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『宗教研究』163号(33巻4輯)

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(1)

――目次――

1,

宗教における寛容と真理, グスタフ・メンシング, “Tolerance” and “Truth” in Religion, Gustav

MENSCHIMG, pp.1-10.

2,

如来蔵思想のシェリング哲学に対照さるべきもの(続), 玉城康四郎, The Thought of

Tathagat

āgarbha and the Philosophy of Schelling, Kōshirō TAMAKI, pp.11-35.

3,

ジェイムズの宗教思想と根本的経験論, 高木きよ子, Radical Empiricism and the Religious Thought of

William James, Kiyoko TAKAGI, pp.36-58.

4,

仏滅年代の資料, 塚本啓祥, Materials for the Date of Buddha’s Nirvāṇa, Keishō TSUKAMOTO,

pp.59-93.

5,

悪について:ガルディニの所論により, 舘熈道, On the Evil: Around the Theory of Guardini, Kidō

TACHI, pp.94-111.

6,

宗教研究の問題と動向, 石津照璽, Recent Trends and Problems in the Science of Religion, Teruji

ISHIZU, pp.112-128.

7,

赤松智城博士を悼む, 羽溪了諦, pp.129-132.

(2)

出合った時に原理的にど ういふ 態度が取られる かといふことを問題にした るいと思ふ。此の原理的な態度決定は、寛容 のそれか不寛容のそれかのいづれかであり得る。 その寛容と不寛容とが 何 おを意味ずるかといふことを理解するために け

我々は 先 づこれら二つの概念を明らかにしょう と 思ふ。私は寛容と不買 務 %

穿に

二つの形態を区別する。即ち、一方で は 形式的な寛容と不寛容、そしてほ他方では内容 的な寛容と不寛容といふ 真理

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(3)

ものがあるのである。その意味は次のそうなこ

とである。形式的寛容とは単に異宗教に触れない

といふことである。

の 寛容された宗教が何らかの仕方で国家の形式

的な枠を破り、国家の統一を危くする場合には、

この寛容が形式的な

不寛容へ逆転せしめられる。このことは

例へば

古代ローマにおいて起つたことであって、そこで

は人々は、一方で多

くの異宗教を許しておきながら、然もキリスト

教徒達

せ 、皇帝への供犠を拒否することによって

国家統一を危くする

といふ理由で、迫害したのである。その際問題

になったのは、宗教の真理性といふことでは決し

て 七はくて、ただ

戸|

マ 帝国の祭式制度に対するその形式的な関係とい

ふことにあったのである。

内容的な寛容と不寛容はそれとは別な平面で行

なはれる。この場合の問題は、異宗教が聖なるも

のとの出会ひの

正にして且つ正当な可能性として承認されると

い ふことである。このことを私は内容的寛容と呼

ぶのである。この

疑問である。私はむしろ、真に宗教的なそして

根源的な真理概念は

、 或る別種の真理、即ち宗教

的な実在

性 としての

真理を意味してゐると信ずる。私が言は

ぅとす

るこどの例証として、神仏教が用ひろ美しい比倫

を 想い出して頂きた

い 。

禅 仏教は真理の月について語り、その月が

澄んだ深い水のうちにも浅くて

汚 ない水のうちに

も 姿を写すといつ

ぬ る。いつも同じ真理の月、つまり

神 的な実在

性の同じ一つの月が、さまざまに違った諸宗教の

う ちにさまざまに

った

仕方で自らを明証するのである。そのことを

私は内容的な寛容と呼ぶ。

さて、寛容と不寛容の概念を明らかにした後、我

々は

、 諸々の偉大な普遍宗教のうちに寛容と不

寛容とが如何なる

(296) 2

(4)

3 (2 館 @ 宗教における 寛容と真理

そふ

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(5)

たし、自己自身を救済への単なる道案内とも 見 敬 した。しかし、だからといつて彼は、闘争的な 正統主義といふもの ものには認めなかったのである。仏陀は彼自身 が 宣べ 伝 へた 教説 をも、またあらゆる異教の教 説 をも、一つの舟に 讐 ておくのである。仏陀はまた、救済の教 説 とい ふ ものは権威に 塞 いて受入れらるべ き ものではな く 、それに 徒 ふ前に いつも各人が自分自身で吟味を加へねばならぬ いものだといふことをも強調して止まなかった。 或る 教 説を絶対的な ものと定立すること、及び外的な権威を容認す ること、これら二つのモティーフはあらゆる神秘 主義によって 斥 げら れてゐる。ところが此等のモティーフこそ、 他 方では、不寛容が発生する二つの重要な要因なの である。 印度の ヒンヅ| 教においてもまた、寛容の重要 な モティーフが 、 早い時代からいろいろと見出さ れる。 例へば 早い 頃の或る原典には、﹁唯一なるもの、それを見神 者達はいろいろと違った名前で言 ひ 表はす。 彼 等 はそれをイソ ドラ、 が、 実はすべてのものの 根抵 にある唯一つの神 神々に帰依しつつ、信仰に満たされて、その神 されて ぬ るのである。 バガヴア ッド ギ ー タ も ま アグニ、ヴァルナ 、 ミトラ::と呼ぶ﹂といは ぜなら、この場合においても、異教の神崇拝が のみ犠牲を捧げて ぬ るのだ﹂と語ってゐる。 こ 的なるものの、さまざまに実った呼び名にすぎな た 全く同様な思想を語ってゐる。そこではヴィ シ れてゐる。この言葉のうちには要するに、さまざ 神との出会ひの純正なる可能性と見なされてゐる れが私の定義した意味において﹁内容的寛容﹂と 々に犠牲を捧げるや う な連中、:・ きう い ふ連申 もまた・・:ただ私に いといふ確信が表明 ま男った神々の名前 からである。尤もそ いふ ものである。 な 二, の神が、﹁他の の際、その神崇拝が単に外面的にではなく、 信 仰 をもつて為されるといふことが前提である。 そ れで、テル グラソド のヴヱ ーマナの或る言葉には次のや う に言はれ てゐる。﹁どんなに多種多様の神崇拝を数へ立て も 、信仰のない崇拝 は 何の実りをも結ばない。﹂今日の ヒンゾ| 教に おいてもやはりこれと同じ態度が取られてゐる 。 ラダクソシ ナンは ( 刃 8) 4

(6)

占 小数における " " @ ・ 容 寛 かぅ 書いても ろ 、﹁印度八が吠陀を ガソ ジスの 岸 辺で楓話 する時、支部人が語録について瞑想する 時 、日本人が仏像に 礼 拝する時、 ョ ー p" パ人がキリストの仲保者 た ることを確信する時、アラビア人がその回教寺院 のうちでコーランを 読む時、そして ァブ リ 力 人が呪物神の前に身を か がめる時、彼等の各々は信仰に対して同等な根 拠 をもつ。::どの 宗教もその妥当性への権利を主張してゐるが、 そ の 権利主張の根拠は、その宗教によってのみ、 それの信奉者達が現

に 彼等のある 如 ぎものになってゐる、といふと @ やはりあらゆる神秘主義のもつ同じ見解を取つ ﹂ろに存する。﹂ てゐる。即ち、宗教にお 神秘主義にとっては、神についてのすべての 合 理 的な言表は単に相対的な妥当性しかもたないの であるが、 ラダク リシナソ は全く同じ神秘主義的な精神で次のや う に書いてもる。﹁実在的なるものの超人格的な 捉へ 方 と人格的な 捉 へ方 とは、同じ一つの実在性を表現するための 絶 射 的な道と相対的な道とを提示する。我々が 実 在 性の木質に重点を おく時、我々は絶対的なブラフマ ソ ︵ 梵 ︶に つ いて語り、我々が我々に対するその実在性の関係 を 強調しょうと欲す 8 時、我々は人格的な バガ ヴァー ソ ︵薄伽梵︶に ついて語る。﹂ マ ハトマ・ ガソヂ ーもまた、或る宗教を独断的に 情懐化し且 つ それを絶対的なものと定立するこ とをすべて断乎 と して斥けた。﹁私は吠陀だけが唯一の神的なるも のであるとは信じない。私は聖書やコーラ ソや ゼソ ダ ダエ ス タ が 吠 陀と 同じ様に神的霊感のもとに書かれてゐる と 信ずる。 ヒソヅ| 教は拡められねばならないや ぅ な宗教ではない。 そ れは地上のあらゆる預言者達の信仰に、それら が 入り得る空間を提供するものである。﹂ い て兄一つ大事なことは、神との合一といふこと であって、それに較べれば、種々 異 った諸宗教 に 差別をつげ ろ いろ いるの外面的な事柄 や 、彼等を分岐せしめる教理 などは、無意義だといふことである 0 例へば 。 へ ルシァ の偉大な詩人 ㏄ ) ビ あり神秘家である ヂヱ ラール・ ェド ・ デ 。 ン ・ ルー 二 .1 はか ぅ 舌口つてゐる。 なん ぢ が神の御姿を視るところ、もし偶像寺院 の 厨子 裡 ならんとも、

(7)

ユ ダ ァ 人の寺院にこの香気のただ ょふ あらば、 そ こに入れ。 キリスト教神秘主義の区域からは、その寛容の 諸々のモティーフに関して、ただ二人の人物だ け を 取上げて考察し よう。それはマイスター・エックハルト とヤコ フ ・ べ|メ である。マイスター・エックハルトは 、世界のうちに神業 拝の種々 異 った可能性が存するといふ思想を 、次 の 言葉で言 ひ 表してゐる。﹁神は人間の救 ひを 何か或る特別な仕方 と 結びつけはし給はなかった。::人々が善き 信心を得てゐるその仕方はむしろ尊重すべきであ り 、その何人の仕方 をも誘るべぎではない。﹂ ヤコブ・ べ|メ もまた仏陀のやうに、宗教的 教 説の拘束性といふことに反対した。彼はさ う い ふ 教読む ﹁臆見﹂と 呼びそのこともまた仏陀と全く同じなのだ が 、それについて次のや う に言ってゐる。﹁ 地上の諸氏族が不一 致 になり、さまざまの臆見に陥り・・・・そしてそ の 臆見とともに神から遠ざかったが、それは悪魔 のせいである。﹂ こ にとってもやはり一つと称せられる知ではなくして、宗教的な基本態 れら教理的臆見はべ |メ 浄福への道ではあるまい。悪魔は我々よりも 沢 山 知ってゐる。::私が多く知ってゐるといふ ナ ﹂とは私に喜びを与へ はしない。むしろ私が神を熱望するといふこと が 、それを与へるのだ。﹂それとともに、あらゆ る 神秘主義の通例で あるや う に、宗教は内面的生活へ還元される。 そ れ 以外のすべては比倫的な形象であり、また 単 なる臆見である。 ﹁神はいろいろな形象や臆見とは別なものを尋ね る 。神は ス ー メ の表現に従 へば ︶心胸の深淵 をもとめる。﹂ へ 1 メ はまた諸々の異宗教に対する内容的寛容 を 安 永し、 自らそれを行ってゐるが、そのことは 合 いった立場か らすれば当然な帰結にすぎない。彼は、正統 主 義 が使崩した、そしてあらゆる非キリスト教徒を 一緒くたに総括す

の 巡回行を捨で ょ 。 もし カアバ に神との 具 合の香気満つることなく、 (30

(8)

<301) 宗教における 寛容と真理 る る - 「メ ト

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(9)

され得るし、従って悟性を具へた何人にも伝達 され得る。かかる真理に対する懐疑といふそうな ものは無意味であら ぅ 。併しながら、宗教的真理はそれと同じ方法 で 伝達されることは出来ない。もし宗教的真理が 合 いった数学的真理 のそうに無条件的に人から人へ 伝 へられるものな ら、 宣べ 伝 へられた真理に対する不信仰といふ そうな現象は宗教の 世界にはない筈である。ところがその現象は 、ど の 宗教のうちでも周知のことである。宗教は 、 我々が冒頭で言った そうに、 ヌ ミノー ズ な実在との出会ひである。 だ から、それは一つの実存的な真理であり、それ を 経験したのでな げ れば得られないや う な真理である。従って宗教的 真理の真理性格は宗教的 教 條の正当 さ 、証明でぎ るそうな正当さに 存 9 ヰ るのではなく、聖なるものとの 出 八角ひに 七付 し、 またその実在によって規定されることに存する 。そしてその出会ひ は 、 教 條や祭祀行為といふものをも貫いて遂行 されるのである。ここからして、そもそも﹁ 真 ﹂ や ﹁ 偽 ﹂の 範時を諸 宗教に適用してよいものかどうかといふ疑問が 生ずる。それらの 範 時は合理的認識の圏域から 由 来するものである。 し かし宗教はさ う い ふ 認識に係るものではない。 さ う いつても、宗教のうちには総じて如何なる 認 識も存在しないとい ふことではない。周知のや う に、認識といふ 概 念は宗教史のうちでは色々な所で一つの決定的な 役割を演じてゐる。 併しどの場合でも、そこで問題になって ぬ るの は 確かに、合理的な認識ではない。悟性に伝へら れ 得るそうな、そし てその悟性が異論の余地なく承認しなければな らないや う な真理ではない。 神 的な実在が、その 極めて 異 つたさまざ まの側面から、またさまざまの深さと実存規定 をもつ た 仕方において、或る宗教のいろいろな 表 現 手段を通して出会 はれ得るといふこと、そのことが宗教の真理性 をなすのである。それ 故 真なる宗教と 偽 なる宗教 といふ代りに、むし ろ 生ける宗教と死せる宗教といふべ き かも知れ ない。尤もさ ぅ すれば、﹁死せる宗教﹂とは一つの 内容上の矛盾であろ う 0 というのは、宗教といふものは生きてゐる か、さぅ でなければもはや宗教ではなくて単にそ の 枯穂した外殻でし かないか、そのいづれかだからである。宗教にお げる真理性の理念をもし以上のそうに理解すれ 。 ば 、さまざまの宗教が 各自の真理性を主張してみるといふ事実、また 内 容的 寛容の実践も、その真理性の理解とすつかり オ盾 なく合ふのであ '302) g

(10)

宗教における

寛容と真理

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(11)

総括して私はか ぅ言 ひたい。諸宗教の多様性は 生 といふものの充実である。そしてその生の充実 ほ、 一つの宗教が 他の諸宗教に打ち勝つことによって損傷される であらう。 併し、ここで擁護され且 つ 基礎 づ げられた内容 的 寛容の態度によって、宗教上の盈 ヱ ユ場といふも のが弁護さるべき では決してない。宗教そのもの、ただの宗教とい ふそうなものは、実際的に不可能である。歴史 的に制約された人間 は 、歴史的に制約された特定の宗教形態のうち でのみ、聖なるものの世界と実在性に触れてゆく ことが出来る。それ 故 、各人は彼に適った世界のうちに1 l それが 彼にとって一つの生ける実在を意味する限り。

, 留まるがよい。 ゲ一 テが 地楡の言葉で次のや う に適切に語る時、彼 はそのことを言は ぅ としたのである。 汝が 神の国へ、どの門から はいったか、それは 問ふな 。 むしろひとたび席を占めた その静かな場所に留まれ。 (301) 10

(12)

五 右に論じた如来蔵思想は、そのもとづく 所の文献内容が素朴であり簡単であるところから 、シェ り ソグ哲学との 十 姜 ︶ ,へ 分な対比をくわだてることがでぎなかったが 、それでもなお如来蔵思想と シ ,リングとが、 それぞれほぼ同一の実体 靭 鮎を目指し、これを追求しかつ認証しょうと とづいて無上 依 経、 宝性論 、仏性論、法界

群な

思索にまで展開している。従って、これ らの講読に現われている如来蔵思想とシェリング 哲学とのさらに一歩踏み ソ 入った対比と交流とが期待され得るであろう ェ ところで、無上体経では菩提、仏性論では 仏性、宝 性論 では如来蔵について、互に関連を 持ちながら十の項目を挙 ゆ げており、法界無差別論でもこれらと関係 を 持ちっ二十二の項目を並べている。名目 は それ ぞれ菩提、仏性、如来

赳蔵

、菩提心となっているが、何れも同一翻 念 として取り扱われているのであろう。ちなみに 、無上 依 経、仏性論、宝 蝸

賦性

論 における十項目の関係を図示すると 次 の 如くである。

如来蔵思想のシェリング

学に

対照さるべきもの︵

玉城

四郎

(13)

Ⅰ 0 9 8 7 6 5 4@ 3 2

因縁

惑障

果 果

至果

、 ,、

事能

業 作事・ 、、

相応

uz 0 二刀 り 相摸、 、、, 行

打処Ⅰ・・階位

時差別

常住遍満

遍 一切処

下夫

無 変異

不変

不可思惟無差別

無差別 ︵ⅠⅡⅡ関係がありそうに めれろもの明かに関係があると考えられるも 已

Ⅰ 皿

@

︵ 2 Ⅰ

土俵

め椎八 l ︶

仏性論

︵五ロ 瞑 @ ︶ ︵仏性︶ ︵如来蔵︶

自性

自体

体 ︵四種 栢 ︶ ノ (3@ お ) 12

(14)

如来蔵 思想の 、 ンェリ ソタ哲学に

きるべ もの

かりに 定 性 論は ついて云 うと、 右のうち第一因 ほ 、大乗信解の修習 宮のダゆ せ

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Po, 卸 ③にたとえ られ、この修習は無 腱 このなかで如来蔵性格の考察について重要なもの と 考えられるのは、第二の因であろう。無上 依 経と仏性論では、 この因について、Ⅲ信楽大乗、㈲無分別般若、㈹ 破 虚空三昧、㈲菩薩大悲の四国をそれぞれ 別箇 に 説明しているだ け であり、四国相互の内面関係には触れていない。 しかし空性 論 では、信解と智慧と禅定と大悲の 四法について、信解 守ら田口手兵 ヨ 0 の︶を種子ご 巴 p 。の a. ヴ 0 しに、

ぢ慧客

Ⅰ生出 ゅ 。 か 。 ".qp こ ・を 母 ︵ ョゅ ︵ q 。 ョこ に 、禅定︵Ⅰ目せ -4- ゆコゆ 。 す め りヨ 。担いこを船客 ar ヴ肝 。口音︶︶に、大悲︵ オ円 つ め 。のが 由 Ⅰ・ ユの ︶を乳母 C 甘ゆ田 。 日 キヨ じ に たとえており、これ ら 相互の間に関係のあることを暗示している。 ところで、この﹁ 因 ﹂に関連の深いものは、 宝 性論で 云えば第五の相応︵無上 依経 ㈹相摸、仏性 論 ㈲ 総摂 ︶であ り 、そこでは項目相互の内面関係が示されてい る 。定性 論 における﹁相応﹂は、無上 依経 では﹁ 相摸﹂、仏性論では ﹁ 総摂 ﹂であると考えられる。無上 依経の ﹁相 摸 ﹂は 、 他の二論とは直接関係がないが、仏性論 の ﹁ 総摂 ﹂と定性 論 の ﹁相応﹂とはほとんど同一内容をとり扱って仏性論実性論 いる。両者の関係を示すと次の如くである。 ㈹法身清浄 因 :::法身清浄

因雀ぎ

r ョリ ガ 騨 p, せ掠弔宙 らず ごノ の︵ け @ c ダ 。の, 村吋 ︶・の オ廷 Ⅱ 局ゅ日 ,七 % Ⅱ。ら ゆ鍍 ・ づゅ ケサ 。Ⅰ 焚 円仁︶ ㈲仏智徳生国::・・ 集 仏智 因 G 巨 Ⅰ 註古ぎ p. き 日付 ら曲 ㏄の︵︵︶ ゆ ・ け り︵ 目 @ の笛コ ㏄心の宝のの・ オせ ㌧ せの ・赤のの。︵ ず 。 す, づゆ ず T Ⅰ ぬ 円 E ︶ ㈹仏恩徳 因 :・・: 得 如来大悲 因 ︵ tp 目鰍堅 a, ヰ目のず いオ麓 Ⅰ窪目 ゆ,せ Ⅰ︵ コ 。 すめ ︵ 目 。 ら 0. す ㏄ ず目 ・㈱ ぬ 。 ぬ ㏄ , ㌧ ゅア ︶・ ︵︶︶ 6 目 E ムおん甘の コ 。で 0 一

(15)

すなね ち、第二の﹁ 囚 ﹂が、信解、智慧、禅定、 一得如来大悲 囚 ::悲の修習 大悲であるのに対して、第五の﹁相応﹂もまた 、 右に述べたよ う に 分解すれば、同じく信解、智慧、三昧、大悲 である。しかもここでは、信解の修習のなかに 智 慧と 三昧と大悲がそ なわっており、智慧と三昧との修習は無分別で 不可思議な力の徳と相応し、また大悲の修習は自 体 一味の相を実習す ると云 う から、信解、智慧、三昧、力、大悲は、 如来蔵性格のそれぞれ異なった方面を表わし っ つ 、しかも同時に実 質的には、信解も智慧も三昧も力も大悲も 、互 に 重なり合い類似し合ってすべてが如来蔵そのも のの 什 きとして統一 されていることが知られる。すな ね ち、信解の なかに智慧も三昧も力も大悲もそれらすべての形 態を想定することが でき、同様に智慧 や 、ないし大悲のなかにも 他 のすべての形態を想定し得るのであって、これら 全体の肋きが如来蔵 そのものであると云える。 -9-

一 ""

﹁相

+mW

一 無分別

仏智

::智慧と三昧の修習

"

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く %) Ⅰ 4

(16)

蔵の事実上の原型ではないであろうか。

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ついてみると、これまで論じてきた如来

の諸性格が八つの徳性

鮮に

められていることが知られる。すな

ち、Ⅱ無為体

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関係を有すると考えられるが、この点を明

かにするために、かりに、第一の﹁無為体﹂、

一一の﹁自然﹂、第三の﹁下花

ぎも一の﹁ 体 ﹂を考察してみると、如来蔵不染 の 自体には、智慧と三昧 とカと 信解と大悲とが、 云わば先天的に統一され 0 表われ方は指摘し得るとしても、おそらくこの ような統一の事態が如来 右の事態を同じように内含 し 表示しているもの 第一の﹁ 体 ﹂であると云えるであろう。空性 論 では、﹁自体は つねに不染である﹂ 宙空 ㌫肩の オ ハモの総名 巴 @ ゅ ︵ の Ⅰ︵の 吟苦尽コ ・打日 臣巾 0 口 ・ 日 0 ひのヨ の③と云い 、さらにこれに関し て、 コ カ Gg すずゅぺヂヨ目 しと不変の状態 守目

離宮 コ ゐ斗 け p. すずゆせど 簿瓦コ ・ っ じとの自性のゆえに、これが、思いの OO0 かなう宝石︵如意 珠め ぎ 蓮日ゅ且コ oH. ヴ u,H ぎ ・ 臣 のコ ︶と虚空︵ 口 申すず ダ - ㏄ - - Ⅱ︶ 日客

ここと永宮

wH@ 。 宰 ことの性質に類似し ている、﹂と述べられている。これを前に述べた 第五の﹁相応﹂と 対 賭 してみると、ここで云われた力に対する宝の たとえは、﹁相応﹂では智慧と三昧︵そこでも 同じく宝のたとえ︶ を 意味し、かっそれが不可思議な力に相応して おり、また、柔軟の状態に対する水のたとえは、 同じく﹁相応﹂では ︶﹁最も柔軟な自体一味﹂の大悲︵そこでも 同じく水のたとえ︶に当り、さらにまた、不変の 状態に対する空のたとえ

︵が

続 、 同じく﹁相応﹂の 、 器にたとえられる 信解に相当することになるであろう。従って第五 の ﹁相応﹂に照合して 第

(17)

Ⅰ︵ 0 挿の・ 日 ドロ・で か づ Ⅰ り ︵田田︵︵ 下 ゆ日ゆら オ - の ゆ日せの︵ ぺ 目色りづの下のつⅡ 簿 ㎡ 甘 ゆ 吋 。 らの 目ゅ已 . の 0 。㏄ 0 片ゅか,的ぎ Ⅰ -o ㎝㏄。 すせ が テ T ㌧ ず目目 , 抽 ㏄ ず 曲目。 由ぺ十 Ⅰ 左ぺ e ロ ・㎝ せ @ 乙 - ぬ - 俊也 知 ﹂について考察を試みてみよう。 第一の﹁無為体﹂について、﹁初め 宙ま 。 目 。 幅 。 ョ こもなく、中間︵回生 さヂ宙す乙 ︶もなく、 終り 宜ミテ簿 コ チ -4- i

ダぎ ︶のゆえに無為である、﹂と云い、その反対で ある所の有為にっ い ては、﹁それには生宮︵ っ p&p 。の ォ せのよ巴が属す ると知られ、 住 室田ヱ。 ぬ 口器。 つ

しも

滅 G 甘 pp ぬ a 。 ま貯ぜ 巴も属す と 云われる。 す なわち無為は、主柱滅などのような状態の変遷 に 関わりなく、また 初中終の時間性をも超越している所の自体であ ると考えられる。しかしこのような自体とは、 一 体 何を意味するの か 、どのような 境位 において理解さるべきであ ろ うか 。 第二の﹁白状 ニ について﹁寂静の法体盆山コヨ 瓦 ず ㏄Ⅱ白目の。 ぬ簿弓り Ⅱの ヰく駝 " ㏄ ず -, す い, 0 ず 0 ㏄。 オぢ 。のガ目・りゅ二︶の ゆえに自然 盆 @ 功 用 ︶であると説かれる﹂とも、三切の戯論や妄 分別が寂滅 肛 帰するゆえに自然である﹂とも 云 われている。自然に 関するこの二つの見解を結合すると、寂静の法 体 というは、一切の戯論や妄分別が寂滅 肛 帰する ことを指しているこ とになるであろう。そして寂静の法体は 、 同じ く 仏体の一面である所の第一の﹁無為体﹂につら なっているであろ ぅ 。この点から考えると、先に述べた所の 、状 態の変遷や時間性を超越している﹁無為体﹂は 、 云わば客観の側に向 ぅ 物自体というようなものではなく、一切の戯 論や妄 分別が寂滅に帰する方向、すなわち三昧の 方向に求められねば ならないであろう。云えかえれば、無為体は実 は 主体の究極を指していることになる。そして, ﹂の点が三昧でもあり 自然でもあると考えられるのである。 第三の﹁本体 他知 ﹂については、 ﹁自己自身によって 証 得しているがゆえに、他に 依らないで生ずる﹂ (310) 16

(18)

如来蔵 思想の シェ

0

目 い で 然 か こ あ で え こ る あ れ で 0 つ む ま ャま 無 。 て

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動 。 何 立 。 り の 。 か の。 を 特 。 の 認 。 開 質 。 意識。 い と 図 の て い を 具 い ぅ

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う り か 17@ (311) ソグ哲学に対照さるべ き もの ( 続 ) 岸宙

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(19)

際 はそうではなく、ここでは 無 活動の特質と無 為 自然とは同義語として見ているのであろう。 従 って一見 相 矛盾する よさに見える此の点にこそ、悟りの基本的性格 が 秘められていると考えられる。すな ね ち、生死 の 存する限りは断絶

容 が無為自然なることとは必然的に結合されてい る 。いいかえれば、 無限の活動と、その意図の否定︵無為

白めと

は、 悟りの自覚の両面であるということができる さきに空性論の如来蔵に関して﹁ 体 ﹂﹁ 因 ﹂﹁ 柑 応 ﹂において述べられた諸性格が、いま同論の仏 体 に関する﹁無為 体 ﹂﹁自然﹂﹁ 不 俊也 知 ﹂において明かにした 如 く、一 そ う 統一されたものとして表わされている 。さぎの﹁ 体 ﹂﹁ 因 ﹂ ﹁相応﹂では、如来蔵の諸性格は互に緊密な連繋 を 持ちながら、しかもそれらが列挙され得ると い う 見解に止まって いるが、ここではそういう諸性格の列挙ではなく 、仏体の全体的な 什 きとして表現されており、 しかもその統一的な 功 ぎのなかに、これまで考察してきたような 如 来歳の諸性格を看取し得るのである。 これまで明らか忙した如来蔵の性格は、信解、智 慧 、禅定、大悲であった。あるいは智慧と三昧 との修習から当然 生れてくる不可思議な力も、性格の一つとして 考えられ得るものであった。ところで右に述べた 仏体の全体的な枕き は 、独立の認識 宜ぺゅせゅぢす プロ盲目ととか、 悟 りを開いていること③ ヴ 田器旧す。 年けと とかい う 点でまさしく智慧で あり、無為自然③ お 七の Fq ︵ pp コゅヴす 0 ぬ

巴は

、寂 静の法体︵ 絞巳 a,

ミ日 a. 給 r ロ ra 甘 こであり 主 体の究極であるとい ぅ 意味において禅定あるいは三昧であり、また 生死の際︵ 維弔ひ wqpFO きの存在する限り断絶 す ることなく 他く宙 qp, va ュ巴 ③とは大悲を意味していることになる であろう。それでは信解はいかがなるのであろう か 。これについては 直接には言及されていない。しかし、すでに述べ た よ う に大乗信解の修習は智慧と三昧 と悲 とを 含 むと云われている点 から考えると、信解は仏体の全体的な 肋 きのな かにすでに内含されているともなし得るであろう 。また智慧と三昧 と の 修習から生れてくる不可思議な力も、ここでは 仏体の無限の活動として表わされているとも 見 得るであろう。この よう に考えると、如来蔵における諸性格、すな わち信解、智慧、禅定、大悲などは互に内面的に 連繋 し 合っている 許 くち [2) 18

(20)

ね 。 是 阿難、一切諸仏 在 ,因地中 - 、 依 ,如来 界 - 修二行 書 根 - 利二盗衆生 - 、 為 , 比事 - 故 、来人二三界 - 現 ,生老病死 - ﹂ 工人一丁 ハ ・ 曲 Ⅱ つ 巨 ︶ 思想 ︵ 9 ︶無上体経︵太一六・も q09 では、如来蔵の代り に 無上菩提をとり扱っているが、それと相応する法に 吹の十九種を数えて③ 来歳 9 Ⅰ 女 ,,リ ソグ哲学に対照さるべ き もの ( 続 )

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(21)

㈲大義・・:資糧、 為相 、 為行処 、滝平等、最 極 、 日別異義⋮ 為 自性差別、 為相 差別、施行 処 差別、鴻池 差 別 、境界差別、 為徳 差別、 為 救済 有 差別、 為究寛 不発意 差別、 右の大義と別異義とは、それぞれの角度から大悲の表 わ れ 方を論じており、体表 は 、 有 分別俗智すなわち大悲の るから、仏性の第一自体相に統 捜 さるべ き 三つの性格の なかの大悲にもまた、智慧が根拠 づ げられていることが 知られる。 従り て 仏性論においても定性 論 と同じく、仏性の種々の性格 が 仏性の自体に統一きれている許りでなく、それぞれ の 性格が互に 丑 試みている。 目棒 義 ・・・:般若⋮⋮ % 分別俗智・・・⋮大悲 体 、

12

水の

Ⅲ不可思量、㈲微細、㈲真実、㈲道理甚深、㈲不可見、 ㈹ 難 通達、㈹ 常 、㈲ 在 、㈲ 寂 、㈹ 恒 、⑪清涼、⑱遍満 ㈹魚介 D@ 、㈹無著、㈲ 無擬 、㈹随順、㈹不可敦、㈹ 大浄 、㈲ 澄 清 。従ってこれら十九種の形態は無上菩提として統一 されていると 云える 0 布 ︶ここでも サソ スクリットのの コ冊 ロぎ︵柔軟︶は 、 チベット訳では 汀鼠 nl 罵 ︵ 湿 ︶となつている 0 詳言 装ぎ 順一。 ︵Ⅱ︶ 0 口 ・ ユ ︵・ せ ・ Npol ㎏ ぷ Ⅱ 円 ㌧・の㏄ 止山 ? や大三一・ のぃ ㏄ 口 、なおこのシナ訳には﹁自在力不変、 忠 実体 柔 軟 、 宝 空木功徳、相 <314) 20

(22)

如来蔵 思想の シヱ : り、 ノ @ ノ グ 哲学に対『さるべきもの ( 続 ) なり合い融け合っている ケ二 おい得るまであろう。︵以上 。仏性論、大三一・ 7 のの ロ 。 づ 当下︶ つぎに無上体経では、無上菩提の十義の、第十﹁不可思 推 しのなかで、無上菩提不可思議について五種をあげ ている 0 すな ね ち、田自性、㈹ 処 、㈲ 佳 、㈲一票、㈲利益であるが、 そのなかの㈲ 一 異について、三世如来往 二処 - 佳 、 何 若 一処、自性 清浄無漏法界﹂と云い、また㈲利益について、﹁如是 如 末筈一法界、智慧神力正勤威徳悉皆平等、桂二 於 無漏 清 陣法界 - 、諸姉 来等因 。 此転依 、龍馬 二 衆生 - 無量利益﹂と述べている。 この見解に従えば、三世如来の一処は自性清浄無漏法 界 であり、それ が 如来の一法界であり、 柳拙と 神力と正勤と威徳などは す, へてこの法界にもとづいており、如来はこれによっ て 衆生のための 無量の利益をなす、と云われる。ここに云 う 自性清浄 皿 漏 法界は、定性 論 における如来蔵不染の自体、仏性論 における自体相 品通 相の自性清浄に相当すると考え得るであろう。そし てここでもまた智慧と神力と正勤と威徳と、さらに 衆 とが、自性清浄熊蜂 漏 法界に統一されている。︵以上、 無し﹂ 依 経、 小 全人・かおい, い Ⅰ ︵ m ︶ O ゃ ・ 臼ダ 0. べ鴇 l 号円円や G ㏄ l ㏄ le@%1 ご ・ 慈ぃ ︵ M-OT ユプやダ ・円円㌧・ので 乍ゲ ㏄ いい の ︵ 巧 ︶ 0 や住 ︵・ ゃ ・ダ l ロ・円円 つ ・㏄㏄ 1 トー か ・㏄ドドの ︵松川︶ 0 で・ り @ ︵・ ロ ・のめ・円円 巾 ・㏄㏄ 1 ト -2. の㎏ い 0 ﹁他に依らないで生ずる﹂ G 口 pqp ゃ qp 目ギ 0& めゼぃヨ ︶ は 、チベット訳で は 本文に示した通り、﹁ 他 よって教えられ るのではない﹂ となしており、最初の - 否定を語全体にかけている。もと より サソスクりソト の % 台もこのように解釈され得ろ が 、しかし後に続 いて目口のぜ 9 の意味を積極的に説明し展開している折山 らみて、口ロ aya を肯定的に処理した方が適切・でお 石 と 考えてこのよ - ヮ に 訳した。シナ訳にも﹁不休 他 因縁生者、自覚不休他覚 故 ﹂とあるは、後半の﹁自覚 不 。 依 - 他覚 - 故 ﹂から云っ て 、やはり﹁ 下し 依 , 他 因縁 - 生 ﹂と読むべ きか 。 ︵ t,, ︶ 0 や・ n ぎ ・ ロ ・のめ @ き ・円円 づ ㏄リートー 収 l の・の㎏㎏ 0 @- サ ソ スクリットでは単にのす アぢお ︵ 0tpp. ロのプとな つているが、ここではチベット 印い G@ 笘 。Ⅰ 1% 五 1%@ 冶,す のづ - ヨぃ1でロ l む 0 ︶ @ 庁 ト 従った。 (315)

(23)

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(25)

ぃ 。意識に現われるものは﹁非我﹂ ヨ庁田 , に じ によって限定されているものであり、客観的 対象的なものに堕し ている。自我は先験的意味において、完全に独立 したものであり、かつ絶対自力に基づいて一切 の 実在性を限りなく 自己自身のなかに定立することによって、それ 自身端的に﹁統一体﹂ 寓ぎ訂 こであり、﹁一者 ﹂ 釜年 ㌔しであると 云 う ことができる。このような自我の一者は、 自 我の ﹁現存在﹂︵しのお ぎ ︶に従 う のではなく、 その﹁単なる純粋 存 在 ﹂③すの沫のほ ぎ 毬の 0 ぎ ︶によって、かく云わ れている。従ってそれは﹁総括的統一体﹂ 宮岸 のの日日。 コ 目のののの コ 宙の め円コオ の @ ︵︶でも﹁総括された統一体﹂︵ ざ窪 日日の コ 的のめののの︵の 出ヱ 目の @ ︵︶でⅠも なノ入 、まさし ノ入 ﹁ 牲祀 対 統一体﹂③ 藍 。 ざ ︵ の め ︵ コプ の 山 ︵︶である。なぜなら自我は、いかなる 意 味 においても純粋概念でも抽象された概念でも シェリングにおけるこのような絶対的統一体に関 して如来蔵の場合はいかどであろうか。如来蔵 にはその ょう な統一はどこにも主張されていない 。しかし如来蔵性格の種 力 の方面に関して論じ た よさに、たとえ ば 、信解、智慧、禅定、大悲、あるいは不可思 議 立刀、などの如きは互に内面的に連繋 し 合って おり、しかもそれら は 同一の如来蔵について立言されているから、 如 来歳自体がこれらの諸性格の統一体として推定 されたことは、きわ めて自然であると考えられるであろう。ことに 右に述べた シヱリソグ の論述について云えば、 自 我の自由は、消極的に は ﹁完全な独立﹂行学 NP 片 。ぽの日日 ヴ研 リコ 的貯オの @ ︵︶ であり、積極的には﹁絶対自力﹂ 守捷 。 す 宙の 0% 簗日 のり ぎ ︶にもと づいていると考えられているが、このことは、﹁

て証 得しているがゆ って自己自身のなかに一切の実在性を限りなく 定 止 すること﹂ 律コサ の 日コ幅 ︵ののの田器コ目 蒋 寄主 ぎ轄 ヰ田 日ヲの @ りデ の。 トテ Ⅰの ヰ 色目きの す の 0 ざ ︵の ぽ宇 組目 ac 才 ︵︶である。このよ う な自我は、もはやいかなる意味においても 意 誠 には現われてこな・

は 客観的対象的なものは全く附随せず、しかも それは﹁絶対自力﹂ 守肛 。 呂汀 ぎこ終ョ pn 肝 ︶に 基づいているからで 簗 ある。従って自由はただ自己自身によってのみ 存し、それ自身無限定的であり、かっ無限なもの を 包括している。こ % の点から自由は、消極的には﹁完全な独立﹂ 締リ コぃ ︶ @n はの C コ の す 悪品 鮒寸の @ ︵︶を意味し、積極的に は 、﹁絶対自力によ

(26)

如来蔵 思想 c ソグ哲学に対照さるべ き もの ( 続 ) 洋人Ⅰ︶ 、づ C 日 ︵ 0 ア ・ プトづ の ?- ドイツ思想の背景には、 仏 数の禅定力に対応する ような別の力が存していると 思、ソ 。それが何で品るか という @ 三は明言で

説明のできない重要な 諦 Ⅲ避が現われている,この 領 域を探る -- と に 私は深い関心を寄せているこ ︵ 3 ︶金剛三昧経、大九・ ぎ のの前件一七頁参照 ︵ 4- 前号一八頁 ︵ 5 ︶本文一七頁参照 -6 ︶。 く 0 日 ︵ リ ア , Ⅰ︶Ⅱの i ︶㏄㏄ 哲学者の最大の目的は、抽象 概 忌を設定してそこから 体 手を紡ぎ出すことではなくて、﹁純粋にして絶対的な 存在﹂ 父 生日のの りすさ日 - のの 絵ぎ ︶、いいかえれば、 - 溶 伸しがたい七の﹂ 宜ルの己コり氏 日出 i0 す めて ﹁直接的なもの﹂ 宜ドの C コヨ 寅 の一 ず まお ︶、 一 ・単一 なもの﹂ 宜 ps 田コ ㌃の ァじ 舌頭わにすることである、 と いうことを シヱりソダ は﹁自我について﹂のなかで -. 一 している 0 コ ・ お e ︵ 7 ︶本文一六 i 一セ頁 参照。 OO00000OOOOO ︵ 8 ︶たとえば・ づ 。 日 ー c ァ 、では﹁自我の絶対的実体の 因果性の ヰ 拐の由 -a@d のⅠ 巴お 。 す - のコぎず の - めコ z d ののに 訂を表現する所の㎝ OOOOOOO 最高の理念は、絶対的力の理念Ⅰ驚のせ 0 コ斗さ - ﹁︵のⅠ 紙器 圧 である﹂二︶ 繍 ・ 簗 とと云い、また﹁自我の最 後の目的は、お @8@ ダの円 ︵︶がすなわち﹁絶対必然﹂宮守。 す汀 Z0 ︵ 韻 のコ & ︵ ぬダ の 円 ︵︶であるという観念と対比し得るであ ろ う 。 えに、他に依らないで生ずる﹂とか、また﹁ 独 立の認識に達しているがゆえに、他に依らないで 生ずる﹂とかい う見 解 とまさしく類比され得るであろう。しかも﹁ 生 ずる﹂ということが無限の活動となっている所の 力 である点も同様で あろう。かく考えると、それ自身無限定的であり 、完全な独立と絶対自力にもとづく所のシ ス リン グの 絶対者と、自己 自身によって 証 得し、独立の認識に達しながら 血 @ 限の活動として現れる所の﹁空性 論 ﹂の如来蔵 と は、 全く同一の問題 意識に在ると云 う ことができる。また、如来蔵 には自由の観念は存しないが、同じく﹁定性 論 ﹂ で 論じたよさに、 無 限の活動がそのまま﹁自然﹂古註すず 09 巴であ るという見解は、シェリングにおける﹁絶対自 由 ﹂ ハ のすの。 プ汗ヰ 0 局Ⅰの∼・

(27)

セ 以上種々の方面から、かなり微妙な点にお至る まで如来蔵 と シェリ ソグ の絶対者との間の類似性 を 論じ、そして 逐 には両者何れも、主体的な自覚の領域における 独 立独 存の統一体であることが明かにされ得たで あろう。それぞれの 思想の背景は全く異なっているにも拘らず、 こ れほど多方面に、またその深部にわたってまで類 似 点を見出し得るの は 、如来蔵もしくは絶対者という主体的人間の究 極 の問題を問 う ているからであろう。しかも、 如来蔵は大乗思想に めげる仏の観念の展開から離れ得ず、シェリング の 絶対者はキリスト教の教義における神の観念 に裏づ げられている から、両者の間には、大乗の仏観念とキリスト 教の神観念にまつわる思惟法の相違がそれぞれの 思想形態に 惨透 して いるのであるが、しかしそれにも拘らず、ツェ リ ソグ は一方ではこの ょう な絶対者をどこまでも 人間意識の根源を追 求 することにおいて明かにしょうとしており、 また如来蔵も一方では史上における展開者自身の 解脱の目標と思惟に おいて究められようとしていることが、両者の 間の思想の根本的な相違を踏み越えて互に相近 う かしめていると云え

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(29)

ペソ ワ すでに述べた如く 、シ ・ ヱリソグ の絶対者が理性 そのものであり、認識作用自体であることが如来 蔵の智慧の方面と 対応できるものであるが、さらに進んでシェリ ソグ の理性はどのように展開しているであろうか 。﹁哲学と宗教﹂のな -2@ かで、理性の根源 態 が示されている。そこでは 理性の根本性格は﹁根源統一︵ C ︵ 臼コオキ ︶ とし て 理解されている。 すなね ち、知の本質としての形態は﹁根源 知 ﹂︵ Cq きぉ目 ︶であり、それは﹁根源理性﹂︵ Cr ヰ の Ⅰ コ建コ持 。 ノ鋲弍 0 りレ 性 ㌃ 外 ならないからである。それでは理性と絶対者 との関係はいかがであろうか。理性が本質的に は 統一であるという ことは、絶対者がそのようなものとして限定され ていることを意味している。従ってそこでは 絶 村老 は 模写された 形 態として現われている。そのなかの統一の点が すなわち﹁自我性﹂︵に 廿ゴの ∼︵︶であると云われる 。それゆえに絶対的 な 意味においては、理性と自我性とは全く同一で あるが、しかし事実上は、統一の点は統一その ものよりも 一 そ う限 建 された意味を荷っている。すなわち自我性 二 一重の方向を含んでいることが知られる。第一に それは、絶対者すな わち﹁神から最も遠ざかった 点 ﹂ 雀瑛 ㌧ 目 コ % 倖 銭 曲目のの er の︵の口内 口司 冊目 息せ 0 コ 00 二︶であると 目時に、第二に﹁ 絶 村老へ還帰する契機﹂ 雀縛目 。日の三年代オぎオ がめず rz 目口 ト すの 0 すこしでもあるからである。 この意味から自我性 は 、﹁模写されたものの最高の対自存在の点﹂ G めぺ弔岸コオ侍串 のの 廿む 。二の日。 コ円む Ⅱ・ ゑ り ず @ の。 トヴ ㏄︵ @ の 。中コ の リ のの レヴ ㏄の サ 田田の︵の 口 ︶ であり、また﹁有限性の普遍的原理﹂ 雀泳 巴瓦 の日の山コ 0 ㌧Ⅰ中口 り印づ音 Ⅰ田口 & ︶ やめ 甘井 0 千こであると 云 われている。かくし て 理性は根源統一であり、自我性は限定された 意 味 における統一の点、もしくは有限性の原理で あるが、そのような 自我性のさらに個性化されたものが﹁ 魂 ﹂篇のの 円 乙である。そしてこの魂にも二重の可能性が与 えられている。第一 は 絶対者のなかにある可能性であり、第二は自 己 自身のうちにある可能性であり、後者は絶対者 の 原型から分離する ことを意味している。従って魂から絶対者へと 逆に遡っていくと、魂の根源統一に対する関係が 、根源統一の絶対者 に 対する関係に等しいと云われている。 イ 3222) 2 色

(30)

如来蔵 思想の シ,リ ソグ哲男 ている点から云えば、仏教の ァ ーラ・ ャ識 、如来 蔵 と微妙に類似していると思われるが、しかし、 自我を唯一 -5- の実体と して理解し、また同じく自我を﹁あらゆる実在 の 定立性の基体﹂ G 目すの︵Ⅰ 簿目 宙の下のの tz す滞 寸の山片目 串 寄生田︵ 曲 ︵︶となし ている点を考慮すれ ば 、如来蔵よりも 一 そ う明 確 な存在規定性を附与していると云 うべ ぎであろ ぅ 。このことは、 す でに論じた如く﹁先験的観念論の体系﹂のなか で、に ダ驚宇 のよりもⅡ 蓬 江口を一そ う 高い命 題 として主張してい たことからも領かれる。しかも後期の﹁神話の 哲学﹂においては、最初期の﹁自我について﹂の の 実体観念が、そのまま神に置きかえられている 。すな ね ち、 神 こそが実体であり、基体そのも のであり。神は決し 却

,て

自我は無制約者であり、存在する所の 万象は自我のなかに在り、自我の外には何物もな い、という趣旨を主張し @4- 点 さ から見ると、シェリ ソグ は如来蔵に比して最初 から著しい傾向を有していたことが知られる。﹁ 自我について﹂のなか このように見てくると、魂から自我性へ、自我 性から理性へ、理性から絶対者への一連の系列を 想定することがで きる。このことは逆にまた絶対者から魂への 一 種の流出の意味をも含んでいる。 -3- このような鋭吉 ハ から、如来蔵との 照 合を考えると、如来蔵はシェリ ソグ から 歩 くと も二つの点に関して区別され得ると云えるであろ ぅ 。第一匹、如来蔵 は 生死と淫薬との根拠であるとは云えても、 現 家世界が如来蔵から流出してくるということは、 いかなる意味におい ても認めることはできない。第二に 、シヱリソ グの 理性は統一と云われ、かつ右のように、 魂 、 自我性、理性、絶対 者の系列のなかで考えられているから、その 理 性は実体的な存在の意味に深くつらなっている ナ ﹂とが知られる。しか し 如来蔵は決してそのような意味の存在性を荷 うものではない。これらの二つの問題のうち、 第 一点は、シェリ ソグ ではキリスト教の創造 説 に裏 づ げられており、 仏 教の縁起 説 に対照され得るものであるが、創造 説と 縁起 説 との対比 ⑥は別として、右の第一点と第二点との問題 は 互に重なり合っており、結局は、哲学の究極の 領域に或る意味の存在性 もを強調するか、もしくはそれほど強く承認 しないかの相違に関わってくるであろう。 ヘ き 、 シェリングの絶対者と如来蔵とは多くの 観点において類似していることを論じてきたが、 しかしこの存在性の間頭

(31)

て 一種の存在者ではなく、実は﹁存在者自体﹂︵ 宙笘 のの ハ の生ののの︶ ずの ︵︶であるという。この点 か ら 神は、事実上存在 帥 するものの究極であり、個々の存在するものは 神という存在者のなかに全く統摂せられる。この ような存在観念は如拙 来歳には非常に稀薄であり、あるいはほどんど 認められない。 ところで神が存在者であるということは二方でご は、 神は﹁必然的に実存するもの﹂ 雀おコ ヨ老 目 宙 田ゆ お Ⅹいの 目 e Ⅱ 0 コ倖の " 沫窩 ののがⅠ∼ 0 邑乙の ︵の口の︶であるという仕方で表わ されている。いいかえれば、神の存在者の在り 方は必然的であると いうことができる。このような必然性を シヱりソ グは 極めて注意深く強調している。かれによれ 的に実存するもの﹂ 雀舘口 0 ︵毛の口 宙 ∼ ぬコ 0 ︵毛の口 宙ゃ ㍉ めパい の︵日のお 臣 ③であり、いいかえれば、それ は ﹁自己の本性から 必然的に実存するもの﹂㊧ 舘 コ差目 ゅ旨 a コ o 寺 0 口 宙ゃぬ已 Ⅹ円理 ざほ已 乙であることを意味してお り 、﹁単に事物上の必 然 的な実存﹂㊧

弟匡

0 のの ac ︵ E 口 o ︵韻の コ宙 円窓Ⅱ 准 リングの後期におけ る 、この ょう な言わば絶対的必然性は、最初期 の ﹁自我について﹂のなかでは、﹁自我の絶対的 実体の因果性﹂とか、 論じた如 き 絶対的自由がすなわち絶対的必然と なって展開している

どを憶わせるものがあるであろう。あり、しかも の﹁ 知 -0-1 性﹂ 公 。 シ 目堅 ニングがこの存在者そのものを﹁純粋 事象﹂ 同時にシェリングのこのような必然性は、理性 と 深く結び合っている。かれによれば、理性とは ﹁直接的な思惟に おいて定立されたものを踏み越えていく純粋 思 惟 ﹂であるといい、その ょう な思惟そのものが、 すなわち﹁根源的 必 熱性﹂ 雀オ E ドの笘む コ % ざけの Z0 ︵毛のコ % 鯨 村立 こで あると云われてしる。、 -2-1 しかも右に挙げた﹁純粋 事象﹂﹁純粋思惟﹂﹁ 根 源的 必然性﹂などは、結局は絶対者に関して 同 一の事態を表わしていることに体ならないが、 し かし積極哲学の立場 から決してそれだげに止まるのではなく、それ は 同時に活動そのもの力そのものとしても現われ ている。すでに﹁ 先 験的 観念論の体系﹂のなかで、自己意識は決し て 経験的なものではなく、根源的であり純粋意識 であり、かつそれは

(32)

・絶対的な作用﹂

ごコ

が す のの

︵の

ザ下酊

︶であって

。その外にに自我はあり得ないという趣旨を展

しているが、

@ i

後期

ではそのような作用性が神の問題として

う 明瞭に論ぜられている。すなわち﹁哲学的経験論

叙述﹂において

は、

神は活動であり、神性関する最後の表象は

﹁無制限者たり得るもの﹂

盆宵由

がの

C

コ汀

円目

ぃ片

0

0

コホ

ゥ 戸戸の

コ Ⅰ

0

云われぷ神話の哲学﹂

@

では、それと同じよう

表現である﹁

制約的な存在可能﹂

?

ぎ岸手紅

-

二幅

のの㏄の

ノロガ

ロコ

0

口︶

ガ、

神を﹁純粋な勢力と威力﹂︵の山口す三盆の

目曲

0 プ円仁口ロののミ曲

@ @ ︶ -I

として捉えるものであると

考えられている。

存在者自体であることは前に触れたが、その

﹂とは、神が﹁存在の外に、かつ存在の上に﹂︵

ゆ仁

㏄ののⅠ

倖 e 日の臼

臣 。

もつぎに﹁

宝性論

﹂における如来蔵の大悲

醐る が

右に論じた理性、必然、活動、力などが絶対おる。﹁ストク

点から見ても、愛は絶対者の活動そのもの

トガルトの釈講義﹂のなかで、

なかで、神の起源を追求して源氏あるいは

ソは

さらにこの方面を掘り下げている。すな

み汀

音日はし

あることを意味している。

念頭においてシェリングの愛はいかがなるであ

ち、精神は光と

との絶対的な同一性であるが

氏と名づ

、﹁

光と闇仁

対する絶対の無関心﹂

って神は存在に対して全く自由であり、神が存在

至ったが、シェリ

ソグ

うか

。この愛もまた、

、その精神を越えると、

自体である限り

参照

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