ス ギ
前頁註 5) 前 掲書。 査報告』 1972。
大和郡山市教育委員会『平城京羅城門跡発掘調
め の ″
営 され た平城京遷都 の時期 はわ が 国におけ る本格 的 な貨幣 の鋳造 開始 時期 に あた り
,鋳
銭権 の 国家的独 占体制を維持す るため,銅
生産 と加工に対 しては厳格 な国家的統 制 が しかれつつ あ っ1)
た。以上 の諸点は,いず れ も本工房 が官営工房 であ った ことを強 く示唆 している。
平城官 の官営工房 に関 しては
,
まだ実態 が充分解 明 されて いないが,金
属 加工 にかかわ る工 房 は官 内で3箇
所 みつ か って い る。 それ らは玉手 門 。佐伯 門 中間地 区(6ADF区 )で
検 出 した 鍛 冶工房 SX1978,SK1979(第18次 調査),馬
寮地域(6ADD区
)で検 出 した鍛 冶工房 お よび 覆屋SB6360(第
59次 調査),官東南 隅地 区(6AAI区
)で検 出 した炉 (第 32次 補 足調査)の 3箇所 で,いずれ も官 の外縁部 に設 け られた小規模 な工房 であ る。 この うち
,6AAI区
の工房 の周辺 か らは多量 の鉄製 品に混在 して銅鋲
,銅
銘,銅針 な どの銅 製 品が増 禍,羽口,銅
切滑 な ど とともに出土 してお り,鍛
冶 と鋳造 があわ せ て行 なわれ て いた と推 測 で きる。 この鋳造 工 房 か ら出土 した 羽 口と対禍 は,
直線羽 口と粘土製靖禍で,
今 回出土 品 とは 様 相 を 異 にす る。しか
し出上 した鋼製品の中には
,鋳
張 りを残 した り堰 の切断痕 を とどめ た飾鋲 の未製 品が あ り,今回 の工房 と同様,小型 の銅 製 品の鋳造 を行 な った工房 と考 え られ る。 この工房に関 しては伴 出 し,た木衝 な どを手 がか りに して,東官 の家 政機 関 であ る主工署 関係 の工 房 とす る説 もあ る。
いずれにせ よ官営工房 としては小規模 で
,
これ らの工房 の生産だけで国家 的需要 を充足 し うる はず はな く,平城官 の内外 に設 け られた複数 の工房群 の存在 はかね てか ら充分予想 されていた ところであ った。今回検 出 した工房 は,そうした作業場 の一 つであ る可能性 が高 く,鋳
造 作業 に不可欠 な木灰や鋳物土をは じめ,工
房 の経営 に必要 な各種 の物 資 を調 達 す るた めに,交
通 の 至便 な西市 の近接地 が選 ばれた と推察す る。つ ぎに本工房 を管理 した官司 お よび生産に従事 した二人の性格 につ いて考 えてみ る。令制 に よる と,金属加工 は大蔵 省 の被 官官司 であ る典鋳 司,宮内省 の鍛 冶 司
,兵
部 省 の造兵 司 が担 当 す る ことにな って い る。 この うち鍛 冶司 は銅 鉄雑器 の鍛造 を,造
兵 司 は兵 器 の製造 を職 掌 とし てお り,当鋳造 工房 との関係 は薄 い とみ て よい。 当工房 と密接 に係わ る とみ られ るのは典鋳 司 で,その職掌 は金・ 銀 。今同・ 鉄 の鋳造 と鍍金や彫金 な どの加工 とともに,瑠
璃や玉 の製 作 を も 担 当 してお り,広
汎 な分野 にわ た る技術者 を擁 していた ことが知 られ る。 当遺跡 か らも鋳造関 係遺物 の他 に琥珀 や水 晶片,それ に ガ ラス小玉や ガラス対鍋 が出土 してお り,典
鋳 司 の職 掌 と 重 な る部分 が大 きい。本工房 を典鋳司の経営 した工房 の一つ と考 えると隣接 の漆工 の工房 も官営 の工房 とみ なけれ ば な らない。当時 の漆 は銅 に優 る とも劣 ら寂貴重品で調 として諸 国か ら徴収 された。漆 は大蔵 省 に保管 され,同省被 管 の漆 部 司 が漆 塗 りを担 当 した。 したが って本遺跡 の漆工房 を
,漆
部 司 に所属す る工房 の一つ と考 えるのが最 も自然 であろ う。漆部 司は,典鋳 司 と同様,大蔵 省 に所 属す る。大蔵省 はその職掌 として官有物 品の管理 。出納 以外 に染色・ 金工 な どの手工 業生産 を 担 当 してお り,典鋳 司,漆
部 司 の他 に掃部 司,縫部司を統轄 して いた。 さ らに同省直属 の技 術 者 として百済手部,百済 戸 を率 い る典履,狛
部・ 狛戸 を率 い る典 革 を抱 え,靴
履鞍 具 な ど皮 革1)平
野邦雄「 日本における古代鉱業 と手工業J『古 代史講座9』 1963,栄原 永遠男「和同開弥 の誕 生」『歴史学研究』416,1975。2)奈
良目立文化財研究所『平城宮報告 IX』 1978,同『平城宮報告 XII』 1985,同 『平城宮第27・ 32 次発掘調査概報』1966。
3)櫛
木謙周・ 栄原永遠男「技術 と政治一律令国家 と技術」『技術の社会史1』 1982。′∂」
製品の製造を も行なった。先に鋳帯の製作工程 として鋳工,漆工,皮革工の分業体制を想定 し たが
,
こうした体制が大蔵省管下の二人のみで構成 しうる点はきわめて重要 な意味を もつ。十 四坪お よび十一坪が大蔵省に所属す る復数の官司の共同の作業場であった可能性があ り,その中で典鋳司,漆部司,典履・典革が各工房を営み
,共
同 して製品の製作にあたった と考 えるな らば,錯
帯の製作にかかわ る分業の過程 も,
よ り蓋然性の高いものとなろ う。今回の調査では 皮革工房の存在を確認することができなか ったが,先述 した西一坊坊間大路西側溝 SD920からは馬 。牛を中心 とす る多数の動物遺存体 の出土があ り,十一坪で皮革生産がなされた可能性 を示 している。 この遺存体に関 しては,出土状況や遺存状態などか ら
,牛
馬を解体 して革・脳・角などを採取 し,残滓を SD920に投棄 した と考 えられ,官の斃牛馬を再利用す る目的で皮
1)
革工 人 が皮 の鞣 しに適 した水辺 で解 体処 理 を行 な った と推察 されて い る。骨 の出土 点数 は 700 点近 く
,京
内では他 に例 をみ ない出土量 の多 さ と,製
塩土器 が,破片数 に して3,000点
以上 出 土 して い る事実 も,
この推測を補強 す るもの といえ よ う。この よ うに十一 。十四坪 を一体 の官営作業場 とみ ると,具体 的 な遺物
,遺
構 を通 して鋳工・漆工・ 皮革工 の存 在 と活動 の形跡 を追認 で き
,し
か もこの よ うな作業場 が大蔵省管下 の典鋳司,2)
漆 部司
,典
履・ 典 革 に所 属す る工房 の複合体 として機能 した可能性 が高 い。 この こ とは,錯
帯 製作 を大蔵省 が統轄 した とい う新 た な事 実 を示唆 す る とともに,従来想定 され て いた律令期 の 官営工房 のあ り方,すなわ ち各種 の工人 を一つ の管理系統 の もとに結集 し,生
産 の一部 を分担させ る官営工房特有 の分業体制 を具体的 に確認 で きる点で大 きな意義 を もつ もの とい える。
奈 良時代 の金属 加工 の技 術者 は
,銅
工,鉄
工,銅鉄工,鋳
工,鍛冶,冶金工 な ど,扱
う金属 の種類 と加工技術 に よって分類 されてい る。典鋳司に所属す る技術者 は,雑
工部 に率 い られた 雑 工戸 を基礎 とす る ことにな っていたが,『
令集解』 職 員令古記 に よる と,典
鋳 司 には専 属 の 雑工戸がな く,造兵 司所 属 の雑工戸 (217戸)と
鍛 冶司所 属 の鍛戸 (338戸)の中か ら抽 出 して 上番 させ る とともに,実際 は高麗,百
済,新
羅 の技 術者 で雑正戸 とは系統 を異 にす る雑二 人 が 生産に 従事 していた よ うであ る。 鍛 冶司 は 大 同3年 (808)に
木工寮 に 吸収 され るが,『
延 喜 式 』 に よる と木工寮所 属 の鍛 冶戸 は372戸
あ り,その分布 は左右京,畿内,近
国に集 中 してい る。 また,造兵司所 属 の雑工戸 は天平 16年 (744)に 雑工 か ら解放 されたが,天
平勝 宝4年
(752) に再編成 され,『 廷 喜式』では兵庫寮 に所 属す る。 その戸数 は374姻 で,左
右京 と畿 内,周辺諸 国に分布 す る。先 に触 れた よ うに,十四坪 の出土遺物 と大阪府太井遺跡 出土遺物 の間には
,
きわ めて強 い類 縁 関係 が認 め られ,同
一 の技術的基盤 を もつ工人集回の活動が推測 された。太井遺跡 の所 在地 は河 内国丹比郡黒山郷に比定 されてい るが,
この地 は中性 に鋳造業で全 国を制覇 した,河
内丹 南鋳物 師集 国 の根拠地 に もあた る。丹 南鋳物 師 は12世 紀 中葉 以降,梵鐘,燈籠,鰐
日,大
釜 な どの銅・ 鉄 製 品の鋳造 で活躍 したが,太
井遺跡 での様相をみ る と,その技術的伝統 の基礎 は奈 良時代 には既 に形成 され ていた もの と考 え られ る。丹比郡 を本貫地 とす る丹比 氏 の うち,丹
比1)松
井章「養老厩牧令の考古学的考察―斃 れ馬 牛の処理を め ぐって」『信濃』394,1987。
2)律
令制下 の皮革生産は内蔵寮 と大蔵省が担 当 し たが,『 令集解』職員令穴記に よると造皮加工は 大蔵省に限 られてお り,そ
れを両官司の工房で製′∂7
品化 した。造皮加工を示す斃牛馬の処理は
,そ
れ にあたった工人 が 大蔵省に所属 した ことを物語 る。前沢和之「古代の皮革」『 古代国家の形成 と展 開』1976参照。真 人三宅麻 呂が 和銅元年
(708)に
催 鋳銭 司 の長 官 に 任命 され たのを は じめ として,天平 13年 (741)に同家主 が鋳銭司長官,神護景 雲2年 (768)に
丹比真人乙安 が同次官,宝亀5年
(774) に丹比宿祢真嗣 が同長官に任命 され るな ど,丹
比 氏が鋳銭司関係 の要職 を 占め る機会が多 か っ1)
た こ とは
,丹
比 氏が金属加工技術 に通暁 した氏族 であ った ことを示 している。 また河 内国内に は先 にみた鍛 冶戸,雑
工 戸があわせて117戸
存 在 し,畿
内の中で も大和 国に次 ぐ技術者 の供給 地 であ り,金属 加工技 術 の先進地 域 であ った。以上 の ことか ら考 える と,本工 房 で生産 に従 事した工人の性格 に関 して次の よ うな二 つの解 釈 が成立す る。
第
1は
,本工房 を典鋳司の管轄す る工房 とみ な し,太
井遺跡 の二人集団 と同一 の系譜下 に あ る河 内国の雑工 戸が本工房 に上番 し,生産 に従事 した と考 える解釈 で,第2は
同様 に太井遺 跡の工 人集団 と同一 の系譜下にあ る渡来系 の雑二 人が本工房 で生産に従事 した と考 える解釈 であ る。 この うち渡来技術者である雑工人に関 しては
,史
料上確認 で きる工人名 の うち,鋳
工 部 門 に秦氏 もしくは秦氏系の技術者が多 く,鋳
造 技 術 は新羅系渡来人を中心 に世襲 されていた とす2)
る平野邦雄氏 の考証 があ る。注 目すべ きこ とに太井遺跡 と本工房跡 か らは
,
ともに統一新羅 の 上器が出土 してお り,第2の
解釈 の成立 す る余地 は多分 にあろ う。最後 に
,本
工房 の立地条件,
と くに西市 との関係について考 えてみ よ う。平城京西市 は右京 八 条二坊五・ 六・ 十・十一坪 に比定 され てお り,本
工房 の占地 す る八条一坊十 四坪 とは西一坊 大 路 をは さんで一町 の近距離 に位置す る。平城京西市の構造 については,四周 にめ ぐらされ た 垣 の 内部 に市・ 舞 が建 ち並び,市
司 の院や南庭 の存在 した ことが文献か ら知 られ るが,遺
構 の 実 態 は明 らかでない。 10世 紀に下 るが平安京 の東市では市 の周 囲に,東西南北各2町
ず つ計 8 町 の外町が存在 し,市
人が居住 し商業活動 を展開 した ことが知 られている。 この外町 の形成 時 期 は,長岡京,平
城京 に も遡源す る可能性 は充分 にあ るもの と考 え られ,
もし外町 の存在 が奈 良時 代に遡 る とす る と,本工房 は西市外町 に東接 した位置 を占め る ことにな り,市に近接 して い る とい うことが重要 な立地条件 であ った と考 え られ る。一方
,先
述 した西一坊坊間路西側溝 は,平
城 宮南面西門(若犬養門)に 通 じる堀河 で,西
市 と 平城官 を結が物資運搬用 の運河 と推測 され る。 当該地 はち ょうど西市 と西一坊坊間路西側濫 に は さまれた地 にあた り,西市 か らの物資運送 の起点 として,重要 な役割 を担 った こ とは想像 に 難 くない。 この よ うに,十四坪に鋳造工房 が営 まれた背景 には,西
市 との深 いかかわ りが推 測され るのであ る。
以上,本工房跡 出土 の鋳造関係遺物 を も とに
,正
房 の性格を推考 して きた。すでに述べ た よ うに本工房 の繰業期 は,
貨幣経済への 本格 的 な 突入期 にあ り,
鋳銭権 の 国家 的独 占維持 の た め,銅
の生産加工 に対 しては,
国家 的統制 が 著 し く強化 された 時期 にあた る。こ うした 状 況 は
,全
国的 にみて も,奈良時代 の鋳鋼遺構 が鋳銭や寺院の仏具や梵鐘 な どの鋳造 にかかわ る も のを除 くと,きわ めて少 ない とい う事実 と符合す る。つ ま り,銅
の生産 と加工 は国家的統 制 の も と,官
営工房特有 の原則 を貫 いて展開 した ことが予測 され るのであ り3) ,本工房 を官営工房 と 推定 す る有力 な論拠 にあげ ることがで き よ う。1)吉
田 品「 古墳 と豪族―丹比連 (宿弥)と丹 治 比公 (真人)を
中心 に して」『古代 の地方史3』1979。
2)平
野邦雄「秦氏 の研究i(二)」『 史学雑誌』70‑4, 1961。3)浅
香年木『 日本古代手工 業史 の研究』1971。r∂」