ス ギ
5 鋳造 関係遺 物 と工房 の性格
十三・ 十 四坪 出上 の鋳造関係遺物 は,従来知 られ て いた平 城宮・ 京 の鋳造関係資料 を,質 。
量 ともに大 き く凌 駕す るものであ り
,奈
良時代 の鋳造技術 の実態を解 切す る上で,き
わめて貴 重 な資料 とい える。 ここでは未製品 と数多 く出土 した姑渦 と輪羽 口の特殊性 を手がか りに,
鋳 造技 術,工
房 の性 格 な どに関 して考察 を加 える。A 特殊 な靖蝸
十 四坪 の戊化物 土坑 を中心 に出土 した多数 の41禍 は,そのほ とん どが土師器 を転用 した もの で
,平
城京 の中 で は きわ めて特異 な形式 の対渦であ る。いず れ も土師器 の内面 を中心 に,長
石・石英粒 を多量 に混入 した粘土 を厚 く塗 って椀形 に整 えてい る。塗 られた粘土 は土師器 の 口縁 を 厚 く被覆 してお り,片 口に注 口をつ くりだ した ものや,外 面 全体 に薄 く粘土 を塗 りつけた もの も み られ る。こ うした土師器 を転用 した対禍 は
,平
抜京 の内外 を通 じて類例 の乏 しい ものであ る。平 戒官 お よび京 か ら出上 した対禍 は,かな りの数 にのぼ る。 その主流を 占め るのは半球形 に つ くられた粘土製対禍で
,外
径10cm,深
さ2.2cmの
小 型 品 か ら,推定外径25cm,深
さ8cm
代 以上 の大 型 品 まで用途 に応 じて様 々な大 きさの対 渦がつ くられている。最 も一般的にみ られ るのは外径 13〜
14cm,深
さ4cm前後 の ものであ り,片口の注 口をつ くりだす例が多 い。胎土 には長石・ 石英粒 を多量に含 んだ砂 を混入 してお り,稀 にスサや粗殻 な どを混入す る例があ る。平 城京 左京 三 条 四坊七坪 の和 同開弥 の鋳銭工房 か らは30点 以上 の粘土製FH禍 が出土 したが,
1)
それ らは外径
17cm,深
さ5.5cm前
後 の統一規格 を もつ。 また,こ
こか らは,半球状 の凸型 に 粘土 を被 せ る型作 り法 で姑渦 を製作 した ことを示 す未使用 のItl禍片 が出土 してい る。 こ うした 粘土製lH渦 に対 して,土
師器転用対渦については,本遺跡 で の出土例 を除 くと,断片的な資料 がわず か3例
確認 されているにす ぎない。左京三条五坊四坪 (第1417次
調査)出土 の杯Aを
転用 した靖 渦
,官
南面大垣 東端地 区 (第155次 調査)土
坑SK l1650出
上 の甕 を転用 した靖渦,左京三条二坊七坪 (第184次 調査
)焼
土坑 出上 の甕を 転用 した 姑禍がそれ で,前 2者
はわずか1点
ず つが 出土,後
者 は10数 点 の細片が出上 してい る。土坑SKm650か
ら出土 した対禍 は完 形 品で,甕
の体部 を利用 した もの。顕部 の くびれ部 を注 目として と りこむ な ど,今回出上 した 対渦 と同工 の対 渦 であ る。 また左京三条二坊七坪 出上 のltr禍はすべ て小片 であ るが,鋳
造炉 と み られ る焼土坑 に埋 っていた もので,本遺跡 と類似 した鋳造作業 を想定 で きる。 この よ うな土 師器転用対鍋 に関 しては,従来 は資料 が少 ない こともあ って,粘
土製対禍 の不足 を補 う代用品 と理解 して きた。 しか し,今回出土 した430点
の対禍のほ とん どすべてが転用靖禍であること を考 える と,む
しろ積極的に上師器を利用す る合理的 な発想 の もとに製作 され た増禍 と考 える べ きであろ う。一方
,平
城京 外 に 目を転 じると,最近調査 され た大阪府南河 内郡太井遺跡 に唯― の類例があ る。太井遺跡 か らは8世
紀前半代に営 まれた3基
の鋳造関係遺構 が検出 され,多量 の靖禍 (報 告書 では トリベ と表 現)と
輪羽 口な どが出土 してい る。対禍 は280点
にのぼ り,それ らは,土
1)奈
良国立文化財研究所『平城京左京三条四坊七 坪発掘調査概報』1980。2)大
阪府教 育委員会 。大阪文化財センター『太井遺 跡 (その2)一 調査の概要』1987。′79
師器甕転用対禍①
,上
師器皿転用対禍lBl,専用に焼成 された土師器外容器を使用 した靖渦⑥,1)
粘土製対禍⑧の
4群
に分類 される。 この うち中心 となるの1ま土師器甕を転用 した姑禍で,甕
の体部を利用 し
,頸
部を注 目に利用す るな ど,甕
の転用法や形態に,今回の出土品 と強い類似性 が認め られ る。太井遺跡か らは鋳型や未製品が出土 しておらず,製
作品は弱 らかでないが, 3
基の焼土坑を中心に出上 した鋳造関係遺物 はすべて鋳銅にかかわ るもので,繰
業年代をほぼ同じくす る本遺跡 との間に工人集団を媒介 とした強 い類縁関係を想定することができる。
本遺跡での対禍は完形品が少な く,容量を測定できた ものはわずに
2点
にす ぎないが, 1が
最大容量50cc, 2が
150ccと 容量 はきわめて小 さい。他の靖禍 も転用 した甕の大 きさに規制され
,
これ らと大差ない容量 と推定できる。 この ことは,本工房でおこなわれた鋳造が小型品 を対象 としたものであった ことを ものがた り,後
述す る製作品の推定 とも矛盾 しない。B 鋳銅用の輔羽 口
輪 羽 口は総数 141点が出土 した。高熱 に さ らされ るので破損 しやすい とい う性格上
,細
片 が 多 く,本
来 の形状 を知 りうる もの は少 ない。大 半 は直線羽 口の破 片 であ るが,特殊 な形態 を と る湾 曲羽 口も存在す る。直接羽 口の形状 は,先
端 部 か ら元 口に 向か って孔径 と筒部 外径 を 次 第 に大 き くし,元
口裾部を ラ ッパ状 に屈 曲 させた形態 で,従来平城京 か ら出土 してい る羽 口 と大 差 ない。平城京 か らこれ までに出上 した羽 口は,全長15cm前
後 の ものが一般 的で,先端部 の孔 径 は 2.5〜3.Ocmの
ものが多 い。中には孔径や筒部外径が先端か ら元 口までほ とん ど同 じもの, や元 口裾部 の屈 曲が緩やかな もの,きわ め て肉厚 に作 られた ものな ど,若千 のバ ラエテ ォーが 認 め られ る。 しか し,鋳
造用・ 鍛 冶用 な ど,用途 に よる差 異が識 別 で きるに は至 って いな い 。 近 世 の鍛 冶用 羽 口の製作方法 を記 した「 鉄 山必要記事」 に よる と,髄
抜 (ず ぬ き)と
よばれる片細 につ くった丸棒 (長さ
3尺 5寸 ,元
径1寸 2分
,末径8分
半)に
堅 くね った粘土玉 を つ きさ し,
これを叩 きしめて形を整 え,棒
を抜 いた後 に元 田部を広げて仕上げ る,
とい った製 作 工 程 を とってい る。 この よ うな髄抜棒 を用 いた羽 口の製作技法 は,奈良時代以前 に遡 る可能 性 が強 く,本遺跡 の出土例 をは じめ として,平
城京 出土羽 口の通風孔 内面 に も,丸棒 の痕 跡 が し ば しば認 め られ る。ただ し,近世 の羽 口の製 作技 法 と大 き く異 な る点 は,丸
棒 につ きさ した粘 土玉 を,曲率 を もつ細長 い材 を簾状 に編 んだ道具 に よって巻 き しめ る点 にあ る。 そ の後 の調 整 段 階 で,外面 を なでて平 滑 に仕上 げた ものや,ま
れ に刷毛 目調 整 を加 えた ものな どもあ るが, 基 本 的 な成形方法 に変 りはない。 こ うした簾状用具 に よる巻 きしめ技法 は, 7世
紀 以前 に遡 る3)
奈良県水落遺跡や法隆寺若草伽藍に関係す る遺構か ら出上 した羽 口にも認め られ る。
さて本遺跡の羽 口の中で特に注 目され るのは,総数11点にのばる湾曲羽 日の存在である。そ の形状には12のように全体が弧状に湾曲した もの (湾曲羽 口
A)と ,14の
ように直線羽 口の先 端に粘上をつ ぎた して側面に通風孔を開 口させたもの (湾曲羽 口B)が
ある。 こうした湾 山羽 口は全国的にみても類例が少な く,平城京では,本例を除 くと,先述 した左京三条二坊七坪 の1)太
井遺跡での, 4群の構成比は, 口縁部残存率80%以
上の 53点 の内訳がA:43点 ,B:1点
,C:3点,D:6点
で,本
遺跡同様,上
師器甕を 転用 した靖鍋が圧倒的多数を占めている。′∂0
2)下
原重仲「鉄山必要記事」1784(『日本 科学古 典全書』第十巻1944所
収)。3)法
隆寺『法隆寺 防災施設工事 。発 掘 調 査 報 告書』1985。
焼土坑出土品の中に湾曲羽口
Bが 1点
みられるにすぎない。湾曲羽口は炉の■雰部分が地下に1)
あるような鋳造炉に対応 した羽 口と理解 されている。
わが国における最昔の湾曲羽 口の例は弥生時代にある。大阪府東奈良遺跡や奈良県唐古・ 鍵
2)
遺跡 の銅 鐸鋳造関係遺物 の中に,弧状 に湾 曲 した湾 曲羽 口
Aに
近 い形状 の羽 口が存在す る。弥 生時代 の湾 曲羽 口と本遺跡 の湾 曲羽 口が どの よ うな系統的関係を もつのか,現状 では資料 の制 約 もあ って 明 らかに しがたいが, ともに銅 の鋳造用 の 羽 口である点が 共通す る。 奈 良時代に は,全国的 にみて もほ とん ど類例 が な く,京外では先述 した大阪府太井遺跡 で唯― の類 例 がみ られ る。太井遺跡か らは9点
の羽 口が出土 してお り,いず れ も湾 曲羽 口Bに
相 当す る。奈 良時 代 の湾 曲羽 口を 出上 した 平城京 の2遺
跡 と太井遺跡 は,
すべて 鋳造炉 とみ られ る 焼 土坑 を伴 い,土
師器 転用対禍 を用 いて小規模 な鋳銅 作業 を行 な ってい る点 に共通性 があ り,湾
曲羽 口と 土師器転用対禍が ともに特殊 な存在 であ る点を考慮す る と, 3遺
跡 で行 なわれた鋳銅 作業 が, 同一 の技術的基盤 を もつ二人集団に よってな された可能性が高 い。全 国各地 の羽 口を集大成 した美 賀七三 男氏 は,近世 の鉱 山絵 図 であ る「 対州下県板 蹂銀 山略
図」の「出下輔図」や,「但馬銀山金吹慶喜之図」に描かれた特殊な形態の羽口3) ,すなわち先端付
近 が くの字状 に屈 曲 した羽 口 (折れ羽 口)をと りあげ
,銀
や銅 の製練工程 において床 の湯 の面4)
に対 して上方 か ら送風 し
,微
妙 な温度 の調節 をはか る機能 を想定 してい る。「 対州下県板 蹂 銀 山 略 図」 にみ え る折 れ羽 日の下 には,直方体 の上面 が弧状に くばんだ枕が描 かれてお り,羽口を支持 す るための道具 と推定 され てい る。 これに近似 した土製 品が,本遺跡や左京三条二坊七坪 の焼土坑 か ら湾 曲羽 口とともに出上 してお り
,湾
曲羽 口を支持す るための土製枕 であ った と考 え られ,奈
良時代 の湾 曲羽 口と近世 の折 れ羽 口の間に も機 能的 な類縁 関係が想定 で き よ う。以上 の よ うに,湾山羽 口は非鉄金属 の溶解 に使用 された特殊 な羽 口で,弥生時代か ら近世 ヘ と系譜的に連続す る可能性があ り,その発展過程は奈 良時代 の湾 曲羽 口を媒介に据 える と
,湾
曲羽 口A→湾 曲羽 口
B→
折 れ羽 口とい う段 階 を経 る よ うであ る。資料 の少 ない現状 では以上 の 概括 的 な見通 しに とどめてお こ う。1)村
上英之助「 ふいごと羽 口の系統 序説」『 日本 製鉄史論』1969。2)東
奈良遺跡調査会『東奈良』1976,奈 良県立橿 原考古学研究所『昭和52年度唐古・鍵追跡発掘調 査概報』田原本町教育委員会 1978。3)い
ずれ も日本鉱業史料集刊行委員会編『 日本鉱業史料集第九期近世編』1988所収。
4)葉
賀七三男「折れ羽 日― 続尾鉱録」『 日本 鉱業 会誌』1086。 1087,1978。5)西
一坊坊間大路西側溝SD920か
らも完形に近 い土製枕の出上がある。奈良国立文化財研究所『平 城京右京八条一坊十一浮発掘調査報告書』1984。『対州下県坂陳銀山路図』
Fig,90 近世 の折れ羽 ロ Fig.91 湾曲羽 日と羽 口台使用想定図
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