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3. ニホンザル PTC 苦味感受性変異の急速な拡散

3.5. 考察

3.5.1. 偽遺伝子化に働いた正の自然選択の発見

ニホンザル紀伊集団でみつかったTAS2R38の機能喪失変異は、正の自然選択 の影響により集団中に拡散したことが明らかになった。つまり、第 2 章であげ

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た二つの仮説のうち、「非感受性アリルは正の自然選択の影響を受けて集団中に 拡がって維持されている」という仮説が支持された。本来であれば、デメリッ トを被ることが予測される機能喪失変異が、より適応的に働き、機能を保持し ている個体よりもメリットをもったことが示唆された。これは、「less is more」

仮説に合致する(Olson 1999)。こうした現象が、種内で多型的に存在する偽遺 伝子に働く例は珍しいが、ヒトでは数例報告されている(Satta 2011)。その中の 一つが、ケモカイン受容体5(chemokine receptor 5、CCR5)の遺伝子領域中に生 じた32塩基欠失変異である(Samson et al. 1996)。この欠失変異を持つ人はヒト 免疫不全ウイルス(Human Immunodeficiency Virus, HIV)に対する抵抗性をもち、

持たない人に比べてより生存する可能性が高い。この変異はここ数千年間の間 に拡がったことが推測されている(Stephens et al. 1998)。ほかにも、DUFFY抗 原遺伝子の偽遺伝子化とマラリア感染抵抗性や(Tournamille et al. 1995)、タンパ ク質分解酵素の一種であるCaspase12遺伝子の偽遺伝子化と敗血症抵抗性(Xue et al. 2006)の例が報告されている。この「less is more」現象はヒト以外の動物種 では報告されておらず、本研究は、この現象をヒト以外の動物種で初めて発見 した重要な研究である。

3.5.2. PTC苦味感受性変異に働いた正の自然選択の要因

TAS2R38 の機能喪失変異が紀伊集団中で、正の自然選択の影響で短期間に急

速に拡散した過程にはどのような背景があったのだろうか。TAS2R38 遺伝子周 辺領域の解析から、この非感受性アリルは、13,000年前以降に紀伊集団で生じ、

その後短期間に集団中に拡がったことが示唆された。この値は最大に見積もっ た値であるため、実際は数百~数千年前である可能性も考えられる。PTC非感受 性アリルは、ヒトやチンパンジーでも見つかっており、生じた年代はそれぞれ

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160–30万年前、50万年前以降となっている。ニホンザルでは完新世、ヒトでは

更新世、チンパンジーでは更新世以降となり、ニホンザルのみ年代が大きく異 なっていることから、ニホンザルで感受性変異が拡がった背景は他 2 種と同じ ものであるとは考えにくい。

ニホンザルでは、日本の中でも紀伊地方のみで非感受性アリルが見られたこ とから、この地域特有のニホンザルの食性や、生息環境が関わっていることが 示唆された。日本ではこの時期は縄文時代~弥生時代にあたり、稲作や農耕な どが始まり、盛んにおこなわれるようになった時期であるため、人々の生活を 考慮する必要がある。TAS2R38 が受容する天然の苦味物質はアブラナ科の植物 や柑橘類に含まれており、ニホンザルはこれらの植物を採食する。ヒトでは、

PTC非感受性アリルをホモ接合でもつ個体(AVI/AVI型)は、感受性アリルをホ モ接合でもつ個体(PAV/PAV 型)に比べて、アブラナ科の野菜に含まれる苦味 物質の苦味を感じにくく、ヘテロ接合個体では両者の中間的な感受性であるこ とが報告されている(Sandell and Breslin 2006)。ニホンザルではTAS2R38の遺伝 子型に基づいて、PTC に対する感受性も 3 タイプにわかれていたため、アブラ ナ科の植物の苦味に対してもヒトと同様な傾向がみられると考えられる。柑橘 類に含まれる苦味物質に対する感受性に対してはどのような傾向がみられるか 明らかにはなっていないが、アブラナ科の植物同様に、TAS2R38 の遺伝子型が 柑橘類の植物に対する採食行動に影響を与えている可能性が考えられる。ミカ ンなどの柑橘類、キャベツ、ダイコンなどのアブラナ科は、どちらも現在、日 本で農業により盛んに生産されている植物である。日本で最初の柑橘類の植物 種は、タチバナ(Citrus tachibana)であり、2800 年前頃から日本に自生してお り、原産地は紀伊半島だと考えられている(岩堀、門屋 1990; Hirai et al. 1990)。

アブラナ科の植物のうち、ダイコンやカブは弥生時代頃にはすでに日本で栽培

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されており、キャベツも江戸時代末期頃に日本に渡来したと考えられている(日 向 1998)。このように、TAS2R38が受容する苦味物質を含む植物は、数百年か ら数千年の間に人が農業活動により拡散させており、これらの植物の拡散がニ ホンザルでの非感受性アリルの拡散と深く関わる可能性が考えられた。つまり、

TAS2R38 が受容する苦味物質を含む植物の急激な増加が起き、これらの苦味物

質の苦味を感じにくく、積極的に採食できる個体が有利になり、非感受性アリ ルが急速に増加した可能性が考えられる。以上のように、一つ目の可能性とし ては苦味低感受性の個体が積極的に食べられる植物の急激な増加があげられた。

次に二つ目の可能性として、環境変化等による採食食物の急激な減少が考え られた。非感受性アリルが見つかった紀伊集団が生息する紀伊半島には400-600 年の間隔で、大規模な津波が襲来している(Shishikura 2013)。2004年に生じた スマトラ沖大地震の際の報告では、インドのカニクイザル(Macaca fascicularis)

の生息地にも大規模な津波が襲来し、生息地の植物を一掃したが、サルの個体 数自体には影響を与えなかったとされている(Sivakumar 2010)。非コード領域 の解析から、紀伊集団では、過去の急激な個体数の減少の証拠は得られなかっ た。しかしながら、過去の大津波による劇的な植生の変化はニホンザルの採食 に大きな影響を与え、特定の苦味物質に対して低感受性をもつ個体は、他の個 体に比べて採食可能植物が多く、生存上有利になり、変異アリルが急速に増加 したという可能性も考えられる。

本研究で、ニホンザルの紀伊集団において TAS2R38の適応的な変化が起きた ことを明らかにした。TAS2R38 はアブラナ科や柑橘類の植物に含まれる苦味物 質を受容する。本遺伝子の変化によりこれらの植物の苦味を感じにくくなるこ とがニホンザルの環境適応を醸成し、このアリルが紀伊集団に急速に拡がる要 因になったと推察された。

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