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鋳造 関係遺 物 と工房 の性格

ドキュメント内 1  条坊 遺構 と地 割 (ページ 39-42)

ス        ギ

5  鋳造 関係遺 物 と工房 の性格

十三・ 十 四坪 出上 の鋳造関係遺物 は,従来知 られ て いた平 城宮・ 京 の鋳造関係資料 を,質

量 ともに大 き く凌 駕す るものであ り

,奈

良時代 の鋳造技術 の実態を解 切す る上で

,き

わめて貴 重 な資料 とい える。 ここでは未製品 と数多 く出土 した姑渦 と輪羽 口の特殊性 を手がか りに

鋳 造技 術

,工

房 の性 格 な どに関 して考察 を加 える。

A  特殊 な靖蝸

十 四坪 の戊化物 土坑 を中心 に出土 した多数 の41禍 は,そのほ とん どが土師器 を転用 した もの で

,平

城京 の中 で は きわ めて特異 な形式 の対渦であ る。いず れ も土師器 の内面 を中心 に

,長

石・

石英粒 を多量 に混入 した粘土 を厚 く塗 って椀形 に整 えてい る。塗 られた粘土 は土師器 の 口縁 を 厚 く被覆 してお り,片 口に注 口をつ くりだ した ものや,外 面 全体 に薄 く粘土 を塗 りつけた もの も み られ る。こ うした土師器 を転用 した対禍 は

,平

抜京 の内外 を通 じて類例 の乏 しい ものであ る。

平 戒官 お よび京 か ら出上 した対禍 は,かな りの数 にのぼ る。 その主流を 占め るのは半球形 に つ くられた粘土製対禍で

,外

10cm,深

2.2cmの

小 型 品 か ら,推定外径

25cm,深

8cm

代 以上 の大 型 品 まで用途 に応 じて様 々な大 きさの対 渦がつ くられている。最 も一般的にみ られ るのは外径 13〜

14cm,深

さ4cm前後 の ものであ り,片口の注 口をつ くりだす例が多 い。胎土 には長石・ 石英粒 を多量に含 んだ砂 を混入 してお り,稀 にスサや粗殻 な どを混入す る例があ る。

平 城京 左京 三 条 四坊七坪 の和 同開弥 の鋳銭工房 か らは30点 以上 の粘土製FH禍 が出土 したが,

1)

それ らは外径

17cm,深

5.5cm前

後 の統一規格 を もつ。 また

,こ

こか らは,半球状 の凸型 に 粘土 を被 せ る型作 り法 で姑渦 を製作 した ことを示 す未使用 のItl禍片 が出土 してい る。 こ うした 粘土製lH渦 に対 して

,土

師器転用対渦については,本遺跡 で の出土例 を除 くと,断片的な資料 がわず か

3例

確認 されているにす ぎない。左京三条五坊四坪 (第

1417次

調査)出土 の杯

Aを

転用 した靖 渦

,官

南面大垣 東端地 区 (第155次 調査

)土

SK l1650出

上 の甕 を転用 した靖渦,

左京三条二坊七坪 (第184次 調査

)焼

土坑 出上 の甕を 転用 した 姑禍がそれ で

,前 2者

はわずか

1点

ず つが 出土

,後

者 は10数 点 の細片が出上 してい る。土坑

SKm650か

ら出土 した対禍 は完 形 品で

,甕

の体部 を利用 した もの。顕部 の くびれ部 を注 目として と りこむ な ど,今回出上 した 対渦 と同工 の対 渦 であ る。 また左京三条二坊七坪 出上 のltr禍はすべ て小片 であ るが

,鋳

造炉 と み られ る焼土坑 に埋 っていた もので,本遺跡 と類似 した鋳造作業 を想定 で きる。 この よ うな土 師器転用対鍋 に関 しては,従来 は資料 が少 ない こともあ って

,粘

土製対禍 の不足 を補 う代用品 と理解 して きた。 しか し,今回出土 した

430点

の対禍のほ とん どすべてが転用靖禍であること を考 える と

,む

しろ積極的に上師器を利用す る合理的 な発想 の もとに製作 され た増禍 と考 える べ きであろ う。

一方

,平

城京 外 に 目を転 じると,最近調査 され た大阪府南河 内郡太井遺跡 に唯― の類例があ る。太井遺跡 か らは

8世

紀前半代に営 まれた

3基

の鋳造関係遺構 が検出 され,多量 の靖禍 (報 告書 では トリベ と表 現

)と

輪羽 口な どが出土 してい る。対禍 は

280点

にのぼ り,それ らは

,土

1)奈

良国立文化財研究所『平城京左京三条四坊七 坪発掘調査概報』1980。

2)大

阪府教 育委員会 。大阪文化財センター『太井遺 跡 (その2)一 調査の概要』1987。

79

師器甕転用対禍①

,上

師器皿転用対禍lBl,専用に焼成 された土師器外容器を使用 した靖渦⑥,

1)

粘土製対禍⑧の

4群

に分類 される。 この うち中心 となるの1ま土師器甕を転用 した姑禍で

,甕

体部を利用 し

,頸

部を注 目に利用す るな ど

,甕

の転用法や形態に,今回の出土品 と強い類似性 が認め られ る。太井遺跡か らは鋳型や未製品が出土 しておらず

,製

作品は弱 らかでないが

, 3

基の焼土坑を中心に出上 した鋳造関係遺物 はすべて鋳銅にかかわ るもので

,繰

業年代をほぼ同

じくす る本遺跡 との間に工人集団を媒介 とした強 い類縁関係を想定することができる。

本遺跡での対禍は完形品が少な く,容量を測定できた ものはわずに

2点

にす ぎないが

, 1が

最大容量

50cc, 2が

150ccと 容量 はきわめて小 さい。他の靖禍 も転用 した甕の大 きさに規制

され

これ らと大差ない容量 と推定できる。 この ことは,本工房でおこなわれた鋳造が小型品 を対象 としたものであった ことを ものがた り

,後

述す る製作品の推定 とも矛盾 しない。

B  鋳銅用の輔羽 口

輪 羽 口は総数 141点が出土 した。高熱 に さ らされ るので破損 しやすい とい う性格上

,細

片 が 多 く

,本

来 の形状 を知 りうる もの は少 ない。大 半 は直線羽 口の破 片 であ るが,特殊 な形態 を と る湾 曲羽 口も存在す る。直接羽 口の形状 は

,先

端 部 か ら元 口に 向か って孔径 と筒部 外径 を 次 第 に大 き くし

,元

口裾部を ラ ッパ状 に屈 曲 させた形態 で,従来平城京 か ら出土 してい る羽 口 と大 差 ない。平城京 か らこれ までに出上 した羽 口は,全長

15cm前

後 の ものが一般 的で,先端部 の孔 径 は 2.5〜

3.Ocmの

ものが多 い。中には孔径や筒部外径が先端か ら元 口までほ とん ど同 じもの, や元 口裾部 の屈 曲が緩やかな もの,きわ め て肉厚 に作 られた ものな ど,若千 のバ ラエテ ォーが 認 め られ る。 しか し

,鋳

造用・ 鍛 冶用 な ど,用途 に よる差 異が識 別 で きるに は至 って いな い 。 近 世 の鍛 冶用 羽 口の製作方法 を記 した「 鉄 山必要記事」 に よる と

,髄

抜 (ず ぬ き

)と

よばれ

る片細 につ くった丸棒 (長さ

3尺 5寸 ,元

1寸 2分

,末径

8分

)に

堅 くね った粘土玉 を つ きさ し

これを叩 きしめて形を整 え

,棒

を抜 いた後 に元 田部を広げて仕上げ る

とい った製 作 工 程 を とってい る。 この よ うな髄抜棒 を用 いた羽 口の製作技法 は,奈良時代以前 に遡 る可能 性 が強 く,本遺跡 の出土例 をは じめ として

,平

城京 出土羽 口の通風孔 内面 に も,丸棒 の痕 跡 が し ば しば認 め られ る。ただ し,近世 の羽 口の製 作技 法 と大 き く異 な る点 は

,丸

棒 につ きさ した粘 土玉 を,曲率 を もつ細長 い材 を簾状 に編 んだ道具 に よって巻 き しめ る点 にあ る。 そ の後 の調 整 段 階 で,外面 を なでて平 滑 に仕上 げた ものや

,ま

れ に刷毛 目調 整 を加 えた ものな どもあ るが, 基 本 的 な成形方法 に変 りはない。 こ うした簾状用具 に よる巻 きしめ技法 は

, 7世

紀 以前 に遡 る

3)

奈良県水落遺跡や法隆寺若草伽藍に関係す る遺構か ら出上 した羽 口にも認め られ る。

さて本遺跡の羽 口の中で特に注 目され るのは,総数11点にのばる湾曲羽 日の存在である。そ の形状には12のように全体が弧状に湾曲した もの (湾曲羽 口

A)と ,14の

ように直線羽 口の先 端に粘上をつ ぎた して側面に通風孔を開 口させたもの (湾曲羽 口

B)が

ある。 こうした湾 山羽 口は全国的にみても類例が少な く,平城京では,本例を除 くと,先述 した左京三条二坊七坪 の

1)太

井遺跡での, 4群の構成比は, 口縁部残存率

80%以

上の 53点 の内訳が

A:43点 ,B:1点

,

C:3点,D:6点

,本

遺跡同様

,上

師器甕を 転用 した靖鍋が圧倒的多数を占めている。

′∂0

2)下

原重仲「鉄山必要記事」1784(『日本 科学古 典全書』第十巻

 1944所

)。

3)法

隆寺『法隆寺 防災施設工事 。発 掘 調 査 報 告

書』1985。

焼土坑出土品の中に湾曲羽口

Bが 1点

みられるにすぎない。湾曲羽口は炉の■雰部分が地下に

1)

あるような鋳造炉に対応 した羽 口と理解 されている。

わが国における最昔の湾曲羽 口の例は弥生時代にある。大阪府東奈良遺跡や奈良県唐古・ 鍵

2)

遺跡 の銅 鐸鋳造関係遺物 の中に,弧状 に湾 曲 した湾 曲羽 口

Aに

近 い形状 の羽 口が存在す る。弥 生時代 の湾 曲羽 口と本遺跡 の湾 曲羽 口が どの よ うな系統的関係を もつのか,現状 では資料 の制 約 もあ って 明 らかに しがたいが, ともに銅 の鋳造用 の 羽 口である点が 共通す る。 奈 良時代に は,全国的 にみて もほ とん ど類例 が な く,京外では先述 した大阪府太井遺跡 で唯― の類 例 がみ られ る。太井遺跡か らは

9点

の羽 口が出土 してお り,いず れ も湾 曲羽 口

Bに

相 当す る。奈 良時 代 の湾 曲羽 口を 出上 した 平城京 の

2遺

跡 と太井遺跡 は

すべて 鋳造炉 とみ られ る 焼 土坑 を伴 い

,土

師器 転用対禍 を用 いて小規模 な鋳銅 作業 を行 な ってい る点 に共通性 があ り

,湾

曲羽 口と 土師器転用対禍が ともに特殊 な存在 であ る点を考慮す る と

, 3遺

跡 で行 なわれた鋳銅 作業 が, 同一 の技術的基盤 を もつ二人集団に よってな された可能性が高 い。

全 国各地 の羽 口を集大成 した美 賀七三 男氏 は,近世 の鉱 山絵 図 であ る「 対州下県板 蹂銀 山略

図」の「出下輔図」や,「但馬銀山金吹慶喜之図」に描かれた特殊な形態の羽口3) ,すなわち先端付

近 が くの字状 に屈 曲 した羽 口 (折れ羽 口)をと りあげ

,銀

や銅 の製練工程 において床 の湯 の面

4)

に対 して上方 か ら送風 し

,微

妙 な温度 の調節 をはか る機能 を想定 してい る。「 対州下県板 蹂 銀 山 略 図」 にみ え る折 れ羽 日の下 には,直方体 の上面 が弧状に くばんだ枕が描 かれてお り,羽口を

支持 す るための道具 と推定 され てい る。 これに近似 した土製 品が,本遺跡や左京三条二坊七坪 の焼土坑 か ら湾 曲羽 口とともに出上 してお り

,湾

曲羽 口を支持す るための土製枕 であ った と考 え られ

,奈

良時代 の湾 曲羽 口と近世 の折 れ羽 口の間に も機 能的 な類縁 関係が想定 で き よ う。

以上 の よ うに,湾山羽 口は非鉄金属 の溶解 に使用 された特殊 な羽 口で,弥生時代か ら近世 ヘ と系譜的に連続す る可能性があ り,その発展過程は奈 良時代 の湾 曲羽 口を媒介に据 える と

,湾

曲羽 口A→湾 曲羽 口

B→

折 れ羽 口とい う段 階 を経 る よ うであ る。資料 の少 ない現状 では以上 の 概括 的 な見通 しに とどめてお こ う。

1)村

上英之助「 ふいごと羽 口の系統 序説」『 日本 製鉄史論』1969。

2)東

奈良遺跡調査会『東奈良』1976,奈 良県立橿 原考古学研究所『昭和52年度唐古・鍵追跡発掘調 査概報』田原本町教育委員会 1978。

3)い

ずれ も日本鉱業史料集刊行委員会編『 日本鉱

業史料集第九期近世編』1988所収。

4)葉

賀七三男「折れ羽 日― 続尾鉱録」『 日本 鉱業 会誌』1086。 1087,1978。

5)西

一坊坊間大路西側溝

SD920か

らも完形に近 い土製枕の出上がある。奈良国立文化財研究所『平 城京右京八条一坊十一浮発掘調査報告書』1984。

『対州下県坂陳銀山路図』

Fig,90 近世 の折れ羽 ロ Fig.91 湾曲羽 日と羽 口台使用想定図

′じr

ドキュメント内 1  条坊 遺構 と地 割 (ページ 39-42)

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