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第4章 新潟町と信濃川・阿賀野川

第5節 近代の新潟町

1.水害と治水 (1) 水害

近代に入り信濃川上流の堤防整備が進むにつれて河 口部の水害が増え、市内の水害は明治維新以降の62 年間に10件に達した。明治29年(1896)7月2 2日の「横田切れ」では西蒲原郡で破堤し、信濃川下 流域が広く湛水(図4-23)、新潟市内でも本町通・

古町通の一部以外はすべて浸水する。大正6年(19 17)10月の台風による「曽川切れ」では河口から 6kmの堤防が100m余にわたって切れ、沼垂の全 町、新潟市の3500戸が浸水した79

(2) 治水

近世中期からの懸案だった大河津分水は、河口から 58km上流で弥彦山の南麓を切り通す約8kmの放 水路で、信濃川中流の洪水を日本海に導いて下流の水 害を防ぐ。地域間の利害対立や技術的な制約から複雑 な経緯を経て明治42年(1909)に着工し、13年 後に竣工するが、その5年後に自在堰の陥没により水 位調整機能を失い、信濃川の水がすべて分水路に流れ 込む事故が起きた。突貫工事の補修が終わったのは昭 和6年(1931)である80(図4-24)。以後下 流の洪水位は2~3mも低下して水害が激減するとと もに、流域の8割以上を占めた湿田や沼田がすべて乾 田となった81

関谷分水は河口から6kmの地点から日本海へ抜け る約2キロメートルの放水路で、これも近世以来賛否 が分かれていたが、昭和35年(1961)の洪水を契 機に具体化し、11年後に通水した82

現在の治水計画によれば、ピーク水量は中流部の小 千谷で13500㎥/秒、計画高水流量は大河津分水 路が11000㎥/秒、関屋分水路が3200㎥/秒、

河口が1000㎥/秒である83(図4-25)。つま り、中流の洪水はすべて大河津分水へ、下流の洪水も 7割は関屋分水へ流れる。一方、減水期にも一定の水

図4-23 横田切れの被災地 (文献84より転載)

図4-24 大河津分水(左の水路) (文献85より転載)

図4-25 信濃川の計画高水流量 (文献86より転載)

量が確保され、信濃川下流部は洪水、渇水、堆積のな い人工的な水路と化している。

「横田切れ」の破堤地点 浸水区域

新潟

2.港湾と水運 (1) 開港

安政5(1858)年の日米修好通商条約により、幕 府は函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の開港を提案す るが、水深が不足する新潟には諸外国が難色を示し、

佐渡の夷港を補助港とすることで合意した87。明治初 年(1868)の開港後、外国船の来航は少なく、諸国 の領事館も明治12年(1879)までに撤退した。

(2) 港湾の近代化

大正3年(1914)、永年にわたって争ってきた新 潟市と沼垂町は近代的な築港をめざして合併し、同1 5年には中央埠頭・北埠頭(図4-26c、d)、昭和 6年(1931) には右岸河口に民営の臨港埠頭(同 e)が完成した。

3.河畔の土地利用 (1) 鉄道の敷設

新潟町は明治22年(1889)には市制を敷き、行 政、商業の中心都市として近代化を進める88。明治3 1年(1898)にJR信越本線の前身、北越鉄道が開 通した。新潟市と沼垂町は駅の誘致を激しく競い、爆 弾による妨害事件まで起きる。最終的には鉄道橋を要 する信濃川が障害となり、沼垂を終着駅とした(図4-

26の a)。鉄道の延伸と新潟駅(同b)の新設後も沼垂 駅は新潟港への貨物輸送、港湾・工業地区(同g)への 通勤の拠点として賑わう89

(2) 信濃川両岸の埋め立てと浚渫

後述する大河津の開削によって水害のリスクが軽減 されると、昭和初期に新潟市内では信濃川両岸の埋め 立てが進む(図4-27)。明治19年(1886)に竣 工した初代萬代橋は782mだったが、埋め立て後は 367mに過ぎず、 川幅が半分以下となっている

90(図4-26のf)。また、水量が減って掃流力が弱 まり、信濃川の河床が上昇を始める。大正3年(191 4)に始まった港の浚渫は徐々に強化され、近年は年間 114万トンを海洋投棄している。これは第2位の高

図4-26 1931年の新潟港(文献91により作成)

図4-27 信濃川の埋め立て (文献92より転載)

知港における17万トンに比べて桁違いに多い93

4.水路の開削と機能 (1) 住宅開発と排水路

明治初年(1868)の開港とともに上島の艀下川 河口に運上所(税関)が置かれ、信濃川沿い地区の払 い下げと宅地化が進んだ(図4-28)。上島では運上 所道を主軸とする通り、それに直交する小路によって 街区を整備し、近世につくられた多数の水路網を早川 堀、本間堀、赤坂堀の三本に整理する。ただし、赤坂 堀は間もなく埋め戻された。

明治6年(1873)には、榛ノ木島・秣島が文明開 化のモデルとなる高級住宅地として開発され、南北二 本の通り、これに直交する11本の小路、北新堀と南 新堀がつくられる。明治末から大正期にかけては、下 島の北部地区も市街化した。

内陸でも寺町の裏、白山周辺の湿地を宅地化するた め、寺裏堀、富浦堀など10本が新たに開削される。

このように近代の新潟町でも、街づくりと堀は分かち がたく結びついていた。

(2) 水路の荒廃

各堀とも土砂が堆積し、常に堀浚いを必要とした(図 4-29)。明治11年(1878)の天皇行幸に際し、

新潟県令は上流からの取水、護岸、運航・停泊・清潔 保持の規則を定める。昭和2年(1927)からの機械 揚水や水門操作で流れが回復し、寺町川の柳と芸妓は 観光絵はがきの定番となって、「柳都」の呼称が定着す る94。しかし、舟運衰退後は荒廃し、さらに大河津分 水以降は水位が下がって淀み、衛生状態が悪化した。

5.水辺の景観

新地と呼ばれる北部地域は、漁民や船員が多く住む 下町的なコミュニティである。近世の砂洲、下島の水 路には艀が停泊し、住民が洗い物をし、渡し舟で対岸 の工場に通勤する風景が見られた(図4-30、31)

上島の運上所庁舎は、明治2年(1869)地元の 大工たちが一足先に開港した横浜や江戸の洋風建築を 参考に建てた。同19年には、秣島から対岸に萬代橋

図4-28 近代に開削された堀(文献95より作成)

図4-29 1873年頃の西堀(文献96より転載)

が架けられる(図4-33、34)。

新潟町の南端、白山地区は一番(白山)堀に面して 倉庫群が並んでいたが、庶民が風光明媚な水景、白山 神社境内の芝居小屋などを楽しむ遊興の地でもあった。

明治6年には太政官布告による公園が整備され、同1 6年には白山堀に面する県会議事堂も建って、近代的 な景観が出現した(図4-35、36)。このように新 潟は外縁部から近代化する。

図4-30 内他門川の洗濯場 (文献97より転載)

図4-32 1930年の新潟町

図4-35 白山公園 (文献98より転載)

図4-31 新規堀船着場と鉄工所 (文献99より転載)

図4-33 運上所(税関) (文献100より転載)

図4-34 万代橋と船着場 (文献101より転載)

図4-36 新潟県会議事堂 (文献102より転載)