-遊牧国家の機能と構造に着目した中央ユーラシア史の教育内容開発-
第1節 授業構成の論理
1.中央ユーラシア史の教育内容開発の意義
「中央ユーラシア」とはアメリカのアルタイ学者
D.サイナー(Denis Sinor)が 1963
年 に提唱した概念であり,巨大定着農耕文明諸圏(サイナーにおいては,ヨーロッパ,セム,イラン,インド,東南アジア,中国をさす)に囲まれたユーラシアの内陸部を示す 144)。 この広大な地域は,最近までソビエト連邦と中国の領域にあったが,現在では,政治・行 政上様々な国家が分立し,特色ある国家群が形成されている。歴史学の世界でも,この地 域を乾燥という地理的条件によって育まれた一つの主体的で独自な歴史世界として描こう とする試みが,前近代の遊牧国家研究を通して成果をあげつつある。
このような越国家史的視点に基づく研究成果を,歴史教育の内容としてとりあげる意義 は,現代の高校生にとって極めて大きい。その理由として,まず,マスコミ等で描かれる 遊牧民族は,周辺の巨大定着農耕文明圏への侵入者・征服者,そして巨大定着農耕文明の 受入者・伝達者として描かれることが極めて多く,このような認識が,日本人の中央ユー ラシアに対する偏見または軽視・無関心といった意識を生み出している背景の一つと考え られるからである。また,日本などの巨大定着農耕文明圏の文化と著しく異なる文化を持 つ中央ユーラシアを独自の文化に基づく歴史世界としてとらえることは,我々の文化を相 対化することになるからでもある。しかし,最も重要なのは,中央ユーラシアにかつて成 立していた多民族・多文化の併存・混合する“多民族国家”の姿を越国家史的な視点から探 求することが,現在,世界各地での紛争などを通して,その枠組みが大きくゆらぎつつあ る「国民国家」の概念を相対化することになるからである。
そこでここでは,越国家史型グローバルヒストリー教育として,多民族・多文化の併存・
混合する中央ユーラシア世界の前近代に関する歴史研究の新動向を取り入れた理論を設定 し,探求する中央ユーラシア史の教育内容を開発する。
2.前近代の中央ユーラシア史研究の諸理論
まず,第二次世界大戦以後の日本における中央ユーラシア地域の歴史研究の流れを,遊
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-牧国家の構造と機能に着目して整理する。(1)中央ユーラシア国家の構造論145)~「遊牧ウルス論」~
遊牧民の社会や生活の形態にもとづいて,前近代の遊牧国家の形成や構造を論じようと する,現在で言うところのいわば“社会史的”アプローチから研究がなされるようになっ たのは,1930 年代頃から 146)である。その結果,現在では,遊牧国家の構造を氏族制・部 族制的体制としてとらえることでほぼ共通の認識が形成されるようになった。
遊牧民の集団は遊牧式牧畜が比較的生産性の低い生産様式であることと,農耕民との交 易が不可欠であるという潜在的危機から,牧地・牧畜の絶対必要量の保持,農産物の入手,
仲介商業権の確保などの必要を常に抱いている。そのような必要が,人為的または自然的 条件によって満たされなくなると,それを契機として,軍事的体制を根幹とした,個々の 氏族・部族を束ねた政治的統一体が組織される。これが遊牧国家であり,それがさらにい くつか統合され,征服行動に必要な軍事力は急速に増大・強大化し,その統治圏を拡大し,
大帝国が出現する。つまり,遊牧国家の構造は諸部族の連合にほかならない。呼び慣わさ れている「匈奴」「モンゴル」などの国家の名称も,あくまでも支配の中核部族の名称を 国家の名称として使っているにすぎない。
このような遊牧国家では,軍事的組織と行政的組織は不可分であり,また,中核となる 部族集団とそれ以外の集団とのあいだには,支配被支配の関係,階層差が存在し,中核的 な部族の成員が,その他の集団の行政的軍事的長官に任ぜられ,一見,封建的な組織をと る。これが,匈奴の二十四長に始まり,ウイグルの万人隊や金の猛安謀克制,モンゴルの 千人隊(千戸制)に引き継がれる十進法体系の組織である。
しかし同時に,このような遊牧国家は,国家形成の契機や構造上の性格から,核となる 氏族・部族が腐敗,軍事的統率者としての不的確,弱体化を露呈すれば,簡単にその統合 を解いてしまおうとし,やがて,新しい氏族・部族を中心とした別の統合権力が育成され,
もとの遊牧国家は滅亡する。つまり,一つの遊牧国家が滅び,別の国が興るというのは,
連合体を統率する氏族・部族の権力が他の氏族・部族に交替するということであり,被支 配者の側から言えば,連合の編成替えにすぎない。遊牧国家の集合離散の激しさの背景に は,このような国家の構造が存在している。
なお,モンゴル語では,人間の集団,仲間,部衆,さらに国といった意味で「ウルス」
という言葉が使われる。遊牧国家が領土や領域を示すものではなく,人間の集団であるこ とをこの「ウルス」という言葉は象徴している 147)。ちなみに,「ウルス」に属さない人間
集団は「ブルガ(不服従・敵)」とした。モンゴルは「世界」を「ウルス」と「ブルガ」
という二大概念で区別していた。また,モンゴルだけでなく,一般に中央ユーラシアの遊 牧国家は,このような2大概念で世界を区別していた。この遊牧国家の構造に関する理論 を,ここでは「遊牧ウルス論」として整理する。
(2)中央ユーラシア国家の機能論
次に,前近代の中央ユーラシアの国家の機能に関する理論の変遷について整理する。
(a)東西中継交易国家論148)
中央ユーラシアにおける,東西交流の交易路の重要性を主張する立場であり,1960 年 代後半から
70
年代にかけて有力であった。代表的研究者としては,松田壽男があげられ る。松田は,主に中国史料の記述をもとに,中央ユーラシア史を描こうとした。松田は,遊 牧という生産手段には急速な経済発展や高度の社会生活の展開は,とうてい望みえないた め,それらをめざそうとすれば遊牧経済のもつ一面性を補う別な経済手段が必要であると した。そして,その手段を,とりもなおさず農耕地帯との交渉であったとし,遊牧社会の 発展は,農耕民との関係なしには望むべくもなかったとした。その意味で,「遊牧ウルス」
は掠奪のための軍事的結合であり,交易のための統制組織という性格をもっていると説明 した。それ故,遊牧民の農耕民に対する交易や掠奪はまさしく必然であった。そして松田 は東西の国際交易路を通じて行われた通商活動が遊牧経済を支える主要な経済手段であっ たとし,シルクロードを巡る通商活動の消長こそが内陸アジアの住民の死活を握る問題で あり,その盛衰を決定したとする理論を提唱した。この理論をここでは「東西中継交易国 家論」として整理する。
(b)南北共生交易国家論149)
中央ユーラシアを巨大定着農耕文明圏に対して従属的存在としてとらえる松田らの「東 西中継交易国家論」150)を批判したのが間野英二である。間野は,中央ユーラシア内のオア シス都市国家と草原地帯の遊牧民の共生,いわゆる中央ユーラシアにおける南と北の関係 の重要性を主張し,オアシス定住民が常に遊牧民の政治的な支配下に置かれなければなら なかった理由について,その答えを,それぞれの社会の性質の違いの中に求めている。遊 牧国家の構造に基づく軍事組織と騎馬による機動力は軍事的にオアシス社会に優越した。
なぜなら,各オアシス都市は,規模もさして大きくない上に,それらを統一した国家が出 現することも稀であったため,遊牧民の統一国家の軍事力に対抗することは不可能であっ
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-たからである。しかし,経済力という面においては,農耕を基盤としたオアシス社会の優 越性は明白であった。家畜を財産として,移動を基本とする遊牧社会に,富の蓄積を期待 することははじめから無理だからである。このような状況の中で,軍事的に優勢な遊牧民 が,オアシス定住民を支配し,両者の間に政治的な支配被支配の関係が成立する。この関 係から遊牧民が得たものは,まず,何よりも自らの遊牧社会に不足する諸物資とオアシス 地帯を通行する商隊から徴収される通行税であった。一方,オアシス定住民が得たのは,
遊牧民の軍事力であり,東西交通路の安全保障であった。つまり,この両者の関係は,支 配被支配という政治的関係だけではなく,共存関係でもあった。そして,この関係が円滑 に進行する時,遊牧民の間には,定住地帯の富が流れこみ,その富をも背景とした強力な 遊牧国家が成立する。そして強力な遊牧国家が成立すると,彼らの軍事力を背景にしたオ アシスの商人たちの経済活動は,ますます活発となり,彼らの間にも莫大な利益をもたら した。このように,遊牧民の軍事力とオアシス定住民の経済力が組み合わさった時,強大 な遊牧国家が出現する。
間野は,このような遊牧民とオアシス定住民の共存関係は,中央ユーラシア史を通じて 常に見られるものであり,それに比べて,中国や西アジアといった巨大定着農耕文明諸圏 への侵入や支配は,決して恒常的なものではないし,重要なものでもないと主張として151),
「東西中継交易国家論」を主張するグループとの間に
1970
年代後半には学界を二分する「シルクロード論争 152)」を巻き起こした。この間野の理論をここでは「南北共生交易国 家論」として整理する。
(c)ユーラシア共生国家論153)