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己  な  間

ドキュメント内 『宗教研究』163号(33巻4輯) (ページ 104-110)

  

103  (3%) 

ツ レヒ ヒン 結びついているのである 玲 ・の・ べじ ︒その点に 立って人間は如何にして回れを保っているか︑ そ れはた ゴ に神に  その点に立って人間はようやく︑人間として 己 れを保っのであるから︑中間を保つという概念は 真の人間性の概念と 

よって私は生き︑ 神 なきことによって 私は 亡ぶの で 十のるか 氏ノ︑ 神は善で める︵戸戸 ヰ P  ㏄㏄ べ ︒ @ ㎏㏄㏄ レ とい わねばならぬ︒ ‑l.‑ ル 神の欲し 結う ものは 善 ︑神の欲し 結 わぬものは 亜 ゅ となり 父 ・の・ ぃ ︶ ︒の・ ごさ︑ 悪は人間の悪行で あり就中神への負い  エス・キリストによってのみ︑人間実存の開示 と 同時に決意と飛躍がなされる︒それはまことに 瞬間とも突如ともい  えるが如く行われるのである︒瞬間に永遠がひ らけ れるのは︑まことに突如たる人間の転身であ る ︒ 己 れにのみひた  すら 向 っていた人間は︑ひたすら神に伺って い るのである︒かくて神の子人間は誕生するのであ る ︒まさに自己自身  の 存在のすべてをかけた 賭 ゥ げである︒ ッテ 飛躍の向 ぅは 無である︒無の中から自己が誕生するので ある︒理性的にみれ シ レヒドヒン ば どちらにもかげられぬそのどちらかに賭ける のである︒而も︑かげねばならない 貧 ・の・ ︶ o1 注 ︒ 

たゴ 

賭け 

る 外に ︑己 れでありよ う のない限界状況において ︑己 れを賭けるのである︒ 

かくて︑人間は神に伺って︵神の子として︑ 父 をした ぅ が如くに神に伺って︶あることより外に ︑本来の入間とし  てありよ う がなく︑そのような本来の人間とし て ﹁私﹂があるのである︒本来の私がた ビ 神に向 ってあることが出来 ヒ ・ ゴツ るのである︒被造物人間がゲシ ヱ︐プ ︐﹁自己自身である﹂ のは︑それが﹁神によってある﹂ことによって である︵下ヒ・ 縛目と ︒  セルフスド・ザイソ  まことに神は万物の創造主である 月 ・の・ ぃ 8  が ︑それは︑神は万物に自己自身を与えるという ことである︒その神  の ﹁与え﹂の 肋 きは︑人間自身の破れ目の深淵 における実存の開示となって 枕 くのである︒神が 人間に来るのは本性 

によって ビ なく恩寵によ グラ ス ってどあり︑また本性に よって ビ なく侮慢によってどある モ ・の・ ごさ ︒ 人間実存の開示に 

おける神と人間との出会いにょり﹁私﹂が誕生 するのである︒従って ︑ 私が在るとは︑自分で自 分を定立することで   あるから︑私が神である 事 リストにおいて︶ ナ ﹂とでもある︒私はキリストにおいて神であって こそ︑本当に﹁私で 

  ある 所 ﹂の私であることが出来るのであるし︑ そ れでこそ私は﹁私であるものである︵ トコ ・ 碑 中か ︶︒かくの如く神に 

  

   活力神のために削られたのならば︑なぜこんな に 神に反抗するのであろうか 雀 ・の・ コ とと解き 難き難問が積み重さ℡ 用 @@ 笘 

なるだけである︒難問の積み重ねによって ︑迷 ぃは 更に迷い な 産み︑人間は迷 い の中に 己 れを 見 失 う であろうに︑ 4 % 

ヰ仮  l,@  イ 

  

Ⅰ      

けであり︑悪は人間の中にあって本質的なもの ではなくて︑意志のあやまった姿勢なのである︵ 戸戸めのさ︒従って 神  が 唯一の善であって︵トコの・の じ ︑人間の精神は 神を知らずに自分だけでは悪に赴くものである から︑我々は罪のみ  じめさを知らずに神を知ろ う とすることは高慢 であって 貧 ・の・ 目 ︑この身の程知らぬ思い上 りは悪であるが︑ 然  し戯 悔して許されぬ罪はない の㏄ ︒ 俄悔 は キリストによって神を知るもののみにありうる ことであるからであ  る ︒罪からの脱出は人間には出来ぬことである けれども神には可能である︵ りの ・かお1 %e ︒ ま ことに︑母に目って  自分の罪 深 ぎことを 拉 ぎ ぅ るものがまことに 母 の子であることが出来る 6. の︐ 目 S  の道理と同 じである︒ 

人間ほキリストにおいて即ち神においてのみ︑ 真 に人間であり得るが故に ︑か 上る人間たること を 妨ぐるものが 悪  であり︑その悪は同時に神に罪を犯しているので ある︒人間自身において悪であるものが︑その ま 二神に伺って罪で  ある︒然も︑人間はその存在の運命的性格が悪  なる自己愛であり︑自己愛を生けるしるしと して存在している︒ 

神に背を向けている人間は ︑ 実は神に伺っても 己 れに伺っても罪を犯しているに かュ わらず︑ 罪 とはしらずに悪に 苦  慨 している︒自己愛の故に﹁私﹂の﹁生きる﹂は 迷わされ げ がされているのである︒ 罪 とはしら ずに苦悩しながら 犯  している罪ほど悲惨はないのである︒悲惨の故 に︑ 死という限界状況に直面し︑実存のめさ め に よって︑人間は存在  を 賭けた飛躍を試み神に向ぎなおり︑新たな 生 を 始めるのである︒神に伺って姿勢を保ちながら 悪に 苦悩することは  変りないのであるが︑それほ悔い改めるべき 罪 として 戯悔 することにょり許されて行くのである ︒罪がないのでなく  て 罪が許されて行くことによって︑人間が人間と して生きる意義と喜びを知るのである︒   かくて︑悪は ︑ 神に伺ってこそ悪である︒悪は人 間 における実存開示の契機として︑人間を限界 状況に立たしめ︑ 

そこで人間は身をひるがえして神へ 伺 って飛躍 するが︑それと同時に神は罪においてキリス十に よって人となり︑ 神 

︑人 

キリストにより悪は許されるのであるが︑ 悪が 許されることは︑悪が消滅することではな い ︒人間にとって悪は責 醸 

ぴ任 

あるものでなくなるのである︒ かュる悪は 生命の宿業であって︑人間の自由に由来してい るものではないからであ 瑚 

る 現実の人間にとっては︑ カソト の倫理 説 の 命 題は現実的な解決を与えないというべぎである︒ カソト の倫理 説は近 ア ジン ヌノク 世の倫理説の頂点であるけれども︑テル・ テ義戸立耳Ⅲ グ l イレ土山 ウ だけが善であり︑もっと厳密にいえば善き 心 情 のみが善である︒  ガルディニによれば︑人間の自由は本来は神の 

ュ 刑 での自由である 雀 ・の・ め ⑧︒即ち ︑ 私はキリス トの 内にあり︑ キ  リストは私の内にある 雀 ・の・ ぺ 所の私にこそ 自由はあるのである︒まさに啓示こそ自由の保 証 である 雀 ・の・ ド ︒ じ  といわぬ は ならないのである︒元来︑自由とは 他律ではなくて ァ簾 ︒︐ 律 ︐である︒キリス卜者 神 の子はたどひたすら  @ テロ ノ  に神の命に服従するものであるが︑服従が自由で あることはいかにして可能であろうか︒ 

アウグス チヌス の生口 白 する所によれば︑彼の生 涯は悪から善への道だといわねばならない 

ざ 

㏄ ︒ 責 生心の方  向を誤って自らをけがし朽ちさせる悪が悪行と なって負い目を重ねる 

曾 

. の・ とべ ︒ 9% さ のだが ︑ 実は善と悪とはか 

らみ合って混迷し︑いよ 

ノ 

Ⅰ迷いは彼のうちに 深くなったのである 妄 E. ダぃ乙 ㍉ か 上る深いか らみ合いに埋れて ぃ  るのであって ︑ 悪をなさずにはいられないもので ある︒なさずにすまされるはずのものをなすの であれば︑悪は私の 

自由の故に責任を持 づ のであるが︑なさずにい られぬよ う にだ け 運命的に定められているような 悪は ︑苦悩であるだ  げで︑やってはならぬことを敢えて自由に行な ぅ 悪ではない︒しいていえば︑なさないことも 出 来 るのに敢えて最高  意志の命にしたがってなしとげてこそ︑善には 韮 白 たる意義があるけれども︑そ う より外にしょう のない 命ム下 服従は善  と ほいえないのである︒ 善 と悪とは共に自由を母 体 とするものであるのに︑神に伺ってしか生き よ う がなく︑また 神 

において︑イェス・キリストによって生きる 人 間 には︑ 神 なしに可能な自由はまことの意味であ り 得ないのである︒  悪は人間が﹁生きる﹂ための運命として宿業の 如く背負っているものであるならば︑人間は ︑つ ねに悪に 掩 いて 在 

る 

        

人  間 

ま  自 

由 

に ヒ 

お 

しマ 

て 

悪  を  越  え 

る 

@4 ㏄ ) 106 

おられぬような自由︵下の・のとは︑自由に似て 真の自由ではなく︑実は人間の亡びの道である 人間の亡びは︑ 自   由 をも無にするものであるから︑神に ょ らぬ 人 間 の懇意による自由は︑人間にあってはならぬも の ︑価値なきもので    っ あり︑ 神 こそ価値あるものであり︑善であり ︑道徳的に正当なるものである 妄 ・の・ ざさ ︒ かくして自我の絶対化を 

  401 ︐主題として近代哲学は︑宗教的実存の開明を 経て信仰に よ る批判を ぅげ ねばならないのであ る ︒     

&  神は︑人間にあってはならないものを 無 にすることによって︑人間を真正なあるべき人間 として存立せしめる︒そ    ウイルクリ ソ ヒカイ 

精神的・肉体的な現実そのものは善で 

も 悪でもないのであって︶ 善 ︑悪は人間の心情の 価値的性格を示すに シ @@ ム すぎないといわねばならない︵ 卜 u. 卯 ③︶が ︑む しろ悪は善より強いともいえる︵下戸 紳 ㎏⑦ ︶のは︑人間の生命 

は神へ高まるよりは獣に落ちることは安易であ り︑ 神への高まりは勇気ある決断によって飛躍す ることであるからで 

ある︒かくて自由意志と自由の力とは真面目と 確信に導かれたるキリス卜者の生活によってのみ 展開されるのであっ 

て︑ 生ける神に関係することが︑実存に確固たる 現実の支点を与えるのである 冤 ・の・ き ︶︒ 

元来︑矛盾的存在としての人間は善悪の二原理 が 内において戦っているのであるが︑その戦いを 真剣に戦って遂に 

善 原理の勝利を確信することは︵宇田︐ ゆ ・ 0. の・ お ニは ㏄ 9  ゆ ・ ぴ ・の・㏄㏄ ぺ て Ⅰ ㎏の e  カントの い之ノ涌姐かノ で あるが︑善の勝利は 

確信にすぎずして︑現実には戦があるだけであ るが︑それでもなお且つ勝利への確信をもたらす もの︑それは神であ 

るが︑敗北は獣への堕落であって︑勝利の確信 のみが人間を人間たらしめるものである︒而して ︑その確信は神がい 

ますことによってのみ可能である︒まことに 神 は 悪をつくらぬのであって ︑ 神のつくるものは 豊 ロ のみであるといわぬ 

ばならない 

妄 

F. 糾 ︶ 帝ゅ ︶から︑善の善たる所以 は神にあるのである 宴 E. の・︶ め ︶㍉神が善をな すのは︑神が自己 自 

身を実証するためであって ︑ 神によって勝利の確 信 されるところの善は︑たど善のための善であ る ︵ 戸 E. の・ ぺ ㏄︶︒ い Ⅰ 

かえれば︑人間が神へ高まるという真に人間の価 値を実現することが善であって ︑ 神の善はたど そのことのために 善 ウイルキ   ある 

宴 

E. の・ お ︒ 窓 意の行為を悪いとし りながらもやらずに 

ドキュメント内 『宗教研究』163号(33巻4輯) (ページ 104-110)

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