第 3 章 パルメニデスのあるもの
第 1 節 真実の道
まず『序歌』にあたる断片1の部分では、主人公が乙女に道案内され、駿馬に引かれて 夜の館から光のかなたへ向い、「夜」の道と「昼」の道との門を抜けて女神の館へたどりつ く。そこで主人公は女神から、真実の道と思惑の道を教えられることになる。駿馬に引か れて光の世界へ向う情景は、プラトンの『パイドロス』の描写との類似を思わせるもので ある。たとえば、翼ある馬車を駆る神々の行進が、天球の果てまで行き、そこから出て天 外を観照する描写や、その際、地上の詩人はこの領域のことを誰も語ることはできないが、
真理について話すときは真実ありのまま語る勇気をもたなければならないと諭すところ
(246e-247c)など、非常に類似した描写がなされている。
断片2では、パルメニデス思想の最も根本的命題、「あるそしてあらぬことは不可能
(
)」が提起される。これが真実の道である。探求 の道としてのもうひとつの道「あらぬそしてあらぬことが必然」は、あらぬものを知るこ とも語ることもできないが故にたずねえざる道であると語られる。あるものとは、いかな る場合でもあらぬということはできず、一切の生成変化が否定された絶対不動の実在であ る。断片2で探求の道が提示された後に、断片3で「なぜならば、思惟することとあること
1 パルメニデスは、プラトンによれば、ソクラテスがごく若い頃アテナイを訪れ、その頃お よそ65歳くらいだったという。プラトン自身はパルメニデスに直接出会ったことはな いのだが、彼はパルメニデスに対して深い尊敬の念を抱いていたと思われる。そのこと は、『テアイテトス』でパルメニデスを、「尊敬すべき人()」(183e6)とソクラテ スに語らせていることからも推測できる。さらには、『ソフィステス』の中でも、エレア の客人をテオドロスは「神のような人()」(216b9)と語っているが、議論の 内容からみても、この人物がパルメニデスの再来に相当する人物として描かれているこ とはまちがいないと思われる。
2 Diels, 1922.
第3章 パルメニデスのあるもの 64 とは同じだから(
)」という一節が語られる3。こ れは、プロティノスの「幸福について」にも引用されていた言葉である。彼はそのほかに も、「三つの原理的なものについて」(Ⅴ1[10])の第8章でこの一節を引用している4。そこ では、自己の体系が、プラトンだけでなく、存在と知性を一つのものとしたパルメニデス にまで遡ることができるのだと説明されている。これはプロティノス自身が、自己の思想 を、パルメニデス、プラトンの延長線上に位置付けていることを証言している部分である5。 断片4から7では、おおよそ次のようなことが述べられる。すなわち、知性に現前して いるものをしっかりと見て、あるものがあると語り考えるようにしなければならない。な ぜならば、あらぬものがあることは不可能なのだから。だから探求の道としてこの道を遠 ざけなければならず、ただロゴスによってもろもろの議論を判定しなければならないと。パルメニデスは、ここで死すべきものの迷妄、感覚や経験や習慣といったものの一切を 拒絶し、ただロゴスによってのみ真実を把握しなければならないと主張している。そして 次の断片8に、プラトンやプロティノスの永遠観に関して、重要な意味をもつと思われる 以下のような言説がある。
あるものは不生にして不滅である。なぜならそれは完全にして揺るがずまた終わりな きものであるから。またそれはあったこともなくあることになることもない、今ある のである、一挙にすべて、一つのもの、つながり合うものとして。(8. 3-6)
3 この一節の訳はBurnet(1930, 173)によって次のような別の読み方も提案されている。
「なぜならば、思考されうることと、存在しうることとは同じことである(for it is the same thing that can be thought and that can be)」。
4 Ⅴ1. 8.17. パルメニデスのこの一節は、そのほか「自然、観照、一者について」(Ⅲ8. 8. 8)
にも引用がある。
5 ただ、この断片に関しては、必ずしもパルメニデス本人の言説であると認められているわ けではない。というのも、この言説の直前に置かれる断片2は、プロクロス、シンプリ キオスのそれぞれのパルメニデスについての引用から来ているものだが、両者はプロテ ィノスの引用している断片3の言説を取り上げてはいない。しかし新プラトン主義的立 場にいる彼らにとって、もし断片3の言説がパルメニデスの言説のうちにはじめからあ ったのならば、彼らにとっても注目すべき一節であり、当然取り上げるのではないかと 予想されるからである。しかるに両者とも取り上げていないということは、断片3の言 説は、プロティノスがパルメニデスから汲み取った内容か別の箇所の内容(たとえば断 片8.34「思惟することと、思惟がそのためにあるところのものは同じである」など)の パラフレイズであって、そこでそのとおりにパルメニデスが語っていたわけではないか もしれないということが推測される(Kirk, Raven, and Schofield, 1983, note 2,
246-247)。従ってこの箇所を根拠にして、パルメニデスのプロティノスに対する影響を
検討することは避けた方が望ましいと思われる。
第3章 パルメニデスのあるもの 65
(
6
)「一挙にすべて(
)
」は、プロティノスが知性界や永遠について語るときによ く用いる言葉である。ここでは、あるものがどのようなあり方をしているのかということ が述べられている。それは不生不滅で、終わりなきものであるから、永続的なありかたを しているということを読み取ることができる。この文までは、時間の永続性が語られてい ると読んでも問題はないと考えられるのだが、次の「あったこともなく、あることになる こともない」として、過去と未来が否定され、ただ「今ある」のだと言われるとき、今と はどのような今なのかという問題が生じてくる。過去と未来という時間の概念が否定され ていることから、パルメニデスのあるものとは、時間的今を超えた存在ではないかという 可能性も否定できないのである。プラトンは少なくともそのように解釈したようで、彼は無時間性や時間の枠組みを越え る永遠という概念を、パルメニデスの真実の道としてのロゴスの探求から導きだしたと考 えられる。というのも彼は、『ティマイオス』で、「時間は永遠の動く似姿」と語った後で、
永遠のあり方を説明するために、上記のパルメニデスの一節に非常に類似した語り方をし ているのである。プラトンの問題の箇所については、本稿の次の章でもみるが、ここでそ の一節を挙げておこう。
というのも、われわれは、あった()や、ある()や、あるだろう()と 言うけれども、真実のロゴスに基づくならば「ある()」だけがふさわしいの であり、「あった()」や「あるだろう()」は、時間のうちに進みいく生 成について言われるのがふさわしい―というのも、双方とも動きなのだから。しかし 不動で常に同じ状態のものは、時間の経過のうちで、より年とったり、より若くなっ た り も せ ず 、 か つ て な っ た こ と () も 、 今 な っ て し ま っ た こ と
()も、これからあるだろうこと()もなく、総じて生成
が感覚のうちに担っているようないかなるものも適合しないであろう。(37e-38a)
6 の箇所について、Diels(1922)は、シンプリキオスの別のテクスト
から、を採用し、Kirkらも第2版(1983)でこれに従うが、著者は Kirkらの初版(1957)や邦訳と同じく、プルタルコスの典拠を採る。
第3章 パルメニデスのあるもの 66 パルメニデスが、プラトンのような時間の原型としての永遠論を語っていないことは確 かだが、「あった」や「あるだろう」を生成の世界に位置付けて実在の世界から排除し、あ るという実在をあることのみに認める点で両者はほぼ一致するとみていいと思われる。
そこでパルメニデスは、無時間的永遠の概念に達した最初のギリシア人かどうかという 議論がいろいろと研究者の内でなされている。