第 6 章 リスクの規制からみる圧縮された近代社会
6.3 中国における PM2.5 問題をめぐる知と合意
6.3.2 限定される社会的合意
前述したように、アメリカは予防措置としての対応策を実施したが、科学研究によって
PM2.5の危険性を証明する過程において、健康被害の程度、吸引量との相関関係などにつ
いては、世界的に統一的な見解が見出せない状態が継続していた。
4.1.3節で言及したように、1971年のアメリカ大気環境基準が設定された時には、PM2.5
の危険性の有無はまだ判明していなかった。1987 年、大気環境基準の第 1 次改訂時に初
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めて、PM2.5は危険であると認識されたが、短期間曝露と死亡率との関連性を単に研究上
で証明したという段階にとどまった。1997年の第二次改訂で、ようやくPM2.5は規制対 象として明記されたが、暴露の程度と身体への影響の関係については、研究が進んでいな かった。つまり、PM2.5の危険性については、明確な因果関係が確定していないという「非 知」の状態、あるいは既存の科学や知識によってはPM2.5の危険性の将来的変化を推定で きないという意味での「非知」の状態が存在していたのである。
第二の近代において、非知により生じる一次的リスクに対応するためには、情報の開示 および社会的討論を経て、合意を形成することが不可欠である。しかし、中国においては、
PM2.5問題の対応を始め、環境リスクへの対応策形成には、この社会的合意が、著しく限
定される傾向が存在している。
2009年、中国政府主導の大気環境基準の改定についての議論が開始され、新しい環境基
準に PM2.5 を追加するか否かが討論の中心となった。中国環境保護部の公開資料によれ
ば、PM2.5 に関する規制基準を設定するため、政府部門および研究機関の 193 の組織か らの意見、また、インターネットを介して住民の意見が求められた。PM2.5を規制対象と して追加する必要があるかどうかという問題に対しては、31件の意見が提出されたが、こ れらの意見は、すべて政府部門や研究機関から出されたものであった。このうちの 29 件
がPM2.5を規制基準として追加すべきであるとし、規制する必要がないという意見は2件
しかなかった。インターネットを介して寄せられた一般住民の意見は、報告書の中には全 く記録されていない。
このような結果が現実に存在したにも関わらず、2010年10月に起草された「大気環境 基準(草案)」には、PM2.5は規制対象として含まれなかった69。その理由について、中国 環境保護部は、「わが国の大気汚染は複合的な特徴を呈しており、(中略)PM2.5による大 気汚染の状況は相対的に厳しく、WHOが設定した基準値を大幅に超えている。(中略)も し、PM2.5 を大気環境基準として加えるなら、(汚染の状況は)その基準を全面的に超え ることとなる。ゆえに、全国的な視角からPM2.5に関する規制基準を制定し、実施するこ とは時期尚早である」70としている。
69「中国環境保護部環境保護部弁公庁函第1246号『大気環境基準改正案(草案)』」、
http://www.zhb.gov.cn/gkml/hbb/bgth/201011/W020101130374443014849.pdf、中国環境保 護部HP、2018年11月閲覧。
70 この文は筆者による邦訳であり、原文は「我国的大气污染呈现出压缩特征。(中略)我国
122 前述したように、欧米先進国においては、PM2.5 に関する科学的研究の進展に加えて、
社会的合意を導入して、リスク対応策を定めることがすでに確立されている。現在、アメ リカで実施されている PM2.5への規制基準(NAAQS 2013)を例に取れば、そこに至る までには過去4回の基準改定が行われており、現在もなお、現行の規制基準についての社 会的議論が続けられている(4.1.3参照)。
しかしながら、本節で挙げた中国政府主導の大気環境基準の改定をめぐる議論に示され るように、中国におけるPM2.5規制策の設定過程においては、社会的議論が十分行われて おらず、一般住民の意見も重視されていないのが現実である。4.2.2節で述べたように、中 国では法律上、企業、社会団体、個人に大気汚染を防止する義務が課されており、規制策 制定への参与と、自らが発生させた損害について法的責任を負うことが規定さている。し かしながら、このような法律上の規定があるにも関わらず、環境規制基準の設定、その実 行、実際の汚染規制、そして行政組織の職責を監督するまでの一連の権限は、中央政府の 環境保護部によって掌握されている。つまり、リスクにさらされる中国の国民は、大気汚 染という問題を正視し、その汚染の実態を知り、さらにその対応策の形成過程に参与する という政治的な権利を、事実上、奪われているのである。
2011 年末、「北京スモッグ」が発生し、中国の大気汚染問題は国内外に大きく注目され るようになった。そして、前述した通り、アメリカ大使館によるPM2.5の数値公表は大き な波紋を呼び、中国政府による汚染対策の不備および不作為が、国内外の非難の的となっ た。大気汚染の現状と、国内外の非難および圧力に屈し切れず、中国政府は2010年の「大 気環境基準(草案)」を撤回し、PM2.5 の危険性を認めて、2012 年、新しい規制基準
(GB3095-2012)を設定した。PM2.5の危険性が科学研究により証明されてから2011年 までの 10 年間、この微粒子状物質は中国の社会議論から排除された存在であったが、国 内外からの非難は抑え切れず、リスク規制の役割を担う中国政府は、わずか1年で、政策 の変更に踏み切らざるを得なかったのである。
中国政府のこのような変化が示すように、有効な合意形成のための制度、権力を監視す るシステムの不備などの問題が存在する中国においては、科学的合理性や社会的合理性を
PM2.5污染较重,远高于WHO标准值,(中略)如果制定实施PM2.5环境空气质量标准,将大
范围超标。因此,从全国的角度制定实施PM2.5环境空气质量标准依然较早」である。「環境 空気質量編集者説明(大気環境基準の編成者の説明)」より、
http://www.zhb.gov.cn/gkml/hbb/bgth/201011/W020101130374443039627.pdf、中国環境保 護部HP、2018年11月閲覧。
123 リスク判断に取り入れるのではなく、その政治的判断を優先するというのが、政府の本意 であることが解る。現在の中国の急速な近代化を支える原動力は集権体制であり、このよ うな体制の下では、中国政府の集権体制を阻む脅威となるものは、リスクとして扱われる。
第5章で論じたように、改革開放以降、中国政府は、経済成長を先行させると同時に、中 国の社会的安定を重視し、民主化の要求に対しては慎重な姿勢を示してきたが、言い換え れば、それは経済成長により貧困問題を克服することにより、集権体制の安定を維持しよ うとしているとも考えることが可能である。つまり、中国政府にとっては、自然環境の破 壊や国民の健康被害という意味でのリスクよりも、環境リスクへの規制による経済成長の 停滞が、政権の安定性を揺るがすリスクとして位置付けられていると考えられるのである。
しかしながら、集権体制に従い、政策の実効性や法治システムの未成熟という問題の他 に、社会的議論への抑圧、そして、政策の制定過程への国民参与が不十分であることなど が原因となり、大気汚染という一次的リスクに対しては、迅速かつ適切な対応がなされず に、そのリスクが公害問題にまで拡大し、国内外からの非難を招くこととなった。このよ うな状況下、政府は、国内外からの非難を政権の権威を脅かすものとして受け止め、PM2.5 への対応姿勢を転換することで、その対応策を打ち出した。中国政府によるこの政治的判 断については、6.4.1節においてさらに詳しく検討を行う。
6.2.2節の(2)で述べたように、第二の近代においては、一次的リスクが不確実な領域
に拡張されることに応じて、政府と科学の他に、利益関係者、社会団体、一般住民など多 様な立場と意見を持つステークホルダーが、そのリスクの克服する過程に巻き込まれる。
ただし、社会的合理性がリスク判断や制御に加わることにより、損害の大きさとその発生 の可能性で表現される一次的リスクとは別の次元で、社会的合意に伴う二次的リスクが生 起する。
中国においては、政府が、リスクに関わる判断や規制に関する決定権を握っており、一 般住民はその意思決定の過程に組み入れられない。つまり、中国政府にとっては、社会的 合意をそのリスク判断に取り入れることで生じる、二次的リスクは存在していないと考え ることができるのである。逆に言えば、政府によるリスク判断の誤りを阻止するはずの社 会的合意の機能が整備されておらず、多くの一次的リスクに適切な制御が実施されないた め、中国におけるリスクは、突然、危険として人々を脅威にさらすことになるのである。