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第6章 近代の河畔都市に関する考察

第1節 近代河畔都市と水系

1.水害と治水

明治新政府は治水先進国オランダからファン・ドー ルンやデ・レーケらの技術者を招聘した。また、幕藩 体制下では地域的な利害の対立もあって、水系全体の 治水は難しかったが、1896年に制定された河川法 は河川行政を国にまとめ、国の直轄工事と国庫補助方 式を確立した。こうして河川近代化の条件が整う。

19世紀末から20世紀前期には主要河川の大規 模な治水事業が相次いで実施され、水害が激減する。 (1) 扇状地河川と農業用水の分離

富山では1891年の大水害直後、デ・レーケが常 願寺川を調査し、扇頂部の堤防に多数の水門を設け、

河道内の堰で用水路に導水する方式が、流路の傾斜と 破堤を助長していると指摘した。これを受けて2年後 に完成した常西合口用水は、扇頂より900m上流で 取水し、主として隧道で導水した後、約12kmの幹 線水路から各用水に配水するもので、これによって常 願寺川と各用水は分離された

(2) 扇状地河川の砂防

その完成後も堤防の決壊が続いたのは、飛越地震で 崩壊した土砂が立山カルデラから大量に流出するか らである。1906年に始まった砂防工事はたび重な る出水に阻まれ、17年をかけた堰堤が土石流によっ て根こそぎ破壊される事故などを経て、1937年か らは代表的な3つの砂防堰堤が次々に完成した。

(3) 蛇行帯の捷水路

蛇行帯では捷水路が重要な治水手段である。デ・レ ーケは神通川も視察し、頻発する水害は市内北西の屈 曲部で川幅が狭く、洪水流の約半分しか通過できない ことが原因とした。1900年からの第二次改修では 捷水路の開削、1918年から国費で行なわれた第三 次改修では蛇行部の締め切りとともに、谷口から河口 までの22kmで河道の拡幅、堤防の強化、東岩瀬港 と河口部の分離が行なわれ、神通川は現在の姿となる。

(4) 蛇行帯の河川分離

低平な蛇行帯では連続堤の築造とともに河川の分 離、洪水の干渉防止が治水の決め手となる。1878 年に再開され、13年を費やした木曽三川分離工事は、

各川の合流区間を拡幅し、中央部に背割堤を伸ばして 分離を徹底した。これによって揖斐川の洪水位が下が り、大垣輪中東部の破堤はなくなる。1923年から の揖斐川上流改修は北部、1936年からの支流牧田 川と杭瀬川の分離は西部、南部の破堤を解消した。

(5) 下流域における分水路

19世紀末、近世には穏やかだった信濃川河口に大 水害が頻発するようになった。その原因として、18 84年から長岡・新潟間で行なわれた信濃川の改修や 築堤など、中流域の治水事業が関わっている可能性が ある3、4。上流で溢れていた洪水を河道に押し込める と、下流のピーク流量が大きくなるからである。

深刻な被害を受けて、1909年に大河津分水が着 工される。その構想は近世からあったが、工事の難し さ、阿賀野川分水路の失敗などから幕府が許可せず、

明治初期の工事も地滑り、地元やオランダ人技師の反 対などによって中止されている。工事は3度の地滑り、

竣工直後に可動堰が陥没し、全水量が分水路に流れて、

信濃川下流が干上がる事故などを経て、1931年に 終わった。信濃川中流部の洪水はすべて分水路に流さ れるため、下流部の水害は激減する。

(6) 内水氾濫の対策

一方、大垣輪中内では水門川に接続する多くの用水路、

排水路が各集落の都合で個々に運用され、水系として の統一を欠いていた。1933年から戦時中の中断を 経て、1952年まで続いた水門川改修工事では支線 水路の用・排水分離、南部低地における排水機群の新 設、逆水樋門の拡張と閘門による水位調整を実施する

。近年は都市小河川の改修、内水氾濫の対策が治水 の課題だが、水門川はその先駆けと言える。

2.水運と川港の変容 (1) 既存施設の改善

大垣では水門川を使った近世の水運を維持しつつ 航路を上流に延長し、1884年開通の鉄道に接続し た。その時期は不明だが、1891年以降の測図には 駅前の船溜りと連絡水路が描かれている(図6-1)。 昭和期の改修でも浚渫や橋の架け替えに留まった。

(2) 埠頭による港湾の近代化

近世の新潟では回船は信濃川の沖に停泊し、艀によ って荷を積み下ろししていたが、1914年には港の 浚渫を始め、1926年には沼垂駅のある右岸に県営 の北埠頭、中央埠頭、1931年には民営の臨港埠頭 を建設し、港湾全体の近代化を図った(図6-2)。 (3) 運河水運への切り替え

富山では捷水路の開通後、廃川地にあった近世の航 路と富山港は埋め立てられ、富岩運河に鉄道と接続す る船溜りを設け、港に代えた(p.126、図6-3)。

図6-1 大垣駅前の船溜り (文献より転載)

図6-2 新潟港の北・中央埠頭 (文献より転載)

3.河畔の土地利用 (1) 鉄道の敷設と新市街

近世都市は水運に、近代都市は鉄道によって支えら れた。各都市は熱心に鉄道を誘致するが、近世から高 密化していた市街地は用地取得上も、防火上も通しに くい。鉄道の側でも水害が多く、地盤が軟弱な氾濫原 は避ける。従って、路線は比較的高燥な土地を通り、

駅は近郊につくられた例が多く、結果的に鉄道を中心 とする新市街地には川離れの傾向がみられる。

近世以来、港の商権や利権を争い続けてきた新潟と 沼垂は、鉄道誘致でも競いあったが、当時の技術では 信濃川を渡る長大な鉄橋の建設が難しく、沼垂側に鉄 道と、それに直結する近代埠頭がつくられた。信濃川 の三角州において、水運中心の近世には堆積が進む左 岸の新潟が、鉄道中心の近代には渡河を必要としない 右岸の沼垂が優位に立ったのである。

(2) 工場の立地

もともと交通条件に優れ、人口や資本を集積した河 畔都市は、工業の立地にも有利だった。豊富な水資源 はもとより、1882年に京都で始まった水力発電事 業が拡がり、廉価な電力が得られる大河川流域がさら に注目される。1896年に施行された河川法を根拠 に、全国の重要河川で近代治水事業が進むと、水損を 嫌う近代工場が河畔都市に進出する条件が整う。

1899年、神通川の谷口に北陸初の発電所ができ、

京浜地区の2~3割という安価な電力が供給されて、

富山県に電気化学工業が集中した。富山市では廃川地 下流の富岩運河沿いが中心で、豊富な水資源、労働力、

鉄道や運河への近接も魅力である(図6-3)。 濃尾平野では1887年から25年を費やして木 曽三川分離工事が行なわれ、下流域の水害がほぼ解消 された。その後、大垣では揖斐川上流の水力発電、大 垣の豊富で良質な地下水、美濃赤坂に産する石灰を背 景に紡績工場や化学工場が次々に立地する。特に繊維 業は大垣の基幹産業となり、1960年代まで繁栄す る。揖斐川の伏流水は近世には水運、近代には工業に

北埠頭 中央埠頭 臨港埠頭

よる繁栄を大垣にもたらしたのである。大垣に進出し た工場の多くが北の東海道線沿い、西の養老線沿いに 立地し、引込み線を持つ。それらは南郊の低湿地を避 け、標高6m台の農地に立地した(p.114、図5

-2)。

新潟市の沼垂地区では18世紀に東遷した阿賀野 川の旧河口、焼島潟を工場用地として、わが国唯一の 油田に関連する工業などが立地する(前頁、図6-2)。 (3) 水域の埋め立て

廃藩置県後、県都となった都市は大きく発展するが、

近世から商店や遊興施設で繁栄した河岸の低地は拡 大の余地が少なく、新潟のような商都は転用できる武 家地がないため事態が深刻である。近世にも小河川の 埋め立てや砂洲の開発は行なわれてきたが、近代には 治水事業を背景として大河川の本流を埋め立て、市街 化するような大胆な自然の改造が行なわれる。

1901年から富山で始まった第二次神通川改修 工事では、蛇行部を短絡する捷水路が開削された。捷 水路は徐々に拡幅、本流化し、20年後に旧流路が閉 鎖される。1931年からは廃川地の埋め立てと区画 整理が行なわれ、県庁、学校、電力会社、NHK支局 などが立地して、近代的な都市機能を担った(p.3 4、図2-36)。また、川向いの飛び地だった愛宕 地区は廃川地を介して旧城下と地続きとなり、牛島地 区には北陸本線富山駅、富岩鉄道富山駅、富岩運河船 溜りなどが集まる(図6-3)。つまり、富山は神通 川の蛇行部に立地した不利を逆転し、戦国期以来35 0年間も苦しんできた水害を克服するともに、都市の 近代化に必要とする広大な土地を入手したのである。

1931年、信濃川中流の洪水を日本海に排出する 大河津分水が完成した。これによって下流域の水害の リスクが軽減され、新潟市内では信濃川両岸の埋め立 てが進む。新潟と沼垂を結ぶ初代萬代橋は延長782 mだったが、1929年の架け替え後は367mに過 ぎず、 川幅が半分以下となった(p.97、図4-2 7)。

4.水路の開削と機能 (1) 近代運河の特徴

近代の運河は大型の動力船が運航できる幅員、水深、

船溜り、閘門などを持ち、鉄道や工場との接続に配慮 している点で近世の運河とは異なる。1935年に竣 工した富山の富岩運河は延長4758m、幅員42~

61m、同じく都市計画事業として5年早く竣工した 名古屋の中川運河は延長6390m、幅員64~91 mもある。

しかし、わが国の近代運河の最大の特徴はその短命 にあり、多くの運河が現在も使われている欧米とは対 照的である。それは急流で短い日本の河川が、近代水 運に適していないため、内陸水運そのものが廃れてし まったことによる。

(2) 水運から鉄道への転換

しかし、水運が鉄道に代替されていく過程は単純で はない。鉄道に並行する水運は衰退したが、直交する 水運はむしろ輸送を強化している。日本列島を縦断 する幹線鉄道は、東海道や山陽道などの主要街道に沿 って早くから敷設され、これに続いた地方鉄道は流域 都市を結ぶものが多い。従って、地方鉄道が整備され るまでの間に、幹線鉄道と内陸水運が接続されて共存 共栄する時期がある。それが鉄道の時代に近代運河が 開削されるという、一見不思議な現象の背景と考えら れる。

(3) 工業誘致の手段

わが国では第一次大戦あたりを画期として工業化 が進み、全国の地方都市は工場誘致に奔走するが、そ の決め手とひとつと考えられたのが運河である。鉄道 が整備されていても、重量物や近距離の輸送は内陸水 運の方が安い時期があった。

1919年に制定された旧都市計画法で、運河が都 市施設として認められたことも運河ブームを後押し した。工業化や国の制度に対する地方自治体の大きな 期待はこの頃から始まっており、そこでは産業政策と しての長期展望、経済合理性よりも、直近の補助金や