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c 僧伽抗争
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㈲結集
史 と分派史の問題は︑第二結集と アシ ョ ーカ王の即位との関係を示唆するものとして 重 要 な要素である︒第二結集の伝承は︑当時の教団の中心地︑東西 教団の相違した傾向などを明らかにする︒しかし ︑これには分派につ いては未だ何も記しておらず︑従って︑根本分 裂 に結びつく南北両伝の相違に注意しなければな らない︒すな ね ち︑
化仏 は 大天の五事を根本分裂に結びつけ︑南伝 は 第二結集に根本分裂を関税して︑第三結集と 枝 未分派の伝承を附加 している︒しかも︑アシ ︐ 1ヵ の破 僧伽者追放 の法勅が 何れの伝承に比定できるかを︑決定し ぅ る 確証はないのであ るから︑一一六年 説 と二一八年税 は ︑これらの 伝承と相関的関係において考察しなければならな Ⅹ︒ l@V また︑これらの伝承編纂の歴史的事情は如何な るものであったか︒西紀四世紀前半のグプタ王朝 興起の時代は ︑か かる伝承成立の基盤としての重要な意味をもっ ていることをも考え合わせぬ は ならない︒
以上︑仏滅年代に関する資料の概観を試み︑ こ ね ちに含まれる問題の所在と研究の方向を明らか にした︒今後詰 学 者の研究によりて︑これらの問題点に対して 解 決への光が与えられれば幸 い である︒
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Ⅰト下 曲 下 @ ︵ 3 ︶㌧ い Ⅰ㏄ @ ︵の r@O や・ ユ ︵:㌧ Q. い 01 いト︐の ㏄ 1 Ⅱ つ ︵ 4 ︶ し ︵ pa 屋ぢぎ ・ オ ・ ふ @ ヰ ・ ま @ 歴代三宝 紀 ︵大正 四九・九五 b ︶︑ 摩詞 僧祇 律 ︵大正二二・四九二 c ︶ ︑ 分別功徳論︵大正二 五・三 セ b 二三ー二四︑舎利弗間縄︵大正二四・九 00 a ︶ ︑し iv 遥春締コ a ︵ pp. ぎ 0 |き と︑阿育王仁︵大正正 0. 一一四 a
| 一二六 b ︶︑阿育王 経 ︵大正 五 0. 一五二 cl 一五三 a‑ ︑根本有部雑事︵大正二四・四 O 八 b | 四一一 c ︶ ︑付法蔵因縁 伝 ︵大正正 0. 二九 セ上 二一三︶︑ターラナータ印度 仏 敬史︵第一章 | 第五章㌧またジャイナ伝承における 師 貧相承につい ては︑宇井博士﹁仏滅年代論﹂叩首研究 二 ︑五 0 頁 ︒ 金 倉 博士﹁印度古代精神史﹂二四二ー二四三頁︒ ︵ 5 ︶ しぢいつ の 弔お由 @ ムま ︒まの 訂蕊 ち % づ @ いい日ヰ 申円 い つ 凹のり㏄ ‑ ガひ @ く ︵ 6 ︶し才︶緊の鯨 コ a" 乱 ・苗の︒ ミ 主かア色・おき " で・㏄㏄の
Ⅹなお︑本稿は昭和三十三年秋︑山田 竜域 博士の御垣 ホに従って作成した論文の一部に︑その後の研究を加筆 したものであ る 0 本稿の草稿に当っては︑会合月照博士には全篇の細 部 に百 ぢて御 指導を賜り︑またシナ文献については 坂 本 幸男博士の ︑ チベット文献については羽田野 伯猷 博士の御教示を仰い だ︒ここに附記して謝意を表したひ︒
︵昭和三十五年度・文部省科学研究費に よ る綜合研究の 研究成果の一部︶
g93@ (387)
悪は人間全体をつらぬいている︵下の・ Hoe とい われるが︑それは人間の生命が矛盾にみ ちてぃ るからであり︑ 而
も悪は人間生命にとって根源的で本性的で根本 現象である︒生きるということは︑死に 荷 って 生 きるのであって ︑生
きつ 又 死に︑死につュ生きるのである︒ こム に 矛盾の根源があるのであるが︑﹁生れ﹂と﹁死に ﹂との間を生きる 生
合 は︑その有限なる﹁生きる﹂のままが永遠 無 限なる﹁生きる﹂であろうと根本的に希求してい る ︒この深い矛盾の
深さからあらゆる矛盾が﹁生きる﹂現実にあら われて来るのである︒この矛盾にみちた生の﹁ 生 ぎる﹂が人間は悲惨
なのである 貧 ・の・ かの ︒ ぎ乙 ︒ 縛ご e ︒それ故に ︑人間は迷っているのである︵宇田・の・ 目 e ︒ 死 によって生命の有機
体は解体されるのであって
ミ
・の・ おこ ︑生命 にとって死は何時どのようにしてやって来るかわ からないが︑而も何蒔 か必ず間違いなくやって来る死によって つね におびやかされて居る︒
この不安と危機におそれおののきながら︑神を希 来 して︑人間はその不安な生命の内なる自己 撞 看的矛盾を生きて
いるのである︒かくて︑人間は悲惨でありなが ら 偉大を憧 侵 し︑偉大と悲惨の中間を浮動してい るといえる︒これが
人間のわるい弁証法の目のす び のの旦日 簿 ︵ 円オ貧 縛づ e である︒それはい ュ かえれば天使と獣の中 間 に人間があること
一人間は矛盾にみちている 舘 煕道
悪
ほ ついて
ガルディニの所論により
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であり︑而も人間は獣に傾いている︒パス ヵル の いう如く︵ 下拐お の︒鱒の︶が︑天使の役を演じよ ぅ とするものが獣の 役を演ずるのは不幸であるが︑人間はどうなる のであろうか︒人間は神に似ているのか獣に似て いるのか 旬︐の ・ づ e は ︑自問しながら自答の出来ぬ謎であり︑而も そのどちらかであるということは何という恐るべ ぎ 相異であろうか︒
どうして人間が謎であるのか︑この謎はどうなる のかは︑人間自身にとっては底しれぬ秘密の中 に ど う しようもなく かノ入十ヒみ札 ている︵ づ ・の・㏄ こ のであって︑はか ない人間の存在は無明に浮ぶ一点に過ぎぬかの 如 くである︒人間は神 に 等しいのか︑動物に等しいのか︑さては人間 はどうなるのかについては︑それは問題だけであ って答はない︒われ われはどうなるのか︒人間は迷っている︒人間 は 人間の座から墜落している︒自分をさがしなが らさがせないこと が 自明であるのに︑それがどうなるかは誰にも わからない 雀 ・の・ 窩 toe ︒このわ け のわからな い 無気味な人間の本 性は仁心 ョ ︒ 巳ぉ ずである︒動物は死を恐れぬ し︑ 生きているだけで︑死にっふ生きているのでは ない︒人間ほ死に つ ュ生きているのにか ュ わらず︑而も生きている のである・の・の こび㊧Ⅱ死の不安を知るこ︵ オ 0 下 とは人間のしるしで
盾 的なる人間においては悪となるのである︵ り あるといわねばならない︒純粋実存としての 動
も 罪を犯しているのを許しておくれ﹂︵ 口 ・の・︵ トか る ︒動物の本能や原始林の繁みや嵐や火山で︑ 伺
よって 昇 っているのであって︑この点からみて
物は楽園の自由を持っている︵ オ ・の・ ビト ! ㌍ じと
も ︑人間は精神と肉体の統一であり︵ オ ・の・か い の ュ 絆ぢべ ︶︒ かュる 人間だから︑﹁神の小鳥︑幸いな ︶ とい わねばならないのが人間である︒かくて らかの形で起ることがらは善悪には無関係なの
人間と動物とは死に 母 e ︑相互に矛盾し る 小鳥 よ ︑お前 達に であるが︑それが 牙 いわれる所以であ
らぬ運命である︒あってはならぬのにあること は 苦しいけれど︑苦悩の㏄
, イト 悪︑カ としての 悪 ︑悪魔性のものまでも悪と なるものとみられるのであるし︑このような悪は 生きるということ
に 対しては︑存在現象としての 生 ︑存在︑時間 永遠等はっ ね に︑その根源的な意義が問 い つめられて︑人間に |ソ @ ソソ
気などは苦悩といわれ︑悪ともいわれる
けれども︑更に 罪︑犯・
罪 ︑ @ イト珠生七 ルドルベ ソ @ % ⅢⅩ下劣︑
俗 シ @/ ルツニソぃ e 民衆を描いたドスト エ フスキ 一が︑かュる 民衆の粗末さこそ人間本来の姿であるとみて︑ 粗 悪 であればこそ神に
愛される民としてみたのである︒ かュる 人間では︑その人格構造でいえば︑ 病 気 ‑ イト貧困︑飲ん ︑ べ︑せ 1 重一並の悩み︑社会的 リシ ニス . ラ イ @ 落 ぶれ︑ ナル 愚ぬ笘狂 @ ィ トフ
て 遅鈍︑ 貧慾 ︑墜落で殊にぞっとするよ う な飲ん べ である 6. の・めじ︒要するに賛しく げ がれている︵ し ・ の が 心の底から湧 き 上って来る 宙 ・の・ 9 ㌔この 状 態は生の虚無であるから︑生命にとっては耐え 難い苦であって悪の表現有︐の・ 0 ごといえるのであるが︑それにも 木杓︑生命は休息を求めるものであるから︑ 人 間 のか ュる 生命はつ
ねに悪のにお い がするといわねばならない︒ そ の悪の最も適切な現実の姿を︑ガルディニはドス トエ フスキーの描い
た 民衆であるとみたのである︒その民衆は不潔 なしであって ︑ 従っ シユムツツ
望 しさを感ずるであろうし︑その結果︑人間は生 ぎることの恵展︑ ラソ グフィレ憂うつ︑シュヱル ッ @ 悲哀︑苦悩︑
よう にさげられれ苦しい宿命となる時︑それは 悪 である︒死が人間に実存を ょ びさます程に ︑生 と 死とが緊張した 方盾 関係にないような子供にもすでに善悪の戦い がある 享 ・の ︐か e といわねばならぬ︒子供には 戦いの苦悩が根源的
に 目覚されていないだげに反って︑その戦いは 底 しれず深い苦悩であるといわねばならない︒
然し ︑ 生は苦悩であるに かュ わらずさげ難く 苦 悩を生きなければならない︒生きることをやめる ことは︑ 死 そのも のである︒死によって︑苦悩は解消するが如くで あるが︑それよりも生そのものの︑解消であっ てこれこそ根源的な
苦悩である︒生が鮮かであることは同時に苦悩 が鮮 かなことでもある︒人間が休息状態にあると いうことは︑人間の
生命には耐え難いことである︒生命の休息とは
虚無︑孤独︑よりか
ァプヘ羊ヒ(390) 96