第3章 大垣町と揖斐川・水門川
第5節 近代の大垣町
1.水害と治水
(1) 大垣複合輪中の水害
近代にも大垣複合輪中の破堤や湛水は続く。明治初 期の記録は網羅されていない可能性もあるが、全国的 に水害が多い20年代には、21年、25年、29年 のように被害の連続する年が目立つ(表3-1)。
とりわけ明治29年7月21日には、木曽三川のほ ぼ全輪中で破堤があり、大垣では14尺(4.2m)
も湛水した。復興中の9月7日には水門川、8日には 杭瀬川で破堤、その湛水は17尺7寸(5.3m)達 し、最高水位として大垣城の石垣に刻まれている。両 水害では輪中からの排水のため、最南端の横曽根村で 輪中堤を開削する乙澪(みよ)切りが行なわれた。
(2) 外川の治水
明治20年(1878)、デ・レーケの計画に基づ く三川下流改修が始まった。木曽川と長良川、長良川 と揖斐川の合流区間をそれぞれ拡幅し、中央部に背割 堤を伸ばして分離を徹底する。一方で、木曽川と長良 川の分流地点では、船頭平閘門によって通船を可能と した(図3-24)。工事は濃尾地震、日清戦争、大 洪水などに阻まれながらも13年後に完成し、揖斐川 の洪水位が下がって大垣輪中東部の破堤は解消した。
大正12年からの揖斐川上流改修は北部、昭和11 年から戦後にわたる牧田川・杭瀬川・大谷川・相川の 改修は西部、南部の破堤を解消する(前節1(3))。 (3) 内川の治水
大垣複合輪中では水門川に接続する用水路、排水路 が各集落の都合で個々に運用され、水系としての統一 を欠いていた。上述の水門川改修工事では支線水路の 用・排水分離、南部低地における排水機群の新設、逆 水樋門の拡張と閘門による水位調整を実施する78。 農業用動力排水機は昭和10年(1935)に古宮、
鵜森の両悪水路へ導入された。水門川では戦後の昭和 25年(1950)に始まり、昭和37年(1962)
表3-1 近代大垣の水害 (文献79より作成)
図3-24 明治期改修後の三川 (文献80より作成)
からは全国に先駆けた内水対策事業として排水機場 の整備が行なわれて、平成18年度には大垣輪中で都 市用、農業用合わせて28基が稼動する81。
2.水運と川港の変容 (1) 近代の大垣港
揖斐川と直交する東海道本線はともかく、並行する
年月日 西暦 破堤箇所・被害
01.06.28 1868 川口村破堤・深溜 15.08.06 1882 曽根村破堤 17.07.01 1884 深溜3日余
17.07.16 〃 中之江村破堤・深溜 18.07.01 1885 各所破堤
19.夏 1886 各輪中深水 20.08.04 1887 〃 21.07.29 1888 瀬古村破堤 21.08.30 〃 〃 25.06.20 1892 深水 25.07.23 〃 〃 25.08.03 〃 〃 28.07.29 1895 〃 29.07.21 1896 今福村破堤 29.08.30 〃 西濃地方被害大 29.09.08 〃 割田村破堤 29.11.26 〃 今福村破堤 36.07.09 1903 大垣輪中破堤 38.06.21 1905 〃
45.07.07 1912 3ヵ所破堤、浸水353戸
養老線は大垣水運を代替する可能性があった。しかし、
大正4年(1915)の貨物取扱量は船町港が土砂、
煉瓦・土管など12万トン、大垣駅が石灰、米、石炭、
綿花、綿糸など11万トンと、両者が伯仲している82。 その原因の第一は繊維工業や化学工業の進出によ る貨物量の拡大と鉄道・水運の棲み分けで、鉄道が通 らない地区への短距離の輸送や、土石など体積や重量 当たりの価格が安く、輸送費をかけられない商品の運 搬には水運が有効な時期が続いた。
第二は鉄道と水運の連携である。そもそも東海道線 の延伸は、敦賀・関ヶ原鉄道を明治16年(1883)
に始まった大垣・桑名間の小蒸気船による定期運行に 繋ぎ、日本海と太平洋を結ぶ意図があった83。実際、
明治24年以降の測図には大垣駅前の船溜まりと、水 門川への連絡水路が描かれており(図3-25)、鉄道 の貨物事務室では水陸連絡貨物を扱っていた84。 (2) 水門川の改修
昭和7年(1932)から始まった水門川の改修は、
治水の性格が強い事業だったが、河口から船町の高橋 までを浚渫し85、15トン級の船が航行できるように した86。これは100石船に相当する。昭和19年に は高橋と大垣駅前の間で水門川を浚渫し、橋桁を高く 架け直す工事が行なわれた。これによって赤坂産の石 灰や大理石を鉄道で大垣駅まで運び、水門川を経由し て桑名、四日市まで送ることが可能となる87。一方、
船町川の改修に関する記録は見あたらない。
3.河畔の土地利用 (1) 鉄道
岐阜県を東西に横断する東海道線は関が原と大垣 間が明治17年(1884)、大垣と加納(岐阜)間 が3年後、全線は5年後に開通した。一方、揖斐川の 西岸を南北に走る養老鉄道は、大正2年(1913)
に大垣の実業家が開業し、6年後には三重県桑名から 岐阜県揖斐までの全線58kmが運行する。養老鉄道 も原料や製品の輸送を担い、沿線の各工場へ専用線
図3-25 大垣駅前の船溜り (文献88より転載)
が分岐していた。後には大垣、桑名両駅で国鉄と接続 し、貨物列車が相互に乗り入れる。
(2) 工場の誘致
廃藩置県により大垣藩領は岐阜県の一部となり、県 庁は岐阜に設置された。東海道線の開通後は中継的な 商業が衰退し、資本と経験の不足から地元の経済人に よる起業は不振で、頻繁な水害と明治24年(189 1)の濃尾大地震のため進出する工場もなかった89。 しかし、明治中期の木曽三川分離で水害が減り(本 節1(1))、10年越しの準備が実って大正4年(1 915)に揖斐川電力(株)の水力発電所が稼動すると、
4社の紡績工場が次々に立地した。また、同社は余剰 電力によってカーバイドなどを製造する揖斐川電化 工業(株)を発足させる。原料となる石灰は大垣町北西 5kmの赤坂金生山で採掘された。
昭和3年(1928)、日本合成化学工業(株)の進 出によって第二次の工業化が始まる。揖斐川電力(株) から電力、原料のカーバイド、用地の提供を受け、ア セチレンから酢酸を合成する工場である。昭和9年以 降は、製糸、紡績、合成繊維などの5工場、機械製造 業の1工場が立地した(図3-26)。揖斐川電化工業 (株)においても、有機肥料の原料生産が拡大する。
これらの工場は電力供給と、大垣が誇る豊富で良質な 地下水を重視していた90。化学工場はもとより、紡績 工場でも水洗い、晒、染色などに大量の水を必要とす るからである。また、水温が13~15℃と安定して
低いため空調にも広く使われた91。繊維業は1960 年代に大垣の基幹産業となる。
(3)工場の立地
維新後、中心部の城郭や上級武士邸は公園、官庁、
学校などに転用された。一方、美濃路沿いに長く連な る商業施設、船町の港、周辺部の下級武士、町人居住 区は大きく変わらない。これら旧城下を避けて、東海 道線は北を、養老線は西を通り、工場群はこれに沿っ て北郊と西郊の農地に展開した(図3-26)。
工場敷地には標高6m台の土地を選び、しかも盛土 によって水害を防いでいる。化学工業が立地した養老 線西大垣駅周辺は、近世に手工業が展開した船町川沿 いの久瀬川村にも近い(4節3(3))。
4.水路の開削と機能 (第7節で詳述)
5.水辺の景観
北郊、西郊の工場立地によって、農村の風景は一変 した(図3-27)。逆に、城下の変化は内堀が埋め られて道路になった程度で、昭和初期にも近世の景観 が随所に残っていた。特に、港は地元で「土場」と呼 ばれる簡単な船着場で、陸と舟に板を渡して荷揚げす ることが多く(図3-28、29)、近代にも接岸施 設は稀である(図3-30)。
図3-26 昭和 12 年の大垣 (文献92により著者作成)
図3-27 昭和初期の大垣駅周辺 (文献93より転載)
図3-28 明治 28 年の瓶屋町 (文献94より転載)
図3-29 昭和初期の土橋付近 (文献95より転載)
図3-30 明治後期の水主町 (文献96より転載)