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4. 総合考察

4.4. 霊長類における TAS2R38 種内変異の要因

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の遺伝子領域のみを扱ってきたが、このTAS2R38上流領域ではTAS2R38の発現 制御やその他の機能を持ち、マカク全体でこの領域での多様性を維持してきた のかもしれない。

他にも、Mf-Kアリルの前駆ハプロタイプであるpreK-1は紀伊集団や近隣集団 には存在しておらず、地獄谷、波勝集団で見つかった。このことから、紀伊集 団は地獄谷、波勝集団と地理的には離れているが、過去には遺伝的交流があっ たことが示唆された。ミトコンドリアDNAの解析でも、紀伊半島のニホンザル は 近 畿 地 方 の 近 隣 集 団 と は 遺 伝 的 分 化 傾 向 が あ る こ と が 示 さ れ て い る

(Kawamoto et al. 2007)。preK-1ハプロタイプ自体はTAS2R38コーディング領域 ではMf-Bと同じアリルであり機能をもつが、紀伊地方に入ったあとに、開始コ ドンに変異を獲得したK-1(Mf-K)アリルのみ紀伊集団で拡散し、preK-1は遺伝 的浮動により紀伊地方では消失した可能性が考えられる。

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一方で、ヒトでは更新世、チンパンジーでは更新世以降、ニホンザルでは完 新世に、TAS2R38 の非感受性アリルが生じたことが示された。現生の種内で非 感受性アリルが生じて維持されていることは、遺伝子進化と生物の進化を追求 する糸口としてとても興味深い。チンパンジーはニシチンパンジーのみ、ニホ ンザルでは日本の中でも紀伊地方に限定的に非感受性アリルが存在しているが、

ヒトでは世界の各地に非感受性アリルが分布し、その頻度は地域ごとに様々で ある(Wooding et al. 2004)。ヒトでは、感受性、非感受性アリルのどちらのア リルも保存しようとする平衡選択が働き、非感受性アリルも維持されてきたと 考えられている。非感受性アリルはPTC に対して反応性を示さないが、完全長 の受容体を形成しているため、感受性アリルとは別の苦味物質を受容している 可能性が示唆されており、これによりどちらのアリルも維持されてきたことが 推察されている(Wooding et al. 2004)。また、関連物質がヒトの疾患との関連も 示唆されており、感受性、非感受性の両アリルの存在の重要性が指摘されてい る。例えば、TAS2R38 が受容するグルコシノレートは、細胞内に内在するミロ シナーゼにより加水分解されると、イソチオシアネートやニトリル、チオシア ネートといった化合物や、さらにはそれらの派生物であるゴイトリンなどの物 質も産生する(Bones and Rossiter 1996)。ゴイトリンは、甲状腺でのヨウ素の 取り込みを阻害して甲状腺ホルモンの合成を阻害するため、ヨウ素摂取量の少 ない地域では、甲状腺腫などの病気を起こすリスクがあると考えられている。

そのためゴイトリンを感じられないことは生存活動に大きな影響をもつが、一 方で、イソチオシアネートは抗がん性をもち、生命に有利な役割ももつ。この ような事象が、ヒトでTAS2R38の感受性、非感受性アリルが平衡選択により維 持されていることと関わっている可能性が考えられている。

チンパンジーやニホンザルでみられた非感受性アリルは偽遺伝子化により

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TAS2R38 自体を失っていると考えられるため、ヒトの場合のような新規の受容

体としての役割の獲得は考えにくい。まだ明確な証拠は得られてはいないが、

ニシチンパンジー亜種内で非感受性アリルが拡がったメカニズムとして、正の 自然選択の可能性が指摘されている(Hayakawa et al. 2012)。これまでの研究で 発見されたニホンザルおよびニシチンパンジーの苦味受容体非感受性アリルが それぞれの生息地域において独自に正の自然選択によって集団内に拡がってい たとすると、環境適応のメカニズムを考える上で実に興味深い。どちらの種で も、TAS2R38 が本来持つ機能を喪失するというデメリットよりも、喪失により 得られるメリットの方が大きかったことが予測される。この背景には、ニホン ザルで指摘したような、TAS2R38 が受容する苦味物質を含む植物の急激な増加 などの影響があったと考えられる。

チンパンジーとニホンザル以外の霊長類種でもPTC を用いた行動実験から、

非感受性個体が存在することが示唆されている(Chiarelli 1963)。これらの種の 遺伝子配列は調べられていないため、遺伝的背景は明らかになっていないが、

他の種でもTAS2R38の変異によりPTC非感受性個体が存在している可能性があ る。これらの遺伝的背景、種内での多様性、個体の示す行動などを明らかにす ることで、霊長類の複数の種内でみられた TAS2R38 非感受性個体の進化的な背 景が明らかになると考えられる。

また、TAS2R38 は遺伝子の多様性だけでなく、近年では、そのタンパク質構 造や受容体のリガンド結合サイトに関する研究も広く行われている(Biarnes et al. 2010; Floriano et al. 2006; Marchiori et al. 2013)。本研究では開始コドンの変異 による偽遺伝子化のみに着目したが、他のアミノ酸の変異も受容体の活性を変 化させている可能性がある。そのため、これらの情報も、今後、TAS2R38 の霊 長類での多様性を明らかにするうえで役立つと考えられる。

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