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ツ = レヒ @ ヒン 結びついているのである 玲 ・の・ べじ ︒その点に 立って人間は如何にして回れを保っているか︑ そ れはた ゴ に神に その点に立って人間はようやく︑人間として 己 れを保っのであるから︑中間を保つという概念は 真の人間性の概念と
よって私は生き︑ 神 なきことによって 私は 亡ぶの で 十のるか 氏ノ︑ 神は善で める︵戸戸 ヰ P ㏄㏄ べ ︒ @ ㎏㏄㏄ レ とい わねばならぬ︒ ‑l.‑ ル 神の欲し 結う ものは 善 ︑神の欲し 結 わぬものは 亜 ゅ となり 父 ・の・ ぃ ︶ N ︒の・ ごさ︑ 悪は人間の悪行で あり就中神への負い エス・キリストによってのみ︑人間実存の開示 と 同時に決意と飛躍がなされる︒それはまことに 瞬間とも突如ともい えるが如く行われるのである︒瞬間に永遠がひ らけ れるのは︑まことに突如たる人間の転身であ る ︒ 己 れにのみひた すら 向 っていた人間は︑ひたすら神に伺って い るのである︒かくて神の子人間は誕生するのであ る ︒まさに自己自身 の 存在のすべてをかけた 賭 ゥ @ げである︒ ッテ 飛躍の向 ぅは 無である︒無の中から自己が誕生するので ある︒理性的にみれ シ = レヒドヒン ば どちらにもかげられぬそのどちらかに賭ける のである︒而も︑かげねばならない 貧 ・の・ w ︶ o1 注 e ︒
たゴ
賭ける 外に ︑己 れでありよ う のない限界状況において ︑己 れを賭けるのである︒
かくて︑人間は神に伺って︵神の子として︑ 父 をした ぅ が如くに神に伺って︶あることより外に ︑本来の入間とし てありよ う がなく︑そのような本来の人間とし て ﹁私﹂があるのである︒本来の私がた ビ 神に向 ってあることが出来 ヒ ・ ゴツ @ るのである︒被造物人間がゲシ ヱ︐プ ︐﹁自己自身である﹂ のは︑それが﹁神によってある﹂ことによって である︵下ヒ・ 縛目と ︒ セルフスド・ザイソ まことに神は万物の創造主である 月 ・の・ ぃ 8 が ︑それは︑神は万物に自己自身を与えるという ことである︒その神 の ﹁与え﹂の 肋 きは︑人間自身の破れ目の深淵 における実存の開示となって 枕 くのである︒神が 人間に来るのは本性
によって ビ なく恩寵によ グラ l ス ってどあり︑また本性に よって ビ なく侮慢によってどある モ ・の・ ごさ ︒ 人間実存の開示に
おける神と人間との出会いにょり﹁私﹂が誕生 するのである︒従って ︑ 私が在るとは︑自分で自 分を定立することで あるから︑私が神である 事 リストにおいて︶ ナ ﹂とでもある︒私はキリストにおいて神であって こそ︑本当に﹁私で
ある 所 ﹂の私であることが出来るのであるし︑ そ れでこそ私は﹁私であるものである︵ トコ ・ 碑 中か ︶︒かくの如く神に
活力神のために削られたのならば︑なぜこんな に 神に反抗するのであろうか 雀 ・の・ コ とと解き 難き難問が積み重さ℡ 用 @@ 笘
なるだけである︒難問の積み重ねによって ︑迷 ぃは 更に迷い な 産み︑人間は迷 い の中に 己 れを 見 失 う であろうに︑ 4 %
ヰ仮 l,@ イ
Ⅰ
けであり︑悪は人間の中にあって本質的なもの ではなくて︑意志のあやまった姿勢なのである︵ 戸戸めのさ︒従って 神 が 唯一の善であって︵トコの・の じ ︑人間の精神は 神を知らずに自分だけでは悪に赴くものである から︑我々は罪のみ じめさを知らずに神を知ろ う とすることは高慢 であって 貧 ・の・ 目 S ︑この身の程知らぬ思い上 りは悪であるが︑ 然 し戯 悔して許されぬ罪はない E の㏄ S ︒ 俄悔 は キリストによって神を知るもののみにありうる ことであるからであ る ︒罪からの脱出は人間には出来ぬことである けれども神には可能である︵ りの ・かお1 %e ︒ ま ことに︑母に目って 自分の罪 深 ぎことを 拉 ぎ ぅ るものがまことに 母 の子であることが出来る 6. の︐ 目 S の道理と同 じである︒
人間ほキリストにおいて即ち神においてのみ︑ 真 に人間であり得るが故に ︑か 上る人間たること を 妨ぐるものが 悪 であり︑その悪は同時に神に罪を犯しているので ある︒人間自身において悪であるものが︑その ま 二神に伺って罪で ある︒然も︑人間はその存在の運命的性格が悪 なる自己愛であり︑自己愛を生けるしるしと して存在している︒
神に背を向けている人間は ︑ 実は神に伺っても 己 れに伺っても罪を犯しているに かュ わらず︑ 罪 とはしらずに悪に 苦 慨 している︒自己愛の故に﹁私﹂の﹁生きる﹂は 迷わされ げ がされているのである︒ 罪 とはしら ずに苦悩しながら 犯 している罪ほど悲惨はないのである︒悲惨の故 に︑ 死という限界状況に直面し︑実存のめさ め に よって︑人間は存在 を 賭けた飛躍を試み神に向ぎなおり︑新たな 生 を 始めるのである︒神に伺って姿勢を保ちながら 悪に 苦悩することは 変りないのであるが︑それほ悔い改めるべき 罪 として 戯悔 することにょり許されて行くのである ︒罪がないのでなく て 罪が許されて行くことによって︑人間が人間と して生きる意義と喜びを知るのである︒ かくて︑悪は ︑ 神に伺ってこそ悪である︒悪は人 間 における実存開示の契機として︑人間を限界 状況に立たしめ︑
そこで人間は身をひるがえして神へ 伺 って飛躍 するが︑それと同時に神は罪においてキリス十に よって人となり︑ 神
︑人
キリストにより悪は許されるのであるが︑ 悪が 許されることは︑悪が消滅することではな い ︒人間にとって悪は責 醸ぴ任
あるものでなくなるのである︒ かュる悪は 生命の宿業であって︑人間の自由に由来してい るものではないからであ 瑚る 現実の人間にとっては︑ カソト の倫理 説 の 命 題は現実的な解決を与えないというべぎである︒ カソト の倫理 説は近 ア ジン ヌノク 世の倫理説の頂点であるけれども︑テル・ テ義戸立耳Ⅲ グ l イレ土山 ウ だけが善であり︑もっと厳密にいえば善き 心 情 のみが善である︒ ガルディニによれば︑人間の自由は本来は神の
ュ 刑 での自由である 雀 ・の・ め ⑧︒即ち ︑ 私はキリス トの 内にあり︑ キ リストは私の内にある 雀 ・の・ ぺ e 所の私にこそ 自由はあるのである︒まさに啓示こそ自由の保 証 である 雀 ・の・ ド ︒ じ といわぬ は ならないのである︒元来︑自由とは 他律ではなくて ァ簾 ︒︐ 律 ︐である︒キリス卜者 神 の子はたどひたすら @ テロ ノ に神の命に服従するものであるが︑服従が自由で あることはいかにして可能であろうか︒
アウグス チヌス の生口 白 する所によれば︑彼の生 涯は悪から善への道だといわねばならない c
ざ
P ㏄ e ︒ 責 生心の方 向を誤って自らをけがし朽ちさせる悪が悪行と なって負い目を重ねる曾
. の・ とべ ︒ 9% さ のだが ︑ 実は善と悪とはからみ合って混迷し︑いよ
ノ
Ⅰ迷いは彼のうちに 深くなったのである 妄 E. ダぃ乙 ㍉ か 上る深いか らみ合いに埋れて ぃ るのであって ︑ 悪をなさずにはいられないもので ある︒なさずにすまされるはずのものをなすの であれば︑悪は私の自由の故に責任を持 づ のであるが︑なさずにい られぬよ う にだ け 運命的に定められているような 悪は ︑苦悩であるだ げで︑やってはならぬことを敢えて自由に行な ぅ 悪ではない︒しいていえば︑なさないことも 出 来 るのに敢えて最高 意志の命にしたがってなしとげてこそ︑善には 韮 白 たる意義があるけれども︑そ う より外にしょう のない 命ム下 服従は善 と ほいえないのである︒ 善 と悪とは共に自由を母 体 とするものであるのに︑神に伺ってしか生き よ う がなく︑また 神
において︑イェス・キリストによって生きる 人 間 には︑ 神 なしに可能な自由はまことの意味であ り 得ないのである︒ 悪は人間が﹁生きる﹂ための運命として宿業の 如く背負っているものであるならば︑人間は ︑つ ねに悪に 掩 いて 在
る
人 間
0 ま 自
由
に ヒ
お
しマ
て
悪 を 越 え
る
@4 ㏄ ) 106
おられぬような自由︵下の・のとは︑自由に似て 真の自由ではなく︑実は人間の亡びの道である 人間の亡びは︑ 自 由 をも無にするものであるから︑神に ょ らぬ 人 間 の懇意による自由は︑人間にあってはならぬも の ︑価値なきもので っ あり︑ 神 こそ価値あるものであり︑善であり ︑道徳的に正当なるものである 妄 ・の・ ざさ ︒ かくして自我の絶対化を
401 ︐主題として近代哲学は︑宗教的実存の開明を 経て信仰に よ る批判を ぅげ ねばならないのであ る ︒
& 神は︑人間にあってはならないものを 無 にすることによって︑人間を真正なあるべき人間 として存立せしめる︒そ % ウイルクリ ソ ヒカイ @
精神的・肉体的な現実そのものは善で
も 悪でもないのであって︶ 善 ︑悪は人間の心情の 価値的性格を示すに シ @@ ム すぎないといわねばならない︵ 卜 u. 卯 ③︶が ︑む しろ悪は善より強いともいえる︵下戸 紳 ㎏⑦ ︶のは︑人間の生命は神へ高まるよりは獣に落ちることは安易であ り︑ 神への高まりは勇気ある決断によって飛躍す ることであるからで
ある︒かくて自由意志と自由の力とは真面目と 確信に導かれたるキリス卜者の生活によってのみ 展開されるのであっ
て︑ 生ける神に関係することが︑実存に確固たる 現実の支点を与えるのである 冤 ・の・ き ︶︒
元来︑矛盾的存在としての人間は善悪の二原理 が 内において戦っているのであるが︑その戦いを 真剣に戦って遂に
善 原理の勝利を確信することは︵宇田︐ ゆ ・ 0. の・ お q ニは ㏄ 9 ゆ ・ ぴ ・の・㏄㏄ ぺ て Ⅰ ㎏の e カントの い之ノ涌姐かノ で あるが︑善の勝利は
確信にすぎずして︑現実には戦があるだけであ るが︑それでもなお且つ勝利への確信をもたらす もの︑それは神であ
るが︑敗北は獣への堕落であって︑勝利の確信 のみが人間を人間たらしめるものである︒而して ︑その確信は神がい
ますことによってのみ可能である︒まことに 神 は 悪をつくらぬのであって ︑ 神のつくるものは 豊 ロ のみであるといわぬ
ばならない
妄
F. 糾 ︶ 帝ゅ ︶から︑善の善たる所以 は神にあるのである 宴 E. の・︶ め ︶㍉神が善をな すのは︑神が自己 自身を実証するためであって ︑ 神によって勝利の確 信 されるところの善は︑たど善のための善であ る ︵ 戸 E. の・ ぺ ㏄︶︒ い Ⅰ
かえれば︑人間が神へ高まるという真に人間の価 値を実現することが善であって ︑ 神の善はたど そのことのために 善 ウイルキ = ある