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第6章 近代の河畔都市に関する考察

第4節 河畔都市の新しい潮流

1.河川整備における環境への配慮

河畔都市は河川への依存を脱し、水域を埋め立て、

台地に新市街地をつくる。氾濫原を自在に移動してい た河川は流路を固定され、水流を制御されて本来の自 然を失う。これら都市の近代化、河川の近代化は利便、

効率、安全をめざす改善として容認されてきた。

その行き過ぎに対する反省が河川技術者から提起 される。自然を扱う河川技術の性格から、近代にも自 然主義的な思想は根強く存在し続けたが31、32、19 70年代に続いた一級河川の破堤を契機に、国策は水 害の根絶ではなく水害との共存へ転じ始める。それを 具体化したのが、利水と治水に加えて環境を河川管理 の目的とした1997年の改正河川法である。以後、

修景や親水化に配慮した河川の整備が各地で進む。

(1) 堤外地の親水化

新潟で注目されるのは1983年から始まった「や すらぎ堤」事業である。関屋分水から萬代橋までの区 間で川底を浚渫し、堤防を嵩上げして流量を拡大する 工事だが、法面を緩勾配とした親水型堤防を採用し、

広大な表法面はイベント会場などに利用されている

(図6-16)。狭められたとはいえ、300m近い 川幅一杯の水面越しに、高層ビルや近代の橋が遠望さ れ、両岸に芝生の緩斜面が続く景観は伸びやかだが、

無機的な印象を免れない。

(2) 親水公園

大垣輪中が外郭堤によって囲まれ、外部河川に対し て閉じた構造は現在も変わらない。従って、内部河川 こそが大垣の重要なアイデンティティである。雨の直 後だけ流れる都市河川が多い中で、大垣城の北と西の 外濠だった水門川は、輪中内の湧水や灌漑用水を集め、

常に豊かな水量を維持してきた。生きた河川であるこ とが幸いして、内堀のように埋め立てられることもな く、現在も大垣の都市景観の主軸である。

1980年代からは旧船町港跡、四季の広場、奥の

図6-16 萬代橋付近の信濃川と堤防 (著者が撮影)

図6-17 大垣・水門川の四季の広場 (著者が撮影)

図6-18 富山・鼬川のドンドコ公園(図2-46を再掲)

細道結びの地などの公園が整備された(図6-17)。 遊歩道とともに川沿いを連続的に整備した点が評価 されるが、やや過剰な演出を感じさせる。

親水公園はどこも類似して個性に乏しく、河川と人 間の多様な関係の中から親水という一面だけに焦点 をあて、河川の自然を公園に矮小化する傾向がある。

一方、もともとあった落差工33を再現し、用水路や自 噴泉などを取り込んだ富山・鼬川のドンドコ公園のよ うに、扇状地の急流河川の特徴を明確にしつつ、地域 の歴史や文化を主題に、個性的で機能と意匠にすぐれ た親水公園も現われている(図6-18)。

(3) 河川の再自然化

近年、人工的に改造、制御された河川を自然状態に 戻し、蛇行や遊水による洪水調整機能を発揮させる

「河川再自然化」の試みが進んでいる34、35。それは 洪水を下流に先送りする河道中心の治水を改め、河川 の自然な変化を許容する点で画期的である。

ただ、河川に蛇行や遊水を許容するには、近世以降 狭め続けてきた水域を復元する必要があり、特に市街 化し、所有が分割された都市内では困難が予想される。

今までに実現した事例は郊外や地方の中小河川に多 いが、横浜市のいたち川のように拡幅、直線化、掘削 された河道内を再自然化した都市河川もあり36、河畔 都市の河川再生にも示唆するところが多い。

4.運河・水路の再生と保存 (1) 運河の再生

富山の駅北地区は都市整備が遅れ、しかも1930 年代に立地し、戦時中は軍需に支えられた工場群で規 模縮小、業種転換、撤退が相次いだ。1979年の富 山市による富山駅周辺整備基本計画調査では、使われ なくなった富岩運河の水面保全も検討したが、水質の 維持が困難なため埋め立てを支持する。しかし、旧建 設省の「うるおいのあるまちづくり」通達などを受け、

1984年に県が水面の活用を再検討した。港湾施設 である運河を維持したまま都市施設とすることはで きないが、船溜りの一部を港湾区域から除外すること で、市街地整備が遅れた駅裏地区と荒廃した運河の一 体的な再開発が可能となる37。1997年から富岩運 河環水公園、親水広場が相次いで完成し、運河の中ほ どに復元された中島閘門は、昭和の土木構造物として 初めて国の重要文化財となる38(図6-19)。

図6-19 富岩運河環水公園 (図2-46を再掲)

図6-20 大垣の水路網 (図3-32を再掲)

(2) 水路の再生

治水、利水的な観点から法によって厳重に守られて いる河川に比べ、運河や水路は埋め立て、暗渠化の圧 力に弱い。大正期から現在までに、富山市では総延長 で83%、新潟市では65%の水路が消滅、暗渠化し、

下水に転用された39

新潟の掘割は舟運の衰退によって手入れが行き届 かず、大河津分水以降は信濃側の水位が下がって衛生 状態が悪化していた。1955年の大火後に大量の瓦 礫が投棄され、地盤沈下によってさらに流れが悪くな る。結局、1964年の新潟国体を期にすべてが暗渠 化され、両岸の道路が拡幅された。掘割復活の市民運 動もあるが、戦後の地盤沈下のため信濃川との接続は

難しく、各堀間の水位調整など技術的な課題も多い40。 現在は、旧税関庁舎の裏に早川堀が一部復元されてい るに過ぎない。

(3) 雨水排水路の再開渠化

近世大垣町を巡っていた排水路網は、戦災復興区画 整理後の街区に合わせて流路を調整しながら、ほぼ開 渠のまま従前通りに残されている(図6-20)。地 元では水門川や自噴井の整備には注力しているが、そ の他の水路は特にPRしておらず、管見ながらこの水 路を取り上げた研究もない。宅地の裏を通る背割水路 が多く、すべてが景観に寄与している訳ではないが、

水路網として保存された意義は大きく、全国的にも珍 しい事例である。区画整理当時の事情は明らかにでき なかったが、低平な蛇行帯に位置し、湧水や自噴井が 多い環境で、排水を重視してきた伝統が背景にあるも のと考えられる。

大垣に学ぶべき点は、側溝のような細い水路も含め て、雨水排水路網を開渠としておくことの大切さであ る。降雨時には水流が復活し、支線水路から幹線水路 へと集まってくる様子を見ることができる。この可視 性は内水氾濫対策上も有効で、突然マンホールから出 水して初めて暗渠の容量不足を知るといった事態も 避けられるだろう。下水道の普及によって、かつての ように悪臭が漂うことも少ないと考えられ、開渠とす ることで汚染も監視される。

歴史的な運河や掘割も水路網の一部であり、それだ けを再生しても地域の水系としては成り立たない。必 要以上に暗渠化された都市の水路を、住宅地の身近な 小水路から取り戻すことは、河畔都市再生の現実的な 戦略と考える。

参考文献および注

1 国土交通省:河川審議会答申・21世紀の社会を展望した今 後の河川整備の基本的方向について、1.近代治水百年を 振り返って、1996

2 北陸農政局氷見農業水利事務所編:常願寺川工事誌、p.18、

1980.3

3 国土交通省河川局:信濃川水系河川整備基本方針、p.5、2008 4 大熊孝:信濃川治水の歴史、URBAN KUBOTA 、17 号、p.49、

1979

5 木曽三川治水百年のあゆみ編集委員会編:木曽三川治水百年 のあゆみ、pp.304-308、建設省中部地方建設局、1995 6 大垣図書館蔵:大垣市全図、縮尺 1/10000、1927 7 誠文堂新光社:日本地理風俗大系、第2巻、1960 8 新保博ほか編:近代移行期の日本経済、黒崎千晴:明治前期

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9 瀬口哲夫ほか:名古屋市における中川運河の変容に関する研 究、土木計画学研究・論文集、第 16 号、pp.255-263、1999.9 10 白井芳樹:都市富山の礎を築く―河川・橋梁・都市計画に

かけた土木技術者の足跡、p.190、技報堂、2009 11 富山市郷土博物館編:特別展図録、富山の近代化―街はこ

うしてつくられた、p.27、富山市教育委員会、2000 12 富岩運河活用検討委員会編:富岩運河活用提言書―富岩運

河を学び、遊び、伝える、pp.20-21、2003 13 白井芳樹:前掲書、p.204-217

14 水田恒樹:大垣の近代運河に関する研究、日本建築学会計 画系論文集、第 686 号、pp.941-948、2013.4

15 「河川景観の形成と保全の考え方」検討委員会編:河川景 観デザイン―河川景観の形成と保全の考え方、pp.45-48、

リバーフロント整備センター、2007

16 まちかどの西洋館、古写真古絵葉書展示室、2006.6 http://besankosyashin.blog56.fc2.com/blog-date-200606.html 17 明治・大正名所探訪記、新潟名所、201010.1、

http://meiji-meisho.at.webry.info/201010/article_1.html 18 日本大学生産工学部建築学科HP、作品ギャラリー、

http://www.arch.cit.nihon-u.ac.jp/gallery/000415.html

19 松永扶示子:戦前期富山市における名所の変遷と都市形成、

北陸都市史学会誌、pp.1-17、北陸都市史学会、1990.8 20 佐藤勝昭HP:日本の古い町並みスケッチ、

http://home.sato-gallery.com/Japan/historical_region1.jpg 21 日本土木工業協会HP、フォトエッセイ、2007.4

http://www.nikkenren.com/archives/doboku/ce/ce0704/essay.html

22 八尾正治編:ふるさとの思い出―写真集・明治大正昭和・

富山、p.11、国書刊行会、1978

23 日本水フォーラム編・発行:水インフラ投資と近代日本の 経済・社会発展への貢献に関する研究、2005

24 大熊孝:洪水と治水の河川史(増補版)、pp.29-32、平凡社、

2007

25 田中滋:流域社会への視座―ナショナライゼーション論と リスク論を中心として、国際社会文化研究所紀要、第 6 号、pp.2-42、龍谷大学、2004

26 嘉田由紀子編:水をめぐる人と自然―日本と世界の現場か ら、pp.121-132、有斐閣、2003

27 伊藤忠テクノソリューションズ HP、大学訪問インタビュ-、

http://www.engineering-eye.com/interview/uni/labo10/index.html

28 中野尊正編:都市と国土③都市の自然環境、p.236、鹿島 研究所出版会、1967

29 寺田寅彦:天災と日本人―寺田寅彦随筆選、pp.124-125、

角川ソフィア文庫、2011

30 宮村忠:水害―治水と水防の知恵―改訂版、pp.217-220、

関東学院大学出版会、2010

31 許士達広:岡崎文吉の治水思想に関する考察、土木史研究、

第 11 号、pp.61-72、土木学会。1991.6

32 安達實ほか:常願寺川・藩政期から明治期の治水、土木史 研究、第 19 号、pp.331-336、土木学会。1999.5 33 河床(川底)の高さや河床勾配を安定させるために、河川を

横断して設けられる施設を床固めまたは床止めという。

床止めに落差がある場合はこれを落差工と呼び、落差が 極めて小さい場合は帯工と呼ぶ。(国土交通省国土技術政 策総合研究所、河川用語集)

34 保屋野初子:川とヨーロッパ―河川再自然化という思想、

築地書館、2003

35 「河川景観の形成と保全の考え方」検討委員会編:河川景 観デザイン―河川景観の形成と保全の考え方、リバーフ ロント整備センター、2007

36 島谷幸宏:河川環境の保全と復元―多自然型川づくりの実 際、鹿島出版会、2003

37 吉田庸ほか:地方都市における水辺からの地域再生に関す る研究―富山県富山市富岩運河の「再生期」に着目して―、

日本大学理工学部学術講演会論文集、pp.383-384、2012 38 富山県HP:富岩運河水閘施設(中島閘門)の重要文化財指

定について、

http://www.pref.toyama.jp/branches/1541/koumon/bunkazai-sitei.htm

39 梶川彩乃ほか:地方都市における中小河川の変遷に関する 研究、日本建築学会関東支部研究報告集、pp.547―550、

2004

40掘割再生まちづくり新潟編:第2回「にいがた堀割・堀端 会議」シンポジウム、2002.2.17

http://www.horiwari.com/old/simpo_002_4_01.htm 焼島潟