを示している(1100a10-1100b7)。

後者の言説がアリストテレスの本意だとすると、プロティノスも「幸福は時間によって 増大するか」(Ⅰ5[36])では、時間の長短は幸福にいっさいかかわらないと述べているので、

両者は幸福と時間の関係で同じ立場にあるということになる。

以上のような人間にとっての善の概要が述べられた後、善には外的な善、魂の善、身体 の善があって、最も本来の善は魂の善なのであり、それは魂にかかわる実践や魂の現実活 動であるということが再び確認される。ただし徳に基づく現実活動とは、徳を所有してい る状態ではなく、用いているという意味だということが指摘され、眠っている状態では現 実活動しているとはいえないとされる(1098b9-1099a2)。

この議論は、「幸福について」第9章で、賢者は意識がなくとも、眠っていても幸福であ るというプロティノスの主張と対立する。幸福が徳に基づく魂の現実活動であるという点 では、両者は一致しているのだから、なぜプロティノスは眠っていても幸福であると考え ているのかをみていくことによって両者の相違も見えてくるだろう。この問題は本稿第 8 章で考察する。

次にアリストテレスは、ただひとつの最善のものの現実活動が幸福だと主張しながらも、

外的善もある程度必要だろうと述べ(1099a31-32)、また幸運といったことも幸福にはかか わるかもしれないけれど、それらはやむを得ないもの()や、役に立つもの(

)にすぎないと考える(1099b27-28)。幸福には完全な徳と完全な人生が必要な

らば、プリアモス王のように人生の最後に不運に出会った人は幸福とは言われないだろう けれども、幸福な人はどのような逆境に出会っても耐えることができ、美しさが輝き出る のだし、決してみじめにはならならず、ただ至福とは言えないのだと述べる(1099b9-110 1a8)。

アリストテレスは外的善について、やむを得ないという立場をとるので、この点はプロ ティノスと一致する5。外的善は幸福の目的ではないが、ある程度は生きていくためにも必

である。徳はロゴス的部分のそれぞれの最善の<身に付いたありかた()>だとされ る。アリストテレスが「もし徳が複数あるならば、最も優れた、最も完全な徳」と述べ ているのは、知識的部分に関する徳を念頭においていると考えられる。

5 Ⅰ4. 4. 26.

5 アリストテレスの観照 94 要であろう。

ただプロティノスは、アリストテレスよりももっと明確に外的善を幸福の目的のうちか らはずす。「美しくて、体が大きく、富があって、すべての人を支配する人」は騙されてい るのであって、賢者はそういった利点も放棄するだろうと述べている6

以上のような幸福論の概略が述べられたのち、アリストテレスは最後の第10巻で再び幸 福について語っている。ここでも、第1巻で述べられたことはおおよそ引き継がれ、幸福 は最も優れた徳に基づく現実活動であると述べられる。そしてアリストテレスは、究極的 な幸福は「観照的な活動だということは述べられている」と付け加えている(1177a12-18) が、それまで明確にこのことは述べられてはおらず、観照に関する議論はこの巻の第 7 章 において始められる。

アリストテレスは、観照的な活動は、最も持続的で、快く、自足的だと述べる。観照的 な活動が最も自足的だと言われるのは、それ以外のものを何も必要としないからである。

たとえば徳のある行為、勇気や節制などに基づいた行為を行おうとすれば、相手やいろい ろな条件も必要となってくるけれども、観照の場合には何もそういったものは必要としな いからだとされる。(1177a19-b1)。

そしてさらに観照について次のように述べられる。

知性の現実活動は、観照的な活動であり、真剣さの点で際立っており、それ以外の いかなる目的も求めないし、その固有の快楽を所有していると思われる。また自足 性、ゆとり、疲労のなさ、そのほか至福な人に与えられるかぎりのものは、観照的 な活動に基づくものであって、それらは明らかに現実活動なのである。じつに人間 の完全な幸福とは、生涯の長さに及ぶならばこういうものであろう。(1177b19-25)

アリストテレスは、このようにして観照的な活動が幸福であるということを高らかに主 張しているのである。ただし、彼はこの生活は人間の次元を超えているかもしれないとも 言う。このようなありかたは、人間であるかぎりではなく何か神的なものがその人にそな わっているかぎりであって、神的なものが合一体()7と異なるのと同じように現 実活動も他の徳に基づく現実活動とは異なるのだと述べて、知性に基づく生活が神的であ ることを示す。

6 Ⅰ4. 14. 14-17.

7 アリストテレスは『デ・アニマ』で、「魂は可能的に生命をもつ自然的物体の第一の現実 態である」(412a27-28)と述べ、人間とは生命をもつことが可能な物体とその生命が現 実のものとなった魂からなると考えている。このことから、アリストテレスの合一体は、

魂と身体を分離することはできず一体的なものである。

ドキュメント内 プロティノスの幸福論における観照と永遠 (ページ 97-101)