• 検索結果がありません。

近世河畔都市の技術と社会

第5章 近世の河畔都市に関する考察

第3節 近世河畔都市の技術と社会

前節で考察した都市と水系の関係には、市街地の開 発、河川の流路や活動といった物理的な要因だけでな く、当時の河川技術や社会環境が深く関わっている。

その議論は本研究の目的ではないが、本節では都市と 河川の関係に介在する治水技術、水害や河川に対する 社会の向き合い方に限って考察する。

1.近世以前の治水技術

戦国期以降、経験に基づく治水技術、藩の主導や幕 府の支援による治水事業は大きく進化したが、河川の 地域的、時間的変動を定量的に認識する科学手段、河 川を適切に処理する強力な技術手段がなく、自然の猛 威には従属せざるをえない。他方、そうであったため に近世の治水は、地形条件に合致し、自然材料を駆使 し、自然と調和していた19

近世の治水技術は河川の自然や現象を綿密に観察 し、これらを巧妙に活用することで成り立っており、

蛇行、遊水、氾濫といった挙動にあまり逆らわず、洪 水の流勢をいなす。例えば、一線堤では越流を許容し、

流勢が減衰する位置に二線堤を配して、その間に洪水 流を貯留する控堤という方法があった。急流でよく用 いられた霞堤も同様の考え方で、雁行して重なり合い ながら上流に向かって開いているために、上流堤の溢 水は下流堤によって河道に戻される。

こうした河道の治水だけでなく、隆起した地形や他 の河川の合流といった自然、水害防備林や水源涵養林、

水屋や助命壇などの減災手段を駆使して、地域全体で 治水を考えた点も近世の特徴である。有名な信玄堤は 河道内の石堤で水流を二分し、高台に誘導する、岩の 絶壁や他の水流に衝突させるなど、流勢を殺ぐために 複数の手法を組み合わせている20

一方、近世の間にも治水技術の変化がみられた。前 半には河道を広くとり、緩やかに蛇行させ、低い堤防 で溢水を許容し、遊水池を確保する関東流が中心だっ

たが、八代将軍吉宗の頃から、河道を直線化し強固な 堤防によって流路を固定し、遊水池は設けず、代わり に氾濫原は新田として開発する紀州流が採用される ことが多くなった。これは技術が進化したというより は、水害のリスクを冒しても新田開発を優先するよう になった社会の側の変化が大きいが、それについては 次項で述べる。

なお、治水に流派があるのも伝統技術の特徴を示し て興味深い。普遍的であっても専門分化が著しく、地 域を総体として把握できない今日の科学技術とは対 照的に、多様な経験知とそれを統合する思想が一体化 しているため、思想によって技術体系が異なる。

2.治水の阻害要因

氾濫原に展開した近世の河畔都市は、頻発する水害 を甘受せざるをえなかったが、そこには未熟な治水技 術のほかに、社会環境に根ざした原因がある。

(1) 農業

農村も河川からの受益者であり、時に都市と農村の 利益は相反する。米の収量が重視された近世には、農 業のために都市の利水や治水が犠牲になることが少 なくなかった。常願寺川扇状地の鼬川流域は氾濫原の 荒地だったが、戦国末から近世初期に扇状地河川の旧 河道を利用して用水路をつくり、新田を開発した。扇 頂部には戦国期の佐々堤はじめ幾重もの堤防が築か れたが、一方でその堤防に各用水の取水口が穿たれ、

それが弱点となって破堤する。扇頂における出水は鼬 川を一気に流下し、扇面の農村や下流の城下を襲った。

治水も利水も難しい扇状地において、ここでは堤防の 構造をめぐって農業の利水が優先している。

河川をめぐる川上と川下、右岸と左岸の争いは多く、

それが都市対農村の構図になることもある。大垣輪中 では大垣町や古来の農地は標高5m以上で排水のよ い北部にあり、南部の低湿地を遊水地としていた。し かし、近世初期から南部で新田開発が始まり、内郭堤 を築いて内部河川の河道を狭めたため、北部の排水が

阻害される。また、水不足の北部では自噴する地下水 を灌漑に利用したが、それは最終的に下流に集まり、

もともと排水が悪い南部の湛水を助長する。このため、

上郷の村々は掘抜井戸の数や放水の時間を自粛し、水 腐手当という経済的補償を支払う、下郷の村々はその 収入で排水樋門などの維持修繕を賄うといった、株井 戸の制度が行なわれた。これは農村間の利害調整だが、

節水の要請は川上の大垣町にも及ぶ。

(2) 水運

河畔都市の重要な経済基盤である水運が、治水に優 先されることもあった。1754年、幕府は薩摩藩に 命じて木曽三川分離工事を実施した。木曽川、長良川、

揖斐川は下流で網目状につながり、洪水が他に波及し やすいため、派流の大榑川や油島を閉鎖して各川の独 立性を高めるものである。この改修事業は、多大な出 費と犠牲によって完成し、揖斐川の氾濫を緩和したが、

木曽川流域の排水に悪影響を残した。また、油島を完 全に締め切ることは可能だったが、川舟の通行を妨げ ないために食い違い堰が作られた21

それでは農業と水運はどちらが優先するのだろう か。阿賀野川流域では紫雲寺潟を干拓するために開削 された松ヶ崎分水路が、越流堤の決壊によって阿賀野 川の本流となる。この結果、流域の氾濫や湛水は激減 したが、阿賀野川の合流によって豊富な水量を誇って いた信濃川は水深を失い、新潟港は衰退した。これに 懲りた新潟港関係者は、信濃川流域の治水・干拓事業 に反対し続け、農民と対立する。分水路における制御 の失敗という技術的な要因が関わっているが、農業の ための治水と水運の鋭い対立が見られる。

(3) 軍事

近世には特殊な事例だが、軍事が治水に優先するこ ともある。富山で水害が頻発した最大の原因は、水流 が滞り氾濫が起きやすい神通川の蛇行部に城下を築 いたことにある。近世の富山城はより安全な下流の百 塚に新築される予定だったが、途中で戦国期富山城の 再建に転じた経緯がある。その背景として、最大の外

様大名である加賀藩は幕府の監視下にあり、富山藩の 分藩によって矛先をかわす一方、他藩では開放的な城 下町をつくった17世紀中葉に、非常時を想定して惣 構形式を持つ城郭を選んだという。

(4) 利水の先行

今でこそ防災は国民生活の最重要課題だが、近世に は必ずしもそうではなかった。宮村によれば歴史的に は生産基盤、生活基盤の整備後、災害が拡大深化し耐 え難くなってから防災が実施されてきた。従って、治 水が利水に優越するというよりも、利水が治水に先行、

あるいは治水を強く規定してきたと言える22

3.水害の受容 (1) 水害への備え

近世の堤防は高さも強度も不十分で、破堤と修復を 繰り返す。堤内地では破堤を前提として、第二の防災 手段を準備した。その代表例が災害防備林で、176 9年に富山藩では藩主が自ら監督して、常願寺川の扇 頂部にある堤防裏に松の苗を植えさせた。これは成長 して「殿様林」と呼ばれ、明治中期に近代的な治水工 事が始まるまで9haが残っていた。災害防備林は洪 水の流速を弱め、田畑に有害な砂礫を止め、肥沃な山 土を後背地にもたらす。砂礫が多く、急勾配の常願寺 川には適した治水手段である。

また、遺構を確認することはできないが民俗資料に よれば、富山の城西地区には戦前まで高さ5尺以上の 石垣が残っており、神通川磯部堤の越流、決壊に際し て家屋の被害を緩和したという。

一方、蛇行帯の大垣でも南部の低湿地には、水屋が 多かった。それを持てない小農や小作人は、助命壇や 命塚と呼ばれる避難所、寺社、堤防などに逃れる。ま た、水田の一部を掘り潰れ(遊水地)とし、残余を高 く盛って収穫を安定させる農法、堀田が普及していた。

(2) 水害の認識

近代的な治水事業が始まる直前の1890年10 月、神通川の布瀬・磯部両堤が決壊、市中の大半が床

上浸水した。翌日の様子は「幸に9時頃水は大半落ち たれども薪を流し井を塞ぎ、かまどを没し火を消し何 れも朝飯の支度を為せしは12時過ぎなりし」と記録 されている23。被害は破堤8ヵ所延べ47間、橋梁の 流失・破壊32架、浸水家屋4697戸で、死傷や家 屋の流失、損壊は報告されていない。

破堤や浸水家屋の多さから現在ならば大水害だが、

まず急勾配の扇状地ゆえ、早々に水が引き湛水してい ない。次に各家庭では炊事に支障があったものの、昼 過ぎには朝食を用意できた。そして死傷者や家屋の損 壊がないことが重要である。住宅も都市も軽装備で、

水損に弱い機械設備などがない時代には、深刻な水害 とは認識されなかったのではないか。

4.河川管理の主体と技術

水害に備え、水害を受容した近世社会は、近代以降 の社会と大きく異なる。近世までは農民が地区の堤防 や災害防備林を築くのが通例で、洪水や氾濫から生業 と生活を守るために、住民が協力することで水防災が 成り立っている。時には自村のために対岸の堤防を破 壊するといった地域エゴも生じるが、河川をめぐって 対立する村と村が対話によって利害を調整すること も含めて、共同体が防災のための自治と技術手段を持 っていた24

藩が組織的に治水を主導したことで知られる大垣 藩でも、領内のすべての堤防を2~3kmごとに区分 し、それぞれに藩士と領民を割り当てて出水時の水防 活動、平常時の維持管理にあたらせているが、ここに も領民の参加がある25