• 検索結果がありません。

関  し  る

ドキュメント内 『宗教研究』163号(33巻4輯) (ページ 92-102)

て 

  

  

  

東 

西  戸ト卜 円 

両  教    

  

団 

  

の 

  

ゴ ・ 

  

田 

昂 

  

て ・ 

  

争    

ア, 

第一 

  

のす甲ず プ沖 ㏄幅の円 ず M ︒ミド ロ のの ア ﹁ ひ ︒ しす ぃ日 目 au 面 ド年こ 

6c や ar@ ゑ与ぃコ ・銘文 コ ︒の・︶・ ひ の沖オりす @s‑ 口中ぃ ヱ 友之 ・︶ーヒマラヤ地方伝道師 

b  私債巡拝 

座星漢 勅 

八の才 

品 ﹁︒ 木巴 おしすり 田 @. 紹娑軒ぶ眉 アロ ︒ ワ 臼杵 コ のの オ ﹁ ひ︐ のる p,p 

峯婬宙鮒偲へ 石柱 法勅 

夕日日 ぎ諸 ︶石柱 法勅 

小麿 崖法勅 一のの ロョヨゑゴ ︒ 寄やコ卸 ︵ ゴ ・の い ず い の﹁の ヨ ︒ め生ぺ囲 ︵・ い ﹁ の す日の モふ ・ Ⅰ 曲い ㌧ 口 ﹁ a. ぺ目﹁り帳 日 ‑ ワミ の の寸 

c  僧伽抗争 

の卸 かり 田 ︒の 卸 ﹁ コ朗 ︵ ず ︒ 木っ の の日肝 ︵ 下 ‑ 田ゴリブゅ ナ本 の り日 ︶ 法 勅 

㈲結集 

史 と分派史の問題は︑第二結集と アシ ョ ーカ王の即位との関係を示唆するものとして 重 要 な要素である︒ 

第二結集の伝承は︑当時の教団の中心地︑東西 教団の相違した傾向などを明らかにする︒しかし ︑これには分派につ  いては未だ何も記しておらず︑従って︑根本分 裂 に結びつく南北両伝の相違に注意しなければな らない︒すな ね ち︑ 

化仏 は 大天の五事を根本分裂に結びつけ︑南伝 は 第二結集に根本分裂を関税して︑第三結集と 枝 未分派の伝承を附加  している︒しかも︑アシ ︐ 1ヵ の破 僧伽者追放 の法勅が 何れの伝承に比定できるかを︑決定し ぅ る 確証はないのであ  るから︑一一六年 説 と二一八年税 は ︑これらの 伝承と相関的関係において考察しなければならな Ⅹ︒ l@V  また︑これらの伝承編纂の歴史的事情は如何な るものであったか︒西紀四世紀前半のグプタ王朝 興起の時代は ︑か  かる伝承成立の基盤としての重要な意味をもっ ていることをも考え合わせぬ は ならない︒ 

以上︑仏滅年代に関する資料の概観を試み︑ こ ね ちに含まれる問題の所在と研究の方向を明らか にした︒今後詰 学  者の研究によりて︑これらの問題点に対して 解 決への光が与えられれば幸 い である︒ 

干 

︶ 

  

  .  (386)@  92 

料 資 

の 代 年 

滅 

イム  ま吐 ︵Ⅰ︶のの @m の︵ @‑@b.n@ ︵・︒ つ ・ x‑@ ︵ 2 ︶ 由 ︒日のり ぃ 二ロⅡ ゅ ㌧レコ 台 立つのⅠ ぃミ ︒ し 0L. ヴ ㎏Ⅰの co 三 ︵ いぎア ︵二ロ︶ り のの ︒ デ いい 由 ・ く Ⅰいい 由 こい㏄ ト由 メト ー 11. ︵ 申 ・︒ ドの Ⅱ 

Ⅰト下 曲 下 ︵ 3 ︶㌧ い Ⅰ㏄ @ ︵の r@O や・ ユ ︵:㌧ Q. い 01 いト︐の ㏄ 1 Ⅱ つ ︵ 4 ︶ し ︵ pa 屋ぢぎ ・ オ ・ ふ ヰ ・ ま 歴代三宝 紀 ︵大正 四九・九五 ︶︑ 摩詞 僧祇 律 ︵大正二二・四九二 ︶ ︑ 分別功徳論︵大正二  五・三 セ 二三ー二四︑舎利弗間縄︵大正二四・九 00 ︶ ︑し iv 遥春締コ ︵ pp. ぎ 0 |き と︑阿育王仁︵大正正 0. 一一四 a 

| 一二六 ︶︑阿育王 経 ︵大正 五 0. 一五二 cl 一五三 a‑ ︑根本有部雑事︵大正二四・四 八 | 四一一 ︶ ︑付法蔵因縁  伝 ︵大正正 0. 二九 セ上 二一三︶︑ターラナータ印度 仏 敬史︵第一章 | 第五章㌧またジャイナ伝承における 師 貧相承につい  ては︑宇井博士﹁仏滅年代論﹂叩首研究 二 ︑五 頁 ︒ 金 倉 博士﹁印度古代精神史﹂二四二ー二四三頁︒ ︵ 5 ︶ しぢいつ の 弔お由 @ ムま ︒まの 訂蕊 ち づ いい日ヰ 申円 い つ 凹のり㏄ ‑ ガひ @ く ︵ 6 ︶し才︶緊の鯨 コ a" 乱 ・苗の︒ ミ 主かア色・おき で・㏄㏄の 

Ⅹなお︑本稿は昭和三十三年秋︑山田 竜域 博士の御垣 ホに従って作成した論文の一部に︑その後の研究を加筆 したものであ  る 本稿の草稿に当っては︑会合月照博士には全篇の細 部 に百 ぢて御 指導を賜り︑またシナ文献については 坂 本 幸男博士の ︑  チベット文献については羽田野 伯猷 博士の御教示を仰い だ︒ここに附記して謝意を表したひ︒ 

︵昭和三十五年度・文部省科学研究費に よ る綜合研究の 研究成果の一部︶ 

g93@  (387) 

悪は人間全体をつらぬいている︵下の・ Hoe  とい われるが︑それは人間の生命が矛盾にみ ちてぃ るからであり︑ 而 

も悪は人間生命にとって根源的で本性的で根本 現象である︒生きるということは︑死に 荷 って 生 きるのであって ︑生 

きつ 又 死に︑死につュ生きるのである︒ こム に 矛盾の根源があるのであるが︑﹁生れ﹂と﹁死に ﹂との間を生きる 生 

合 は︑その有限なる﹁生きる﹂のままが永遠 無 限なる﹁生きる﹂であろうと根本的に希求してい る ︒この深い矛盾の 

深さからあらゆる矛盾が﹁生きる﹂現実にあら われて来るのである︒この矛盾にみちた生の﹁ 生 ぎる﹂が人間は悲惨 

なのである 貧 ・の・ かの ︒ ぎ乙 ︒ 縛ご ︒それ故に ︑人間は迷っているのである︵宇田・の・ 目 ︒ 死 によって生命の有機 

体は解体されるのであって 

ミ 

・の・ おこ ︑生命 にとって死は何時どのようにしてやって来るかわ からないが︑而も何 

蒔 か必ず間違いなくやって来る死によって つね におびやかされて居る︒ 

この不安と危機におそれおののきながら︑神を希 来 して︑人間はその不安な生命の内なる自己 撞 看的矛盾を生きて 

いるのである︒かくて︑人間は悲惨でありなが ら 偉大を憧 侵 し︑偉大と悲惨の中間を浮動してい るといえる︒これが 

人間のわるい弁証法の目のす び のの旦日 簿 ︵ 円オ貧 縛づ である︒それはい ュ かえれば天使と獣の中 間 に人間があること 

一人間は矛盾にみちている  舘  煕道 

悪 

ほ  ついて 

ガルディニの所論により 

  

(388)@ 94 

であり︑而も人間は獣に傾いている︒パス  ヵル  の  いう如く︵  下拐お  の︒鱒の︶が︑天使の役を演じよ  ぅ  とするものが獣の  役を演ずるのは不幸であるが︑人間はどうなる  のであろうか︒人間は神に似ているのか獣に似て  いるのか  旬︐の  ・ づ  e  は  ︑自問しながら自答の出来ぬ謎であり︑而も  そのどちらかであるということは何という恐るべ  ぎ  相異であろうか︒ 

どうして人間が謎であるのか︑この謎はどうなる  のかは︑人間自身にとっては底しれぬ秘密の中  に  ど  う  しようもなく  かノ入十ヒみ札  ている︵  づ  ・の・㏄  こ  のであって︑はか  ない人間の存在は無明に浮ぶ一点に過ぎぬかの  如  くである︒人間は神  に  等しいのか︑動物に等しいのか︑さては人間  はどうなるのかについては︑それは問題だけであ  って答はない︒われ  われはどうなるのか︒人間は迷っている︒人間  は  人間の座から墜落している︒自分をさがしなが  らさがせないこと  が  自明であるのに︑それがどうなるかは誰にも  わからない  雀  ・の・  窩  toe  ︒このわ  け  のわからな  い  無気味な人間の本  性は仁心  ョ  ︒ 巳ぉ  ずである︒動物は死を恐れぬ  し︑  生きているだけで︑死にっふ生きているのでは  ない︒人間ほ死に  つ  ュ生きているのにか  ュ  わらず︑而も生きている  のである・の・の  こび㊧Ⅱ死の不安を知るこ︵  オ  0 下  とは人間のしるしで 

  

盾  的なる人間においては悪となるのである︵  り  あるといわねばならない︒純粋実存としての  動 

も  罪を犯しているのを許しておくれ﹂︵  口  ・の・︵  トか  る  ︒動物の本能や原始林の繁みや嵐や火山で︑  伺 

よって  昇  っているのであって︑この点からみて 

  

物は楽園の自由を持っている︵  オ  ・の・  ビト  !  ㌍  じと 

も  ︑人間は精神と肉体の統一であり︵  オ  ・の・か  い の  ュ  絆ぢべ  ︶︒  かュる  人間だから︑﹁神の小鳥︑幸いな  ︶  とい  わねばならないのが人間である︒かくて  らかの形で起ることがらは善悪には無関係なの 

  

人間と動物とは死に  母  e  ︑相互に矛盾し  る  小鳥  よ  ︑お前  達に  であるが︑それが  牙  いわれる所以であ 

  

  

らぬ運命である︒あってはならぬのにあること  は  苦しいけれど︑苦悩の㏄ 

  イト 悪︑カ としての 悪 ︑悪魔性のものまでも悪と なるものとみられるのであるし︑このような悪は 生きるということ 

  に 対しては︑存在現象としての 生 ︑存在︑時間 永遠等はっ ね に︑その根源的な意義が問 い つめられて︑人間に  |ソ @ ソソ 

気などは苦悩といわれ︑悪ともいわれる 

けれども︑更に 罪 

︑犯・ 

罪 ︑ @ イト珠生七 ルドルベ ソ @ % ⅢⅩ 

下劣︑ 

俗  シ @/ ルツニソ   

ぃ e   民衆を描いたドスト  エ  フスキ  一が︑かュる  民衆の粗末さこそ人間本来の姿であるとみて︑  粗  悪  であればこそ神に 

愛される民としてみたのである︒  かュる  人間では︑その人格構造でいえば︑  病  気 ‑ イト貧困︑飲ん  ︑  べ︑せ  1 重一並の悩み︑社会的 リシ  ニス  . ラ  イ  @  落  ぶれ︑  ナル 愚ぬ笘狂  @ ィ  トフ 

    て 遅鈍︑ 貧慾 ︑墜落で殊にぞっとするよ う な飲ん べ である 6. の・めじ︒要するに賛しく げ がれている︵ し ・ の  が 心の底から湧 き 上って来る 宙 ・の・ ㌔この 状 態は生の虚無であるから︑生命にとっては耐え 難い苦であって悪の 

表現有︐の・ 0 ごといえるのであるが︑それにも 木杓︑生命は休息を求めるものであるから︑ 人 間 のか ュる 生命はつ 

ねに悪のにお い がするといわねばならない︒ そ の悪の最も適切な現実の姿を︑ガルディニはドス トエ フスキーの描い 

た 民衆であるとみたのである︒その民衆は不潔   なしであって ︑ 従っ  シユムツツ 

望  しさを感ずるであろうし︑その結果︑人間は生  ぎることの恵展︑  ラソ  グフィレ憂うつ︑シュヱル  ッ @   悲哀︑苦悩︑ 

   よう にさげられれ苦しい宿命となる時︑それは 悪 である︒死が人間に実存を ょ びさます程に ︑生 と 死とが緊張した 方 

盾 関係にないような子供にもすでに善悪の戦い がある 享 ・の ︐か e  といわねばならぬ︒子供には 戦いの苦悩が根源的 

に 目覚されていないだげに反って︑その戦いは 底 しれず深い苦悩であるといわねばならない︒ 

然し ︑ 生は苦悩であるに かュ わらずさげ難く 苦 悩を生きなければならない︒生きることをやめる ことは︑ 死 そのも  のである︒死によって︑苦悩は解消するが如くで あるが︑それよりも生そのものの︑解消であっ てこれこそ根源的な 

苦悩である︒生が鮮かであることは同時に苦悩 が鮮 かなことでもある︒人間が休息状態にあると いうことは︑人間の 

生命には耐え難いことである︒生命の休息とは 

虚無︑孤独︑よりか 

ァプヘ羊ヒ   

(390)  96 

ドキュメント内 『宗教研究』163号(33巻4輯) (ページ 92-102)

関連したドキュメント