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2. ニホンザルにおける PTC 苦味非感受性個体の発見

2.4. 研究の結果

2.4.1. ニホンザルTAS2R38の種内多様性

ニホンザル597個体、アカゲザル54個体について、1002 bpからなるTAS2R38

(同義置換サイト239、非同義置換サイト 760、終止コドン3)の塩基配列を決 定した。その結果、ニホンザルでは遺伝子領域中に3 か所の同義置換、12 か所 の非同義置換を同定した。これらの同定した15か所の塩基置換サイトをもとに して20種類のTAS2R38アリルが推定され、Mf-A~Tと名付けた(表3; なお、本 論文ではアリル名、ハプロタイプ名を示す際にはイタリック体を用いる)。これ らの 20 種類のアリルをアリルの地域分布に基づいて 3 つのグループに分けた

(表4)。一つ目はMf-AMf-Bのみを含むグループで、これらのアリルは多数 の集団で観察され、それぞれの集団内で高い頻度を示した。二つ目のグループ は、Mf-G、Mf-K、Mf-M、Mf-N、Mf-R、Mf-S、Mf-Tの7つのアリルを含んだ。こ れらのアリルは地域特異的に一つの集団のみで観察された。これら以外の11ア リルは複数の集団で観察され、それぞれの集団では低い頻度を示した。

ニホンザルは 31-88 万年前という進化的には比較的最近にアカゲザルから分 岐した種であるため(Marmi et al. 2004)、これらの種間では遺伝子配列が似てお り、系統関係も複雑になっていることが予測される。そのため、アカゲザルで 決定した 10 アリル、ニホンザルの 20 アリルを用いて、進化的系統関係を示す MJネットワークを作成した(図4)。予測通り両者のアリルは単系統にはならず、

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複雑に交わっており、ニホンザルのアリルはアカゲザルMm-aアリルを挟むよう にして 2 つのクラスターを形成していた。しかし、ニホンザルとアカゲザルで 共有するアリルは存在しなかった。この図から、Mm-aを共通祖先アリルとして、

ニホンザルのアリルが生じ、そこから変異を蓄積してそれぞれのアリルを形成 したことが推測された。

TAS2R38 の多様性や自然選択の影響を把握するために、塩基多様度 π および

Tajima’s D値を算出した(表5)。集団ごとのπ値は、0 %(金華山)から0.247 %

(香美)と多様な値を示した。ニホンザル全個体での π は 0.142 %で、ヒトの 0.15 %と同程度の値であった(Kim et al. 2005)。Tajima’s Dの値はそれぞれの集 団、ニホンザル全体でも有意な値ではなく、現在のデータからは、TAS2R38 の 中立性を否定する結果は得られなかった。

2.4.2. TAS2R38開始コドン消失変異の発見

紀伊集団のみに存在したアリル Mf-K では開始コドン ATG に変異が生じてお り、ACGとなっていた。同様の開始コドンの変異はチンパンジーのTAS2R38で も観察されており、チンパンジーの場合は AGG となっていた(Wooding et al.

2006)。チンパンジーでは、開始コドンAGGのアリルをホモ接合で持つ個体は、

TAS2R38のリガンドとなる苦味物質PTCに対する苦味感受性が低下することが

示されている。そのため、ニホンザルTAS2R38Mf-Kアリルも同様に苦味感受 性が低下していることが推測された。また、Mf-Kアリルは、Mf-Aと比較した時、

Mf-Bと共通の塩基置換(T812C)をもっているため、ネットワーク解析ではMf-KMf-Bから派生したアリルであることが示された(図4)。そのため、このMf-K アリルはアカゲザルのアリルとは独立しており、ニホンザルとアカゲザルが種 分岐したのちに、ニホンザルのみで生じたアリルであることが示唆された。

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2.4.3. TAS2R38アリルの受容体活性

TAS2R38 の各アリルがコードする受容体タンパク質の活性を調べるために、

培養細胞にそれぞれのアリルを発現させて受容体としての機能を測定した。こ の解析には、ニホンザルにおいて比較的高頻度でみられた3アリル(Mf-A、Mf-B、

Mf-C)、開始コドン消失変異をもつMf-K、アカゲザルのMm-aの5種類のアリル の発現ベクターを作成して受容体タンパク質を発現させ(MfTAS2R38WT-A、-B、

-C、MfTAS2R38TR-K、MmTAS2R38WT-a)、PTC 溶液を用いて受容体活性を測

定した(図 5)。まず、開始コドンに生じた変異が受容体活性を変えるかどうか を調べた。その結果、333アミノ酸からなる受容体を生成すると考えられる4種 類のアリル(Mf-A、Mf-B、Mf-C、Mm-a)を発現させた受容体はすべて PTC に 対して反応性を示した。一方で、開始コドンに生じた変異により、始めの96ア ミノ酸を失ったポリペプチド(MfTAS2R38TR-K)ではPTCに対する反応を示さ なかった。Mf-K アリルの上流に開始コドンを付加させて生成させた受容体

(MfTAS2R38RC-K; rescued type)ではPTCに対する反応性を示した。Mf-A、Mf-B、

Mf-C、Mm-a アリルは機能的な受容体をコードしているが、Mf-K アリルがコー

ドするポリペプチドは受容体機能を持たなかった。以上の結果から、開始コド ン消失変異は受容体活性を消失させていることが示唆された。

次に、4種類の機能的な受容体MfTAS2R38WT-A、-B、-C、MmTAS2R38WT-a についての EC50値(半数効果濃度)を比較することで、アミノ酸置換が受容体 活性に与える影響を調べた。MfTAS2R38WT-A、-C、MmTAS2R38WT-aの3種類 のアリル間ではEC50値に差が見られなかった。そのため 203 番目(Val203Ile)

と296番目(Val296Ile)のアミノ酸置換は受容体活性に影響を及ぼしていないと

考えられる。一方で、MfTAS2R38WT-BのEC50値は上の3種類のアリルに比べ

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て3.2-5.0倍高かった。また、通常の開始コドンの位置よりも上流に開始コドン

を付加させて作成したMfTAS2R38RC-KのEC50値はMfTAS2R38WT-Bと同程度 の値を示した。この両者のアリルは他のアリルと比較して 271 番目のアミノ酸 に同じ塩基置換(Ile271Thr)を持っている。以上のことから、この 271 番目の アミノ酸置換はTAS2R38の受容体活性に若干の低下を引き起こすと考えられる。

2.4.4. Mf-Kアリルをもつ個体の PTC感受性

TAS2R38 遺伝子配列を決定したニホンザルを対象に、リンゴ片を用いた苦味

感受性の定性的な評価を行った(図 6)。水に浸したリンゴ(コントロール)と PTC 溶液に浸したリンゴを与え、それぞれのリンゴを食べた割合の平均値を比 較したところ、TAS2R38開始コドンATGのホモ接合型4個体では、コントロー ルのリンゴに対して PTC に浸したリンゴを食べた割合が有意に低かった(P <

0.05、ステューデントt検定)。一方で、ACGのホモ接合型3個体では2種類の

リンゴを食べた割合に有意な差が見られなかった(図 6B)。以上の結果から、

開始コドン消失変異は行動レベルでもPTC感受性を低下させていることが明ら かになった。

次に、より定量的に開始コドン消失変異による苦味感受性低下を評価するた めに、TAS2R38開始コドン ATG ホモ接合型 4個体、ACG ホモ接合型 2 個体、

ATG/ACGヘテロ接合型1個体を対象にして二瓶法による給水実験を行った(図

7)。PTC溶液の飲水割合がチャンスレベルの半分である0.25になるときのPTC 濃度(半数効果濃度: EC50)を算出したところ、ATGホモ接合型4個体の平均値

は18.9 ± 22.1 µMであった。PTC感受性を持つ個体の中でもこの濃度にばらつき

(1.8~51.1 µM)が見られた結果は、ヒトを対象にした実験と同様の傾向であっ

た(Wooding et al. 2010)。一方で、ACGホモ接合型2個体のEC50値の平均値は

30

1542.1 ± 8.9 µMであり、これはATGホモ接合型個体よりも約80倍も高い値で

あった。ATG/ACGヘテロ接合型個体でのEC50値は179.2 µMであり、それぞれ のホモ接合型個体の平均値の中間的な値であり、この結果はヒトでの行動実験 結果と同様の傾向であった(Bufe et al. 2005)。