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讃  多

ドキュメント内 『宗教研究』163号(33巻4輯) (ページ 67-75)

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ム滅年代の資料 

いが ‑ 開元銀は︐出三蔵記集に迦葉阿難 撲 とあるを 認 ぬ た い ︶︒論中にしばしば﹁産 婆 多衆﹂﹁外国師﹂ の 語をあげており︒ 

﹁ 唯 大大一人のみ 走 れ大士にして︑其の余は皆是 れ 小節なり﹂︵大正二五︐三三︒ 九|一 0 ︶といい︑ 仏身無漏 税 ︑大乗  戒 ・小乗 戒 の 別 ︑十住の階位︑道の行般若経本 血 @ 晶相当の大蒜 本無説 をあげる所から︑ 目 a 尹脚のゅ ち告 守 浅または大乗  所属の論師であろうと推察される実正四・一一 五 C 一六 | 一匹︒更に︑本論の中でマトゥラー と カシュミーうの関係 

をみることができる︵大正二五︐五一 c ㌔ 

﹁大智度論﹂はその大部分を竜樹の作に帰するこ    れる︒目のず ゅ舐旧 ︐  ぬ田ォ のおよび大乗教団の先駆となったとみられ  るボサッ 

︑︐も 

教団が栄えた地方ま ‑0‑i  アンドラ地方・ 中 イ ソ ド およびガンダ 

|ラ 地方であるので︒︒ @‑l  ︑ これらの伝承の伝播 地 を推 定 できよう︒ ﹁ 雑 阿舎﹂をはじめとする一連の ア ショー カアワ ダ ー ナ は ︑ マトゥラー有部の教会 更 に関する 伝 承を伝えている︒ 

上述の四つのテキストの中で︑アショーカ因縁 ・ 半 奄羅 果 因縁・ プシュヤ ミトラの 破仏 ・コー サ ソ ビーの詳論にかか ‑2‑ l わる伝承のみを含んでいる 雑 河合 は︑ 他のテキ ストに比してもっとも 粗朴 な形の伝承とみられる 0 この中︑コー サソ  ヒ ーの詩論の関係する﹁四悪玉﹂には西紀前後の 歴史事情を反映している︒この伝承は大 毘娑沙 論の伝承︵大正二 セ ・  九一八 a 一八 | 九一九 a 二 O ︶にその原形をみ ぅる よさに思われる︒さて︑アショー カアヴダ ー ナ は 更に ︑マ トクラー  と カシュ︑ ︑︑| うの関係を伝える伝承を含み︑根本 有部 律性 同じ資料を発見し ぅ るのは︑カシュ︑ ︑︑ |ラ 有部が マトヴラ  一 有部より優位に立った時代︑恐らくカニシカ 王 の時代に︑これらの伝承が作成されたと想像で    

比 ︑大毘婆沙論 之 0. 

牛精唐吝ワ 

のの で ③ ど玄 英訳 五百阿羅漢作 no め Ⅱ づひ の︵ T 粒ぎ u 大正二 セ ・五一 Oc | 五一二 a  カシュミーうの有部によって作成された 娑沙論 には︑大天に関連した 部派 分裂の伝承を伝えて ぃ る ︒すな ね ち︑ 難  園 僧伽藍における五事の詩論に基いて︑反対派 が カシュミーラ へ 至って上座部となり︑大天の徒 が 上って大衆部とな 繍  っ たとの記事は ︑ 明らかに ア ショーカ時代を意味 するものである︒しかし︑この伝承は韓 娑沙 ︵ 二 ご ・ 

旧娑沙茜餌 

失調として 奏録に 附し︑︵大正五五・五一九公一︶ 梁 の 高僧伝には羅什 訳 ︵大正四九・一九 c ︶として いる︒さて︑十八部  人 ㈹品類定論の作者㈲ 界 具足論の作者㈲間論の 作者㈹五事論の作者㈲倶舎論詰の一人㈹ 玄 奨誘即時の一人 ‑ ︑ 菩  薩と 称せられる三人︵Ⅲ 尊婆卸蜜 菩薩新葉 論 の亡友 は 異邦宰輔論の作者㈹産婆夕郎 円 眼中の一世 友 ︶ ︑ 警楡 文学に関係せる  三人︵ 田 達摩多羅神経中の一節㈲佳日離離 経 中の世 友 ㈹師子月 仏 本生 経 の 世友 ︶を数えるよさに︑多く の 伝承に伝えられて  いる︒これらは独立した別人をあらぬすのではな くて︑相互に関連をもった伝承の内部で︑それぞ れの性格が与えられ 

友を自派の先覚者に数えることは︑その学派の 

が 部族全体の所説を伝えるものとして︑その 件  ているのであって︑有部正統の論師としての仕女 

権威を昂めることになったであろう︒組目の化 のす 

者を﹁ 世友 菩薩﹂に帰したのも︑ 世 友の偉大さを  は ︑諸派の学匠の認めるところであった︒故に 

ず ら ︒で Ⅰの︒ 芭コの の浅才Ⅱ 簿  ︑諸学派の論師が世 

示す一例であろう︒ ‑5‑ l 従って︑本論の作者 世友と ︑ 娑砂 編纂時の上首 世友 とを同一とみる窺基の説は必ずしも認め難い   

十八部論は︑その末文によれば︑ 梁 雀ワ ︶の ‑ 僧 伽 娑羅訳の文殊 師利間 経分別品相当の部分と︑ 羅什法師集の部分   五四九・九九 セ @ とあるが︑これは誤りと考え られる︒開元銀には  二五 | 四二七 ‑ には記されていないので︑この伝承 が娑 沙の成立時 茜紀 二世 

芭に 

存在したという 確証はない 

︑ぎ日賎 のす プ の dopa 母 ca 口沫の ダ ra 亡友佳 あ ar せ 卸の @ @ せ 田山 ‑ コ口  a  十八部論 z0 ・ 00 

鮭秦 

︵戸ロ・ か で 廿 鳩摩羅什 集 大正四九・一八 九|一 

b  部執 異論 之 ・ 00 

お陳 

甚し・のかできと真諦 訳 大正四九・二 Oa  一五 | 一七 

c  革紐 叩宗め柵汰調 〜︐ q0 ・ 00 ピ唐ハ やし・ぶとす 宜 大歌天 正 四九・一五 a  一五 | 一七 

チベット 訳 ︵九世紀 ‑ こ す い ﹁日の ア ara ︒めぎ かあダせ 

︒ か 

共訳大谷・打球 繭部 U. 九 函 ・一六五 五 

世 文三曲 簿ョぎ 

この 

件 とされる本論は︑窺基 の 兵部宗論論述 記雇ワ ③ ぃ ︶によれば︑ 娑 砂編纂 の上首であった   え ︑ 世 友は有部論師の八人 婆 砂編纂時の上首 ㈱ 婆沙 四大論師の 一 

362'  68 

仏滅年代の資料 

b  のの七日 め ︵ i 吋 p  の伝承 

仏滅 二 二七年︑パータリプトラで 之ゅ 臣のと 目 い ず ゅ口 曲ら日 ゅ 王の下に結集が行われ︑アラカンの 説 が論ぜら ‑B‑ ね ︑ 目浅けゅ絡 ち告 守浅 との手 av 山 ra の根本分裂 をなす︒ 

㈲南方仏教の伝承   ブ ラ ソケ の説に従ったガイガーは︑ディーパブ ソ サが 形成された西紀四世紀末には︑伝承の初部   

  伝 は てヒソダ の来島以後︑西紀四世紀初めの マ ハ ーセー ナ ︵目の ア浮| ㏄ 

a  

臼ず a ユ ra  の伝承 

仏滅一山 

ハ 

0 年 

︑ 

パ 目の口目名目 

簿 

でし けゅ冒朕 0 才 

ゅ 

王の下に根本分裂をなす︐﹂ O‑7‑  論 によれば︒仏滅一一六年に アシ ︒1ヵ王の出 現 をおいている︒ 部執 異論も同じく一一六年と記 しているが︑ 元 ・ 胆 

本は 一六 午と 伝える︒異邦家輪 読は ﹁ 官 有余   百年を経て小侍を過  ぎて﹂ 公 0 ︒ ヴ Ⅱ㏄㎏の ま コムの ロヰ の︒ りヒかム す い ㌔・ り @ ㏄ 甘笘い の︒ コの 巴 とする︒ 

n7 ︑舎利弗間縄 Z0. 甘 8  東晋 吝 0. ひミ且 20 ︶ 失 課口言 学滞ひ旧 ㏄ オ @ オ pU  大正二四・九 OOalc  訳出年代 ょ り︑恐らく四世紀頃の作成と考え も れよう︒この伝承では ア ショー カ の 孫プシュヤ︑︑︑ トラ ‑ 弗沙蜜 多羅︶ 

の破仏 に部 派 分裂を結びつけ︑ 摩詞 

僧祇邦度 

学 援窟 ㏄ ず @ オ こと 他碑羅部 6‑ オ の丘・じの根木分派 を ﹁仏滅二百年中﹂ 

‑ 大正二四・九 OOc 六 1センとする︒ 

毬 ︑ N@ ナ リセの すず 0 色の セ @ す ずの 牡 ㏄の へ せ a オずせ甲コの ロロ ア の セ ㎏の 作 U D@pa 旧悪 qp ㌍ め 首鎧 a  蔵訳 三一世紀 @  西紀六世紀後半の富まず番目 守ゆめ 長老バ ヴヤ によって作成されたもので︑ 世 文やセイロン伝承 より後期のもので  ある︒凡そ一一世紀にしⅠ 口舵ち酊母か ri 舌 ㌣浅によ って︑その存在を確認されるまでは知られない︒ ハヴヤ は円の︵ け p,  曲 ra  ㈲ 目舵けゅ の a‑ や的け 片オ の ㈲ き ち ︵Ⅱ せ 浅の三 種の分派の系譜を示すが︑㈹・㈲は分裂の年代を 伝えている︒ 

のの コ 巴の治世に及び︑ ぺぎぎぢ簿 4% 出口中の ︵ tp Ⅰ 麓ま甘 母のに対する 目ゅゲ曲ま肘母ゆめ 伝えると ころである︒ディー  ハ ブソサ はパーリの詩で編輯された最初のもので ︑構成が拙劣であるが︑マハーブン サ はょり 技 術 的に組織され︑ 起 

原 となった資料を自由に駆使している︒ダーッ セー ナ ︵しプ 巴目 のの 旨 ︒下け・の ド みかとの命によって ︑ デ イ パ フソサ に対す 

る ら目汁 ゅ 丁目草 笘 のちのこが集成された︒とい ラチュー ラヴソサ 6% ドづ の七の ︒のの・ き ︶の記事に 従え ︐は ︑マハーヴ ソ ‑0‑ 2 サ の形成は西紀六世紀初めとみられる︒その 件 者はリス・デヴィ ゾ によれば てベ| テーマ 

亘 

艶ひ 品目ことされる︒ サ 

マンタパーサーディカ1 寛待 毘 軽妙︶に対する ブッダゴーサ 世色 による歴史序文は︑ディ | パ グソサ を基にし  て︑ 更にアッタカター 甚 ︵︵ ず 牛の︵ ァ じから取り出さ れた内容を附加している︒マハーボーディブ @32 ソ サは ガィ ガ ーに よ れ  ば一 世紀末と見られている︒ 2‑2‑ ‑ お ‑ さて︑セイ ロソ 伝承は︑仏滅後二一八年に アシ ︐ 1カ の濯頂 即位を位置させることで一致してい る ︒また︑アシ ョ 

| 力の時代に第三結集の伝承を附して︑第二結集 に 関連する根本分派と第三結集に結びっく上座 の 細分裂の伝承を記  しているが︑その詳細な点には多少の相違が認め られる︒ 

ば︑しぢ の づ のちお 由 

長老ソー ナカ の 満四 歳の時︑カーラ フソ ー カ の 治世の 一 年 と半月︑つまり︑仏滅 一 00 年を 経て ︑ヴヱ ーサー  リーの ヴ ジ ー 比丘らは︑ 十 事を宣するで・ か吾 ︒ ト メセ ・のの︶︒第二結集の後に︑放逐せられた ヴッジ | 比丘らは︑多数の  味方をえて大合諦三 のァひ のり名告︒きと呼ばれる 法 の 結集を行うで・の 01% ︒ せ ・ ひ ︒ 

釦 ︑ 目単緊 のせ きぎ由 

カーラ アソ ー カ の即位より 一 年 目︑仏滅後一 年にヴェーサーリーの ヴッ ジ ー 比丘は十 事 を 唱える 亨 ・で 蒔  やぃ こ ヤサ はアホーガン ギ八 パー ヮ ー︑アブ ン一 アイ の比丘らの助力をえ︵︶Ⅰ︶ こ ︑レーブ タ を 味 方 に入れることがで  ぎなかった ヴッ ジ ー 比丘らは︑プッ バブ ラ︵華氏 域 ︶のカーラ アソ ー カ を自党に入れる 蚕 ︒ びか ︶︒ しかし︑王は天人の 

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ぬ  ︑  仏般泥  直径  ‑  後記  ‑ZO.m  西晋︵下し㏄の  っ ・  き e  白沫  祖訳  半斗  資  仏滅より大興七年二月一一日まで︑凡そ  八八七年七月一一日︑今市戊の歳に至るまで︑  合  わせて九一五年となし︑  比  一年注目して︑内皮の  代 0  丘  旗日の記載に帰している  年  より逆算して二八または  ‑  大正一・一  セ五  c 

    

  

71  (3651 

威力に妨げられ︵ びぺ ︶︑結集は終る︒上座に抑圧 された比丘らは 目麓ダゆ舐ち習痔ゅ と名づくる ア | チャリ ヤ 

るマ ・の︐ T 淫 ︶︒ 

ma ︑のの 目 ︐ p コ ︵︒ やぴ ︒ ひ @ ︶ @ オひ ︒ 片 や︵: ひの 1 の べ 書見 律毘婆沙 Zc. 三宅 諦斉 ? 口 ・お 0 目安 9  倍 伽域陀羅訳 

りル︑ヲ ︵ い ず w@@‑o 住コ ネ︐ c.p 乍乍の Ⅱ p, つ ・のの ︵ れ ・羽はば・的に準ずるので省略する︶ 

nJ ︑衆聖 点 註説 同歴代三宝紀之 0. き ㌍ 惰 百口・きさ 費 長男 撰 ロ天 五四九・九五 b 一九 lc 六  仏滅後︑ ゥ パ一りが律蔵を結集し︑その年の七 月一五日に香華をもって律蔵を供養して一点を下 し︑午  して師資相伝し︑僧伽 婆陀薙 が広州に至って 善 見 律を訳し︑永年七年庚午の歳 示明 八年・中ロ 

か  00 

︶七月 

養して一点を下すまでに︑七九五点を数えた︒ 

㈲ シナ の伝承 

仏滅 とア ショー カ の即位までの年数は︑カシュ 

‑  ︐|ぅの  伝承を保持しているが︑仏滅の歴史的年 代 につ 

説昇 っており︑衆聖 点記 説の影響もあって ︑著 しく古く年代附けるよ う である︒  説を立て 々 

か よさに 

に律蔵を供 

いては︑ 各 

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